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 まず感じたのは、匂いだった。

 小さい頃はそれが何なのか分からなかったが、今ではわかる。カツオの匂いだ。

 名古屋駅には、思い出がある。

 小学生の時、一度だけ県代表として大会に出たことがある。その時の会場が、中部地方だった。初めて新幹線に乗っての旅行は、とてもわくわくしたのを覚えている。そして降り立った名古屋駅は、どこまでも、何番線もホームが続いているかのように見えた。

 それ以来、一度もこの駅に降り立つ機会がなかった。今ではホームの多さにも驚かない。当時よりは匂いも薄い気がする。

 あの時はさらにここから随分と電車に乗ったが、今回は名古屋での仕事だ。駅近くのホテルに泊まることになっている。

 チェックインを済ませ、ぶらぶらしてみることにした。仕事は明日だけなので、今夜は完全に自由なのだ。他の先生たちはどうしているのか知らないが、僕はだいたい遠征のときは当てもなく一人で歩き回ることが多い。偶然発見したものの中に面白さを見つけるのが好きなのだ。

 名古屋の街は、思ったよりも落ち着いていた。道が広いからそう感じるのかもしれないが、全体的に余裕が感じられる。きんきらきん、結婚ではスケルトン家具トラックのイメージとはちょっと違う。今のところ。

 狭い道も歩いてみる。ゲームセンターや洋服店、よくわからない店。こういうところは、どこの街も似通っている。

 多くの人とすれ違う。その中で、一人のふらふらとした足取りの男に目がいった。顔はあからんでいて、見るか らに酔っ払いだ。最初、何故その男に注意が引かれたのか、よくわからなかった。どこにでもいるような、普通のおじさん。けれども僕は、その人を知っている ようなのだ。

「金本の……おじさん」

 自分の理解にしばらく納得できなかった。借金取りから逃げた男が、偶然僕に見つかるなんてことがあるだろうか。しかし、結局は納得せざるを得なかったのだ。顔の形、目つき、髪の癖、そういうところが月子さんとよく似ているのだ。

「金本さん!」

 僕の声に反応して、おじさんは千鳥足でこちらに寄ってきた。次第に安っぽい酒の匂いが漂ってくる。

「……誰?」

 おじさんは僕の顔を覗き込みながら、たどたどしく言う。

「わかりませんか」

「……うーん、わかんないなあ」

「三東です」

「……さんとう? ……三東……幸典君?」

「はい」

「いやあ、大きくなったねえ」

 おじさんは僕の肩をばんばんと叩いた。

「プロなんでしょ……すごいなあ」

「いえ、そんなことは」

「こんどまた指してよ、もう勝てないだろうけどさ」

「……おじさん、どうしてここに」

「……」

 心の中で、様々な感情が渦巻いているが分かった。けれども、僕はできるだけ平静を装い続けた。

「名古屋に住んでるんですか」

「あ、ああ。まあ、気分転換ってやつかな」

 僕はあっけにとられそうなのを我慢した。

「なぜ月子さんに知らせないんですか」

「……幸典君、月子から聞いたのか」

「……聞いたのか、って、何故聞いていないと思うんですか」

 二人の視線が、しばらくぶつかり合った。おじさんの顔が、白くなっていく。

「まさか……幸典君、月子を本当に……」

「まさか? まさか? 何を言ってるんですか」

「ああでも言わないと、出ていかないと思ったんだ……。高校にやる金どころか、何も買ってやれなかった。東京に出ていけば何か仕事もあるだろうし……」

「ふざけるな!」

 イメージの中では、おじさんを殴り飛ばしていた。けれども僕の拳は、腰の横で震えるだけだった。人の殴り方を知らなかったのだ。

「月子さんは本気でプロになろうとしている。あんたの借金を返すためにだ!」

「……月子が……プロを……」

「見込みはある。……けど、どうするんですか」

「……え?」

「まだ保護者の意見を聞いていません。月子さんにどうなってほしいですか」

 しばらく挙動不審に陥っていたおじさんは、突然しゃがみ込み、土下座をした。

「頼む!月子をプロにしてやってくれ!」

「……なんのために」

「月子が一人前になれるなら、ぜひそうしてやってくれ!」

「……わかりました。手紙でも書いてやってください」

 頭を下げたおじさんの横を通り過ぎて、僕はまっすぐに歩いて行った。僕の一時的な感情は、僕の理性にこう訴えかけていた。「あんな奴のために、プロになることはない」と。




自分探しをする奴なんてバカだと思っていた。自分なんて、今ここにいるものでしかない、そう思っていた。

 この歳になって、初めて分かった。意味のないことでも、一度はしななければならないものなのだ。僕は今になって、自分を探している。

 月子さんは相変わらず、将棋に対しては真摯だった。だから、心配になる。本当のことを知ってしまったら、どうなるのか。

 考えれば考えるほどに、どうしようもない結論にたどり着いてしまう。

 僕らには、将棋しかないのだ。だから、将棋を頑張るしかない。




 本当によくわからない日々が始まった。

 何かを考えないためには、将棋しかなかった。誰に認められるためではなく、自分から逃れるために将棋に集中した。いや、これは幼い時もそうだったのかもしれないが。

 読めるだけの専門書と棋譜を読み、コメントを書き込んでいった。これは、弟子から見習ったことだ。会館にもよく足を運ぶようになった。月子さんと共に行くことも増えた。

 急に強くなることはないが、成績は少し良くなってきた。ぽっきり折れるような負け方が少なくなったのだ。初めてテレビ棋戦の予選も抜けることができた。

 逆に月子さんは初めての壁に当たっていた。誰もが経験することなのだが、駒落ちの上手がきついのだ。特に月子さんは駒落ちで指導してもらった経験なども少なく、定跡を外れたときの対処に不慣れな点がある。また居飛車党にとって香落ち上手は、どうしても飛車を振ることになり苦労するのだ。

 それでも控室で暇そうな先輩を見つけては熱心に教えてもらっているので、そのうちこの壁は破ることができるだろう。人に話を聞けるようになっただけでも、月子さんにとっては大きな前進だ。しかし本当にきつい壁は、その先にこそ待っているといってもいい。

 毎日が同じように過ぎていく。そして、それはある告知を先延ばしにしていくことを意味していた。毎日一度は考える。もし父親の本当の気持ちを知ったら、月子さんはどうするだろうか。それでも将棋を続けるだろうか。それでも借金を返そうと思うだろうか。もし将棋を辞めたら、月子さんは何を頼りに生きていけばいいのだろうか。その時僕は、何かしてやれるだろうか。何かしてやるべきなのだろうか。

 僕と月子さんの関係は、本当に言い表しにくいものになっていた。ほとんど毎日共に過ごし、同じことをして、多分嫌いではなくて。

 それでも思うのだ。僕と月子さんは、決定的に他人だ。だからこそうまくいっている部分もあるだろう。けれども、だからこそ一度歯車が狂えば、元には戻れない気がするのだ。

 きっかけは色々なところにあると思う。

「三東君」

 いつかのときと同じように、低い声で呼ばれた。振り返ると、やはり夏目七段がいた。

「はい」

「今日は金本さんは」

「今日は家にいます」

「そうか……ところで話なんだがね」

 やはり夏目七段はどっかりと腰を下ろした。

「金本さんは、女流棋士になる気はないのかね」

「ないようです」

「そうか……いやね、ほら、制度が変わって、育成会がなくなっただろ」

「そうですね」

「それで、なかなか新しく目指す子が入ってこなくて。金本さんならすぐに資格を満たすだろうし、活躍できると思うんだが」

 いつか、そういう話は出てくると思った。若くてかわいい女流棋士は、将棋界にとっての財産になるからだ。そして多くの奨励会員はプロになることができないが、月子さんは女流棋士になれるだけの実力は十分に持っている。

「夏目さん、彼女は女流棋士になれば、両親を養っていけますか」

「どういうことだい」

「金本には、それが必要なんです」

「……それは、将棋でなければならないのかな」

「将棋しかないんです。先生も僕も、そうじゃないですか」

 夏目七段は、深く頷いた。

「しかし……まだ誰もなれていないんだよ」

「それはきっと、彼女があきらめる理由にはなりません」

「そうか。すまなかったね」

「いえ」

 それがみんなの見解なのだろう、と心の中でつぶやいた。彼女の才能ややる気などではなく、彼女の性別がそう思わせるのだ。

 もちろん、そういう見方自体が障壁となるだろう。

 僕は、常に注目されない存在だった。だからこそ隙間を縫うように、ひょいと三段リーグを抜けることができた。けれども月子さんは、プロへの階段の全てがニュースになってしまう。 もしも僕が月子さんの本当の親ならば、将棋なんかやめさせる。本当に月子さんのことだけを考えてやれる存在ならば。けれども僕は、将棋の師匠なのだ。将棋以外の何も提示してやることはできないし、提示した時点で関係がない人になってしまう。

 夏目七段が去っていくと、僕は再び盤上に思考を固着させた。行ける所まで行くしかないのだ。今の僕らには将棋しかないのだと、何度も自分に言い聞かせる。


「あの……先生」

「どうしたの」

「観ませんか」

「何を」

「え……今日は、だって」

「あ」

 タイムラグというものを初めて実感した。今日は、僕の対局の放送日なのだ。

 月子さんが来てから、めっきりテレビの電源を付けることが減っていた。何となく月子さんの邪魔になることはしたくなかったし、月子さんの家にはテレビがなかったらしく、彼女にはテレビを観たいという欲求自体がないのだ。

 そんなわけで、まずリモコンを探すのに苦労した。テレビを点けたときには、すでに対局は始まっていた。自分がテレビの中にいるのは、とても不思議だった。

「あれ……ネクタイ、これ……」

「ああ、なんか途中で気が変わって、換えたんだ」

 初めてのテレビ。意識しないようにと考えても緊張するばかりだった。視聴率は1パーセントちょい、将棋ファンしか見ていないのだろうが、それでもやはり「テレビデビュー」というのは一大イベントに思えたのだ。

「やっぱり、普段とは違いますね」

「まあね。でも、対局始まると何もわからないよ」

「……そういうものなんだ……」

 画面の中の僕は、明らかに血色が悪く、強そうには見えない。他方、対局相手の貴島五段は気合十分の顔つきだ。前年度は三回戦まで勝ち上がっており、A級棋士と死闘を繰り広げていた、らしい。テレビ棋戦の全ての結果をいちいち確認しているわけではないのだ。まあ、普通のプロは毎週欠かさず放送を見ているのかもしれないが。

 将棋の中身は当然わかっている通りなのだが、解説の方は初見である。今回の担当はベテランの津曲八段で、独特の緩急のある口調でほとんど対局に関係のないことを話していた。

 相手の三間飛車に対して、オーソドックスな穴熊に潜る僕。よくある将棋だが、それだけに貴島五段の待ちうけるところでもあった。何気ない動きだと思っていた角引きが、遠大な構想の幕開けだったのだ。こちらが飛車先を破る間に、角を切っての端攻め。駒の損得で言えばこちらの大得なのだが、角は受けに利かない駒なのでもらってもそんなにありがたくない。その上穴熊はすぐには逃げられないので、端から攻められると一気に制圧されてしまう恐れがあるのだ。

「こんな攻め……あるんですか」

「感想戦では、少し無理という話になった」

 残念なことに早指しの対局では、最善手よりも勢いのある手の方が勝ちにつながりやすい。たった一つの正確な受けを秒読みの中で発見するのは大変なのだ。特に僕は早指しでの成績が悪い。終盤になるほどあたふたし始めて、指し手の関連性がなくなってくる。アマには悪い見本だ。

「なんかね……恥ずかしいな」

「でも、まだ5三角があるから……」

「え、それは……」

 只だよ、と言おうとしてハッと気が付いた。同龍の瞬間詰めろが消えて、しかも3五角が詰めろ龍取りになる。まあ同龍以外の変化もあるし、3五角から龍を抜いた瞬間が甘いということもあるが、それでも5三角は感想戦でも出なかった一級品の勝負手だ。

「……あるね。見えなかったよ」

「……でも、龍を取っても負けですね。……うーん……」

 実際には勝負手すらなく、攻め潰されて負けてしまった。貴島ファン以外には見所のない将棋だった。

「いやあ、せめてもうちょっといいところを見せたかったな」

「でも、テレビに出られるなんてすごいです。……いずれ、私も」

「そうだね」

 そういえば、僕が対局する姿をずっと見られるのはこれが初めてだった気がする。さすがの月子さんも、自分の師匠がどれほどしょっぱいプロなのか分かったことだろう。これからは、自分一人の力で這いあがっていく覚悟を持ってほしい。そのためにも、頼りない僕の姿を見ることも必要なかもしれない。



 朝十時。パソコンの前でそわそわする月子さんを見て、僕も緊張してきてしまった。やることは普段と変わらないのだが、多くの人が見ているとなればどうしても固くなってしまう。

 第二回竹籠商店街杯。インターネット道場で若手女性棋士がトーナメントで戦う棋戦である。女流棋士はもちろん、学生やアマのトップも参加しており、今回月子さんも「奨励会枠」で推薦された。

 月子さんにとって、女性と将棋を指すことも、非公式戦とはいえ連盟主催の大会に出るのも初めてのことだった。日本中の将棋ファンがリアルタイムで将棋を見るわけで、実質的な「お披露目の場」とも言えた。

 公平を維持するため、対局する姿はウェブカメラで撮っていなければならない。そのため、いつもより念入りにおしゃれをしなければならなかった。二人で悪戦苦闘して仕上げ、気合を入れて、今ようやくログインしたところである。

 対局は最初から三十秒の超早指し。一回戦の相手はアマ最強の小柴さん。いきなり実力が試される相手だ。正直なところ、最近はプロ女流棋士より女流トップアマの方が数段強い。小柴さんも招待選手としてプロの棋戦にも参加し、何回も勝利を収めている。

 画面右側に並ぶ、二つの動画。片方は月子さんを映している。落ち着きなく動くため、タイムラグも重なり画像がぶれている。もう一つは小柴さん。普段は公務員らしく、真っ白なスーツが似合っており、至って落ち着いているように見える。

 僕はカメラに映り込まないように、ロフトに上がった。僕が見えてしまうと、月子さんに対していらぬ疑いがかかってしまうかもしれない。観戦だけならば携帯でもできる。

 観戦者は現在五百人ちょっと。結構な数である。もしこれが会場ならば、その視線は相当なプレッシャーになるだろう。

 月子さんの先手で対局が始まった。相手は流行の中飛車。最近女流アマの間では本当にはやっている。月子さんは右銀をするすると上がっていく。最新形だ。研究していることがうかがえ、僕はうんうんと頷いた。

 秒読みということで、どんどん進んでいく。中盤に入る前に疑問手も飛び出していたが、まあ仕方ないことだろう。観戦チャットの方もそこそこ活発で、皆が月子さんのことを注目しているのが分かった。

 月子さんの攻めが、止まらなかった。途中から、大差になっていた。奨励会でもまれるということは、こういうことなのだと証明する形になったのではないだろうか。83手、月子さんの完勝だった。

 チャット上でどよめきが起こっていた。月子さんの将棋は、今までまったく公になっていなかった。他方小柴さんは、強い棋譜をたくさん残してきたのだ。その印象が、一局にして吹っ飛んでしまったのかもしれない。

 とは言え、月子さんは奨励会員、プロ組織の人間なのだからアマに勝って当たり前、と僕の立場上思わざるを得ない。問題は次だ。準決勝の相手は、皆川女流初段。辻村君の姉弟子であり、若手成長株の筆頭である。

 対局開始は午後一時。それまでに昼食を食べ、紅茶を飲んだ。

「どうだった?」

「大変でした。変な感じでした」

「でも、いい将棋だったよ」

「あまり定跡を知らなかったみたいなので……」

 何とも頼もしい言葉を聞けた。弟子の成長というものは、師匠の頬を緩ませるものだと知った。


 二局目。皆川さんは、紺色のブラウスを着ていた。胸元にはネックレス。髪は茶色に染められていて、眉毛も細くきりっと描かれている。月子さんとそれほど年齢は変わらないはずだが、全く違う人種だと感じた。

 対局開始早々、波乱が起こった。後手番になった月子さんが普通に角道を開けると、皆川さんは角を交換してきたのだ。そして3四角。筋違い角。アマチュアではそこそこ見かけるが、プロはまず指さない戦法だ。歩得はできるものの、手損した上に角を手放す。効率のいい戦法とは言えない。

 しかも、である。この戦法は振り飛車党に多用されるものだ。飛車を振りにくくなるからだが、居飛車党にとってはほとんど損がないのだ。定跡通を乱戦に持ち込むメリットぐらいしか思いつかない。

 月子さんはしばらく迷っていたが、普通に金銀を前に押し出して行く順を選んだ。正しい感覚だ。一歩損はしたものの、相手の角を目標にして行けば、後手の方が「わかりやすく」なるのだ。

 とはいえ、相手も指し慣れているのだろう。少々の抑え込みは甘受する方針のようだ。「指しやすい」「形勢がいい」いうのは、「勝勢」とは違う。特にこのような玉の薄い将棋は、あっという間に逆転してしまう。ひょっとしたら、普段からこの戦型を指している方が少しリードしながら対局は進んでいるのかもしれない。

 定跡を勉強する気にならない、と女流トップの一人が語っていたのを思い出す。どうせ定跡形にならないのだから、対局観や終盤力を磨いた方が役に立つ、と言うのだ。皆川さんの指し方は、そのことを実証しているかのようである。

「わかった」

 不意に、月子さんが声を漏らした。僕には、はっきりとした何かは見えなかった。

 端歩が突き捨てられ、歩が垂らされた。銀の横で、次に成っても取られてしまう歩だ。ただし、飛車で取ると角を打てる。つまり、潜在的な歩成りを残しつつ、飛車の動きを邪魔する歩なのだ。指されてみればなるほど好手だった。

 皆川さんは焦っているに違いない。指し手の方針が立てにくい局面だ。歩得していても、打つところがないので今のところあまり意味がない。突き捨てられた端を逆襲したいが、手数がかかるうえに隙ができてしまう。正確に指せばそれほど形勢は離れていないのだろうが、秒読みであること、そして月子さんが冷静であることが、皆川さんを追い詰めていると感じた。

 そして。予想通り皆川さんは暴発気味の攻めを選んだ。おそらく、月子さんの強さを実感し始め、心を乱してしまったのだろう。月子さんは冷静に受け止めていく。差はどんどん開いていく。

 結局、たらされた歩が成らないまま、全てを受け切って月子さんは勝った。まさに、完全勝利だった。

 ロフトから降りてパソコンを見ると、唇をかみしめる皆川さんの姿が確認できた。突然現れた女の子に負けたのだから、、そりゃ悔しいだろう。しかし先輩棋士としてなら、僕はこう言える。「月子さんの方が努力しているということだ」

 決勝戦までも少し時間があったが、弟子に対して何か言うこともなかった。次の相手は大学女流ナンバー1のアマだったが、きっと月子さんが勝つという確信があった。月子さんは、他の人間と目指す高みが違うのだ。たどり着けるかは分からない。しかし、しっかりと見据えて進んでいる。

 決勝戦の間、僕は本を読んでいた。そして一時間後、月子さんはしっかりと優勝した。

「おめでとう」

「ありがとうございます。……なんか、よくわかんないです」

「何が?」

「どれぐらいすごいことなのか……」

 チャットの方を見ると、月子さんの活躍に騒然としていた。それだけでもすごいことだが、決して実力以上の結果が出たわけではない。

「とりあえず、勝負だから勝ったら喜べばいいんだよ」

「……はい」

 月子さんは努力して、少しはにかんでみせた。それでいい。満面の笑みは、プロになってからでいいのだ。



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