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 人生で、こんなに気合の入ったことはない。だが、僕は今ものすごくテンションが落ちている。

 僕の前にいるのは、金本のおばさん。すでに金本姓ではないのだろうか。僕とおばさんは、二人きりで会うことになった。個室のある居酒屋に呼ばれ、挨拶するなりおばさんは鞄から茶封筒を取り出した。それを、僕の目の前に置く。

「本当に少ないけれど、感謝の気持ちです」

「はあ……」

 予想はついていたが、一応中身を確認する。一万円札が十枚入っていた。

「あの……」

「わかってます。これでは全然足りないのは。でも今私が用意できるのはこれだけなんです」

「……これを受け取ると、月子さんはどうなるんですか」

「もちろん、私が引き取ります」

 そんな話だろうとは思っていたが、言われてみると虚しくなる。

「月子さんは、この前自分の気持ちをちゃんと言いましたし、僕が何か決めることはできません」

「……あの人と同じなんですね」

「は?」

「将棋将棋って。将棋が強くて何になるんですか! あなたも月子に色々と吹き込んで洗脳したんでしょ!」

 今にもつかみかからんばかりの剣幕だったが、不思議と僕は落ち着いていた。今おばさんが何をしたって、結論は覆らないと分かっていたから。

「それなら、手放すべきではなかったんじゃないですか。月子さんは自転車に乗って、ぼろぼろになりながら僕のところまで来ました。両親のためにお金が必要だからって。どうしてもプロになりたいから、弟子にしてくれって言われました。その時、あなたは何をしていたんですか」

「私には私の事情があったの! 何も知らないくせに!」

 店員が入ってきて、おどおどしながら付け出しを置いた。

「あの、ご注文は……」

「あ、僕はこれで帰るんで」

「あの……」

 僕は封筒を突き返し、その上に五百円玉を置いた。

「あなたには一円もお世話になりません。月子さんを迎えに行きたいなら、直接向き合ってください。僕は、知らない」

 そのまま立ち上がり、僕は店を出た。あの母親と、あの父親。あんな二人と暮らすために、月子さんは頑張ってきた。色々とばからしくなってくる。それでも、それでも月子さんにとってはたった二人の肉親なのだ。

 家を出る前に見た長手数の詰め将棋のことを、無理やり考えた。当然だが、解けるわけがなかった。

 





 最近よく、月子さんは天井に頭をぶつける。

 もう二年もたつのだから、距離感はつかめているはずだ。それでも、頭をぶつけるのは、成長している証だろう。

 そう、彼女はロフトで生活して二年になるのだ。起きている時間は下で過ごしているし、そもそももっとひどい所で暮らしていたということで、不満を言うことなんてなかった。けれども十七歳になろうという女の子が、いつまでもそんな狭い所に押し込められていていいのだろうか。

 成績が上がれば、収入も増える。それでもまだ裕福というわけではないが、二人で暮らして行くには十分だろう。

 二人とも目標を達成できたら、新しい家に住んでもいいだろう。ちゃんと部屋が二つある家に。


 僕にとって今年最後の一局。特に注目などない一次予選。見所と言えば、すでに対局数一位を決めている辻村五段が、勝率でも一位になれるか、というところだろう。しかし僕が勝つなどとはだれも予想していないので、勝率の方も安泰だと思われている。

 奨励会でも対局があるが、一度も勝ったことがなかった。率直な感想は、馬力が違う、ということだった。読みのスピード、深さ、そして度胸。生まれ持っている強さが違うのだ。かろうじてプロになるのは僕の方が早かったが、順位戦でも、その他の棋戦でも僕のことをあっという間に抜いていった。僕の年齢になっている頃には、タイトル挑戦などのいくつかの勲章を得ていることだろう。

 モノが違うのだ。同じプロでも、全く違うのだ。おそらく、百番やったら七十番以上負けるだろう。それぐらいの差はある。ただし、どれだけ大事なところで残りの二十数番の勝ちを呼び寄せるかも、弱いなりにプロの技なのだ。今日は、僕にとってだけ特別な対局だ。僕が勝手に決めた目標が、いつも以上のやる気を引き出している。辻村君にとっては、普通の対局の一つでしかない。 

 そう思って対局に臨んだのだが、いざ向かい合ってみると様子が違った。

「おはようございます。楽しみにしていました」

「おはよう。なんで楽しみだったの」

「つっこちゃんが、あれだけ褒める人だからです」

「……」

 辻村君の瞳は、らんらんと輝いていた。ようやく無二のライバルに巡り合えたとでも言わんばかりだ。月子さんが何を言ったか知らないが、それで僕の将棋が見直されるなんていうことがあるのだろうか。

 なんとなく。なんとなくだが、辻村君は振られたんだろうな、と思った。好きとか嫌いとかではなく、月子さんは将棋に夢中で、だから将棋の師匠が大事なのだ。

 対局が始まっても、感情が揺れるということはなかった。ないものは出せないから、序盤は本当にいつも通りのことをするだけだ。辻村君は特に凝ったことをするタイプではないから、局面はオーソドックスな相矢倉になっている。先手の僕は、いつも通りの組み上げ方。後手の辻村君も、教科書通りの指し手を続けている。

 昼食休憩。もちろん、今日は辻村君と食べに行くなんてことはしない。どうしようかと思っていたが、本当になんとなく、またあそこに行ってみたくなった。会館を出て、僕の足は野球場の方へと向いた。

 十数分歩いて着いたのは、ゴルフ練習場のレストラン。一年以上前、僕が逃げ込んだところだ。

 そこで、再びサンドウィッチを食べた。ざわめきも何もない心で、料理が来るのを待つことができた。そして、今日のものは、前回の倍ぐらいうまいと感じた。

 対局室に戻ると、すでに辻村君は盤の前にいた。扇子で音を鳴らしながら、盤上に意識を集中させている。格好いい、と思った。スーツも似合っているし、ネクタイのセンスもいい。しかしそんなことを除いても、彼には戦う者としての美しさがある。

 そのあと、僕はもちろん全力を尽くした。いつになく調子はいいと思った。それでも常に、辻村君の読みの方が上回っている実感があった。うますぎるサンドウィッチが、喉の奥につかえているような気がした。強くなる魔法が掛かっても、まだ相手の方が強いという現実に、少し怯えてしまった。

 相矢倉の先手番が定跡通り攻めれば、だいたいはぎりぎりの細い攻めをつなぐことになる。駒の価値が、位置や関係性によってめまぐるしく変化していく。香車を捨て歩を取り、角を切って手に入れた桂馬を打ちすえる。こちらが作った成駒の威力を弱めるため、玉の位置を変える。その玉を引きずり戻すため、駒を捨てる。逃がさないように、逃がさないように、逃がさないように……

 気が付くと、僕の攻めは完全に切れていた。相手の玉は隅っこにくぎ付けになっているが、それを攻めきるだけの戦力はない。いつもどおりよりも少し冴えわたった頭で、必死になって考えてきたのだ。それでも、全然届いていなかった。

 あやを求めて指し続けたけれど、逆転がないのは分かっていた。辻村君は研究に頼り切っているわけでもなければ、天賦の才の上に胡坐をかいているわけでもない。常に全力で、最も勝てる展開を探るタイプだ。たとえ有利になっても、緩むとか、方針を変えるといったことがない。

 悲惨だとは思わない。これもまた、勝負師の宿命だ。敗者という役割があって初めて、勝者は輝く。弱小プロの「勝ち越す」という夢すら、生半可には叶わないのだ。

「……負けました」

 夜十時。僕の一年は、ほぼ終わった。

「先に端だと、こちらが駄目でしたね」

「……え?」

 最後に、濃密な感想戦が行われた。辻村君は、自分が負ける変化までも深く深く読んでいた。本当に、かなわない。

「……期待に応えられなかった。つまらない将棋だった」

「そんなことないです。先生……失礼かもしれないですけど、三東先生はこの一年ですごく強くなった気がします。調子とかではなく……強くなったと。僕は、先輩が自分より速い速度で強くなるのが怖いんです。だから、絶対に負けられません。貯金で勝ちたくないんです。ずっとずっと、強くなり続けたいんです」

 こちらが恥ずかしくなるくらい、まっすぐな言葉だった。高校生の頃の僕は、ただ認められたいという一心で将棋を指していた。どこかを目指していたわけではない。辻村君には、頂へと続く道が見えているようだ。

 若者には、教えられることばかりだった。

「将棋、楽しいかい」

「もちろんです」

 自分は、そのように断言できた時期がほとんどない。悲しい事実だか、悲観ばかりというわけでもなかった。今からでも、遅くはないと思う。

「じゃあ、また今度」

「楽しみにしています」

 結局、内なる目標の方も達成できなかった。悔しいが、清々しくもあった。


「ただいま」

「あ、お疲れ様です」

「ごめん、昨日になっちゃったね」

 そう言って僕は、テーブルの上にコンビニの袋を置いた。

「誕生日おめでとう」

「ありがとうございます。でも、まだ今日ですよ」

 昨日は、月子さんの十七歳の誕生日だった。対局と重なってしまったので、特に何もすることができなかったのだ。せめてもと思って、ショートケーキを買ってきたのだ。

「だって、時間……」

「見てください」

 月子さんは左腕を突きだし、右手で腕時計を指し示した。見ると、十一時二十分だった。

「え、でも……」

 自分の腕時計は、十二時二十分を示している。掛け時計もそうだった。

「私のが一番新しいから、きっとこれが正しいんですよ。……そういうことで」

「わかった」

 十七歳になった月子さんは、初めて会った日とはまるで違い、優しい嘘をつけるまでになった。

「あの……それで……」

「今日は、負けたよ」

「……そうですか……」

「来年度こそ、目標達成かな」

「私も、です」

 二人でケーキを食べながら、他愛もないことを話した。将棋以外のことを話せるのが、とても幸せだと思った。




 緊張を隠すために、全く関係のない棋譜を並べたりした。それでも、自分に向けられている視線を感じないわけにはいかなかった。

 今日は、特別な日になるかもしれない。しかし、ただの通過点でしかないかもしれない。大きな後悔を生む日にだってなるかもしれない。

 あの日から、四年半。奨励会に入ってから、約四年。十九歳の月子さんは、三段リーグ二期目にして、昇段のチャンスを迎えていた。今日の対局が始まる前までは三番手。二連勝すれば、かなりの確率で昇段できるという状況だった。

 史上初めての女性正会員の誕生か。二段になった頃からざわついた感じはあったのだが、いよいよその実現の可能性が濃くなってきたため、大きな関心が寄せられることになった。あまり見たことのないマスコミ関係者も取材に来ている。

 当然師匠の僕に対する興味もあるようで、いくつか取材を受けた。もちろん、月子さんの親のことなどは言わなかった。それでも特殊な形の師弟ということが、物語の味付けとしては良かったらしい。

 僕らにとって、将棋以外のことで苦難の連続だった。二人とも注目されることが苦手で、できればそっとしておいてほしかった。それでも期待や好奇心は、様々な人の目を引きつけてきた。その中で、月子さんはくじけなかった。嫉妬や中傷すら耐えて、ここまで来た。当初彼女を支えていたお金や家族への思いではなく、純粋な将棋への気持ちが力となったのである。

 今日僕が来ているのは、月子さんの負担が減るようにするためでもあった。彼女も随分と成長したが、それでも基本的には人見知りだ。マスコミの我儘な取材は、精神的な安定を脅かす。それを、出来るだけ僕が代わってやりたかった。

 一局目が終わったとの知らせが届いた。候補の三人が全て勝った、ということだった。これで、月子さんは変わらず三番手。他力だが、自分が勝ち、上二人のうちのどちらかが負ければ昇段である。このような時、全員が連勝するなんていうのは見たことがない。二人のうちどちらかが負けると信じて、自力のつもりで頑張るしかないが、月子さんの気持ちは今どうなっているだろうか。

「やっぱり来ていたんですね」

 控室に入るなり僕に声をかけてきたのは、辻村七段だった。成績は相変わらず素晴らしいが、最近はおしゃれに凝り始めて逆に恰好悪くなっている。今日はマスコミが来ていることも織り込み済みなのだろう、茶色い髪をピンピンに立てて、ついでに襟首も立てていた。

「そりゃあね」

「行けそうじゃないですか」

「そんなにすんなりとは、普通いかないよ」

 それは、僕自身を落ち着かせるための言葉だった。今まで女性は三段リーグにすら入れなかったのに、月子さんは十八歳でそのハードルを飛び越えてしまった。そしてたったの二期で昇段のチャンスを迎え、そのプレッシャーの中一局目を勝つことができた。このままプロになれれば、女性としてだけでなく、普通の若手としても有望株の一人に数えられるだろう。

 実は月子さんは、去年のうちにネット将棋のレーティングでは僕を追い越している。TomatoMamaは、すでに幾人ものプロよりも上にいるのだ。

 今まで気が付かなかったのが不思議なくらいだが、月子さんは天才だった。全集を読むだけでアマ高段者の実力を身に付け、すぐに奨励会に合格できるまで強くなり、そして順調に昇級・昇段していった。きっと僕が師匠でなくても、月子さんは強くなっていっただろう。

 そういえば、自分が昇段を決めたとき、待っていてくれる人はいなかった。もちろんその場にいた人たちはおめでとうを言ってくれたが、僕にそれを言うために来た人はいなかったのだ。システム上、半年に二人はプロ棋士が誕生する。僕のような期待されない若者が、弱いプロになってしまうことだってある。それに比べ月子さんは、色々な人を巻き込み、そして僕らが待ち望む中で、プロになろうとしている。

 時間の経過が、渦巻いているように感じた。一局目が終わってしまっていることを不思議に思い、二局目が長すぎるようにも思った。結果が早く出てほしいような、知りたくないような。

 第一報が入った。自力だった一番手が勝った。まだ月子さんは他力だ。この時点で確率は四分の一。次点二回でフリークラス編入という制度もあるので、上がれなかったとしても勝つことが大事だ。

「つっこちゃんは、そういう星の下に生まれてきた気がします」

「え」

 検討の手を止めて、突然辻村君は王将をつまみ上げた。それを見ながら、話を続ける。

「将棋界のことなんて知らずに飛び込んできて、三東さんのところにたまたま行って。それでこんなに早く駆け上がってきて。全然強そうに見えないし、弱気だし、内気だし。でも、勝っちゃうんですよ、彼女はいつも」

 第二報が入った。それは、金本三段が勝った、というものだった。耳の奥で、血液がリズムを上げていく音が鳴り響いていた。辻村君と眼が合い、なぜか頷き合った。

 それからの二十分。色々ことをしていたようだが、何もしていないようでもあった。月子さんは、もっと落ち着かない気持ちで待っていることだろう。

「前川三段、負けです。大屋、金本三段が昇段です」

 第三報。僕や辻村君が反応するよりも先に、周囲の人々がざわついた。そして将棋のことなんて全く知らなかった記者が、言った。

「よかったですね」

「え……ええ」

 信じていた。月子さんはプロになれるのだと。でも、信じられなかった。何を考えたらいいのか分からない。

「三東さん……やりましたね」

「辻村君……やっちゃったね」

 しばらくしてようやく、あっという間だ、そう思った。あの、玄関の前で初めて会った日から。頼る人のない少女と、頼りない僕。あそこからここに来るまで、あっという間だった。

 それでも。ゆっくりと振り返れば、本当にいろいろなことがあって、長い長い日々だったとも感じる。

 多くの視線が、僕の言葉を待っているのが分かった。つばを飲み、息を大きく吸って、吐き出した。

「でもまだ、これがスタートですから」

 マスコミ用に用意していた言葉を、何とか僕は吐き出すことができた。

 その後も質問が続いたが、何をしゃべったのかはよく覚えていない。

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