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「あの……先生」

「どうしたの」

「観ませんか」

「何を」

「え……今日は、だって」

「あ」

 タイムラグというものを初めて実感した。今日は、僕の対局の放送日なのだ。

 月子さんが来てから、めっきりテレビの電源を付けることが減っていた。何となく月子さんの邪魔になることはしたくなかったし、月子さんの家にはテレビがなかったらしく、彼女にはテレビを観たいという欲求自体がないのだ。

 そんなわけで、まずリモコンを探すのに苦労した。テレビを点けたときには、すでに対局は始まっていた。自分がテレビの中にいるのは、とても不思議だった。

「あれ……ネクタイ、これ……」

「ああ、なんか途中で気が変わって、換えたんだ」

 初めてのテレビ。意識しないようにと考えても緊張するばかりだった。視聴率は1パーセントちょい、将棋ファンしか見ていないのだろうが、それでもやはり「テレビデビュー」というのは一大イベントに思えたのだ。

「やっぱり、普段とは違いますね」

「まあね。でも、対局始まると何もわからないよ」

「……そういうものなんだ……」

 画面の中の僕は、明らかに血色が悪く、強そうには見えない。他方、対局相手の貴島五段は気合十分の顔つきだ。前年度は三回戦まで勝ち上がっており、A級棋士と死闘を繰り広げていた、らしい。テレビ棋戦の全ての結果をいちいち確認しているわけではないのだ。まあ、普通のプロは毎週欠かさず放送を見ているのかもしれないが。

 将棋の中身は当然わかっている通りなのだが、解説の方は初見である。今回の担当はベテランの津曲八段で、独特の緩急のある口調でほとんど対局に関係のないことを話していた。

 相手の三間飛車に対して、オーソドックスな穴熊に潜る僕。よくある将棋だが、それだけに貴島五段の待ちうけるところでもあった。何気ない動きだと思っていた角引きが、遠大な構想の幕開けだったのだ。こちらが飛車先を破る間に、角を切っての端攻め。駒の損得で言えばこちらの大得なのだが、角は受けに利かない駒なのでもらってもそんなにありがたくない。その上穴熊はすぐには逃げられないので、端から攻められると一気に制圧されてしまう恐れがあるのだ。

「こんな攻め……あるんですか」

「感想戦では、少し無理という話になった」

 残念なことに早指しの対局では、最善手よりも勢いのある手の方が勝ちにつながりやすい。たった一つの正確な受けを秒読みの中で発見するのは大変なのだ。特に僕は早指しでの成績が悪い。終盤になるほどあたふたし始めて、指し手の関連性がなくなってくる。アマには悪い見本だ。

「なんかね……恥ずかしいな」

「でも、まだ5三角があるから……」

「え、それは……」

 只だよ、と言おうとしてハッと気が付いた。同龍の瞬間詰めろが消えて、しかも3五角が詰めろ龍取りになる。まあ同龍以外の変化もあるし、3五角から龍を抜いた瞬間が甘いということもあるが、それでも5三角は感想戦でも出なかった一級品の勝負手だ。

「……あるね。見えなかったよ」

「……でも、龍を取っても負けですね。……うーん……」

 実際には勝負手すらなく、攻め潰されて負けてしまった。貴島ファン以外には見所のない将棋だった。

「いやあ、せめてもうちょっといいところを見せたかったな」

「でも、テレビに出られるなんてすごいです。……いずれ、私も」

「そうだね」

 そういえば、僕が対局する姿をずっと見られるのはこれが初めてだった気がする。さすがの月子さんも、自分の師匠がどれほどしょっぱいプロなのか分かったことだろう。これからは、自分一人の力で這いあがっていく覚悟を持ってほしい。そのためにも、頼りない僕の姿を見ることも必要なかもしれない。



 朝十時。パソコンの前でそわそわする月子さんを見て、僕も緊張してきてしまった。やることは普段と変わらないのだが、多くの人が見ているとなればどうしても固くなってしまう。

 第二回竹籠商店街杯。インターネット道場で若手女性棋士がトーナメントで戦う棋戦である。女流棋士はもちろん、学生やアマのトップも参加しており、今回月子さんも「奨励会枠」で推薦された。

 月子さんにとって、女性と将棋を指すことも、非公式戦とはいえ連盟主催の大会に出るのも初めてのことだった。日本中の将棋ファンがリアルタイムで将棋を見るわけで、実質的な「お披露目の場」とも言えた。

 公平を維持するため、対局する姿はウェブカメラで撮っていなければならない。そのため、いつもより念入りにおしゃれをしなければならなかった。二人で悪戦苦闘して仕上げ、気合を入れて、今ようやくログインしたところである。

 対局は最初から三十秒の超早指し。一回戦の相手はアマ最強の小柴さん。いきなり実力が試される相手だ。正直なところ、最近はプロ女流棋士より女流トップアマの方が数段強い。小柴さんも招待選手としてプロの棋戦にも参加し、何回も勝利を収めている。

 画面右側に並ぶ、二つの動画。片方は月子さんを映している。落ち着きなく動くため、タイムラグも重なり画像がぶれている。もう一つは小柴さん。普段は公務員らしく、真っ白なスーツが似合っており、至って落ち着いているように見える。

 僕はカメラに映り込まないように、ロフトに上がった。僕が見えてしまうと、月子さんに対していらぬ疑いがかかってしまうかもしれない。観戦だけならば携帯でもできる。

 観戦者は現在五百人ちょっと。結構な数である。もしこれが会場ならば、その視線は相当なプレッシャーになるだろう。

 月子さんの先手で対局が始まった。相手は流行の中飛車。最近女流アマの間では本当にはやっている。月子さんは右銀をするすると上がっていく。最新形だ。研究していることがうかがえ、僕はうんうんと頷いた。

 秒読みということで、どんどん進んでいく。中盤に入る前に疑問手も飛び出していたが、まあ仕方ないことだろう。観戦チャットの方もそこそこ活発で、皆が月子さんのことを注目しているのが分かった。

 月子さんの攻めが、止まらなかった。途中から、大差になっていた。奨励会でもまれるということは、こういうことなのだと証明する形になったのではないだろうか。83手、月子さんの完勝だった。

 チャット上でどよめきが起こっていた。月子さんの将棋は、今までまったく公になっていなかった。他方小柴さんは、強い棋譜をたくさん残してきたのだ。その印象が、一局にして吹っ飛んでしまったのかもしれない。

 とは言え、月子さんは奨励会員、プロ組織の人間なのだからアマに勝って当たり前、と僕の立場上思わざるを得ない。問題は次だ。準決勝の相手は、皆川女流初段。辻村君の姉弟子であり、若手成長株の筆頭である。

 対局開始は午後一時。それまでに昼食を食べ、紅茶を飲んだ。

「どうだった?」

「大変でした。変な感じでした」

「でも、いい将棋だったよ」

「あまり定跡を知らなかったみたいなので……」

 何とも頼もしい言葉を聞けた。弟子の成長というものは、師匠の頬を緩ませるものだと知った。


 二局目。皆川さんは、紺色のブラウスを着ていた。胸元にはネックレス。髪は茶色に染められていて、眉毛も細くきりっと描かれている。月子さんとそれほど年齢は変わらないはずだが、全く違う人種だと感じた。

 対局開始早々、波乱が起こった。後手番になった月子さんが普通に角道を開けると、皆川さんは角を交換してきたのだ。そして3四角。筋違い角。アマチュアではそこそこ見かけるが、プロはまず指さない戦法だ。歩得はできるものの、手損した上に角を手放す。効率のいい戦法とは言えない。

 しかも、である。この戦法は振り飛車党に多用されるものだ。飛車を振りにくくなるからだが、居飛車党にとってはほとんど損がないのだ。定跡通を乱戦に持ち込むメリットぐらいしか思いつかない。

 月子さんはしばらく迷っていたが、普通に金銀を前に押し出して行く順を選んだ。正しい感覚だ。一歩損はしたものの、相手の角を目標にして行けば、後手の方が「わかりやすく」なるのだ。

 とはいえ、相手も指し慣れているのだろう。少々の抑え込みは甘受する方針のようだ。「指しやすい」「形勢がいい」いうのは、「勝勢」とは違う。特にこのような玉の薄い将棋は、あっという間に逆転してしまう。ひょっとしたら、普段からこの戦型を指している方が少しリードしながら対局は進んでいるのかもしれない。

 定跡を勉強する気にならない、と女流トップの一人が語っていたのを思い出す。どうせ定跡形にならないのだから、対局観や終盤力を磨いた方が役に立つ、と言うのだ。皆川さんの指し方は、そのことを実証しているかのようである。

「わかった」

 不意に、月子さんが声を漏らした。僕には、はっきりとした何かは見えなかった。

 端歩が突き捨てられ、歩が垂らされた。銀の横で、次に成っても取られてしまう歩だ。ただし、飛車で取ると角を打てる。つまり、潜在的な歩成りを残しつつ、飛車の動きを邪魔する歩なのだ。指されてみればなるほど好手だった。

 皆川さんは焦っているに違いない。指し手の方針が立てにくい局面だ。歩得していても、打つところがないので今のところあまり意味がない。突き捨てられた端を逆襲したいが、手数がかかるうえに隙ができてしまう。正確に指せばそれほど形勢は離れていないのだろうが、秒読みであること、そして月子さんが冷静であることが、皆川さんを追い詰めていると感じた。

 そして。予想通り皆川さんは暴発気味の攻めを選んだ。おそらく、月子さんの強さを実感し始め、心を乱してしまったのだろう。月子さんは冷静に受け止めていく。差はどんどん開いていく。

 結局、たらされた歩が成らないまま、全てを受け切って月子さんは勝った。まさに、完全勝利だった。

 ロフトから降りてパソコンを見ると、唇をかみしめる皆川さんの姿が確認できた。突然現れた女の子に負けたのだから、、そりゃ悔しいだろう。しかし先輩棋士としてなら、僕はこう言える。「月子さんの方が努力しているということだ」

 決勝戦までも少し時間があったが、弟子に対して何か言うこともなかった。次の相手は大学女流ナンバー1のアマだったが、きっと月子さんが勝つという確信があった。月子さんは、他の人間と目指す高みが違うのだ。たどり着けるかは分からない。しかし、しっかりと見据えて進んでいる。

 決勝戦の間、僕は本を読んでいた。そして一時間後、月子さんはしっかりと優勝した。

「おめでとう」

「ありがとうございます。……なんか、よくわかんないです」

「何が?」

「どれぐらいすごいことなのか……」

 チャットの方を見ると、月子さんの活躍に騒然としていた。それだけでもすごいことだが、決して実力以上の結果が出たわけではない。

「とりあえず、勝負だから勝ったら喜べばいいんだよ」

「……はい」

 月子さんは努力して、少しはにかんでみせた。それでいい。満面の笑みは、プロになってからでいいのだ。




 順位戦開幕局は関西将棋会館に遠征。名古屋以来トラウマになっていた僕は、前日の夜全く出歩かなかった。

 対局当日、福島駅から出ると、だいたい信号は赤だ。三分ほど歩くと、ぱっと見には普通のビルのような関西将棋会館。何となくだが、東京よりも僕はこっちの方が好きだ。梅田から歩ける距離なのに、それほど派手でないというのもいい。基本的に、東京よりも大阪が好きなのかもしれない。

 対局相手の黒澤五段は先に上座に着席していた。僕より少しだけ先輩で、三段リーグでも対戦経験がある。見た目の印象は、髪が細い人、だった。スーツの着こなしもいいし、ネクタイのセンスもいい。顔も整っているのだが、髪質だけがとても残念なのだ。本人もあきらめているのか、丁寧にセットなどしている形跡はない。

「三東君、弟子とったんやね」

 対局まであと数分だというのに、黒澤五段は気さくに話しかけてきた。まあ、関西ではよくあることだが。

「ええ、まあ」

「偉いなあ。弟子なんか、おっさんがとるもんやと思っとったよ。しかも女の子やろ。大変やろなぁ」

「まあ、対局があんまりないんで、少々の苦労は大丈夫です」

「なんや、自虐的やなあ」

 定刻になった。「ああ、仕事や」と言って、黒澤五段は両手で頬を叩いた。一礼をして、僕は初手を指す。黒澤五段はすぐに二手目を指した。

 そこから後は、のんびりとした調子で進んだ。気が付くと、昼食休憩の時間だった。なんとなくだが、今日は出前を取っていない。外食をしようと会館を出たところ、後ろから駆けてくる足音がした。

「三東さん!」

 振り返ると、そこには辻村君がいた。

「よかった。僕も食べに行くところなんです。ご一緒できませんか」

「……いいけど」

 この前と違って、今日の辻村君は朗らかな顔をしている。

「ちょっと歩くんですけど、コーヒーの美味しい店があるんです。紹介させてください」

「辻村君、お店に詳しいの?」

「中学までこっちだったんです。不真面目だったんで、普段からここら辺で遊んでました」

 そう言って得意げに笑う顔は、とても爽やかで高校生らしい。しかし遊んでいても高校生でプロになれたという事実には、少し腹が立つというところもある。

「あの……先日はすみませんでした」

「ん、ああ。月子さんを送ってくれたんだから、何も悪くないだろ」

「……でも、やっぱり、その。……僕、下心ありましたから」

「……正直だね」

 若いだけではなく、辻村君には天性の明るさが感じられる。きっと将棋を除けば、僕なんかとは全く違う世界にいる人間なのだろう。

「その、だから、すみません」

「告白とかすればいいじゃない。そういうわけでもないのかな。だったら怒るかもね」

 突然、辻村君は立ち止った。

「あの……ここです」


 それは、小さくて古い、いい感じの喫茶店だった。高校生が行くところとは思えないが。

「一人でよく来ました。で、ゲームするんです」

「ゲーム?」

「家では将棋の勉強してないと、親が不安がるから。僕は天才だから大丈夫って言っても、信じないんですよ。だから携帯ゲームを外でしてました」

 窓辺だがあまり光の入らない席に、二人腰かけた。建物に似合ったくたびれたおじさんが、水とメニューを持ってくる。

「これがいいんですよ、ビーフシチューセット」

「ふーん」

「これ二つでいいですか」

「任せた」

「おじさーん、シチューセット二つ。ホットコーヒーで」

 おじさんは返事もせずに料理を始めた。妙に愛想良くされるよりも、こちらの方が気が楽ではある。

「あの、それで……つっこちゃんのことですけど」

「うん」

「彼女は、何者なんですか。高校でも、将棋の世界でも、ああいう子は見たことがない。皆川さんも相当悔しがってましたよ」

 辻村君の目は、好奇心に満ちてきらきらしていた。わからないものに対しては恐怖することもあるが、強烈な好奇心を寄せることもある。特に男というのは、女性の未知なる部分に惹かれやすいのだ。

「それは、僕が説明することじゃないよ。君が研究すればいいことじゃないか」

「けん……きゅう?」

「得意だろ」

 ビーフシチューが運ばれてきた。小さなパンも添えられている。

「僕は苦手なんだ、研究」

「あの……」

「ただ……月子さんは、もっと苦手かもしれないね」

 二人はしばらく、食べることに集中した。まずくはないが、とても美味しいとも感じなかった。

 食後に運ばれてきたコーヒーは、とても好みの味だった。

「月子さんはね……ちゃんとした子供時代を経ていないと思う。そのことは、気にかけてやってほしい」

「……」

 帰り道は、将棋の話ばかりした。そういえば対局の途中だったと、ぼんやりと思った。

「みんなが進路を選ぶのを見ると、少し悲しかったんです。僕も、将棋以外の道があるかもしれないと、思ったりします」

 ふと、辻村君はそんなことを言った。天才なりの悩み、とは思わなかった。僕らは皆、あまりにも幼い時に職業を決めてしまう。そして、辻村君はまだ、取り返しのつく年齢だ。まあ、そういう理由で将棋界から去った人はほとんどいないのだが。

 月子さんは、まだ引き返せるのだ。

 どうやら僕は、月子さんのためと思っていたことに対し、疑問を感じているらしい。寂しかった時にたまたま現れた少女。何の躊躇いもなく僕に全てを頼ってくる存在。僕の方が、甘えていたのではないか。

「辻村君……君たちと接することが、あの子には必要だと思う」

「え……」

「……自分一人では決められないことを、決意しなきゃいけない日が来るかもしれない」

 月子さんにとって、プロになれないときの決断はどれほど厳しいものとなるだろうか。連盟としては女流棋士になってほしいようだが、彼女にとってはそれでは意味がない。しかし最近の月子さんには、純粋に将棋を楽しむ様子も伺える。彼女を両親の呪縛から解放し、将棋そのものを目的としてやることはできるだろうか。

 今のところ、彼女は僕に従うことしかしないのだ。僕が嘘をついても、簡単にそれを信じてしまうだろう。

 友人や、ときには恋人も必要だ。

「わかりました」

 会館に着き、僕らはそれぞれの盤へと別れて行った。

 将棋は、ペースが速くならないまま進んでいき、夕食休憩を過ぎてもほとんど駒がぶつからない展開だったが、突如黒澤五段が果敢に攻めだしてきて、それを丁寧に受けていたら投了された。

「あかんわ。なんか、今日の三東君、えらい落ち着いてるんやもん」

「いやいや、そんなことは……」

 自分でもよくわからないが、余計なことを考えているせいか、失敗を恐れることなく指せたのかもしれない。もしくは、本当にたまたま間違わなかっただけなのか。

 とりあえず、初めて開幕局に勝つことができた。順位戦で、初めて勝ち越しているのだ。

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