閉じる


<<最初から読む

15 / 41ページ



 三月の終わり。三東家の食卓には、小さなホールケーキが用意された。今日は、月子さんの十六歳の誕生日だった。

 月子さんは目を丸くしてケーキを見ている。喜ぶとかではなくて、得体の知れないものを発見したかのような感じだ。

「ケーキの本体を初めて知りました」

 実は僕は甘いものが苦手なので、ケーキはほとんど月子さんが食べた。おいしそうに食べる女の子の顔を見ると、僕の心も少し柔らかくなった。

「月子さん、十六歳の目標は」

「……初段になります」

「よし。頑張って」

 何気ない、やり取りのつもりだった。けれども、月子さんは思いがけないことを言ってきた。

「先生の目標は、なんですか」

「え」

「……聞いたことなかったから……。教えてもらえませんか」

 まっすぐな瞳で問われて、戸惑う。何と言えばいいのか、考えた。

「……とりあえずは、五段かな」

「きっと、すぐですね」

 月子さんは僕の成績のことがよくわかっていないのだ。昇級でも勝ち星でも、五段はまだ遠い。

 僕の心の中に浮かんだ本当の目標は、「せめて勝ち越し」だった。それすら大変な目標だということは、情けないが、真実なのだ。

「来年の今日は、もっといろんなことを祝えるようにしよう」

「はい」

 そう。笑われるかもしれないけれど、一分でも勝率五割を超えていたら、僕は僕を祝いたい。そう思わせてくれる弟子に感謝したい。



 なんだか、妙な気分だ。

 初めて会った日から一年とちょっと。師匠と弟子として一緒に暮らしてきたが、親子のようであり、兄妹のようでもあった。二人とも世間に触れるのが苦手で、家にいるときに安心しているのだと思う。たまにどちらかが仕事で出かけるときはあるが、私用で不在にすることはほとんどない。

 そんな二人が今、将棋会館の同じ部屋にいる。

 月子さんは、挑戦者決定リーグ戦の記録係だ。持っている中で一番かわいい服を着て、机の前にちょこんと座っている。僕は別のタイトルの一次予選一回戦。

 月子さんが、僕の仕事している姿を見るのは今日が初めてだ。すでに他の人から聞いて僕の弱さなど知っているのかもしれない。けれども今日だけは、堂々と勝ちたかった。月子さんの目指す強いプロの幻想を、僕の中にも見てほしかった。

 相手は沢崎九段。高級そうなスーツと腕時計が目につくが、今はそんなに儲けていないはずだ。タイトル獲得二期、A級在位四期の立派な先生だが、最近は全く勝てなくなっている。四十六歳とまだ老け込む歳ではないが、無理気味の勢いに任せた攻めは精度が落ちてしまったようだ。

 若手は、勝たなければならない相手だ。

 とはいえ、相手も僕には勝たなければならないと思っているだろう。

 序盤から、沢崎九段は気合十分に突っ張った手を指してきた。相居飛車で乱戦になると、あっという間に勝負どころが来てしまう。若手相手だと、研究にはまらないようにこういう将棋を仕掛けてくるベテランの先生は多い。

 僕は、用意していた缶コーヒーを飲み干す。効用はよくわからないが、頭がすっきりしたような気になる。

 できるだけ盤面に集中しようと思うのだが、月子さんのことも気になる。今のところそつなくこなしているようだが、この先も大丈夫だろうか。これまでは短い将棋ばかりだったが、今日の対局は遅くまでかかるかもしれない。果たしてそこまで体力が持つだろうか。

 僕が長考しているうちに、夕食休憩になった。今日は出前を取ってもらっている。だが、すぐに食べる気にはならず、廊下のソファーに座っていた。

「つっこちゃん今度さ、うちの研究会来ない」

 どこからか、聞き覚えのある声がする。少し記憶をたどってみたが、すぐには出てこなかった。

「……え……私、そういうのよくわからなくて……」

「いやまあさ、対局したり検討したり、ご飯食べたりゲームしたりするんだ。皆川さんも参加してるしさ、考えといてよ」

「……はい」

 皆川さんとは、皆川女流1級のことだろう。それで思い出した。あの声は、最近高校生で四段に上がった辻村君だ。奨励会ではほぼ入れ違いで、しかも声変わりする前だったのでうろ覚えだったのだ。皆川さんは彼の姉弟子になる。

「また詳しいことは連絡するしさ、メアド教えてよ」

「……メアド……は……ないです」

「え、携帯は?」

「……持ってないです」

「じゃあ電話は?」

「一応……。先生が出るかもしれませんが」

「……えっと……まあいいや、じゃあ電話番号教えてよ。またかけるからさ」

 僕は、席を立ちエレベーターに向かった。なんだか、これ以上は聞いていられないと思ったのだ。当たり前だが、月子さんにも彼女だけの人付き合いがある。同世代との関わりも大事だろう。そんなことは頭ではわかるのだが、しかしどうしても違和感を持ってしまうのだ。僕以外と関わる月子さんは、月子さんでないような気がしてしまう。

 会館の外に出て、思い切り息を吸った。わけのわからないもやもやを、何とか中和したかった。

 空から、雨粒が落ちてきた。ひどく気分が悪くなって、すぐに会館の中に戻った。

 味気のない蕎麦をさっさと食べ、盤の前に座った。よく見てみると、自分の方が随分と優勢になっている。何かにとらわれていては、一目でわかることも見えなくなってしまうようだ。ただでさえ少ない対局を、雑念で落とすわけにはいかない。

 長年そうしてきたように僕は、対局室の中で孤独を噛みしめた。しかしあろうことか、朱里のことを思い出してしまった。家に帰ると、僕は孤独ではなかった。……朱里は孤独だった、そう言ったのだが。

 ぐちゃぐちゃした思考が渦巻く中で、対局は再開された。まだ持ち時間は余っていたが、僕は思いつくままに次の手を指していった。形勢は揺れ動いたのかもしれないが、気が付くと相手玉に必至がかかっていた。沢崎九段のつむじが見える。

「負けました」

 今までで一番いい勝ち方だ、そう思った。そう思いたかった。

 僕らが感想戦を終えても、月子さんのところはまだ終わっていなかった。僕は部屋を出て、そのまま会館も出た。


 なんだか、おかしなことになってしまった。

 夜中、月子さんはタクシーで帰ってきた。辻村君に送られて。

 そして、そういうことに慣れていない月子さんは、何とかお礼をしようと辻村君を家に連れてきた。そして辻村君は、僕の顔を見るなり口をあんぐりと開けて固まってしまった。どうせいやらしい期待でもしていたのだろう。

「……本当に……一緒に暮らしていたんですね……」

 ようやく出てきたのは、そんな言葉だった。

「色々とあるんだ。まあ、上がりなさい」

 考えてみると、この部屋に三人入っているのは初めてだ。四角形の机に対して、どのように座ればいいのかから悩んだ。僕と辻村君が向かい合うことになった。

「あの……先生……」

「ん?」

「私タクシー代持ってなくて……」

「まあ……辻村君、そういうつもりじゃなかったんだろ」

「え、ええ……」

「どういうつもりだった?」

「え?いや、何も……」

 つい、意地が悪くなってしまったが、相手が高校生だということを思い出し反省した。

「ここからどのくらい?」

「あ、そんなにかからないです」

「じゃあ、これで帰れるかな」

「え、いや……これは……」

 僕は、戸惑う辻村君の手の中に、千円札を押しこんだ。

「コーヒー飲む?」

「え、はい、いただきます……」

「月子さんも飲む?」

「はい」

「じゃあ、待っててね」

 僕が台所に来ても、二人は黙ったままだった。辻村君は、さぞかし居心地が悪いことだろう。

 色々と疲れた。僕らは、無言のままでコーヒーを飲んだ。月子さんだけが、いつもと同じ顔をしていた。




 まず感じたのは、匂いだった。

 小さい頃はそれが何なのか分からなかったが、今ではわかる。カツオの匂いだ。

 名古屋駅には、思い出がある。

 小学生の時、一度だけ県代表として大会に出たことがある。その時の会場が、中部地方だった。初めて新幹線に乗っての旅行は、とてもわくわくしたのを覚えている。そして降り立った名古屋駅は、どこまでも、何番線もホームが続いているかのように見えた。

 それ以来、一度もこの駅に降り立つ機会がなかった。今ではホームの多さにも驚かない。当時よりは匂いも薄い気がする。

 あの時はさらにここから随分と電車に乗ったが、今回は名古屋での仕事だ。駅近くのホテルに泊まることになっている。

 チェックインを済ませ、ぶらぶらしてみることにした。仕事は明日だけなので、今夜は完全に自由なのだ。他の先生たちはどうしているのか知らないが、僕はだいたい遠征のときは当てもなく一人で歩き回ることが多い。偶然発見したものの中に面白さを見つけるのが好きなのだ。

 名古屋の街は、思ったよりも落ち着いていた。道が広いからそう感じるのかもしれないが、全体的に余裕が感じられる。きんきらきん、結婚ではスケルトン家具トラックのイメージとはちょっと違う。今のところ。

 狭い道も歩いてみる。ゲームセンターや洋服店、よくわからない店。こういうところは、どこの街も似通っている。

 多くの人とすれ違う。その中で、一人のふらふらとした足取りの男に目がいった。顔はあからんでいて、見るか らに酔っ払いだ。最初、何故その男に注意が引かれたのか、よくわからなかった。どこにでもいるような、普通のおじさん。けれども僕は、その人を知っている ようなのだ。

「金本の……おじさん」

 自分の理解にしばらく納得できなかった。借金取りから逃げた男が、偶然僕に見つかるなんてことがあるだろうか。しかし、結局は納得せざるを得なかったのだ。顔の形、目つき、髪の癖、そういうところが月子さんとよく似ているのだ。

「金本さん!」

 僕の声に反応して、おじさんは千鳥足でこちらに寄ってきた。次第に安っぽい酒の匂いが漂ってくる。

「……誰?」

 おじさんは僕の顔を覗き込みながら、たどたどしく言う。

「わかりませんか」

「……うーん、わかんないなあ」

「三東です」

「……さんとう? ……三東……幸典君?」

「はい」

「いやあ、大きくなったねえ」

 おじさんは僕の肩をばんばんと叩いた。

「プロなんでしょ……すごいなあ」

「いえ、そんなことは」

「こんどまた指してよ、もう勝てないだろうけどさ」

「……おじさん、どうしてここに」

「……」

 心の中で、様々な感情が渦巻いているが分かった。けれども、僕はできるだけ平静を装い続けた。

「名古屋に住んでるんですか」

「あ、ああ。まあ、気分転換ってやつかな」

 僕はあっけにとられそうなのを我慢した。

「なぜ月子さんに知らせないんですか」

「……幸典君、月子から聞いたのか」

「……聞いたのか、って、何故聞いていないと思うんですか」

 二人の視線が、しばらくぶつかり合った。おじさんの顔が、白くなっていく。

「まさか……幸典君、月子を本当に……」

「まさか? まさか? 何を言ってるんですか」

「ああでも言わないと、出ていかないと思ったんだ……。高校にやる金どころか、何も買ってやれなかった。東京に出ていけば何か仕事もあるだろうし……」

「ふざけるな!」

 イメージの中では、おじさんを殴り飛ばしていた。けれども僕の拳は、腰の横で震えるだけだった。人の殴り方を知らなかったのだ。

「月子さんは本気でプロになろうとしている。あんたの借金を返すためにだ!」

「……月子が……プロを……」

「見込みはある。……けど、どうするんですか」

「……え?」

「まだ保護者の意見を聞いていません。月子さんにどうなってほしいですか」

 しばらく挙動不審に陥っていたおじさんは、突然しゃがみ込み、土下座をした。

「頼む!月子をプロにしてやってくれ!」

「……なんのために」

「月子が一人前になれるなら、ぜひそうしてやってくれ!」

「……わかりました。手紙でも書いてやってください」

 頭を下げたおじさんの横を通り過ぎて、僕はまっすぐに歩いて行った。僕の一時的な感情は、僕の理性にこう訴えかけていた。「あんな奴のために、プロになることはない」と。




自分探しをする奴なんてバカだと思っていた。自分なんて、今ここにいるものでしかない、そう思っていた。

 この歳になって、初めて分かった。意味のないことでも、一度はしななければならないものなのだ。僕は今になって、自分を探している。

 月子さんは相変わらず、将棋に対しては真摯だった。だから、心配になる。本当のことを知ってしまったら、どうなるのか。

 考えれば考えるほどに、どうしようもない結論にたどり着いてしまう。

 僕らには、将棋しかないのだ。だから、将棋を頑張るしかない。




 本当によくわからない日々が始まった。

 何かを考えないためには、将棋しかなかった。誰に認められるためではなく、自分から逃れるために将棋に集中した。いや、これは幼い時もそうだったのかもしれないが。

 読めるだけの専門書と棋譜を読み、コメントを書き込んでいった。これは、弟子から見習ったことだ。会館にもよく足を運ぶようになった。月子さんと共に行くことも増えた。

 急に強くなることはないが、成績は少し良くなってきた。ぽっきり折れるような負け方が少なくなったのだ。初めてテレビ棋戦の予選も抜けることができた。

 逆に月子さんは初めての壁に当たっていた。誰もが経験することなのだが、駒落ちの上手がきついのだ。特に月子さんは駒落ちで指導してもらった経験なども少なく、定跡を外れたときの対処に不慣れな点がある。また居飛車党にとって香落ち上手は、どうしても飛車を振ることになり苦労するのだ。

 それでも控室で暇そうな先輩を見つけては熱心に教えてもらっているので、そのうちこの壁は破ることができるだろう。人に話を聞けるようになっただけでも、月子さんにとっては大きな前進だ。しかし本当にきつい壁は、その先にこそ待っているといってもいい。

 毎日が同じように過ぎていく。そして、それはある告知を先延ばしにしていくことを意味していた。毎日一度は考える。もし父親の本当の気持ちを知ったら、月子さんはどうするだろうか。それでも将棋を続けるだろうか。それでも借金を返そうと思うだろうか。もし将棋を辞めたら、月子さんは何を頼りに生きていけばいいのだろうか。その時僕は、何かしてやれるだろうか。何かしてやるべきなのだろうか。

 僕と月子さんの関係は、本当に言い表しにくいものになっていた。ほとんど毎日共に過ごし、同じことをして、多分嫌いではなくて。

 それでも思うのだ。僕と月子さんは、決定的に他人だ。だからこそうまくいっている部分もあるだろう。けれども、だからこそ一度歯車が狂えば、元には戻れない気がするのだ。

 きっかけは色々なところにあると思う。

「三東君」

 いつかのときと同じように、低い声で呼ばれた。振り返ると、やはり夏目七段がいた。

「はい」

「今日は金本さんは」

「今日は家にいます」

「そうか……ところで話なんだがね」

 やはり夏目七段はどっかりと腰を下ろした。

「金本さんは、女流棋士になる気はないのかね」

「ないようです」

「そうか……いやね、ほら、制度が変わって、育成会がなくなっただろ」

「そうですね」

「それで、なかなか新しく目指す子が入ってこなくて。金本さんならすぐに資格を満たすだろうし、活躍できると思うんだが」

 いつか、そういう話は出てくると思った。若くてかわいい女流棋士は、将棋界にとっての財産になるからだ。そして多くの奨励会員はプロになることができないが、月子さんは女流棋士になれるだけの実力は十分に持っている。

「夏目さん、彼女は女流棋士になれば、両親を養っていけますか」

「どういうことだい」

「金本には、それが必要なんです」

「……それは、将棋でなければならないのかな」

「将棋しかないんです。先生も僕も、そうじゃないですか」

 夏目七段は、深く頷いた。

「しかし……まだ誰もなれていないんだよ」

「それはきっと、彼女があきらめる理由にはなりません」

「そうか。すまなかったね」

「いえ」

 それがみんなの見解なのだろう、と心の中でつぶやいた。彼女の才能ややる気などではなく、彼女の性別がそう思わせるのだ。

 もちろん、そういう見方自体が障壁となるだろう。

 僕は、常に注目されない存在だった。だからこそ隙間を縫うように、ひょいと三段リーグを抜けることができた。けれども月子さんは、プロへの階段の全てがニュースになってしまう。 もしも僕が月子さんの本当の親ならば、将棋なんかやめさせる。本当に月子さんのことだけを考えてやれる存在ならば。けれども僕は、将棋の師匠なのだ。将棋以外の何も提示してやることはできないし、提示した時点で関係がない人になってしまう。

 夏目七段が去っていくと、僕は再び盤上に思考を固着させた。行ける所まで行くしかないのだ。今の僕らには将棋しかないのだと、何度も自分に言い聞かせる。

読者登録

清水らくはさんの更新情報・新作情報をメールで受取りますか?(読者登録について