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「幸典」

 突然声を掛けられて、僕は足を止めた。それは、聞き覚えのある声だった。

「あ……朱里……」

 僕は、完全に気を抜いていた。なにせ、このホームセンターは僕の暇つぶしスポットのひとつなのだ。とくに何を買うわけでもないが、お金をあればこれ買えるなー、と考えながら見て回るのが楽しい。そんな癒しの時間がまさか、こんな形で乱されるなんて。

「久しぶり。びっくりした?」

「あ、ああ。まだ東京にいたんだ」

「帰っても仕事ないしね。こっちの方が楽しいし」

「……ここで働いてるの」

「うん。先週から」

 目の前にいるちっちゃくて愛らしい顔の女性は、僕の高校の同級生であり、元恋人でもある工藤朱里だった。ずっと僕のことを応援してくれ、東京に一緒に出てきてくれて、そして愛想を尽かして去って行った。

「調子はどう? 相変わらず負けてる?」

「……ああ。急に強くはならないよ」

「また言い訳。変わんないなあ」

 早く逃げ出してしまいたかった。朱里には嘘をついても無駄だから、本当のことを言うしかない。本当のことを言うのは、辛い。

「頑張ってるよ。結果が出ないんだ」

「そう。でもなんか、前よりはいい顔つきしてるかも。まあ、応援してるよ。じゃ、仕事あるから」

「ああ、じゃあ」

 後ろ姿の朱里を見ながら、ほっとすると同時に悲しくもなった。こんなに近くにいたのに、僕は何も知らなかった。彼女は何も知らせてくれなかった。僕らは、友達に戻ることすらできなかったのだ。

 彼女は、前向きな僕が好きだった。どんなに周りから評価されていなくても、朱里だけは僕を信じてくれた。けれども僕は、プロになることで歩みを止めてしまった。僕にとっては、そこがゴールだった。朱里にとっては、それが許せなかった。

 ほんの少しの時間だったけれど、彼女は今でも素敵だった。最初から僕になんか釣り合わない人だったのだ。

 気が付くと、強く拳を握りしめていた。やるせない気持ちが爆発して、気がつくとずっと欲しかったラックを購入してしまっていた。

本当に駄目だ。



 朝五時に目が覚めた。

 今日は運命の日だった。僕にとっての、ではない。にもかかわらず、眠りは常に浅く、いつになく早く起きてしまった。

 ロフトの方からは、いつもと変わらない、小さな寝息が聞こえてくる。

 布団にもぐりこんだが、頭は冴えわたっている。十分ほどして、あきらめて起き上がった。

 とりあえず、コーヒーを飲んだ。

 今日は、奨励会試験の日だ。

 ついていくわけにもいかないし、教えられることは全て教えた。僕がすべきことなど、何もないのだ。それなのにどうにも落ち着かない。

 自分が試験を受けたときのことを思い出す。まだ中学一年生だった僕は、絶対に受かると信じ込んでいた。両親はあまり興味がなさそうだった。将棋のプロというものがまるでわからず、カルチャースクールか専門学校にでも行くかのように思っていたようだ。師匠が直接説明してくれたが、それでもわかっていない様子だった。ただ、僕のすることには何も反対をしなかった。両親にとって僕は何もかもがそこそこの人間であり、たとえ「趣味であろうと」頑張るのであれば喜ばしいと思っていたようだ。

 僕はあっさりと試験に受かったし、両親はいつまでたっても「就職はどうするの」なんて聞いてきた。いまだに僕がどのようにしてお金を稼げているのか、さっぱり想像がつかないらしい。

 しばらく何もできずにボーっとしていた。まさか自分のものでない試験に、しかも数か月前までまったく知りもしなかった子のために、こんなに心が乱されるとは思わなかった。本当に心が弱い。僕は、どうにも勝負に向いていない人間だと実感した。

 七時前、いつも通りの時間に月子さんは梯子を下りてきた。

「おはようございます」

「おはよう。よく寝れたかい」

「はい。試験中眠くならないよう、しっかり寝ました」

 本当にいつも通りの、ふんわりとした感じだった。

「緊張は?」

「うーん。多分対局始まらないと。今はまだ、何にも実感はないです」

きっと受かる。そう思った。




「三東君」

 控室で検討をしていると、突然声をかけられた。振り返ると、そこには夏目七段がいた。がっしりとした体に白髪交じりの髪、とても男らしい。奨励会幹事を努めている、とても真面目で熱い先生だ。

「はい」

「……彼女は、何者なんだね」

「金本のことですか」

「ああ」

 夏目七段は、僕の目の前にどっかりと腰を下ろした。話は長くなるかもしれない。

「私が幹事になって、初めての女性でね。まあそれはいい。けれどね、誰も彼女のことを知らないんだよ。対局どころか、見たこともないというんだ。そのくせ、すごく強い。試験の将棋は圧勝だったよ。しかも師匠が君というのは……まあ意外でね。みんな、気になっててね」

 何となく予想はしていたが、いざその時になってみるとなんだか気まずい。将棋界は閉鎖的な、狭い社会だ。だから、異質なものにはひどく敏感なのだ。

「金本は故郷が同じで、彼女の父から頼まれたんです。事情があって大会に出ることができなくて、実戦経験は少ないんです」

「ふうむ。まさか現代社会にそんな逸材が隠れているとはねえ」

 確かに、最近の子供はどんどん大会に出て、ある程度実績を積んでから奨励会を受験する。みんなを驚かせたというのも、なんとなく、悪い気はしない。僕がどこまで助けられたのかは分からないが、弟子を褒められるというのは嬉しいものだ。

「彼女は注目されるよ。絶対」

「できれば、見守ってあげてほしいです」

「努力はさせてもらうよ」

  月子さんが奨励会に入って以来、僕に対する視線も変わったような気がする。これまでは、その他大勢の一人にすぎなかった。成績もいまいちなら、普及も熱心 ではない。研究会にも参加せず、グループを作るでもない。そんな無印の僕が、突然得体のしれない弟子を放りこんできたのだ。そりゃびっくりするだろう。

「よろしくお願いします」

「まあ、本人次第だけどね。でもなんか、すごく懐かしい感じの将棋を指すよね。重厚で、ゆったりした……」

「そうですね」

「まあ、君も弟子に負けないように頑張らないと」

「はい」

「ああ、対局の途中なんだ。また今度」

「ではまた」

 再び一人残された控室の中で、僕はぼんやりとしていた。僕はいつだって、何をしたって、注目されなかった。それが突然、自分の力以外でこうして声をかけられている。

 午後からは、講師の仕事だ。それが終わるとまた、十日間仕事がない。……その間は、師匠の仕事に専念できるということだ。




「先生、両親は夜逃げしました」

 夕食が終ると、突然月子さんはそんなことを言った。僕には、返す言葉がなかった。

「……隣の人に電話してみたんです。……勝手に電話使ってごめんなさい」

「いや、それはいいけど……」

「なんか、すごく悲しいです。でも、ちょっとだけ安心しました。荷物を持って逃げたってことは、生きようとしていると思うから……」

 とても口には出せないが、月子さんにとって何が一番いいことなのか、わからなかった。両親が生きている限り、借金も残っているのだ。

「一度でいいから、家族三人で普通に暮らしたいです……」

「月子さん……頑張れば、できるよ」

「はい」

 月子さんの顔には、不安や悲しみ、そういったものが浮かび上がっていた。この四カ月ほど、僕なりに精いっぱいのことをしてきた。けれども僕は、結局は月子さんにとって他人なのだ。たまたま師匠になっただけの人間には、彼女の心を癒してやれるだけの力がなかった。

 僕は大人なので、わかってしまう。月子さんの両親は、これ以上娘を支え続けることができなかったのだ。夜逃げに娘を連れていくだけの覚悟がなかったのだ。だから娘の良心に付け込んで、博打のような勝負の世界に放り投げてしまったのだ。

 月子さんも大人になっていく。いつ本当のことに気づいたら、どうするだろうか。将棋なんかやめてしまうだろうか。その時僕は何と言うだろうか。何か言えるだろうか。

 なんとなく、だけれど。きっと多くの人がベテランになってから弟子を取るのは、子育てで予行演習ができているからなんだ、そう思った。今の僕には、十五歳の少女を導くだけの逞しさはない。共に苦しみながら道を切り開いていくしか、ないのかもしれない。




「おかえり」
「……」
 なんとなく普通にはいかないことは分かっていた。今日は、奨励会の例会の日。月子さんの顔色は予想以上に悪かった。
「どうだった」
「……辛いです」
「勝てなかったの?」
「……知らない人といるのが、怖いんです……」
 月子さんは腰を下ろすと、テーブルに上半身を委ねた。
「そっか」
 大丈夫だよ、とは言えなかった。かつての自分も大丈夫ではなかったから。
「……私、もう行きたくないと思ってます。駄目ですよね……」
 僕は、月子さんの背中を叩いた。
「そのままじゃ、駄目だね。でも、急に治るもんじゃないよ。僕は、心を閉ざした」
「先生……」
「まず、勝つことだ。多くの人は、奨励会からいなくなる。友達になる必要はない。無理をしてまでは」
「でも……」
「君は目立ってる。それは確かだよ。でも、勝つことは目立つことなんだ。ずっと続く。観客がいないだけましと思わなきゃ」
「……努力します」
 先は長いが、あきらめればすぐに終わってしまう。将棋は強くなる一方でも、心を強くするのには時間がかかるだろう。月子さんは、乗り越えていけるだろうか。
 全ては彼女次第だ。僕にできることは少しだけ。そして僕は、誰にも助けてもらえなかったが、何とかプロになることができた。
 温かい紅茶をいれた。それが、僕に出来ること。





 将棋界で一番長い日、と呼ばれる一日がある。A級順位戦最終日のことだ。将棋界において最も強いであろう十人が、名人挑戦、そしてA級残留をかけて戦う。その様子はテレビで中継され、多くの将棋ファンがリアルタイムで見守ることになる。
 だが、C級二組の最終日も、同じぐらい長いのだ。対局が多い分、ドラマの数はケタ違いである。
 僕は結局、二勝七敗でこの日を迎えてしまった。順位も悪いため、降級点回避には勝利と運が必要になっている。
 先日、月子さんは4級に昇級した。相変わらず行くこと自体はつらそうだが、実力からして妥当な結果だ。一方の僕は、月子さんがプロになる頃には順位戦から姿を消していそうだ。そんな情けない事態だけは、絶対に避けたい。
 今日の相手は朝田五段。僕より二年先輩で、毎年昇級争いをしている強い若手の一人だ。テレビ棋戦でベスト4に進出したこともある。現在八勝一敗。僕に勝てば文句なく昇級、という状況だ。
 朝の喧噪の中で、「朝田君は決まりだな」という声が聞こえてきた。みんな心の中では、そう思っているのだろう。威勢のいい棋士と、勝率三割の棋士。誰が見たって、どちらが有利かはわかるというものだ。
 それでも。それでも、このまま降級点を取るわけにはいかないのだ。たとえ大した目標がなくても、落ちていくことだけは嫌だ。順位戦からいなくなれば、また元のその他大勢に逆戻りしてしまう。何のためにプロになったのか、わからなくなってしまう。朝田さんの心に、そしてみんなの記憶に大きな傷を付けたい。
 気持ちと高まりとは別に、将棋は淡々と進んでいった。角交換振り飛車のよくある形。流行り始めの頃かもにされまくったので、この戦型に関してはかなり研究した。朝田五段も自信があるのだろう、小刻みに時間は使っているが、考えているというよりは確認しているようだ。
 順位戦の時間は、世間と切り離されて進んでいく。ときには驚くほどゆっくりと過ぎるが、難しい局面になると驚くほど速く走りだすこともある。昼食休憩が過ぎ、夕食休憩が過ぎても、室内は静かだった。いつもならば数局が終わっているものだが、今日はまだどこも熱戦が続いているようだ。これだけの人が黙々と将棋を指す。観客はいない。将棋とは何と異様な競技だろうか。
 午後七時半。ついに未知の局面に突入した。駒損で攻める振り飛車、争点をずらしながら受ける居飛車。玉頭も戦場になり、非常にややこしいことになってきた。どこかで反撃しなければ、受け切って勝つような将棋ではない。
 午後九時。ごちゃごちゃした局面の中に、一筋の光明が見えた。桂馬を二枚捨てる筋で、一気の寄せが狙える。ただ、駒を渡すだけに読み抜けがあったら一気に負けになる。最後の持ち時間を使って、慎重に読んだ。そして、いけると思った。詰みまで読んだ。祈ってもいないのに、神様に感謝すらした。
 読み筋通りに進んでいく。朝田五段は相変わらず淡々と指している。まるで、結果は分かっているかというように。
 午後十一時。いよいよ、最終盤。あとは、詰ますだけだ。心の震えを抑えるため、小さく息を吐いた。後は作業だ。そう思っていた……
 王手の連続に、必然の応手だと思っていた。けれども浅田五段は、そんな僕をあざ笑うかのように、その残酷な一手を指した。
 8五同飛不成。しばらくは意味がわからず、そして、愕然とした。なんとこれで、打ち歩詰めになっているのだ。当たり前のように飛車は成るものと思っていた。盲点にはなる。けれども、プロならば読まなければいけない一手だ。
 もう、勝ちない。修正する順も思い浮かばない。けれども、こんな格好のいい一手で終わらせたくはなかった。不成を僕が読んでいなかったことを吹聴するような投了図には、絶対にしたくなかった。結果、棋譜を汚してしまう。僕は、どこまでもプロ失格だった。
 午前零時三分。終わった。
 朝田五段は昇級し、僕は降級点を取った。完全な勝者と敗者のコントラストが描かれた。

 




 三月の終わり。三東家の食卓には、小さなホールケーキが用意された。今日は、月子さんの十六歳の誕生日だった。

 月子さんは目を丸くしてケーキを見ている。喜ぶとかではなくて、得体の知れないものを発見したかのような感じだ。

「ケーキの本体を初めて知りました」

 実は僕は甘いものが苦手なので、ケーキはほとんど月子さんが食べた。おいしそうに食べる女の子の顔を見ると、僕の心も少し柔らかくなった。

「月子さん、十六歳の目標は」

「……初段になります」

「よし。頑張って」

 何気ない、やり取りのつもりだった。けれども、月子さんは思いがけないことを言ってきた。

「先生の目標は、なんですか」

「え」

「……聞いたことなかったから……。教えてもらえませんか」

 まっすぐな瞳で問われて、戸惑う。何と言えばいいのか、考えた。

「……とりあえずは、五段かな」

「きっと、すぐですね」

 月子さんは僕の成績のことがよくわかっていないのだ。昇級でも勝ち星でも、五段はまだ遠い。

 僕の心の中に浮かんだ本当の目標は、「せめて勝ち越し」だった。それすら大変な目標だということは、情けないが、真実なのだ。

「来年の今日は、もっといろんなことを祝えるようにしよう」

「はい」

 そう。笑われるかもしれないけれど、一分でも勝率五割を超えていたら、僕は僕を祝いたい。そう思わせてくれる弟子に感謝したい。



 なんだか、妙な気分だ。

 初めて会った日から一年とちょっと。師匠と弟子として一緒に暮らしてきたが、親子のようであり、兄妹のようでもあった。二人とも世間に触れるのが苦手で、家にいるときに安心しているのだと思う。たまにどちらかが仕事で出かけるときはあるが、私用で不在にすることはほとんどない。

 そんな二人が今、将棋会館の同じ部屋にいる。

 月子さんは、挑戦者決定リーグ戦の記録係だ。持っている中で一番かわいい服を着て、机の前にちょこんと座っている。僕は別のタイトルの一次予選一回戦。

 月子さんが、僕の仕事している姿を見るのは今日が初めてだ。すでに他の人から聞いて僕の弱さなど知っているのかもしれない。けれども今日だけは、堂々と勝ちたかった。月子さんの目指す強いプロの幻想を、僕の中にも見てほしかった。

 相手は沢崎九段。高級そうなスーツと腕時計が目につくが、今はそんなに儲けていないはずだ。タイトル獲得二期、A級在位四期の立派な先生だが、最近は全く勝てなくなっている。四十六歳とまだ老け込む歳ではないが、無理気味の勢いに任せた攻めは精度が落ちてしまったようだ。

 若手は、勝たなければならない相手だ。

 とはいえ、相手も僕には勝たなければならないと思っているだろう。

 序盤から、沢崎九段は気合十分に突っ張った手を指してきた。相居飛車で乱戦になると、あっという間に勝負どころが来てしまう。若手相手だと、研究にはまらないようにこういう将棋を仕掛けてくるベテランの先生は多い。

 僕は、用意していた缶コーヒーを飲み干す。効用はよくわからないが、頭がすっきりしたような気になる。

 できるだけ盤面に集中しようと思うのだが、月子さんのことも気になる。今のところそつなくこなしているようだが、この先も大丈夫だろうか。これまでは短い将棋ばかりだったが、今日の対局は遅くまでかかるかもしれない。果たしてそこまで体力が持つだろうか。

 僕が長考しているうちに、夕食休憩になった。今日は出前を取ってもらっている。だが、すぐに食べる気にはならず、廊下のソファーに座っていた。

「つっこちゃん今度さ、うちの研究会来ない」

 どこからか、聞き覚えのある声がする。少し記憶をたどってみたが、すぐには出てこなかった。

「……え……私、そういうのよくわからなくて……」

「いやまあさ、対局したり検討したり、ご飯食べたりゲームしたりするんだ。皆川さんも参加してるしさ、考えといてよ」

「……はい」

 皆川さんとは、皆川女流1級のことだろう。それで思い出した。あの声は、最近高校生で四段に上がった辻村君だ。奨励会ではほぼ入れ違いで、しかも声変わりする前だったのでうろ覚えだったのだ。皆川さんは彼の姉弟子になる。

「また詳しいことは連絡するしさ、メアド教えてよ」

「……メアド……は……ないです」

「え、携帯は?」

「……持ってないです」

「じゃあ電話は?」

「一応……。先生が出るかもしれませんが」

「……えっと……まあいいや、じゃあ電話番号教えてよ。またかけるからさ」

 僕は、席を立ちエレベーターに向かった。なんだか、これ以上は聞いていられないと思ったのだ。当たり前だが、月子さんにも彼女だけの人付き合いがある。同世代との関わりも大事だろう。そんなことは頭ではわかるのだが、しかしどうしても違和感を持ってしまうのだ。僕以外と関わる月子さんは、月子さんでないような気がしてしまう。

 会館の外に出て、思い切り息を吸った。わけのわからないもやもやを、何とか中和したかった。

 空から、雨粒が落ちてきた。ひどく気分が悪くなって、すぐに会館の中に戻った。

 味気のない蕎麦をさっさと食べ、盤の前に座った。よく見てみると、自分の方が随分と優勢になっている。何かにとらわれていては、一目でわかることも見えなくなってしまうようだ。ただでさえ少ない対局を、雑念で落とすわけにはいかない。

 長年そうしてきたように僕は、対局室の中で孤独を噛みしめた。しかしあろうことか、朱里のことを思い出してしまった。家に帰ると、僕は孤独ではなかった。……朱里は孤独だった、そう言ったのだが。

 ぐちゃぐちゃした思考が渦巻く中で、対局は再開された。まだ持ち時間は余っていたが、僕は思いつくままに次の手を指していった。形勢は揺れ動いたのかもしれないが、気が付くと相手玉に必至がかかっていた。沢崎九段のつむじが見える。

「負けました」

 今までで一番いい勝ち方だ、そう思った。そう思いたかった。

 僕らが感想戦を終えても、月子さんのところはまだ終わっていなかった。僕は部屋を出て、そのまま会館も出た。

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