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 二局目。皆川さんは、紺色のブラウスを着ていた。胸元にはネックレス。髪は茶色に染められていて、眉毛も細くきりっと描かれている。月子さんとそれほど年齢は変わらないはずだが、全く違う人種だと感じた。

 対局開始早々、波乱が起こった。後手番になった月子さんが普通に角道を開けると、皆川さんは角を交換してきたのだ。そして3四角。筋違い角。アマチュアではそこそこ見かけるが、プロはまず指さない戦法だ。歩得はできるものの、手損した上に角を手放す。効率のいい戦法とは言えない。

 しかも、である。この戦法は振り飛車党に多用されるものだ。飛車を振りにくくなるからだが、居飛車党にとってはほとんど損がないのだ。定跡通を乱戦に持ち込むメリットぐらいしか思いつかない。

 月子さんはしばらく迷っていたが、普通に金銀を前に押し出して行く順を選んだ。正しい感覚だ。一歩損はしたものの、相手の角を目標にして行けば、後手の方が「わかりやすく」なるのだ。

 とはいえ、相手も指し慣れているのだろう。少々の抑え込みは甘受する方針のようだ。「指しやすい」「形勢がいい」いうのは、「勝勢」とは違う。特にこのような玉の薄い将棋は、あっという間に逆転してしまう。ひょっとしたら、普段からこの戦型を指している方が少しリードしながら対局は進んでいるのかもしれない。

 定跡を勉強する気にならない、と女流トップの一人が語っていたのを思い出す。どうせ定跡形にならないのだから、対局観や終盤力を磨いた方が役に立つ、と言うのだ。皆川さんの指し方は、そのことを実証しているかのようである。

「わかった」

 不意に、月子さんが声を漏らした。僕には、はっきりとした何かは見えなかった。

 端歩が突き捨てられ、歩が垂らされた。銀の横で、次に成っても取られてしまう歩だ。ただし、飛車で取ると角を打てる。つまり、潜在的な歩成りを残しつつ、飛車の動きを邪魔する歩なのだ。指されてみればなるほど好手だった。

 皆川さんは焦っているに違いない。指し手の方針が立てにくい局面だ。歩得していても、打つところがないので今のところあまり意味がない。突き捨てられた端を逆襲したいが、手数がかかるうえに隙ができてしまう。正確に指せばそれほど形勢は離れていないのだろうが、秒読みであること、そして月子さんが冷静であることが、皆川さんを追い詰めていると感じた。

 そして。予想通り皆川さんは暴発気味の攻めを選んだ。おそらく、月子さんの強さを実感し始め、心を乱してしまったのだろう。月子さんは冷静に受け止めていく。差はどんどん開いていく。

 結局、たらされた歩が成らないまま、全てを受け切って月子さんは勝った。まさに、完全勝利だった。

 ロフトから降りてパソコンを見ると、唇をかみしめる皆川さんの姿が確認できた。突然現れた女の子に負けたのだから、、そりゃ悔しいだろう。しかし先輩棋士としてなら、僕はこう言える。「月子さんの方が努力しているということだ」

 決勝戦までも少し時間があったが、弟子に対して何か言うこともなかった。次の相手は大学女流ナンバー1のアマだったが、きっと月子さんが勝つという確信があった。月子さんは、他の人間と目指す高みが違うのだ。たどり着けるかは分からない。しかし、しっかりと見据えて進んでいる。

 決勝戦の間、僕は本を読んでいた。そして一時間後、月子さんはしっかりと優勝した。

「おめでとう」

「ありがとうございます。……なんか、よくわかんないです」

「何が?」

「どれぐらいすごいことなのか……」

 チャットの方を見ると、月子さんの活躍に騒然としていた。それだけでもすごいことだが、決して実力以上の結果が出たわけではない。

「とりあえず、勝負だから勝ったら喜べばいいんだよ」

「……はい」

 月子さんは努力して、少しはにかんでみせた。それでいい。満面の笑みは、プロになってからでいいのだ。




 順位戦開幕局は関西将棋会館に遠征。名古屋以来トラウマになっていた僕は、前日の夜全く出歩かなかった。

 対局当日、福島駅から出ると、だいたい信号は赤だ。三分ほど歩くと、ぱっと見には普通のビルのような関西将棋会館。何となくだが、東京よりも僕はこっちの方が好きだ。梅田から歩ける距離なのに、それほど派手でないというのもいい。基本的に、東京よりも大阪が好きなのかもしれない。

 対局相手の黒澤五段は先に上座に着席していた。僕より少しだけ先輩で、三段リーグでも対戦経験がある。見た目の印象は、髪が細い人、だった。スーツの着こなしもいいし、ネクタイのセンスもいい。顔も整っているのだが、髪質だけがとても残念なのだ。本人もあきらめているのか、丁寧にセットなどしている形跡はない。

「三東君、弟子とったんやね」

 対局まであと数分だというのに、黒澤五段は気さくに話しかけてきた。まあ、関西ではよくあることだが。

「ええ、まあ」

「偉いなあ。弟子なんか、おっさんがとるもんやと思っとったよ。しかも女の子やろ。大変やろなぁ」

「まあ、対局があんまりないんで、少々の苦労は大丈夫です」

「なんや、自虐的やなあ」

 定刻になった。「ああ、仕事や」と言って、黒澤五段は両手で頬を叩いた。一礼をして、僕は初手を指す。黒澤五段はすぐに二手目を指した。

 そこから後は、のんびりとした調子で進んだ。気が付くと、昼食休憩の時間だった。なんとなくだが、今日は出前を取っていない。外食をしようと会館を出たところ、後ろから駆けてくる足音がした。

「三東さん!」

 振り返ると、そこには辻村君がいた。

「よかった。僕も食べに行くところなんです。ご一緒できませんか」

「……いいけど」

 この前と違って、今日の辻村君は朗らかな顔をしている。

「ちょっと歩くんですけど、コーヒーの美味しい店があるんです。紹介させてください」

「辻村君、お店に詳しいの?」

「中学までこっちだったんです。不真面目だったんで、普段からここら辺で遊んでました」

 そう言って得意げに笑う顔は、とても爽やかで高校生らしい。しかし遊んでいても高校生でプロになれたという事実には、少し腹が立つというところもある。

「あの……先日はすみませんでした」

「ん、ああ。月子さんを送ってくれたんだから、何も悪くないだろ」

「……でも、やっぱり、その。……僕、下心ありましたから」

「……正直だね」

 若いだけではなく、辻村君には天性の明るさが感じられる。きっと将棋を除けば、僕なんかとは全く違う世界にいる人間なのだろう。

「その、だから、すみません」

「告白とかすればいいじゃない。そういうわけでもないのかな。だったら怒るかもね」

 突然、辻村君は立ち止った。

「あの……ここです」


 それは、小さくて古い、いい感じの喫茶店だった。高校生が行くところとは思えないが。

「一人でよく来ました。で、ゲームするんです」

「ゲーム?」

「家では将棋の勉強してないと、親が不安がるから。僕は天才だから大丈夫って言っても、信じないんですよ。だから携帯ゲームを外でしてました」

 窓辺だがあまり光の入らない席に、二人腰かけた。建物に似合ったくたびれたおじさんが、水とメニューを持ってくる。

「これがいいんですよ、ビーフシチューセット」

「ふーん」

「これ二つでいいですか」

「任せた」

「おじさーん、シチューセット二つ。ホットコーヒーで」

 おじさんは返事もせずに料理を始めた。妙に愛想良くされるよりも、こちらの方が気が楽ではある。

「あの、それで……つっこちゃんのことですけど」

「うん」

「彼女は、何者なんですか。高校でも、将棋の世界でも、ああいう子は見たことがない。皆川さんも相当悔しがってましたよ」

 辻村君の目は、好奇心に満ちてきらきらしていた。わからないものに対しては恐怖することもあるが、強烈な好奇心を寄せることもある。特に男というのは、女性の未知なる部分に惹かれやすいのだ。

「それは、僕が説明することじゃないよ。君が研究すればいいことじゃないか」

「けん……きゅう?」

「得意だろ」

 ビーフシチューが運ばれてきた。小さなパンも添えられている。

「僕は苦手なんだ、研究」

「あの……」

「ただ……月子さんは、もっと苦手かもしれないね」

 二人はしばらく、食べることに集中した。まずくはないが、とても美味しいとも感じなかった。

 食後に運ばれてきたコーヒーは、とても好みの味だった。

「月子さんはね……ちゃんとした子供時代を経ていないと思う。そのことは、気にかけてやってほしい」

「……」

 帰り道は、将棋の話ばかりした。そういえば対局の途中だったと、ぼんやりと思った。

「みんなが進路を選ぶのを見ると、少し悲しかったんです。僕も、将棋以外の道があるかもしれないと、思ったりします」

 ふと、辻村君はそんなことを言った。天才なりの悩み、とは思わなかった。僕らは皆、あまりにも幼い時に職業を決めてしまう。そして、辻村君はまだ、取り返しのつく年齢だ。まあ、そういう理由で将棋界から去った人はほとんどいないのだが。

 月子さんは、まだ引き返せるのだ。

 どうやら僕は、月子さんのためと思っていたことに対し、疑問を感じているらしい。寂しかった時にたまたま現れた少女。何の躊躇いもなく僕に全てを頼ってくる存在。僕の方が、甘えていたのではないか。

「辻村君……君たちと接することが、あの子には必要だと思う」

「え……」

「……自分一人では決められないことを、決意しなきゃいけない日が来るかもしれない」

 月子さんにとって、プロになれないときの決断はどれほど厳しいものとなるだろうか。連盟としては女流棋士になってほしいようだが、彼女にとってはそれでは意味がない。しかし最近の月子さんには、純粋に将棋を楽しむ様子も伺える。彼女を両親の呪縛から解放し、将棋そのものを目的としてやることはできるだろうか。

 今のところ、彼女は僕に従うことしかしないのだ。僕が嘘をついても、簡単にそれを信じてしまうだろう。

 友人や、ときには恋人も必要だ。

「わかりました」

 会館に着き、僕らはそれぞれの盤へと別れて行った。

 将棋は、ペースが速くならないまま進んでいき、夕食休憩を過ぎてもほとんど駒がぶつからない展開だったが、突如黒澤五段が果敢に攻めだしてきて、それを丁寧に受けていたら投了された。

「あかんわ。なんか、今日の三東君、えらい落ち着いてるんやもん」

「いやいや、そんなことは……」

 自分でもよくわからないが、余計なことを考えているせいか、失敗を恐れることなく指せたのかもしれない。もしくは、本当にたまたま間違わなかっただけなのか。

 とりあえず、初めて開幕局に勝つことができた。順位戦で、初めて勝ち越しているのだ。


 買い物から帰ってくると、電気が点いていなかった。時間はまだ七時。靴はある。

「月子さん?」

 電気をつけた。下にはいない。見上げると、ロフトの中にこんもりとした布団があった。

「どうしたの」

「……」

 今日は奨励会の例会があった。そこで何かあったのだろうか。僕は梯子を上った。

「起きてるよね」

「……はい」

「ご飯は食べられる感じ?」

「……わからないです」

「何かあったなら、言って」

「……Bに落ちました」

 絞り出すような声だった。

 奨励会では、ある一定の悪い成績を取ると、Bというレッテルが張られる。ここでさらに一定の成績を取ってしまうと、降級するのだ。つまり今月子さんは、降級予備軍ということになる。

「僕なんか、何回も落ちたよ。降級もした」

「……時間が、ないんです」

「月子さん?」

「こうしてる間にも借金は増えて……。先生への借金も……。夢を見るんです。お母さんが、私に別れを告げて……海へ入っていって……。それなのに私は、プロになるどころか、勝ち越しすら……」

「月子さん、一つ教えておかなくちゃいけないことがある」

「……はい」

「挫折を知らないまま成功した棋士なんて、僕は知らない。大天才も、他の大天才に一回は打ちのめされている。だけど、奨励会に落ちたり、降級して名人になった人もいる。並の天才は、挫折を糧にして強くなるんだ」

「……私は……」

「ここまでは、生まれ持っての才能だよ。実戦が少ないのに、これだけの将棋を指せるのはすごい。でもここからは、自分で勝ち取っていくんだ」

「……はい……でも……」

 月子さんの手は、僕の胸に伸びてきた。そして、体ごと、飛び込んでくる。

「辛いんです……。辛いんです」

「……仕方ないんだ」

 やめてしまえばいい、と言いたかった。将棋も両親も捨てて、普通の貧乏な女の子になってしまえ、と。けれども、僕にはそんなことは言えなかった。僕も、将棋を辞められなかったから。どんなに辛くても、将棋を続けたから。それさえなくなってしまった時のことを考えたら、眩暈がするから。

 そんなことも、父親のことも、口に出すことはできなかった。ただただ、そこから動かなかった。

「……先生でよかったです」

「……え」

「よかったです。……なんとか、頑張ります」

 なぜか、僕も月子さんから力をもらった気がした。こんな僕でも人から頼られるなんて、月子さんがいなければ知ることができなかった。

 僕も、頑張りたい。純粋に、そう思った。


 一時間後、月子さんは下りてきた。僕らは遅い夕食をとった。

 月子さんが風呂に入っている間、いつものように外に出る。夜空を見上げるが、星は見えない。遠すぎるらしい。

 僕は壁に当たった時、ただじっと時が過ぎるのを待つしかなかった。両親は僕がプロになろうがなるまいがどうでも良いようだったし、師匠とは会う機会さえほとんどなかった。自分のメンタルを調整するすべなんて知らなかったし、将棋のほかに趣味もなかった。だから、落ちるときは底を知らなかった。あるとき、朱里が僕にとって大事な存在になるまでは。

 月子さんにとっても、大事な人が必要な時が来るだろう。それが誰なのか……辻村君のような人なのかは、僕の知るところではない。

「幸典」

 突然の声に、僕はつんのめってこけそうになった。いつかもこんなことがあったような気がする。

「朱里?」

「今から、家に行こうかと思ってたんだ」

「どうしたの」

 街頭に照らされる位置まで来て、朱里の顔がはっきりと確認できた。五メートルほどの距離をおいて、二人は向かい合うことになった。

「この前テレビ観たよ」

「ああ……あれ」

「頑張ってんじゃん」

「そうでもないよ」

「……あのさ」

 朱里が俯き、長い髪が垂れ下がった。そう、別れた時よりかなり長くなった髪。

「なに」

「私、勘違いしてたんだよね」

 朱里が顔を上げた。僕のよく知っている顔だ。

「私がいるから、安心しちゃうんだって。追い詰められて、独りで苦しんで、そこから立ち直るのが勝負師だって……でも……そうじゃなかった。私がいるとかいないとか、関係ないんだなって」

「そんなことはないよ」

「……幸典はさ、いろんなことに敏感すぎるだけで、でも私はそんなところが好きで……。何言ってるか分かんないね」

「……続けて」

「私の方が辛いから。わがままなのは分かってるけど……戻れないかな」

 あまりにも突然のことだった。それなのに……僕の頭はあまりにもはっきりと返答を導き出した。

「無理だよ」

「……」

 何故そう言ったのか、自分でもわからなかった。でも、答えは決まっていたのだ。

「朱里は……僕じゃなくてもいいはずだよ」

 口から出たのは、そんな理由だった。僕の頭が考え出したのかどうかすらあやしいが、この場では有効的だった。

「でも……可能性ぐらいは、あるってことにしてよ」

「……同じことを繰り返すことになるよ。俺は、変わらないもの」

「前とは、違う顔してる。テレビで見て、思った」

「……そんなことはないよ」

 朱里は、拗ねたときの顔をした。今の僕には、その表情の甘ったるさを受け取る資格はないと思った。

「ただ、張り合いはあるよ。弟子をとったんだ」

「幸典が……弟子?」

「ああ。だから、しっかりしなきゃ、って思ってるのかも」

「そうなんだ」

 半分は本当だけど、残りの半分は違った。それを言い訳にして、全部のことを簡単に考えようとしているだけだ。

 かつては朱里も言い訳にして、プロを目指した。それでプロになれたのだ。だから僕はまた、言い訳を正当化する。

「それなら、私、見守るだけにするね」

「……ありがとう」

「じゃあ、またね」

「じゃあ。気をつけて」

 送っていくよ、とは言わなかった。彼女がどちらに帰っていくのか、知らない方がいいと思ったから。

 闇の中へ消えていく、かつての恋人。僕はその人のことをもう好きではないと、今、わかった。

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