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 一時間後、月子さんは下りてきた。僕らは遅い夕食をとった。

 月子さんが風呂に入っている間、いつものように外に出る。夜空を見上げるが、星は見えない。遠すぎるらしい。

 僕は壁に当たった時、ただじっと時が過ぎるのを待つしかなかった。両親は僕がプロになろうがなるまいがどうでも良いようだったし、師匠とは会う機会さえほとんどなかった。自分のメンタルを調整するすべなんて知らなかったし、将棋のほかに趣味もなかった。だから、落ちるときは底を知らなかった。あるとき、朱里が僕にとって大事な存在になるまでは。

 月子さんにとっても、大事な人が必要な時が来るだろう。それが誰なのか……辻村君のような人なのかは、僕の知るところではない。

「幸典」

 突然の声に、僕はつんのめってこけそうになった。いつかもこんなことがあったような気がする。

「朱里?」

「今から、家に行こうかと思ってたんだ」

「どうしたの」

 街頭に照らされる位置まで来て、朱里の顔がはっきりと確認できた。五メートルほどの距離をおいて、二人は向かい合うことになった。

「この前テレビ観たよ」

「ああ……あれ」

「頑張ってんじゃん」

「そうでもないよ」

「……あのさ」

 朱里が俯き、長い髪が垂れ下がった。そう、別れた時よりかなり長くなった髪。

「なに」

「私、勘違いしてたんだよね」

 朱里が顔を上げた。僕のよく知っている顔だ。

「私がいるから、安心しちゃうんだって。追い詰められて、独りで苦しんで、そこから立ち直るのが勝負師だって……でも……そうじゃなかった。私がいるとかいないとか、関係ないんだなって」

「そんなことはないよ」

「……幸典はさ、いろんなことに敏感すぎるだけで、でも私はそんなところが好きで……。何言ってるか分かんないね」

「……続けて」

「私の方が辛いから。わがままなのは分かってるけど……戻れないかな」

 あまりにも突然のことだった。それなのに……僕の頭はあまりにもはっきりと返答を導き出した。

「無理だよ」

「……」

 何故そう言ったのか、自分でもわからなかった。でも、答えは決まっていたのだ。

「朱里は……僕じゃなくてもいいはずだよ」

 口から出たのは、そんな理由だった。僕の頭が考え出したのかどうかすらあやしいが、この場では有効的だった。

「でも……可能性ぐらいは、あるってことにしてよ」

「……同じことを繰り返すことになるよ。俺は、変わらないもの」

「前とは、違う顔してる。テレビで見て、思った」

「……そんなことはないよ」

 朱里は、拗ねたときの顔をした。今の僕には、その表情の甘ったるさを受け取る資格はないと思った。

「ただ、張り合いはあるよ。弟子をとったんだ」

「幸典が……弟子?」

「ああ。だから、しっかりしなきゃ、って思ってるのかも」

「そうなんだ」

 半分は本当だけど、残りの半分は違った。それを言い訳にして、全部のことを簡単に考えようとしているだけだ。

 かつては朱里も言い訳にして、プロを目指した。それでプロになれたのだ。だから僕はまた、言い訳を正当化する。

「それなら、私、見守るだけにするね」

「……ありがとう」

「じゃあ、またね」

「じゃあ。気をつけて」

 送っていくよ、とは言わなかった。彼女がどちらに帰っていくのか、知らない方がいいと思ったから。

 闇の中へ消えていく、かつての恋人。僕はその人のことをもう好きではないと、今、わかった。


 何があっても勝負は続く。勝負師とは、常に勝ち負けにこだわる生き物だ。

 Bに落ちた月子さんも、昔の恋人に会った僕も、将棋に向き合う日々が続いた。月子さんは何とかBを脱出し、降級の危機を免れた。そして僕は勝ったり負けたりを繰り返しながらも、ほぼ五割の勝率を保ち続けていた。若手としてはよくない成績だが、僕としては例年になくいい成績だ。

 それでも、何もかもが問題なく続くほど人生は楽ではない。

「あの……先生」

「どうしたの」

 ある日の夜。夕食後のまったりとした時間、僕がネットでニュースを見ていると、神妙な顔つきをした月子さんが近づいてきた。

「その……本当に申し訳ないんですが……」

「えらくかしこまるね」

「その……服がちっちゃくなってるんです」

「え……ああ」

 確かに、最近月子さんはぐんと大きくなった。初めて会った時の彼女は僕よりも随分背が低かったが、今では僕の鼻あたりまである。体つきも丸みを帯びてきた気がするが、これはあるいは食生活のせいかもしれない。

「そんな恐縮しなくてもいいのに。明日買いに行こうか」

「すいません……本当に、どんどん借金してしまって……」

「ははは、いいよ、すごく強くなったら、倍にして返してね」

 口ではそんなことを言うが、最近は僕に対する借金のことなんかどうでもよくなっていた。いろいろと考えながら生活していたら、いつのまにか一人暮らしの時とそんなに変わらない出費にまで抑えられていた、ということもある。ただそれ以上に、月子さんからお金を返してもらうなんてことは、今では想像もできなくなってしまったのだ。出会ったときは他人だったが、今では家族同然に思えている。食事を食べさせるのも、服を買ってあげるのも、義務のような気すらしているのだ。

 ただ、月子さんにはそれを言わない方がいい、と思う。彼女にとってお金を返すことは、将棋に打ち込むための大きな動機だからだ。そして、家族を再び手に入れることが彼女の目的である以上、僕は彼女の家族でない方がいいのだ。

 少し、寂しさも感じる。将棋の師弟というのは、はっきりとしたきずなで結ばれているような、ただの書類上必要な関係のような、曖昧なものだった。病気と闘いながら共に暮らしたような子弟もあれば、何年間もほとんど会話もないままの子弟もいる。僕たちの関係は珍しいだろうが、どういうのがオーソドックスかと言われても答えづらい。

 次の日、朝から僕らは買い物に出かけた。二人とも人混みが苦手で、平日の午前中が一番出かけるのに適しているのだ。社会人ぐらいの男と高校生ぐらいの女が昼間からぶらぶらしていれば、相当不真面目なカップルに見えていることだろう。

 大きなショッピングセンターに着くと、月子さんにお金を渡してそれぞれ単独行動ということになる。女の子の服のことは相変わらずわからないし、だいたい月子さんから切り出すときは下着などが必要となった時だから、ついていくのがためらわれる。

 特に自分のものはいらなかったので、雑貨店などで時間をつぶした。昔からこまごまとしたものを見るのが好きで、気にいると要りもしないのに何本もペンなどを買ってしまう。今日は、「一行日記帳」というものに目がとまった。その名の通り毎日一行だけ、三年間日記が書けるものだが、「50%オフ」のシールが貼られていた。僕は、その日記帳を購入した。

 そして、買った後すぐにいつも思う。これ、本当に使うのかな?

 待ち合わせの時間まではまだもう少しある。何となくぶらぶらしていたら、時計店の前にいた。こういう高い小物にはあまり興味なかったが、店内でカップルが腕時計を選んでいるのを見て、気が付いたことがある。月子さんは、女物の腕時計を持っていない。僕が昔使っていた大きなものを貸しているが、あれでは女の子として可愛くないなあ、と今初めて思った。

 月子さんに選ばせたら、きっと遠慮して安いものを買う。そう思った僕は、躊躇わずにそこそこいい腕時計を購入した。

 そろそろ時間だ。待ち合わせの場所に行くと、月子さんはすでに来ていた。両手に紙袋をぶら下げて、きょろきょろとあたりを見回している。

「お待たせ」

「あ、いえ、待ってないです」

 月子さんは手をぶんぶんと振り回したが、紙袋も一緒に振り回されて、遊園地の乗り物のようになっていた。

「ご飯食べようか」

「はい」

 本当にデートみたいだな、と思った。朱里はいつも僕を待たせていたから、この感じはちょっと新鮮だ。

 外食も久しぶりだったし、なんとなく気持ちが落ちていた二人が、優しく笑えた気がした。

 それなのに……


 帰宅すると、玄関の前におばさんがいた。大きなリュックを抱くように座っていて、髪の毛はぼさぼさ、服も薄汚れている。階段を上ってくる月子さんを見つけるなり、喉を震わせてずっと彼女のことを凝視している。僕はこの人に全く見覚えがなかった。しかし、その顔つきやたたずまいは、初めて見るようには思えなかった。

「月子ちゃん!」

「お母さん!」

「お母さん?」

 そう、このおばさんは、月子さんによく似ている。それは、親子の再会だった。母親は、娘を抱きしめた。

「ごめんね、月子ちゃん。ずっと、迎えに来ようと思ってた……」

「……お母さん……」

「お母さんね、お父さんと離婚したの」

「……あの……」

「それですぐに迎えに来たかったけど、生きていくので精いっぱいで……。でも、こんなお母さんと再婚してもいいって人がいてね……お金もないし、弱気な人なんだけど、お母さんこの人と生きていこうって。ね、月子ちゃん、新しいお父さんと、三人で暮らそ」

 突然の話に僕は見ているしかなかったが、月子さんも戸惑っているようだった。感動する暇もなく、突然の話が襲いかかってきているのだ。

「わ、私は……」

「もう、将棋なんかしなくていいの。ね、ちょっと遅れちゃったけど、何とかして高校にも行かせてあげるから」

「……お父さんはどうなるの?」

「お父さんは、一人で借金を返すからって。私たちに心配はかけないからって。月子ちゃんがお金のことを心配する必要はないの」

「……わかんない。よくわかんない」

 その時、初めておばさんと眼があった。僕がいることに初めて気付いたかのようだった。

「三東先生……今まで本当にありがとうございました」

「……いえ」

 頭を下げられたので、僕も頭を下げた。

「さ、月子ちゃん、準備して」

「お母さん……私、行けない」

 月子さんは母親の腕から逃れ、真正面から対峙した。

「私、お父さんとお母さんと三人で、普通に暮らすのが目標だった。だから、別の人と暮らすって言われても……。それに、私、将棋のプロになるの」

「月子ちゃん……無理にそんなもの目指さなくていいのよ。あんな男くさくて博打みたいな世界からは早く抜け出さなきゃ」

「私、将棋が好きなの」

「月子ちゃん……」

「どうしていいのか、突然過ぎてよくわかんないけど……でも、将棋を辞めるとか、ここから離れるとか、すぐに決められるようなことじゃないの……。ごめんなさい……」

 三人の時間が、別々に動いて、それでいて全てが止まっているようだった。母親は、失っていた娘との生活を取り戻そうとしている。月子さんは、足枷のようになっていた父親の借金から解放され、家族との暮らしを手に入れられる。僕は……僕のメリットは、只飯食らいがいなくなるということだろうか。少なくとも、僕らは今不幸に直面しているのではない。けれども、誰も幸福な顔をしていない。

「月子ちゃん……将棋を続けたいの?」

「うん」

「先生……止めてください」

「……え」

「向いてないでしょう? 月子は将棋なんかに向いてないでしょう? あの人のせいで無理やりやらされていたんだから、もうそんなことからは……」

「僕が決めることじゃないです」

 自分の出した声が、とても低くてとがっていることに驚いた。感情が抑えられないらしいが、それがどんな感情なのかはよく分からない。

「向いているとか、いないとか。ただ僕は、月子さんの頼みを受け入れました。そして月子さんは奨励会に受かって、昇級した。そんな子を途中でやめさせる師匠はいませんよ」

「先生までそんな……」

 なんとなく、自分の心の中で膨れていく感情の名前が分かってきた。それは、憐れみだ。この人は、自分の都合でしか娘を愛せないのだ。本当に必要ならば、最初から手放してはいけなかった。本当に大事ならば、娘の目標をもっとじっくり聞いてやらねばならない。僕と過ごした日々のことを聞きもせずに、ただ自分の元に引き戻そうとする身勝手さを、僕は憐れんでいる。

「どうするかは、月子さんが決めればいい」

「……私……そこには行けない」

 月子さんは僕が握っていた鍵を奪い取って、乱暴に玄関を開けた。そして、家の中に飛び込んで行った。

 残されたのは、初対面の二人。

「あの……」

「考える時間をあげてください。落ち着いたら、考えも変わるかもしれません」

 そのおばさんは、何もかも信じられないとでも言いたげに、何回も首を振った。そして何も言わずに振り返り、そのまま去って行った。

 一人きりになったマンションの廊下で、僕はもっとお礼を言われてもいいはずなのにな、と少しだけ怒りが込み上げてきた。




 彼女は、ロフトの上で泣き続けた。僕は、ただその声を聞いていた。

 慰める言葉など、意味があるだろうか。全て、僕が知りもしない状況なのだ。多額の借金も、失踪した両親も、新しい父親も、目標への諦めも、僕の人生にはなかったこと。わかったふりなんて、とてもできない。

 それでも、今そばにいてやれるのは僕しかいない。彼女にとって唯一明白な関係性を持った存在。僕らはお互いのことをどう思っているとか、話したことはない。けれども、絶対に敵にはならない、そういう確信を抱き合っていると思う。師匠と、弟子。家主と居候。言葉で表せばそうなのだけれど、もっと簡単で、もっと根本的なことで二人の関係は成立している気がするのだ。

 それが僕の思いすごしだとしても、かまわない。少なくとも、僕は月子さんを信頼している。どんな答えを出してもいい。失敗しても、後悔してもいい。ここから出ていくことになっても、将棋の道をあきらめることになっても、僕は何も反対しない。

 何かのきっかけですごく変われるほど、僕の錆付きは容易いものじゃなかった。それでも、何かが少しずつ変わっている実感がある。僕の前に月子さんが現れなければ変わらなかったことを、少なくとも僕は、変えたいと思った。

 もう、十分だ。か弱い少女から受け取る恩恵としては、本当に充分すぎた。そして、僕もできるだけのことを月子さんにしてきたつもりだ。師匠であり、父のようであり、兄のようであり。なにも後悔することはない。この先も望まれれば続けるが、ここで終わるというのならばそれはそれで解放されるということだろう。

 ふと、月子さんがいなくなった後のことを考えた。あのときのように、突然一人になって。けれども僕は、そもそも引き止めなかったのだ。朱里の選択の正しさを、わかっていたから。僕は、仕事でしか人に会わず、そして仕事はとても少なかった。この部屋の中で、ずっと過ごしていた。将棋の研究だってしたが、それはプロとしての義務みたいなもので、強くなるためにやっていたとは言えない。

 また、あの頃の僕に戻ってしまうのだろうか。

 もし、戻らないとすれば、本当に変われたということだ。

 どれぐらいの時間が過ぎただろうか。外は暗くなっていた。空腹を感じた。昼、幸福だった食事を思い出し、そして、渡し忘れていたものを思い出した。

 泣き声がやんでいた。見上げると、ロフトから顔が出ていた。

「先生」

 目は赤く腫れていたし、髪の毛もぐしゃぐしゃだった。それでも月子さんは、はっきりとした声で僕を呼んだ。

「うん」

「なんか、家族のことで……すみません。ずっと迷惑かけてばかりで」

「別にいいよ」

「あの……私……自分でもよくわからないんです。どうすればいいのか、どうしたいのか……でも……」

「でも?」

「はっきりしてるのは……まだ、先生に借金を返せてないんです。だから……プロにならなきゃ駄目なんです」

「……ふふ」

 思わず、小さく噴き出してしまった。そんなこと、すっかり忘れていたからだ。

「……なんで笑うんですか。真面目に考えたんですよ」

「いや、だってさ、変じゃない。借金返すために弟子入りして、師匠に借金返すためにプロを目指すなんて」

「そ……そうなっちゃったからしょうがないじゃないですか」

「そっか……気が変わった」

「え?」

 僕は、半分まで梯子を上り、右手を伸ばした。

「これをあげようと思ったけど、貸すことにするね」

「これ……」

 月子さんは僕の手から、腕時計を受け取った。しばらくまじまじと見ていたが、ゆっくりと左腕に巻いた。

「こんなにいいもの……えっと……借りていいんですか」

「ああ。いつものやつじゃ、かわいくないだろ。最初の給料で、買い取ってよ」

「……はい」

「明日からも、弟子なんだね」

「はい。今後も、よろしくお願いします」

「お腹すいたね……ピザ取ろうか」

「……なんか、懐かしいですね」

「そうだね」

 僕が梯子を下りると、月子さんも続いて下りてきた。いつものように、二人で向き合ってテーブルの前に座った。

「先生……私……」

「なに」

「私が頑張れば、両親もうまくいくと思ったんです。でも……さっきの母を見て……きっと借金がなくても、二人はすれ違っていたって、そう思ったんです」

 淡々と、月子さんは言った。大人になったんだな、僕はそんなことを感じた。

「それに……まだ、父の借金から解放されたとは思えないんです。母が見捨ててしまったから余計に……私しか助けられないと思うんです。母は他人になれても、私には一生父親だから……」

 名古屋で出会った、金本のおじさんの姿を思い浮かべた。あんな人でも、月子さんにとっては大事な父親なのだ。どこまで行っても、月子さんの心を支えているのは、両親に対する想いなのだろう。

「でも……でも、将棋をもっと楽しみたい、そうも思うんです。……いい、ですよね?」

「そうだね。月子さんの思うままでいいよ」

 今回はネットのページをじっくりと見て、二人で注文するピザを決めた。月子さんは、どれも食べたことがないと言って、興味深々だった。

「今日で、人生二回目です」

 それはまだ作り笑いだったが、とてもいい笑顔だった。


 三月十一日。運命の日がやってきた。

 C級二組最終日。僕の成績は五勝四敗。今日勝てば初めての順位戦勝ち越しで、しかも規定により降級点が一つ消える。そして、ここまでの年間成績が十四勝十五敗。今日を含め、残りの対局は二局。二つとも勝てば、勝率五割以上の目標が達成できる。

 対戦相手は、ルーキーの品川四段。現在三勝六敗で、わずかながら降級の可能性を残している。対戦はもちろん初めてだが、会うことすら五年ぶりぐらいだった。中学生で三段リーグ入りし、将来を期待された若者だった。しかしリーグでは苦戦し、ずっと指しわけぐらいの成績だった。一年前ようやく四段に上がったが、そこからも目立った成績は残せていない。

 まるで、僕だ。品川君は、僕と同じ道を歩み始めてしまった。

 上座の僕。そして、下座にちょこんと座る品川四段。久々なのだろう、スーツは異様に角ばって見えるし、ネクタイは傾いている。就活を始めたばかりの学生のようだ。

 勝ち越し・降級点消去と、降級点回避のための戦い。見所がないわけではないが、やはり周囲の目は僕らの方には向いていなかった。もし僕が例年通りの成績だったら、順位戦から姿を消しそうな若手として注目されたかもしれない。しかし今年は、ある意味例年以上に影の薄い存在なのである。

 ゆっくりと、駒組みの時間が流れていく。まるで、一切の異物を拒むかのような、品川四段の穏やかな指し手。何千局と指されてきた、ありきたりな形の中に溶け込もうとするかのようだった。僕も、それに追随するしかない。品川君が目指す、古典の中の希望を、共に見てみようと思った。五年前の僕がそうであったように、ただ仕事として将棋を指しているのか。それとも、もがきながら、現状を打破しようとしているのか。それを知りたくなった。

 夕食休憩後も、前例の多い形のままだった。そして、品川四段は仕掛ける気配がなかった。こちらから突っかけるのは無理な形で、僕は隙を見せないように手待ちをするしかない。相手も、飛車を引いてこちらの動きを待つ。お互いに飛車だけが細かく動く。記録係が「三回目……」とつぶやいたのが聞こえた。僕が飛車をさらに動かし、四回目の同じ局面が現れた。

「千日手ですね」

「はい」

 品川四段は顔色一つ変えず、駒を直し始めた。まるで、最初からその予定だったかのような落ち着きぶりだった。

 指し直しまでには少しの休憩をとれることになっている。記録係の子も、トイレに駆け込んでいた。僕は控室で、コーヒーを飲んだ。最悪、もう一度千日手になることだってあり得そうな空気だ。

 品川四段は、ただ古典をなぞっただけだった。時間が有利になるでもなく、ただ単に僕に先手を渡した。彼はひたすらに転げ落ちようとしていると、僕は確信した。

 他の対局が勝負どころを迎える中、僕らの対局は再び初手から始まった。いつもと違い、飛車先の歩を伸ばした。なんとなく、そういう気分だったのだ。そして品川君も、飛車先の歩を突いた。相掛り。普段ほとんど指さない戦型だ。しかし、不思議な懐かしさを感じる。それが何なのか分からないまま、対局は続いていった。

 そして、作戦の岐路となるところで、僕の思考は特定の過去へと追いついた。そう、あの時。初めて彼女と対局したあの時、僕は後手の側を持っていた。あの時僕は彼女を試す意味で、あえて相掛りを選んだ。多分今回も無意識のうちに、品川四段を試す意味で相掛りに誘導したのだ。

 ならば。僕は角を上がり、ひねり飛車の意志表示をした。最近、こんなオーソドックスなひねり飛車など公式戦ではほとんどお目にかかっていない。隣で対局しているベテランの先生が、こちらを覗き込んでにやっとした。「懐かしい」と感じたのだろう。

 将棋を覚え始めたころ、今のようにネットで情報を得ることはできないし、教材は古いものしか手に入れられなかった。みんながゴキゲン中飛車や四間飛車を指していることすら知らず、僕は角換わり腰掛け銀や、相矢倉、そして相掛りの棋譜で将棋の勉強をした。

 ヒネリ飛車の棋譜は、その中でも印象に残るものが多かった。大きく飛車角が動き、歩の手筋でどんどん攻め込んでいく。さらに自陣は美しい美濃囲い。子供心に、将棋の完成系を見た気がした。

 実際には後手の対策が進み、今では勝ちにくい戦法の一つになっている。若手はシビアなので、そんなものにはあえては手を出さない。僕だって今日まで、公式戦では指したことがなかったのだ。

 細かい違いがすぐに形勢の差へと結びついてしまう戦型だ。本当ならばもっと時間をかけて読みたいが、すでに持ち時間は一時間を切っている。時計を見ると、十時五分。終局するところも出始めており、周りの様子から昇級者が決まったらしい雰囲気だ。

 細かい成績までは見ていないが、品川四段の結果次第で降級点が付くかどうか決まる人は、僕らの将棋をやきもきしながら見ていることだろう。記録係の青年が、目をこすっている。おそらくこの対局は日をまたいで、一番最後まで残る。この対局は、多くの人を巻き込んで長引いていくのだ。

「いっちゃうか」

 日付をまたいだころだろうか。ここまでまったく声を出さず、物音さえほとんど立てなかった品川四段が、呟いた。盤面に集中していてわからなかったが、いつの間にか鋭く、危険と言えるほど尖った目つきをしていた。

 そして、5三にいた角が、9七にいた桂馬を食いちぎった。当然同香と応じる。そして8五飛車。駒損をして飛車をさばく非常手段だ。とても千日手に甘んじていた人間とは思えない、激しい打開の仕方だった。

 気が付くと、他の対局は全て終わっていた。広い部屋の中で、ちょっとだけだが、タイトル戦であるかのような優越感を覚える。

 両者60秒の秒読みに入った。激しく攻めたてる品川四段と、きわどく受けながら反撃する僕。この時間、この空気の中で最善手など指せるわけがない。しかし、頭の中は高揚して、快楽さえ感じるようになっていた。これがランナーズハイというものだろうか。

 時間は二時を過ぎていた。自玉はいかにも危ない形だが、多分、詰まない。これが詰まされるなら、もうそれはしょうがない。僕は、じっとと金を寄った。この手自体は詰めろだが、まだまだ受けの手段はある。こちらに詰みなしと分かっていれば、受けないだろう。しかし直観は、品川四段が攻めてくることを告げていた。一年目の僕ならそうしている、という記憶も影響しているのかもしれない。

 そして品川四段は、僕の玉を詰ましにきた。これは、明確に詰まない。かといって形作りというわけでもない。まだ、慣れていないのだ。詰みがありそうなところで、踏み込まずに受けて焦らす。そのような勝ち方を、品川君は知らない。僕も昔は知らなかった。そして、知っていてもできなかった。

 そこから手数は長引いたが、間違いは起こらなかった。

「負けました」

 力ない声だったが、それだけ全力を出し切ったということだろう。時間は三時。まだ残っている人はいるようだが、なかなかこちらの部屋に入ってこない。

「そうか……」

 品川君は、呟いた後唇をかんだ。

 僕の降級点が一つ消え、そして、品川君に降級点が付いたのだ。

 短い感想戦を終えた。

「いやあ、そもそも千日手がいけなかったですかね」

「そうだね」

 僕の言葉に、品川君の視線が固まった。普通は、感想戦は穏やかに終わる。だから、はっきりと同意されることなどないと思っていたのだろう。

「僕も一年目から降級点を取って、五年間沈んだままだった。今日の一敗が、尾を引かないように頑張ってよ」

「…………はい」

 それは、過去の自分に言ってやりたい言葉だった。品川君は僕の目を見たまま、小さく頷きを繰り返していた。

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