目次

閉じる


<<最初から読む

1 / 2ページ

前半

 

とりあえずはじめに   (at first, ok)

 

執筆・蘆谷丞    (written by tomorrow go

 

 

 

 

 

 

 

まず俺がいた。

 

俺は猫を飼っていた。いい猫だった。死んだ。

 

 

 

しばらくして、猫の幽霊だと名乗る少女と出会った。家からツーブロックの交差点。彼女の顔には見覚えがあったので、たぶん近所の子供か何かだろうなと思った。

 

俺は彼女を連れて帰ることにして、雨だったから、とりあえず傘をさした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 「何をしてるの?」

 

 猫のその声に、俺は顔をあげず、机の上に置いた原稿用紙を見たままで答えた。

 

 「小説を書いてる。」

 

 「どうして?」

 

 「さあ。」

 

 実際、自分でもなぜ小説なんてものを書いているのか、はっきりとわかってはいなかった。

 

 「でも人生って、いつでも小説を書いているようなものだろ。」

 

 「そうね。けれどそれなら書き留めておく必要はないんじゃない?」

 

 「それは……」と言ってから、俺は少し考えた。

 

 「ありていに言えば、思い出すためだね。」

 

 「思い出す?」

 

 「……人生において、二度と再現できないくらい、どうしようもなく美しい瞬間っていうのがあると思う。」

 

 「きっとね。」

 

 「でも二度と再現できないフレーズはない。紙に書き残すことができる。」

 

 「だからずっと小説を書いているの?いつ一瞬の美しい言葉がやってきてもいいように?」

 

 「そんな気がする。勿論他にも理由はあるはずだけど。」

 

 猫は小さく頷いた。

 

 「じゃあ誰があなたの小説を読むの?」

 

 「たとえば君でもいい。」

 

 「長い文章を読むことは苦痛を伴うのよ、ふつう。書くのと同じようにね。」

 

 確かに彼女の言うことは真実だった。

 

 

 

 

 

 

 俺はリビングをよく使う。何をするかというと、ソファに座るのだ。そこは俺の家の中で最も快適な場所で、だから猫もその場所を好んだ。

 

 俺たちはたいていソファに腰かけながら喋った。二人とも同じ向きに腰かけるから顔を見合うことはできなかったが、別に話しづらくもなかった。

 

 「目を見ると人の心が分かるなんて嘘。」

 

 「俺もそう思う。目を合わせても、なにも見えない。」

 

 「その通りよ。本当に相手の気持ちが分かるのは、目をそらすとき……違う?」

 

 「それはわからないな。相手が目をそらしたら、俺も同じようにするから。」

 

 「そう。……葡萄とって。」

 

 「目を合わせてること自体、苦手なんだ。……はい。」

 

 「ん……」

 

 「葡萄を食べる猫って、奇妙だね。」

 

 「奇妙?文学的じゃない?」

 

 「君は文学を何だと思っているんだ……」

 

 「さあ?天文学の一種とか。……もう一つ。」

 

 「ん。」

 

 「ありがとう。」

 

 沈黙。

 

 猫は葡萄を咀嚼し終えて、喉を鳴らした。

 

 「どうして喉を見るの?」

 

 「率直に言って、葡萄を飲み込む女の子っていうのは、こう……」

 

 「扇情的?」

 

 「違うけど。でも遠くないかな。」

 

 「他の果物でも同じじゃない?」

 

 「いや……」

 

 「葡萄だからいいのね。」

 

 「わかる?」

 

 「分からないし正直気味が悪いけど……きっとそれが文学的ってことよ。」

 

 「そうかもしれない。」

 

 俺は文学とはなにかと言う問いに囚われているが、猫はもしかすると、答えを理解しているのかもしれない。直感的に。

 

 「このソファは悪くない。」

 

 「どんなところが?」

 

 「柔らかい。たぶんすごく良い皮ね。あと、目を合わせずに話ができるわ。」

 

 

 

 

 

 

 「名前は?」

 

 「猫。」

 

 猫の幽霊の少女と初めて会った日、俺たちはそんな会話をした気がする。生暖かい雨が降っている日で、外は薄暗かった。俺は彼女を家に置くことに決めたので、いろいろな取り決めが必要だった。名前はその中でも重要なものだ。それなのに、彼女は「猫」と名乗った。

 

 「本当の名前は?」

 

 「聞いてどうするの?警察に連れていく?必要なことかもしれない。」

 

 「それは必要ない。君、幽霊なんだろ?」

 

 「あなた、犯罪者の素質がある。」

 

 「自覚してる。でも名前は知る必要がある。」

 

 そう俺が言うと、猫はうまい返答を探すようにキョロキョロした。「……たとえば。」

 

 「何?」

 

 「たとえば、小説の登場人物ですごくかわいい女の子がいたとして。」

 

 「よくいるね。」

 

 「その子の名前が全く可愛くなかったらどう思う?」

 

 「そうだな。一瞬興奮して、きっとすぐに不快になる。」

 

 「興奮?」

 

 「リアリティがあるだろ?だって現実では可愛い女の子が可愛い名前とは限らないし、女優の芸名みたいな名前の不細工もいる。だけどやっぱり気に食わないだろうな。」

 

 猫は満足げに頷いた。

 

「そういうこと。あだ名でもなんでも、似合っていればそれが一番いい。」

 

「要約すると、君は可愛くない名前なの?」

 

「少なくとも顔よりはね。」

 

言うとおり、猫は綺麗だった。

 

「それとも、似合ってない?」

 

「なにが?」

 

「猫。という呼び名。」

 

「いや……似合ってるよ。」

 

「当たり前。」

 

一拍置いて、彼女は手の甲で口元をぬぐった。

 

「猫の幽霊なんだから。」

 

俺はわずかに身震いした。猫は横目で俺を見て「不気味?」と尋ねた。

 

率直に「少し。」と答えると、彼女は弱冠口角を挙げて言った。

 

「当たり前。猫の幽霊なんだから。」

 

 

 

 

 

 

「いい小説の条件って、なんだと思う?」

 

猫は突然、そんなことを聞いてきた。会話をするときはいつも、俺か猫のどちらかが口火を切る。二人しかいないから当然のことだ。割合としては、七対三くらいで猫が多い。

 

「条件。難しければ共通点でもいいけど。」

 

「共通点なら簡単だ。読み終わった後に続きが読みたくなること。」

 

「それだけ?」

 

「個人的には、全部そこに行きつくと思う。最後のページが終わったらすべてが終わるような物語は、名作だとは思えない。」

 

猫がちょっと怪訝そうな顔をしたので、俺は言葉をつづけた。

 

「読み終えて、続きが読みたくて仕方なくなって、それこそインターネット上で素人がアップした二次創作のようなものまで読み漁ってしまう。そんな風になるのが名作だ。本を閉じたら満足できるようなのはダメだよ。」

 

「それは少し理解できる。だから私はミステリーが嫌いなの。」

 

「俺も嫌いだけど。」

 

「トリックのために小説が書かれるなんておかしいと思う。読み終えた感想は仕掛けがすごかった、伏線がすごかった、最後の一ページで驚愕した……そんなの、ただの文章つきのなぞなぞじゃない。」

 

俺は笑った。「一理あるね。一理と言うか、九里くらいかもしれない。」

 

「私に言わせれば、ミステリーは小説じゃないわ。推理小説の権威が、叙述トリックは邪道だとか言ったらしいけど、結局全部同じよ。」

 

「そうだね。事前にネタをばらされたらつまらなくなるような作品は致命的だ。」

 

そう言って俺は額に手をやり、次の言葉を探した。

 

「……長いこと。」

 

「え?」

 

「いい小説の条件を考えてた。」

 

「長い方がいいの?」

 

「長くても許せるものなら、できるだけ長い方がいい。シナリオとかそういうものは関係なく、可能な限りその世界に浸っていたいと、そう読者が思える物がいいと思う。」

 

「読んでも疲れないような、ね。」

 

「むずかしいことだ。でも心当たりはあるだろ?永遠に終わってほしくないような小説。」

 

猫は長い黒髪を揺らした。それが肯定なのか否定なのか俺には分からなかったが、どちらかと言うと首は縦に動いたように見えた。

 

「人生もね。死があるから生が美しいなんて言うのは、全くおかしな話だよ。」

 

「生の意味は死に依存しない。わかるわ。」猫は、今度ははっきり頷いた。

 

 

 

 

 

 

 家の中でしかできないことがある。逆に、家の中ではできないこともあるから、俺たちは出かける。

 

「買う予定があるのは新しい原稿用紙と製図用のシャープペン。何かいるものはある?」

 

服と鞄を準備しながら、俺は猫に声をかけた。

 

「今のところはない。街に行けば何か欲しくなるかも。」

 

「え?」

 

「何?」

 

「君も来るつもり?嘘だろ?」

 

「出かけちゃいけない理由がある?」

 

「見つかったらどうする。きっと保護されるよ。」

 

俺がそう言うと、猫は首を傾げた。

 

「不都合がある?」

 

「え?」

 

「私は保護されても構わないけど。それとも、猫は自分といたいにきまってる、とか考えてた?」

 

「君が本当に飼ってた猫の幽霊ならね。」

 

「幽霊なら見えないから平気。」

 

俺はため息をついた。

 

「俺は警察に捕まりたくない。」

 

「今更?」

 

「今更ではあるけど……」

 

「着替えるから、できれば見ないで。」

 

「できれば?」

 

「……絶対。あと、もし連れて行かなかったら、留守の間に警察を呼ぶわ。」

 

「仕方ないな。五分待つ。」

 

「十分。」

 

俺は猫との生活を小説にしているが、このやり取りには少し困った。犯罪の自白のような小説であるのは猫を家に入れた時点からなので諦めているが、「十分」というのはどうにも難問だった。五分と言う時間が彼女にとって十分だったのではなく、彼女は着替えに十分必要としていた。それを表すために台詞をひらがなにしようかとも考えたが、哀れなくらい頭が悪そうに見えるのでやめた。実際の彼女は十分聡明な少女だった。

 

「そういえば、着替えはどこにあったんだ?」

 

「鞄の中。そろそろ足りないから、今日洋服を買う必要がある。」

 

言われてみれば彼女は鞄を持ちこんでいた。

 

 

 

 

 

 

 今の社会は人の感性を殺している、などと大声でのたまう生き物は老害と呼ぶわけだが、この意見の一部は事実である。少なくとも全能感に関しては、現代社会に殺される運命にある。それは自分より成功した人間の情報が簡単に手に入ってしまうから、といった大きな話だけではなく、もっと日常的な次元でも言える。

 

 俺は電車を降りて、猫にそんな話をした。 

 

「何が言いたいの?」

 

「太陽が綺麗ですね。猫さんも楽しそうだ。誰ももう吾輩を止められないよ。」

 

「……いつにもまして気持ち悪い。」

 

「ふと、唐突に全能感を感じることってないかな。俺はあるよ。」

 

猫が黙ってしまったので、俺は喋り続けた。

 

「たとえば駅の改札を出て、深呼吸をして太陽を見た時。今みたいに。」

 

「……全能感を感じてるわけ?」

 

「何でもできる気がする。」

 

「猫の威を借る狐。私の隣にいるから視線を感じて舞い上がってるだけ。でも見られてるのはあなたじゃなくて私よ。」

 

「流石の自意識だね。」

 

「猫は視線に敏感なの。」

 

「だけど俺の全能感は拭えない。」

 

そういう気分のまま俺はバスに乗りこんだ。

 

すると、電子マネーのチャージが切れている通知の音がうるさく響いた。とたんに全能感はどこかへ飛んでいった。

 

「つまりこういうことだ。現代社会は全能感を殺してしまう。障害が多すぎて。」

 

俺がそう言うと、猫は他人のふりをして奥の席に座ってしまった。俺は財布を開けて、足りない分の金を出した。

 

猫の隣は開いていなかったので適当な吊革に手をかけ、俺は目を閉じた。

 

創作活動において、一番大切なのは止まらない気持ち、楽しいという錯覚、自己陶酔、全能感だ。それらがなければ文章を書くことなどできはしない。そして現代社会はたくさんの壁を張って、その邪魔をしている。明治や大正の文豪がどうした、という話である。彼らだって電子マネーのチャージがなくなっていたら後世に残る作品は書けなかっただろう。

 

「運転手さん。」

 

ドライバーは俺の呼びかけを無視したが、全能感の残滓が俺の口を動かした。

 

「太陽が綺麗ですね。猫さんも楽しそうだ。誰ももう吾輩を止められないよ。」

 

「次、止まります。」

 

機械音声がして振り向くと、猫が一人で降りようとしていた。

 

 

 

 

 

 

 その日は四時間くらい買い物をして、二人で喫茶店に入った。四時間というのは長い買い物をするとき、とてもちょうどいい時間だ。

 

 「意味の分からない全能感はなくなった?」

 

 「反省してる。」

 

 「小説を書く人間には、本当にあんなものが必要なの?」

 

 「ああいう気持ちをぶつけるのが小説だよ。」

 

 「黒歴史というのよ、一般的にそういうものは。」

 

 猫はそう言ってスパゲッティを口に入れた。

 

 「小説を書くっていうことは、それだけで黒歴史だ。自分の書いた文章は、何年か経たなくたって、翌日に読み返しただけでも死にたくなる。だけど何の歴史も残せないよりは、ずっとマシだと思う。」

 

 「あなたはそんな前向きな人間には見えないけど。」と言って猫は細い指で、毛先を器用にまわした。俺はなんとなくそれを目で追った。「ねえ。」

 

 「何?」

 

 「記憶や思い出を足跡とたとえるなら、過去なんてものは踏みつけられた砂よ。」

 

 「悪くないたとえだ。」

 

 「でも本当に厄介な、繰り返し姿を見せる過去の幻想は、踏みつけられたときに足についてとれなくなった砂の粒。」

 

 「……ん。」

 

 「あなたの小説の書き方はまるで、その砂をはらい落とすために無理やり早足で歩いているみたいに見える。」

 

 「間違いじゃない。」

 

 自分の話す番は終わりだということか、猫はとりわけ大きくスパゲッティを巻いた。

 

 「創作活動は絶えず自己を啓発して未来に没頭させてくれる。生きてるっていうのは、俺に言わせればそういうことだ。」

 

 猫は無言で頷いた。

 

 「小説を書くのをしばらくやめるとね、驚くくらい周りが見えるようになるんだ。自分が面白くて気の利く人間になってることに気付ける……でも同時に、ひどくつまらない人間になっていることも、はっきりとわかるんだ。」

 

 猫はやっと口の中の物を飲み込んで、水を啜った。

 

 「だから小説をやめられない?」

 

 「そうだ。」

 

 「だけどそれって、いつでも死に続けているようなものよ。」

 

 彼女の言い分は間違っていなかったが、それは生き続けるために必要なことだ。

 

 

 

 

 

 

 「俺は何も、地球上の全員が俺の文章を熱心に読んでくれるとは思っていない。ただ、俺の小説を開いた人間が、なんとなく最後まで見てくれたら、とりあえずは満足できる。」

 

 俺がそう言うと、猫は真顔で答えた。「前にも言ったけど、長い文章を読むのって、すごく大変よ。」

 

 「なら速読をしたら?」

 

 「速読?」

 

 「そう、速読。」

 

「速読って、目を馬鹿みたいにキョロキョロさせて、素早く本を読むことでしょ?それじゃあふつうに読むよりもっと疲れる。」

 

「少し違うのもある。正しい速読を身につければ一ページ一秒で読めるよ。」

 

「胡散臭いコンビニの本の文句みたい。」

 

猫の言うとおりだったので、俺は黙った。それから首を振って、また話し出す。

 

「一応話させてほしい。話の頭だけ散らして内容を説明しないのは、群像小説を書くような似非小説家と、あとは友達のいないインテリかぶれの特徴だからね。」

 

「勿論聞く。コンビニに置いてある本もつい読んでしまうタイプなの。それにあなたに群像小説家にはなって欲しくない。ミステリーとは違う意味で、あれもダメ。」

 

「うん。ありがとう。……とは言っても、なにか特別なことをするわけじゃない。ただ、ページ全体を一つの面としてとらえて、気に入ったところを追うってだけだ。それだけ。追うのであって、読んじゃいけない。感覚的に、ページの好きなところだけ眺める。一定の速度でめくる。」

 

「意味は分かるけど、意味が分からない。」

 

「もう少しだけ分かり易い例を挙げよう。君が小学校六年生の男子だとする。女性には少しわかりにくいかもしれないけど、そういう気持ちになってほしい。」

 

猫は瞼を閉じた。

 

「君は思春期になりたてで、どんな本を読んでも卑猥な個所を探してしまう。」

 

「ちょっと待って。」

 

「これこそが速読のエッセンスだよ。彼らはね、どれだけはやくページを繰っても、セックスと言う単語が見えたら反射的に頭に入ってしまうんだ。人間は、自分に必要な情報は簡単に受け入れるようにできてる。」

 

俺はそう言って、にやりと笑った。

 

猫は軽く頭を揺らしてから俺の方を見た。

 

「つまり、あなたの小説は、パラパラとめくればいいの?」

 

「読むのに疲れたらそうすればいい。」

 

 だが残念ながら、基本的にセックスの話は書かないつもりだ。

 

 

 

 

 

 

 俺たちはまた、柔らかいソファに座っていた。

 

 「あなたは私にわりとたくさんのことを話すけど、どうして?」

 

 「どういうこと?」

 

「かなり内面的なことも平気で喋ってる……まだ知り合って一週間くらいなのに。少し安易だと思わない?」

 

「見ず知らずの人間の家に住み込むほうが安易だよ。」

 

「それは泊める側も同じよ。コーヒーとってくる。」

 

そう言うと猫は立ち上がってリビングに行って、一分くらいで戻ってきた。

 

湯気をたてるカップを二つ、ソファの前の低いテーブルに置いて、俺と猫はしばらく黙り込んだ。

 

「底。」とおもむろに猫が言った。俺はすぐには、彼女が何を言いたいか分からなかった。

 

「底が、見えてしまった人間は、それ以上の魅力の可能性を失ってしまう。」

 

「……一般論だね。」

 

「あなたは私に底を見せようとしてる。」

 

「そうかな。そうかもしれない。」

 

「まあ、別にそれはかまわないけれど。でもこの会話を文章にして小説にしたら、それはあなたにとっていいことじゃないわ。見ず知らずのたくさんの人間に、自ら器の底を見せる必要はない。」

 

俺はコーヒーを一口飲んで、ゆっくりとカップを置いた。

 

「底が見えない人間は魅力的かもしれないけど、浅いプールの水が減ったら継ぎ足すような、そういう底の隠し方は嫌いなんだ。」

 

猫は無言で続きを促した。

 

「思いついたことを率直に話して、それを文字にする。俺のやってることは、別にそれ以上でもそれ以下でもないんだよ。たった何週間かの会話の記録で底が見えるようなら、俺がそれまでの人間だったってことさ。」

 

「……そう。」

 

「……3セット。」

 

「何?」

 

「腹筋。五十回を3セット。最近寝る前の習慣にしようとしてるんだ。」

 

「それが?」

 

「知らなかったろ?まだ君が知らないことはたくさんある。底はもう少し深い。」

 

俺はそう言って砂糖の塊をカップに落とした。「それに……」

 

底を見せることで、それを掘り下げなきゃならないって、自分を追い込むこともできる。

 

そう言おうとしたが、間抜けな水音がそれをさえぎり、コーヒーに波紋が広がった。

 

 

 

 

 

10

 

 俺はしだいに、頻繁に自分から猫に話しかけるようになっていた。というよりも、退屈な日常において他にやることが少なかったのだ。

 

「猫。」

 

 「ニャア」

 

 「俺はさ、本当のことを言うと、自分より頭のいい人間にあったことがないんだ。」

 

 「ニャア」

 

 「頭いいって言われる人間がいるだろ。たとえば一つの学校にも、何人か。」

 

 「ニャア」

 

 「そういうやつらは実際、俺より勉強はできるし、中にはどうしようもないのもいるけど、たいてい頭が悪くはないんだ。でも俺より頭がいいと思える奴にはあったことがない。」

 

 「ニャア」

 

 「俺も口では言うんだよ。彼らに向かって、頭がいいねとか。周りの眼もあるしな。」

 

 「ニャア」

 

 「事実ね、率直にすごいとは思うんだ。頭いいっていうのに反対したら、そう言った奴が批判されるような空気をつくれるのは。悪い意味じゃなくてね。凄まじい努力の結晶だ。」

 

 「ニャア」

 

 そんな風に、俺たちは会話をした。

 

 「ある程度親しくなると、そういうことが気にならなくなるんだけど。」

 

 「ニャア」

 

 「……俺とこいつ、どっちが頭がいいだろうかとか、そういったことが気にならなくなるラインがあるんだ。」

 

 「ニャア」

 

 「その一線を越えたら、なんとなく本当の友達って気がする。」

 

 「ニャア」

 

 「猫とどっちが頭がいいかは、考えたことがないな。……無意識のうちに、仲がいい友人のつもりになっていたかもしれない。」

 

 「ニャア」

 

 「まだ会って一週間くらいなのに、不思議だな。」

 

 「ニャア」

 

 「まあ、君がかまわないならいいけど。」

 

 「ニャア」

 

 猫はよく鳴く生き物だ。俺もよく喋るからちょうどいい。

 

「葡萄いる?」

 

「ニャア」

 

 

 

 

 

11

 

 俺と猫はたくさんの話をした。だから女の話もしたし、男の話もした。猫にはなぜ童貞が童貞であるかと言うことに関して、ちょっとした持論があった。

 

 「何か運動はしてるの?と聞かれて3セット、って答えるようなものよ。彼らの会話は。」

 

 「つまり?」

 

 「簡潔に言えば、コミュニケーション能力の欠如。何を3セットするのか、全然わからない。」

 

 「俺は童貞だけど、しっかり順序良く話ができるよ。」と俺は言った。

 

 だが性的な経験がないということは、ひどく文学的でないと俺は思っていた。理由はうまく言えない。

 

 その時は、気紛れで室内にBGMをかけていた。俺は古いデッキでクラッシックのCDを回すのが好きだった。ショパンやリストなんかだ。生きていくうえで、楽器が天才的にうまい必要はないけれど、ほとんど何も演奏できないのに音楽の知識だけある人間はとてもむなしい。グランドピアノや上等なヴァイオリンがあれば一番いいが、ちょっとした電子オルガンでもいいから触るべきだ……音楽の話をしたいのであれば。陰湿な欧州のジョークを借りれば、「教養の問題である」。

 

 「俺が思うには。」と、エチュードに消されない音量で俺は言った。

 

 「童貞の一番の問題は自意識の高さだ。」

 

 「たとえば?」

 

 「袖振り合うも他生の縁、なんて妄言がカルタにまでなっている。江戸時代から、彼らは勘違いを続けてきたんだ。」

 

 「……他には?」

 

 俺は少し考えてから「彼らは馬鹿だ。」と言った。

 

 「夕焼けを見て明日は晴れるね、なんて言っている少年を見たんだけどね。彼は童貞だ。そんな適当な話を信じても許されたのは昔のことだよ。」

 

 「……馬鹿はあなたじゃないの?」猫はそう言って立ち上がり、カーテンを閉じた。強い夕方の日差しが薄い布を突き刺していた。

 

 「でも、安易にそういう行為を繰り返すよりは、ずっと……優しい人間たちだと思うわ。」

 

「優しい?臆病なだけだろ?」

 

 「……前に電車の中で、カップルを見た。女の方が、こういう言い方はよくないのかもしれないけど、少しの魅力もない作り声で……次の行為の予定を提案していたの。」と猫が言った。「そんな人間ばかりだったら、優しくない世の中じゃない?」

 

 「確かにね。それじゃあ、この国の未来がサンセットだ。」

 

 「うまいことを言ったつもり?」と猫が言った。彼女が笑ったのを、俺は初めて見た気がした。「太陽が綺麗ですね。猫さんも楽しそうだ。」

 

 

 

 

 

12

 

 先に言ってしまうが、この小説はすでに半分に達している。だから、物語の終わり方ということに関して話すのに、適切な時期なんじゃないかと思う。だが終わりの話をするには、先に始まりの話をしなければいけない。

 

 「問題が提起されて一から関係が作られるような、そんな始まり方をするストーリーは嫌い。たとえば初対面の旅行客たちが電車に乗り込んで、殺人が起きるような。」

 

 猫はシャワーから上がったばかりで、安いプラスチックの櫛で髪をとかしながらそう言った。俺は新聞の広告欄の時計を見ていた。

 

 「かといって、日常の一片を切り取っただけのようなものもダメ。」

 

 「わかるよ。なんというか、すでに出来上がった関係性があって……そこに何かきっかけとか異物とかが放り込まれて幕を開けるような、そんな始まり方が理想的だ。」

 

 「具体的には、猫の幽霊だと主張する少女が家に転がり込んできたりね。」

 

 そう言って猫は笑った。俺の家に住み始めて一週間が過ぎたあたりから、彼女は笑顔を見せるようになっていた。俺は新聞を雑に折りたたんで、机の上に置いた。猫はそれを黙って見ていたが、不意に真面目な顔になって俺と目を合わせた。

 

 「今聞くのもおかしいかもしれないけれど、どうしてあなたは私を家においておくの?」

 

 「追い出す理由がない。」

 

 「じゃあ質問を変えるけど。なんで初めて会った日に、私を家に入れたの?」

 

 「大切に飼ってた猫の幽霊だなんて名乗る美少女が現れたんだ。連れて帰るのが普通だよ。」と言って俺は椅子に腰かけた。いつものソファではなく、四本足の木の椅子だ。

 

 「普通?」

 

 「普通じゃないかもしれないね。でも些細な違いだ。」

 

 猫も隣の椅子に座った。

 

 「複雑でもいい。でも分かりにくい物語は駄作よ。」

 

 「何が分かりにくい?」

 

 「あなたの心情、私の事情。」

 

 「心情については、自分でもわからないから勘弁してほしい。単に下心だった気もするし、もっと高尚なものだったかもしれない。でもきっと、何も考えてなかったんだろうな。」

 

 「私のバックグラウンドは?」

 

 「聞いてほしいのか?」

 

 「違う。」と猫は言った。「でもあなたばかり話しているのって、フェアじゃない。」

 

 「君がそう思うんなら質問しよう。……じゃあまず……これは答えによっては致命的になりかねないけど。君の家族は?」

 

 「兄弟はいなくて両親だけ。主観的に見ても、糞ファック野郎達よ。」

 

 確かにいい親ではないのかもしれない。娘の言葉遣いを直すべきだ。

 

 

 

 

13

 

俺の知る限り、童貞はセックスが出てくる話が好きである。勿論官能小説の類の話をしているわけではない。文章の中で淡々と、日常の一コマとしてセックスが織り込まれていることを好むのだ。

 

「あるいは絶対に恋愛感情に発展しない幼馴染。」と、窓の外を見ながら猫が補足した。

 

「たしかに、いかにも好みの設定だ。」

 

「主人公と幼馴染は、惰性で付き合ってしまうの。そして彼らは決まって言う。僕たちの間には愛はない。って。」

 

俺は頷いた。

 

「彼らはセックスをする。愛のないセックスだ。」

 

「傾向としては、まさにそうね。でも私にはわからない……どうしてそんな話がいいのか。」

 

「そういう、稚拙なリアルさに、幽かな疼痛を覚えるんだよ。そしてその感覚が文学的だと錯覚すると、中身のない群像小説家になる。」

 

「あなたもそうなの?」

 

「……傾向としてはね。」

 

猫は二、三度首を振ると、あくびをした。彼女は夜が嫌いだった。

 

「そういうマインドがあふれているのね。この世の中は。」

 

「……ああ。たとえば個人的には、インターネット上で童貞臭いなんて揶揄されるようなブランドの洋服も、同じ匂いがすると思う。」

 

「それはよくわからないけど。」

 

「今俺が着てるTシャツなんかがそうだよ。」

 

そう言うと、猫は俺の方をじろりと見た。

 

「私を見つけた日にも、同じものを着てた。」

 

「そうだね。」

 

「英語が書いてあるみたいだけど、一体何?」

 

「今日は馬鹿みたいに晴れているから、空の代わりに俺が泣こう……そんな詩だ。どこかのロックバンドの曲の歌詞らしい。」

 

「そう。」

 

そこで会話は途切れた。

 

そんな風に俺と猫は話をし、作った料理を食べながら音楽を聴き、寝転がって本を読み、気がむけばテレビをつけ、何度かセックスをして、そして十一時になると別々のベッドで眠った。淡い何かが消えていくような感覚と純粋な高揚感が俺を支配していた。

 

その正体が何なのかは今でも分からないままだし、分かりそうもなかったけれど、ともかく猫との奇妙な短い同棲の期間は、あまりにもはやく過ぎていった。

 

 

 

 

 

14

 

 ある日の昼すぎのことだ。その日は朝から、猫が冷たかった。

 

「いったいどうしたんだ?」と俺が話しかけても返事をしてくれない。

 

「なあ。」

 

静寂。

 

「冷たいな。」

 

俺は猫の手を握った。普段なら拒絶されそうなものだったが、その日は猫は素直だった。

 

「嫌がらないのか?」

 

猫は無反応だった。

 

「無視か。」

 

時計の針は十二時ちょうどをさしていた。十二時と言うと、遅い日に猫が起き出してくるくらいの時間だ。俺たちの時間の使い方は独特で、端的に言うと睡眠時間が長かった。就寝は早く、起床は遅い。おおよそ理想的な生活である。

 

俺はため息をつくと猫の手を放して、そっと額を触った。

 

「今日は本当に冷たいな。」

 

猫の目はどこを見ているのか、よくわからなかった。

 

俺は猫を抱えて、ソファに寝かせた。

 

「意外と重い……」と俺は呟いた。

 

なにかしらの抗議があるかとも思ったが、猫は何も言わずにうつ伏せになっていた。

 

「なんでそんなに冷たいんだ?」

 

そう言う間も猫の無視は継続されていたが、俺には理由がはっきりわかっていた。

 

前日の夜のことが原因だ。

 

俺は誰かに相談でもしようかとスマートフォンを手に取ったが、状況が特殊だから、どこへかければいいか分からなかった。親に言うべきことではないと思った。

 

仕方なく電話は後回しにして、俺はリビングに葡萄を取りに行った。ついでに飲み物も飲んで帰ってきても、猫はまだ同じ場所でうつ伏せになっていた。

 

ひやりと、まるで氷のようになってしまった猫の体温を感じながら、俺は独り言をつづけた。

 

「ああ、死んだのか。」

 

死、と言うのは、思ったよりもあっけないものだった。

 

はたしてこれからどうしようかと、俺は途方に暮れた。

 

猫が死んだ。これは重大なことだ。

 

猫が死んだ。俺は、どうすべきだろうか。

 

俺は猫の死体を持ち上げ、そっと床に横たえた。綺麗な目が、俺の方を見た気がした。

 

「ああ、どうしようか。」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

それから数日して、俺は猫の幽霊と名乗る少女に出会った。

 


後半

 

15

 

 「小説家って、最も人間らしい職業だと思う。」

 

 猫は眠そうに目をこすりながら、そう言った。「あとは詩人も。」

 

 俺は猫――少女ではなくて、動物の方の猫が死んだときのこと、ニャアニャア鳴くだけの猫に話しかけていたころのことを思い出していた。 

 

 「私はね、ときどき、いろいろなことがごっこ遊びに見えるの。」

 

 「……ん?」

 

 「つまり、仕事と呼ばれるものは、幼稚園のお遊戯の延長線上にあるように思える、っていうこと。こんなことを言えば皆気を悪くするだろうけど。」

 

 「少しわかるよ。金を貰う仕事をしたことはないけどね。幼稚園でやっていたことが小学生なりの形に変わって、中学生なりの形に変わって、高校生なりの形に変わって、社会人なりの形に変わる。それだけなんじゃないかな?」

 

 「そういうこと。だって、これは私が社会を知らないから感じるだけかもしれないし、あるいは私の頭が良すぎるのかもしれないけれど、世の中の仕事って、ひどく効率が悪いわ。もっと時間も短くできるし、意味のない作業も多い。でもみんなそのことに目を瞑ってる。」

 

 「同じことを感じてたよ。言いづらいけどね。」

 

 俺は猫をソファに招いた。猫は俺の隣に座った。

 

 「たいていの仕事は、機械がやった方がいいわ。だから、なろうとは思えないし好きでもないけれど、教育者っていうのは価値のある仕事だとは思う。」

 

 俺は頷いた。

 

 「でも。」と猫は言った。「結局は、お金っていうのは使うためのものであって、得るためのものじゃない。使わなければ札束なんて紙束よ。」

 

 「そうだね。だから仕事なんて少ない方がいい。もし仕事をしなくてもお金を使えるなら、仕事は何の意味も持たなくなる。」

 

 「究極的にはね。」

 

 そういうわけで、小説家と言うのは最も人間らしい職業だと、猫は言った。彼女だって別に小説家の仕事が楽だとか、そんなことは微塵も思ってはいないだろう。

 

 「ただ、生きることが小説を書くということなら……」

 

 「俺の言葉?」

 

 「そうよ。もしそれが本当なら、彼らは、生きているだけでお金を使える人種ということになるわ。」

 

 猫は息を吐くとソファの背もたれに背中を預けた。

 

「たとえそれがそんなに苦しい人生でも。」

 

たとえ、ではなく、人生と言うのはほとんどの人間にとって苦しいものだ。

 

だとしたら俺は、やはり詩人や小説家になりたい。

 

 

 

 

 

16

 

 

 

この物語の登場人物は、私と猫と、俺だけである。

 

 

 

 猫は俺の小説の冒頭に、勝手にそんなことを書いた。俺は小説を書くときに一ページの空白から始める癖があったから、猫は簡単に、それを挿入することができた。

 

 「複雑でもいいけれど、分かりづらい物語っていうのは、最悪。」

 

 「君の持論?」

 

 「そう。でも世の中の多くの人が同じことを考えていると思う。」

 

 「たしかにそれは、そうかもしれない。」

 

 「だからあなたの小説も、分かり易い必要がある。」

 

 そう言って猫は、得意げに鼻を鳴らした。俺は彼女に文句を言うことをあきらめて、原稿用紙の束を重ねた。

 

 「でも猫は人物じゃない。君じゃない方の、本物の猫はね。」

 

 「何が言いたいの?」

 

 「登場人物、っていうのは人をさす言葉だよ。」と俺は言った。猫はわざとらしくため息を零した。

 

 「細かい男は嫌われる。」

 

 「男女差別だ。」

 

 「一般論よ。」

 

 「なら杜撰な女の子も、印象が悪い。」

 

 猫は俺から取り上げた製図用のシャープペンを指に挟んで回転させながら、俺のことを見つめた。

 

 「なんだよ。」

 

 「こういうことを言うと嫌われるけど。私の容姿で印象が悪いってことは、まずないと思う。」

 

 「……両親に感謝すべきだね。」

 

 「神に感謝してるわ。」

 

 俺は猫からシャープペンを取り返して軽く机をたたき、それから首を何度か縦に振った。とりあえずどんな時でも、神への感謝は忘れてはいけない。

 

 「まあ、そうだな……今君といるっていうことも否定できない現実だ。だから小説が人生に忠実であるべきなら、君の落書きも作品の一部として認めるべきかもしれないね。」

 

 「もしかして、運命論者?」

 

 「違うけど。」

 

 「そう。少し残念。本格的な運命論者には、まだ会ったことがないの。」

 

 世界は運命に包囲されて形作られている。

 

 

 

 

 

17

 

 「君、学校は?」

 

 俺はふと気になって、猫にそう尋ねてみた。猫は不満げに俺を睨んで「猫は学校に行かないものよ。」と言った。「あと幽霊も。」

 

 「悪かったよ。」と俺は言った。

 

 「何が?」

 

 「いや、俺も、学校のことを聞かれるのが嫌いなんだ。学校自体は嫌いじゃないけど。」

 

 「そうなの?」

 

 「なんというか、個人を学校と一体みたいに捉えてるやつが多くてね。なにか、問題を起こしたりとか、そういうときには勿論無関係ではいられないけど……もっと一般的にそう考えてる人間が多すぎるよ。」

 

 「……よくわかるわ。あなたもそういうのが嫌いなのね。」

 

 「これに関しては、嫌いと言うより苦手かな。価値観の相違だよ。」

 

 「今学校に行ってない私が言うのもおかしいかもしれないけれど、実力のない個人が学校の名前にすがっているようにしか見えないことがあるの。」

 

 猫はそう言って綺麗な黒髪を掻き上げた。もう不機嫌な様子はなく、その動作は彼女によく似合っていた。「わかるよ。」と俺は言った。

 

 「学校に誇りを持つのはいいことだと思う。ある側面では。」

 

 「でも、それとは何か違う人種がたくさんいるわ。」

 

 俺は頷いた。うまく言葉にできなかったが、彼女の言っていることには同意出来た。

 

 「悪口を言っていい?」

 

 「勿論。」

 

 「私が指摘しているような人間は、大成しない気がする。漠然と。」

 

 「まあ、大人になっても学生時代の成績の話をしていそうではあるね。」

 

 そしてしばらく、俺たちは陰湿に笑い合った。

 

 「俺達、意見が合いすぎてたまに一人で喋ってるみたいだよ。」

 

 「そうね。でも違うところもある。」

 

 「たとえば?」

 

 「あなたは私が好きだけれど、私はたいしてあなたを好いてない。」

 

 「それは比較対象じゃないよ。俺は君が好きで、君も君自身が好きだ。そして君は俺があまり好きじゃなくて、俺も俺自身があまり好きじゃない。ほら、完全に一致してる。」

 

 そう言うと、猫は驚いたような顔をした。

 

 「あなた、自分が好きじゃないの?そうは見えない。」

 

 「好きになりそうで困るんだ。現状の自分を好きになってしまったら、そこからの人生でもう登るだけの意欲が湧かないと思うから。」

 

 

 

 

 

18

 

 俺の部屋にはメイド・イン・チャイナのぬいぐるみやベストセラーの児童向け冒険活劇の全集が氾濫している。綺麗であることは好きだが、掃除は嫌いだから散らかってしまっている。だが雑然としていることが理由ではなく、その本やぬいぐるみが他人の著作物であるために、俺はそれらを小説に書かない。俺はいろいろなことが気になって既存の固有名詞を物語に登場させられないのだ。本当は、実在の街の名前さえも出したくはないと思っている。

 

 「でも他人がそうやっていたら、自意識過剰だと感じるだろうね。」

 

 「同意するわ。誰もあなたの作る創作物をそんなに細かく見てはいない……そう言いたい気持ちになる。」

 

 「ああ。わざわざ本物の何かを連想させるようなネーミングを捻り出してる人間を見ると、笑いそうになるよ。何様のつもりなのかってね。」

 

 やはり俺たちには、意見の齟齬がなかった。

 

 「だけどね。」

 

 「何?」

 

 「わざわざ名前をいじって版権の問題をすり抜けてまで人が著作に登場させたくなるような、そういうものを俺は作りたい。」

 

 猫は目を細めた。「期待せずに期待しておく。」

 

 「……他人を尾行したり、友人を観察したりして、ヒントを盗む。そう言う小説家がいるらしいけど。一流の作家は人を盗んだもので文章は書かない。書いた文章で人を盗むんだ。」

 

 「ちょっと、よくわからない。」

 

 「本を閉じた後、登場人物たちのことばかり考えてしまったり、何度も読み返したり、二次創作探しに耽ったり……名作は俺たちの時間を盗む。時には人格さえも。」

 

 猫は頷いた。

 

 「私は、人格を盗まれてはいないけれど、オスカーワイルドが好き。彼は前向きで明るすぎる部分があることを除けば完璧よ。唯一話してみたい死人だわ。」

 

 「彼、俺と似てないか?」

 

 「冗談でしょ?」と猫は顔をしかめた。「彼は好きだけど、あなたは別に好きじゃない。これって大きな違いじゃない?」

 

 「たしかに。でもオスカーワイルドとウォルトディズニーを足して、二で割らずに足しっぱなしにしたような人生なら、及第点はつけられると思う。勿論足すのは寿命も含めて。」

 

 「あなたってときどき、すごく傲慢よ?」

 

 「だけど本音だ。不遜で在れ、って習ったんだよ。夢の中の俺に。」

 

 そう言うと猫はもう何も言わなかった。こういうことを言うと決まって、偉人たちは君くらいの年のころには結果を残していた、とか言いだす人間がいる。確かに俺のこれまでの人生は理想と比べて落第点もつかないで出来だが、小説家は前を向く生き物である。

 

 「どうして一流を定義したがるの?」

 

 「どういうこと?」

 

 「言い方は悪いかもしれないけれど、あなたってたくさんの二流を抱えている。」

 

 「その通りだ。否定できる要素がないね。」

 

 「でも二流って、すごく素敵だと思う。雑然と、いろいろなものが流れていそう。」

 

 猫はときどき、よくわからないことを言う。

 

 

 

 

 

 「買い物に出かけない?」

 

 と、俺の家に来てから三度目の外出を猫は提案した。

 

 「そうしよう。」

 

 「何を買う?」

 

 「買うものがなければ散歩でもしたらいい。」

 

 そんな風に俺たちは家を出た。

 

 だが運命と言うものは、必ずしもいい意味だけを持つわけではない。

 

 「ねえ、その子は誰?」

 

 そう言って、近所に住む女が話しかけてきた。俺の古い知り合いだった。

 

 「……親戚。」

 

 一小節遅れて、猫が答える。女は「そう。」とだけ答えてその場から去った。彼女の眼には人を信頼している様子が全くなかった。

 

 俺達の町はわずかに寂れていて、閑静な、と言う形容詞が相応しい。信号の光が他人事のように明滅し、遠くでクラクションが鳴った。

 

 風がやけにうるさく感じた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

19

 

 物語の終わり方の話をしよう。やっと完璧に、そういう段階になった。

 

 「繰り返しになるけど。」

 

 女に会った夜、結局俺たちは散歩には行かずにすぐに家に戻り、ソファで何時間も過ごしていた。

 

 「いいよ。何度でも聞こう。」

 

 「ありがとう。」

 

 「葡萄はいる?」

 

 「貰うわ。……私はミステリーが好きじゃないの。正確に言えば、綺麗に始まって綺麗に終わる話が嫌い。」

 

 「ん……」

 

 「わかるでしょ?」と彼女は訊ねた。俺は葡萄を飲み込みながら頷いた。

 

 「伏線を回収することで物語も回収されるようなものは、理想からあまりにも遠いよ。」

 

 俺たちはしばらく黙った。

 

 「三セット。」

 

 「何?」

 

 「三セットと言うよりも、三点セットかな。……淡い、切ない、ほろ苦い。最悪の組み合わせ。いかにも群像劇のラストみたいな、素人が技量のなさを隠すような最後。」

 

 「大丈夫。俺はそんな小説は書かない。」

 

 物語は、あっけなく、時に物足りないくらいで終わるのがいい。長く流れる時間をただ切り取るのではない。なにか変化があって物語は始まることができ、そしてそれが当たり前の日常になるころに終わるべきなのだ。

 

 「青春と言う言葉はあまりにもチープだけどね。」

 

 と俺は言葉を紡いだ。「俺が求めているのはそういうものかもしれない。」

 

 猫は何も言わなかった。

 

 「比較的最近のなつかしさ。」

 

 「……何?」

 

 「そう何年も前のことじゃないのに、妙に懐かしい物ってあるだろ?それが、幸せの数だと思うんだ。」

 

 「私がいなくなったら、懐かしく感じる?」

 

 俺は音楽をかけるためにデッキを持ち上げた。リストが映える夜だった。

 

 二曲が流れ終るまで、俺も猫も無言だった。それから俺は口を開いた。

 

 「実のことを言うと、君に会った日のことがもう懐かしいんだ。」

 

 「……じゃあ、あなたは幸せ?」

 

 「それは、まだ分からない。」

 

 

 

 

 

20

 

 猫が鳴いた。思ったよりも、わずかに高い声だった。その響きは俺にゆるしを与えるもののように感じられた。空間には、今までの生活の影を這っていた閉塞感じみた何かが、確かに広がっていた。

 

俺は夢中だった。独特なにおいがそこには充満していたが、脳がそれを不快だと受け取ることを拒絶していた。甘い匂いだ――俺は自分にそう言い聞かせた。指が湿度を纏い始めた。

 

 柔らかい。何度目でも同じ、それが変わらない感想だった。その感覚を認識すると、絶妙なもどかしさが俺の全身を支配しはじめる。熱い。暖かいというわけではなく、純粋で洗練されていない熱。体温の他にも、不可視の温度が発生する。俺はその頃にはすでに、明確な疲労を感じていた。

 

 ふたたび、猫が鳴いた。くぐもってはいないが、響かない性質の声色へと変わっていた。俺は一度目の欲望を吐き出した。少年少女にとって、口は言葉を発するためだけの器官ではなくなっていた。しびれるような衝撃が、脊髄に走った。

 

 俺は何か言おうとしたが、上手く発声できなかった。ふさわしい時ではなかったのかもしれない。夜はまだ残されていたが、俺と猫のための時間は、もう長くは必要なかった。それは個体差というような個人的なことなのか、あるいは一般的なことなのかは俺には分からないが、一時間くらいという基準がある意味での限界として存在していた。ひそかに落ちる唾液は、清潔かはともかくとして、清廉さを保っていた。その唾液の他にも水音はあり、それらはいやに耳に残った。

 

 濁った愛が零されて、時計の針は十時をさした。すると急速にその場が冷えてきて、俺たちはヒト本来の姿を捨てて文明人の皮を被らざるを得なくなった。不思議と名残惜しさはなかった。

 

 「別にだからどうということはないけど。」

 

 と猫は言った。「これで最後かもしれない。」

 

 それは二人に共通する予感だった。

 

 片付けの際に虚しさを覚える人間もいるらしいが、俺の場合はそういうことはなかった。

 

 「小説家は嘘つきなんだ。だからこういうつもりだっていうことで書き始めても、すぐに矛盾が生じる。」

 

 猫は無言でトイレに行き、何枚かの紙を流した。寝室に戻ってくると、彼女はそっと言い聞かせるようにつぶやいた。

 

 「でも矛盾した過去を書き直してはいけない。人生がそうであるように、物語はいつでも取り返しがつかなくて、演繹的であるべきよ。」

 

 

 

 

 

 サイレンの音がふいに鳴り、しだいに近づいてきた。

 

 

 

 

 

21

 

 昔話をしたい。小さいころの俺の話だ。つまらない話だから、真剣に読むことはない。 

 

 

 

 

 

柔らかい夢を見たい。固いアスファルトの世界で、俺はそう願った。本質的には、それが現実である必要などない。ただ、起きている時でも続く夢でなければならなかった。朝になったら消えてしまうものでは、心が軋んで繋ぎ止められないから。俺は目を開けても終わらない幻想を求めた。俺は物語のように生きたかった。とびきり美しい物語がいい。悪役が出てきて決闘するようなシナリオではいけない。淡々と、鮮やかなモノクロのように進む世界の物語。自分は登場人物の一人になって、その街で呼吸がしたかった。少年がいて、少女がいて、老人がいて、若者がいて、醜い者がいて、綺麗な人も少しだけ。一週間かけてグルグルと同じ世界を歩いて、曜日ごとに、時間帯ごとに違う人間にあって、劇やオペラのような会話をして、静かに分かれていく。ときどき、雪が降る。

 

 たとえば平凡な街にいても、そういった夢を見ることはできる。いろいろな人がいるし、汚れたカラスや猫もいる。けれど皆、俺の影絵の劇場には、些か役者不足だった。

 

 「洗練されていない。」

 

 それは俺の口癖の一つだった。散らかった部屋で洗練性を語る。それはいかにも滑稽なことだったが、俺はいたって真面目だった。

 

「俺は今、いったいどれだけ生きているだろうか。」

 

 生命の存続以前に、俺は何よりも精神の生死を案じた。それがどういった倒錯なのかは分からないが、俺はいつの間にか、現実の世界でのことよりも物語の完成度を重視するようになっていた。

 

 「美しい物語の中でなければ、生きていても意味がない。」

 

 「美しい物語の中でなければ、死ぬこともままならない。」

 

 「死ぬこともできないのに、死んでいるのと同じだ。」

 

 「もっと、洗練されたパーツが必要だ。」

 

 その思いは日に日に強くなった。

 

 

 

 そして俺は猫を見つけた。

 

 いい猫だった。死んだ。

 

 

 

しばらくして、猫の幽霊だと名乗る少女と出会った。家からツーブロックの交差点。彼女の顔には見覚えがあったので、たぶん近所の子供か何かだろうなと思った。

 

俺は彼女を連れて帰ることにして、雨だったから、とりあえず傘をさした。

 

 

 

 

 

 

 

22

 

 近所でサイレンの音が増えてきた。俺と猫は、変わらずソファの上にいた。

 

 「よくドラマなんかで、何も言わずに去っていく恋人を必死に追いかけて別れを告げるシーンがあるでしょ?でもあんのことは不可能だわ。架空のお話にそんなことを言うのは不毛だけれど。」

 

 「何が言いたい?」

 

 「心ではどんなに必死なつもりでも、人間っていうのは力尽きるまで走れない生き物だと思うの。まだもう少し動けるうちから心に諦めがよぎり始めて、言い訳をして歩き出して……そういうふうにできてる。」

 

 「そうかもしれない。」と俺は言った。

 

 「わかる?」

 

 「ああ。勿論恋人ほど重大ってわけじゃないけど、昔駅に傘を忘れてね。」

 

 俺たちはコーヒーではなく、紅茶を飲んでいた。

 

 「その日俺はお年玉で時計を買ったんだ。たいして高い時計じゃないよ。たしか、二万円か三万円くらいのやつだ。俺の家はとても広い意味で捕らえれば裕福な方だったから、特に感慨はなかったよ。」

 

 「いつごろのこと?」

 

 「高校生の頃。お年玉自体は多い方じゃなかったから、その時計でほとんど使いきった。価格も中途半端だしね、決していい買い物ではなかったよ。でも高揚してた。」

 

 「それで傘を忘れた?」

 

 「そうだ。」

 

 俺は、傘を忘れたことを時計のせいにしたくなかった。せっかく買ったものを、その日のうちに嫌いになってしまいそうだったからだ。

 

 「驚くくらい必死に走ったよ。」

 

 「それで?」猫は少し退屈しているようだった。「傘はあったの?」

 

 「最初に会った日、君にさした傘がそれだ。」

 

 「あなたはやっぱり運命論者じゃないの?」

 

 俺は首を振った。

 

 「違うよ。とにかく必死に走ったはずだったのに、気づいたら俺は歩いていたんだ。」

 

 「当たり前よ。人間は、どれだけ綺麗ごとを言っても人のためになんか生きられない。それは悪いことじゃないわ。」

 

 「君はこの世の中で、何が一番大切だと思う?」

 

 「自分。」

 

 「じゃあ一番必要なものは?」

 

 「それは……リレイション。人とのつながり。」

 

「矛盾しない?」

 

「場合によってはね。そういうときは、個人の方が先に消される。」

 

優しくなければ生きていけない。強くなければ意味がない。現代社会はそうなっている。

 

「もう少し寄って。」

 

「君の方に?」

 

「まさか。余裕のない態度でそういうことを言うのが一番恥ずかしいのよ。」

 

俺は腰を浮かせて、猫と反対側に一歩ずれた。

 

「小説って、ある意味ではコンドームにあいた穴よ。」

 

「余裕のない態度でそういうことを言うのが一番恥ずかしいよ。」

 

「真面目な話。」と言って、猫は俺の足を蹴った。猫と直接触れたのはずいぶん久しぶりの気がした。 

 

 「必要な、遺伝的な、生物としての本能があって、文明はそれを押さえつける。」

 

 「小説は風穴?」

 

 「そう思う。穴をあけた人間が責任を取るべきなのに、違う人がとばっちりをくらうところまでそっくり。」

 

 「俺の小説には、俺が責任を持つよ。」

 

 猫は呆れたように微笑んだ。それから伸びをして、ソファにつま先までのせて、俺の方に向き直った。

 

 「人間は必ず変化する。」

 

 「そうだね。」

 

 「いい友人はその変化に目を瞑ってくれて、それなのに昔の自分を嫌いにならないでいてくれるわ。」

 

 「そうかな。それは、都合のいい友人じゃないか?」

 

 「そうよ。そう言う言い方をすれば聞こえが悪いけど、いい友人っていうのはそういうものだと私は思う。」

 

 俺もなんとなく、柔らかい皮の上で胡坐をかいて、猫を正面から見た。

 

 「良薬口に苦し、なんていうけど。苦い時点でそれはいい薬じゃないと思わない?」

 

 「エグザクトリ。」

 

 「どう受け取るかは勝手だけれど、悪く考えないでほしい。」

 

 そう言って猫は目をそらした。

 

 「あなたのことは嫌い。でもあなたは本当にいい友人よ。」

 

 俺も視線をそらして、息を吐いた。

 

 二週間かけて、俺たちはやっと、友人になった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

23

 

 「自意識過剰とかじゃなく、君が恋愛の話をしなくてよかったと、心の底から思ってる。」

 

 猫と過ごす最後の日、俺は正直にそう言った。

 

 「勿論そういうことに興味がないわけではないよ。優れた話題でもある。だけど、どんな時でも、なんでも恋愛と絡めて考えるのは、俺は苦手なんだ。」

 

 「わかるわ。」と猫は言った。「そうじゃないやり方だって必ずある。私たちみたいに。」

 

 俺は窓を開けた。空気が入れ替わるのを皮膚で感じる。気持ちのいい朝だった。

 

 「物語の終わり方の話をしたこと、覚えてる?」

 

 「勿論。」

 

 「淡い、切ない、ほろ苦い。これ以外にもダメなものがあった。後味の悪いラストは、一番嫌い。」

 

 そう言って猫は、おもむろに俺の原稿用紙の一枚目をめくった。

 

 

 

 この物語の登場人物は、私と猫と、俺だけである。

 

 

 

 「これを伏線としてとらえるなら……たとえば、私っていうのが、この前会った女だったり。この物語の本当の語り手は、あの女。どう?」

 

 「なんとなく気味が悪いね。別に秀逸なオチってわけじゃないのに。」

 

 「最悪でしょ?」

 

 だからね、と猫は言った。伏線なんて張るものじゃないし、落としどころなんて必要ない。

 

 そういうわけで、俺は彼女の家族のことも、サイレンのゆくえも、何も知らないまま扉を開けた。

 

 

 

 「ありがとう。」

 

 

 

 猫は振り向いてそう言った。今にも泣きだしそうな表情だった。俺は、笑顔が可愛いよりも泣き顔が美しい女の子の方が好きだと言うことを知った。

 

 「自慰でしか自己表現できないような、そんな人間にだけはなるなよ。」

 

 「……それが最後にかける言葉?」

 

 「真理だろ?泣きたいときに、それしかなかったら悲しすぎる。」

 

 「最悪ね。」

 

 「……もしかしたら。」

 

 「え?」

 

 「最後じゃないかもしれない。」俺がそう言うと、もう何も言わずに彼女は去って行った。

 

この物語がいい作品かは別として、唐突に終わるという点だけは満たせたと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

24

 

想像量が足りない。

 

 そのことが俺の物語に天井をつくり、閉塞感を生みだしている。想像量と言うのは俺が考えた単語である。

 

 

 

 文章を書くと言うことは、非常に困難な作業だ。

 

 だが最低限の才能と経験がある人間が時間をかければ、絶望的に不可能なことでもない。ただ単純に、絶望的なだけ。

 

 

 

 

 

 「あなたは過去が大好きなのに、過去の自分が嫌い。でもそれって、ひどくアンバランスなことよ。」

 

 猫は出会った日に、確かそんなことを言った。人生はバランスが良ければいいとも限らない。

 

 

 

 

 

 

 

 人生を語るには俺はまだ若い――正論だ。だったら、一体いつまで口を閉ざしていればいい?そうしているうちに現在は過去になって、未来さえも過去になる。時はとどまることを知らない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 原稿用紙を閉じた後、たまに絵が浮かんでくる。

 

 今は、手袋をしたクラゲが浮かんでいる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

唄を口ずさむ。

 

今日は馬鹿みたいに晴れているから、空の代わりに俺が泣こう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

彼女は俺の野心を、不遜であると断じた。

 

 

 

彼女は俺の過去を、優しい人種と括った。

 

 

 

彼女は俺の人生を、死のようだと喩えた。

 

 

 

彼女は俺の存在を、よき友人だと認めた。

 

 

 

彼女は俺の物語を、つまらないと笑った。

 

 

 

 

 

 

 

彼女は彼女自身を、幽霊なのだと言って泣いた。

 

 

 

だとしたら、俺は――――――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

俺はここからゆっくりと、少しずつ、小説を書いていこうと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

とりあえずはじめに   完

 

 


この本の内容は以上です。


読者登録

蘆谷丞さんの更新情報・新作情報をメールで受取りますか?(読者登録について