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 緊張を隠すために、全く関係のない棋譜を並べたりした。それでも、自分に向けられている視線を感じないわけにはいかなかった。

 今日は、特別な日になるかもしれない。しかし、ただの通過点でしかないかもしれない。大きな後悔を生む日にだってなるかもしれない。

 あの日から、四年半。奨励会に入ってから、約四年。十九歳の月子さんは、三段リーグ二期目にして、昇段のチャンスを迎えていた。今日の対局が始まる前までは三番手。二連勝すれば、かなりの確率で昇段できるという状況だった。

 史上初めての女性正会員の誕生か。二段になった頃からざわついた感じはあったのだが、いよいよその実現の可能性が濃くなってきたため、大きな関心が寄せられることになった。あまり見たことのないマスコミ関係者も取材に来ている。

 当然師匠の僕に対する興味もあるようで、いくつか取材を受けた。もちろん、月子さんの親のことなどは言わなかった。それでも特殊な形の師弟ということが、物語の味付けとしては良かったらしい。

 僕らにとって、将棋以外のことで苦難の連続だった。二人とも注目されることが苦手で、できればそっとしておいてほしかった。それでも期待や好奇心は、様々な人の目を引きつけてきた。その中で、月子さんはくじけなかった。嫉妬や中傷すら耐えて、ここまで来た。当初彼女を支えていたお金や家族への思いではなく、純粋な将棋への気持ちが力となったのである。

 今日僕が来ているのは、月子さんの負担が減るようにするためでもあった。彼女も随分と成長したが、それでも基本的には人見知りだ。マスコミの我儘な取材は、精神的な安定を脅かす。それを、出来るだけ僕が代わってやりたかった。

 一局目が終わったとの知らせが届いた。候補の三人が全て勝った、ということだった。これで、月子さんは変わらず三番手。他力だが、自分が勝ち、上二人のうちのどちらかが負ければ昇段である。このような時、全員が連勝するなんていうのは見たことがない。二人のうちどちらかが負けると信じて、自力のつもりで頑張るしかないが、月子さんの気持ちは今どうなっているだろうか。

「やっぱり来ていたんですね」

 控室に入るなり僕に声をかけてきたのは、辻村七段だった。成績は相変わらず素晴らしいが、最近はおしゃれに凝り始めて逆に恰好悪くなっている。今日はマスコミが来ていることも織り込み済みなのだろう、茶色い髪をピンピンに立てて、ついでに襟首も立てていた。

「そりゃあね」

「行けそうじゃないですか」

「そんなにすんなりとは、普通いかないよ」

 それは、僕自身を落ち着かせるための言葉だった。今まで女性は三段リーグにすら入れなかったのに、月子さんは十八歳でそのハードルを飛び越えてしまった。そしてたったの二期で昇段のチャンスを迎え、そのプレッシャーの中一局目を勝つことができた。このままプロになれれば、女性としてだけでなく、普通の若手としても有望株の一人に数えられるだろう。

 実は月子さんは、去年のうちにネット将棋のレーティングでは僕を追い越している。TomatoMamaは、すでに幾人ものプロよりも上にいるのだ。

 今まで気が付かなかったのが不思議なくらいだが、月子さんは天才だった。全集を読むだけでアマ高段者の実力を身に付け、すぐに奨励会に合格できるまで強くなり、そして順調に昇級・昇段していった。きっと僕が師匠でなくても、月子さんは強くなっていっただろう。

 そういえば、自分が昇段を決めたとき、待っていてくれる人はいなかった。もちろんその場にいた人たちはおめでとうを言ってくれたが、僕にそれを言うために来た人はいなかったのだ。システム上、半年に二人はプロ棋士が誕生する。僕のような期待されない若者が、弱いプロになってしまうことだってある。それに比べ月子さんは、色々な人を巻き込み、そして僕らが待ち望む中で、プロになろうとしている。

 時間の経過が、渦巻いているように感じた。一局目が終わってしまっていることを不思議に思い、二局目が長すぎるようにも思った。結果が早く出てほしいような、知りたくないような。

 第一報が入った。自力だった一番手が勝った。まだ月子さんは他力だ。この時点で確率は四分の一。次点二回でフリークラス編入という制度もあるので、上がれなかったとしても勝つことが大事だ。

「つっこちゃんは、そういう星の下に生まれてきた気がします」

「え」

 検討の手を止めて、突然辻村君は王将をつまみ上げた。それを見ながら、話を続ける。

「将棋界のことなんて知らずに飛び込んできて、三東さんのところにたまたま行って。それでこんなに早く駆け上がってきて。全然強そうに見えないし、弱気だし、内気だし。でも、勝っちゃうんですよ、彼女はいつも」

 第二報が入った。それは、金本三段が勝った、というものだった。耳の奥で、血液がリズムを上げていく音が鳴り響いていた。辻村君と眼が合い、なぜか頷き合った。

 それからの二十分。色々ことをしていたようだが、何もしていないようでもあった。月子さんは、もっと落ち着かない気持ちで待っていることだろう。

「前川三段、負けです。大屋、金本三段が昇段です」

 第三報。僕や辻村君が反応するよりも先に、周囲の人々がざわついた。そして将棋のことなんて全く知らなかった記者が、言った。

「よかったですね」

「え……ええ」

 信じていた。月子さんはプロになれるのだと。でも、信じられなかった。何を考えたらいいのか分からない。

「三東さん……やりましたね」

「辻村君……やっちゃったね」

 しばらくしてようやく、あっという間だ、そう思った。あの、玄関の前で初めて会った日から。頼る人のない少女と、頼りない僕。あそこからここに来るまで、あっという間だった。

 それでも。ゆっくりと振り返れば、本当にいろいろなことがあって、長い長い日々だったとも感じる。

 多くの視線が、僕の言葉を待っているのが分かった。つばを飲み、息を大きく吸って、吐き出した。

「でもまだ、これがスタートですから」

 マスコミ用に用意していた言葉を、何とか僕は吐き出すことができた。

 その後も質問が続いたが、何をしゃべったのかはよく覚えていない。



 へとへとになって帰宅し、二人は同時に息を吐いた。やっぱり、家が落ち着く。

「疲れたね」

「……はい。なんか、いろいろと逃げたい気分です」

 月子さんは今日一日で随分痩せたのではないかと思うほどだった。それでも僕らは、笑顔だった。当たり前だ。こんなにいい日はない。

「……不思議だね。月子さんがもう、四段になるだなんて」

「先生ももうすぐ五段じゃないですか」

「長くかかりすぎたよ」

 二人でストロベリーティーを飲んだ。何度となく繰り返してきた時間。それがとても特別なものに思える。

「あの……先生」

「うん」

「家のことなんですけど」

「ああ」

 勝ち越したら引っ越しと思いながら、結局一昨年、去年と惜しいところで達成できなかった。去年は指し分け、五割だった。しかし今年は好調で、六割以上をキープ。あっさりと勝ち越しを決めていた。

「僕も考えていたんだ」

「……その……わがままなお願いだとは思うんですが……私、ここにいたらいけないでしょうか」

 その瞳の中に、間抜けな顔の僕が見えた。

「……え?」

「一人前になったら、居候なんておかしいことは分かってます。でも……早く先生にお金返せるようにするには……このままの方が……」

「あ、ああ」

 驚いた。月子さんの言葉にではなく、自分の先入観に、だ。四段になったら月子さんは立派な社会人だ。それなのに、彼女がこの家から出ていくなんてことは、全く考えたことがなかった。

「いや、僕は引っ越そうかと思ってたんだ。その……もう少し広くて、部屋もいくつかある所に」

「そうなんですか?」

「もちろん今日の結果がどうなるか分からなかったし……うん。いつまでもロフトでは、ってずっと思ってたから。勝ち越したら引っ越そうって、ずっと思ってた」

「私……あそこ好きですよ」

 そう言った後、月子さんはすっと立ち上がると、ロフトに登って行った。そしてすぐに、右手に何かを持って、下りてきた。

「先生……私、隠しごとをしていました」

「隠し事?」

「これ、見てください」

 月子さんが差し出したのは、一枚の便箋だった。一番上に「お父さんより 月子へ」と書かれている。


「月子へ

 父さんは今名古屋のおじさんのところにいる。仕事を手伝いながら、何とかちょっとずつ借金を返してる。お前は、心配しなくていい。

 母さんとは離婚した。

 お前には何もしてやれないが、三東先生のところでプロになってくれると、嬉しい。

 多分手紙はこれきりだ。元気にやっていってくれ。

いろいろと、すまなかった。」

 

「月子さん、これ……」

「先生がいないときに届いて……。三年前の、順位戦最後の日です」

 その日のことを、思い返してみる。僕が家に帰ると、月子さんは一つの隠しごとを解き放った。

あれは、新しい一つの隠し事をするために必要なことだったのか。

「なんで隠してたの」

「……私、怖かったんです。母ともあんな感じで、父からもこう言われて、将棋を続ける理由がなくなる気がして……。私、いつの間にか、両親のことなんてどうでもよくなっていたんです。ただ強くなりたい、将棋を続けたい、先生に教わりたいって……。だから、言えませんでした。ごめんなさい」

 深々と頭を下げる月子さん。なんだか、すごく申し訳なくなってしまった。だって、僕にも隠しごとがあったのだから。

「それ以前に、君のお父さんに会ってたんだよ」

「……いつ」

「出張したとき、名古屋に泊まるって言ったでしょ。そのとき偶然」

「……そうなんですか」

「ごめん」

「……おあいこ、ですね」

 二人の間に、新しい空気が生まれたのを感じた。弟子として、新しいライバルとして、そして金本月子として。僕は今、見ている。

 細くて長い髪。短い睫毛。少し茶色が勝った瞳。小さな耳たぶ。全て、今初めて見たような気がした。

「家の話だけど……」

「はい」

「その……今さらだけど、ずっとロフトはやっぱり、きつかっただろ」

「そんなことないです。……よく、上から先生のことを眺めてました」

「……そうなの?」

「最初の頃は、本当にさびしかったんです。……でも、一人じゃないって思えたから。明日も明後日も、先生と一緒だからって」

 僕の前に現れた、十五歳の月子さん。彼女は小さくて弱々しくて、とても勝負師になるとは思えなかった。しかし、性格なんて変わらないけれど、今の月子さんは立派なプロ棋士になろうとしている、堂々とした若者だ。

 僕はたいして変わってないと思う。それでも、月子さんがいなければ、ひどい方へと変わっていたかもしれない。

「月子さん、君が選ぶなら、どうしたっていいんだ。一人で暮らしても、このままでも、ロフトを下りてきても」

「先生……」

 月子さんの瞳を、その中に映る僕を見て、自分が少し卑怯な気がしてきた。僕の気持を、はっきりとさせるべきだ。

「いや……でも、一人で暮らす必要はないのかな。月子さんも僕も、それを望んでない……よね?」

「……はい。私、ここがいいです。ここ」

 月子さんは、両手でテーブルを抱え込んだ。ここ。ずっと二人で暮らしてきた、この場所。ご飯を食べて、将棋をして、泣いて、笑った場所。

「でも、今日からはライバルでもあるからね。もし対局する日が来たら、一緒に連盟に行くってのも変だろうなあ」

「でも、面白そうですね。楽しみです」

 師弟は、そう簡単には当たらない。二人とも、勝ちあがっていかないと。

 次の心の目標は、二人で共有することになりそうだ。

 なかなか話をやめることができなかった。不思議な夜が、深まっていった。

 




 ようやく、日記帳が二冊目になった。結構さぼったので、一冊目を使い切るのに三年以上かかってしまった。

 

「月子さん、新人戦決勝へ」

 

 それが、最後の一行。

 プロになってからの月子さんは、僕とは全く違う道を歩んでいる。勝って勝って勝ち続けて、そうなると負けても話題になる。そして、目立てば対局以外の仕事も舞い込んでくる。聞き手、指導、さらには雑誌のインタビューまで。

気が付くと月子さんが出かけるのを見送り、一人家に残ることが多くなった。炊事や洗濯をしながら、専業主婦みたいだな、と思ったりする。

 もはや、嫉妬することもなかった。毎日月子さんのことを見てきて、努力をしてきたことは十分承知している。人付き合いが怖いのに頑張って通い続けたことも知っている。両親と二度と共に暮らせない悲しみを背負っていることも知っている。だから、彼女は将棋で活躍すべきなのだ。

「本当は、まだ怖いんです」

 月子さんは、そう言う。

「でも、学校は嫌いだったけど、将棋は好きだから」

 注目されて、取材もされて、時にはいわれなき非難もあって。外で疲れ果てて帰ってきた月子さんを、この家で癒せたら。いつしか僕はそんなことを考えるようになっていた。

 僕でなければいけなかったかどうかは分からない。でも、僕のもとで金本月子という棋士が誕生した。僕は初めて、誰かによって役割を与えられた。

 僕自身は、一流になれないことは分かっている。必死になってしがみついて、ようやく五割一分といったところだ。でも、月子さんは違う。どんどん上を目指せるだけの才能がある。僕は、どこまでもその手助けをしたい。

「先生、ちょっと相談が」

「ん? どうしたの」

 それぞれの部屋はあるのだが、二人はリビングにいることが多い。広い家を持て余しているのもあるし、そばに誰かがいないと落ち着かなくなってしまったようだ。

「あの……三番勝負では、どんな格好したらいいでしょうか」

「ああ……考えたこともなかったな……」

 もしこれからも活躍するのなら、和服なども必要かもしれない。タイトル戦で和服の男女が対戦することになれば、その光景だけでも画期的と言えるかもしれない。

「その、やっぱりスーツとか……」

「スーツ?」

「へ、変でしょうか……」

 そう言えば、今まで新人戦の様子を見たことがない。皆和服を着て対局していただろうか。どちらにしろ、女性が一般棋戦の番勝負をするのが初なので、慣例も何もない。

「うーん。初めてのケースだし、わかんないなあ。でも、スーツじゃなくても」

「できればあんまり派手じゃないのがいいです」

「そっか」

 それでいいのかもしれない。無理をして着飾らなくても、周りが勝手に言葉で装飾してくれるだろう。

「和服かなあと思ったけど……タイトル戦にとっとこうか」

「はい」

 力強い返事だった。本気で目指しているようだ。

 初めて会った日の、か細い声を思い出す。あの時の少女は、もういない。そして多分、あの日の僕も。

 それでいて思う。二人はあの日からずっと変わらずに、ゆっくりと歩み続けているのだ、と。

 月子さんがトイレに行っている間に、僕は日記の最後の一行に、言葉を付け足した。

 

「ありがとう」

 

 これから何度も思うことだろう。けれども、口には出せない。ありがとう、本当にありがとう。





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