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 しばらくして、トーナメントが始まった。この道場では休日に将棋大会を開いており、今日はA・B級に分かれたトーナメント戦が行われる。各クラスで優勝すると、海の幸がもらえる。

 月子さんはおどおどしていたが、名前を呼ばれ盤の前に座ると少し落ち着いたようだった。

 B級でシードが一つできたので、空き番の人を二枚落ちで指導することになった。月子さんのことは気になるが、放っておくのも本人のためというものだ。

 しばらくすると月子さんの対戦相手から「あちゃー」という悲鳴が上がった。今まで何度も見てきたが、幼い子供、女の子などに負けるとおじさんは照れ隠しに声を出すようだ。

 恒義がトーナメント表に結果を書き込む。二十分もかからず、月子さんは準決勝進出を決めた。

 負けた人たちがぞろぞろとこちらにやってくる。世の中には百面指しをこなす先生もいるが、僕は選べる時は三面指しまでと決めている。勝たせることを大事だという考え方もあるが、勝ったことが過信になってしまう人も多いので、できるだけためになるように負かしてあげたいのだ。見せ場を作りながら一手差で勝つ、この技術はプロ特有のものである。

 一時間ほどすると今度は、「おお」という声が湧きあがった。月子さんの対局相手が頭を下げているのが見えた。またまた勝ったようだ。

「強いね、あの子」

 僕の傍らまで来て、恒義は唸っている。

「プロを目指すんだ。勝ってもらわなきゃ」

「……まさか、お前が師匠なのか」

「そうなりそうだ」

「そっか。お前が弟子を持つのか。なんか、本当にプロになったんだな」

 恒義は、僕の肩をポンポンと叩いた。その顔は、少し寂しそうだった。僕も、少し切なくなった。

 月子さんの方は、対戦相手が決まるのをじっと待っていた。もう一つの対局を見るでもなく、瞑想するでもなく。ひょっとしたら、貧乏な生活の中でうまく「何もしない」ことを身につけたのかもしれない。プロになると、それは大事だ。長い持ち時間、ずっと考え続けることなどできない。いかに疲れないように時間を浪費するか、それも技術の内である。本当に強い人はどれだけでも考え続けることができているのかもしれないが、なったことがないのでわからない。

「あー、やっぱ飯原さんか」

「こりゃ見ものだ」

 もう一つの準決勝も終わったようだ。そして、その結果は予想通りだった。勝った飯原さんは、正真正銘のアマ六段、何回も県代表になったことのある強豪だ。全体的にバランスのいい将棋で、無理をしない勝ち方が多い。実はアマ時代、一度対戦して負けている。

 指導対局もだいたい一周し、皆の関心も決勝戦へと移っていった。道場一のベテランと、突然現れた少女の決戦は、確かに興味をそそられるものだろう。僕も、決勝戦は観戦することにした。

 持ち時間は20分、切れたら一手30秒の秒読み。時間に関してはネット対局の成果が試されるところだ。そして、ここからが本番とも言える。これまでの相手は普通にやれば勝てる実力差だった。しかし、飯原さんは別だ。基本ができているうえに、これまでの経験値が半端ではない。注目される中、月子さんはどれぐらい実力を出し切れるだろうか。

 飯原さんが駒を振り、先手になった。

「ではお願いします」

「……よろしくお願いします」

 二人が挨拶して、対局が始まった。すらすらと相矢倉に組みあがっていった。矢倉は将棋の純文学とも言われる、最も基本的な戦法の一つだ。守りは金銀三枚、攻めは飛車角銀桂という格言にもぴったり当てはまる。

 少しやばいかな、とも思った。矢倉は指す人も多いだけに、研究も随分と進んでいる。小川名人の時代からは、かなり進歩しているのだ。

 二人とも小刻みに時間を使い、知識を確認しながら指しているようだ。組みあがるまでは、問題がない。仕掛けてからが、どうなるかだ。もしくは、仕掛けなかったときに。

 飯原さんは、右手を顎に当てて次の手を考え始めた。そして、二分ほどして右手は左端に伸びた。9八香。穴熊に囲い、さらに自玉を固くしようという作戦だ。最近になって現れた指し方で、後手が飛車先の歩を突いているときにはこうなることが多い。

 月子さんの額に、縦の皺が刻まれる。予想していなかったのだろう。瞼を閉じ、頭の中の盤で考えているようだ。後手は右の銀も守りに使っており、右の桂馬はすぐには跳ねられない。仕掛ける手はないが、相手は攻めてこない。このような時に、損にならない手を指すテクニックもプロになるには必要だ。もちろんちゃんと最新の情報を入手していれば、ただそれをなぞるだけでもう少し先まで行けるのだが。

 時間がどんどん過ぎて行き、ついに秒読みに突入した。十秒過ぎ、二十秒過ぎ。そして、時間ぎりぎりで角が一つ、右斜め上に動かされた。6四角。月子さんは、自力で定跡の一手にたどり着いた。

 飯原さんはさほど時間をかけず6五歩。月子さんは7三角。相手に歩を突かせただけのようだが、争点を作るための高等戦術だ。この短い時間の中でこの手順にたどり着いたというのは、相当のセンスを感じる。

 ただし、中盤で定跡通りに進んだからと言って、有利になるわけではない。穴熊に囲った先手はついに総攻撃を仕掛けてくる。後手はそれをぎりぎり何とか受け続けなければならないのだ。後手の勝ち方は三つ、完全に受け切って先手の攻めを切らせるか、もらった駒で一気に反撃するか、もしくはするすると玉が相手陣に入っていくかだ。

 月子さんは、そのどれを選ぶのかが定まっていない様子だった。ある手には受け、ある手には手抜き、ある手には逃げ。一つ一つはそれほど悪い手ではないが、一貫性はない。そしてベテランは、そんな相手の様子を見逃してくれない。

 ゆっくりと放たれた、2五桂馬の王手。相手の歩の頭であり、どう見ても只だ。しかしそれを取ると、同銀で全軍躍動、とても受け切ることはできない。かといって逃げると、上からじわじわと押しつぶされて駄目だろう。先手は穴熊、王手がかからない。つまりそれは、攻めれば必ず駒を渡すことを意味する。これ以上相手に駒を渡せば、確実に攻め切られる。

 月子さんの瞳から、少し光が失われたように見える。そして、力なく歩で桂馬を取った。相手が間違えるのをひたすら待つ、辛い指し方だ。そして、矢倉に慣れている飯原さんは、もう間違えない。20手ほど続いたが、逆転の筋はなかった。

「負けました」

 月子さんが頭を下げ、髪の毛が盤に覆いかぶさった。今度からは結ばせた方がいいかな、そんなことを思った。月子さんが負けたことについては特に何も感じなかった。結果は、僕の予想通りだったのだ。

 たっぷりと感想戦をして、そのあとに月子さんは小さな準優勝の賞状をもらった。日帰りの旅なので、そこでお暇することになった。

「今日はありがとう」

「いやいやこちらこそ。またいつでも来いよ」

 帰り道、何度振り返っても恒義は手を振っていた。月子さんはうつむいたままだった。

「どうだった」

「……強かった……です」

「そうだろう。でも、奨励会員はあの人より強いぞ」

「……まだまだ、先なんですね……」

「まだまだ、伸びる年だ。月子さん、君は僕が15歳の時より強いよ。ただ、色々なことを知らないだけなんだ」

「……頑張ります。もっと強くなれるように……」

 新幹線に乗ると月子さんは、電池が切れたかのようにぐっすりと寝始めた。人と指すこと以前に、人に囲まれることに疲れてしまったようだ。プロになるためには、将棋以外にも本当にいろいろと乗り越えなければならないことがあるのだ。


 遠征の日以来、月子さんは自主的に最近の棋譜を並べるようになった。ネット上にあるものや、僕がコピーしてきたもの、そして年鑑に載っているもの。気になった棋譜はノートに書き写し、詳細にコメントを付けている。さらに僕の持っていた定跡書や詰め将棋の本も積極的に読むようになった。どうやら、将棋の楽しさと同時に、悔しさも本格的に感じ始めているようだった。

 一方の僕は、前半であまりにも負けが込んだために、順位戦以外の対局がほとんどないという状況に陥っていた。一ヶ月に二回、会館での将棋教室の講師の仕事があるので、ほぼ月に三日働いているという状況だ。相変わらず時折、対局があると嘘をついて家を出ていく。最近では暇つぶしにいいスポットをたくさん見つけるという、なんとも情けない有様である。

 月子さんが日に日に強くなっていく姿を見て、僕も頑張らなければ、とは思うのだ。けれども、一歩を踏み出しても、いつも同じところに戻ってきてしまう。いっぱい研究して、将棋も指して、気合を入れて対局に臨んでも、いつも通りの負かされ方をして帰ってくる。そして、こんな感じでも生きていけるじゃないか、と思ってしまう。たとえ勝率三割台でも、降級点を取らないようにして、順位戦で生き残っていればプロでいられる。贅沢はできないけど、今だって弟子と一緒に生活していけるぐらいの収入はある。

 僕は、タイトルを取りたいとか、A級に上がりたいとか、そういう具体的な目標を持ったことがなかった。ただ自分がプロになれることを、証明したかった。子供心にそう思って出発してしまったら、それしか選べない大人になっていた。

 僕が手に入れたものはなんだったんだろう、と思う。プロになれない人もいるから、プロであることはきっと誇ってもいいことなんだろう。けれども、子供の僕が望んでいたほど大きな充実感は、全く得ることができなかった。それどころか、唯一僕が手に入れたすばらしいものは、プロになった後に失ってしまった。

 月子さんがもしプロになれたとしても、同じような思いをするかもしれない。弱いプロでは、借金を返すことはできないだろうから。プロを目指す子に対する本当の優しさは、プロになんてなるなって言ってあげることかもしれない。

「やった!」

 僕のぐだぐだした思考を強制的に遮断するかのように、月子さんがいつになく元気な声で叫んだ。

「どうしたの」

「ついに、2400点です!」

 僕はテーブルを半周して、月子さんの後ろからパソコンの画面を覗き込んだ。確かに、TomatoMamaの点数は2403点になっていた。

「おめでとう」

「……先生」

 月子さんは炬燵から出て、僕の方を向いて正座をした。そして、深々と頭を下げた。

「私を、正式に弟子にしてください」

「ああ、約束だからね」

「……ありがとうございます……早く強くなって、先生に借りたお金もお返しします」

「待ってるよ」

 月子さんの瞳から、小さなしずくがこぼれ落ちていた。考えてみると僕は、そういう涙を流したことがなかった。

「幸典」

 突然声を掛けられて、僕は足を止めた。それは、聞き覚えのある声だった。

「あ……朱里……」

 僕は、完全に気を抜いていた。なにせ、このホームセンターは僕の暇つぶしスポットのひとつなのだ。とくに何を買うわけでもないが、お金をあればこれ買えるなー、と考えながら見て回るのが楽しい。そんな癒しの時間がまさか、こんな形で乱されるなんて。

「久しぶり。びっくりした?」

「あ、ああ。まだ東京にいたんだ」

「帰っても仕事ないしね。こっちの方が楽しいし」

「……ここで働いてるの」

「うん。先週から」

 目の前にいるちっちゃくて愛らしい顔の女性は、僕の高校の同級生であり、元恋人でもある工藤朱里だった。ずっと僕のことを応援してくれ、東京に一緒に出てきてくれて、そして愛想を尽かして去って行った。

「調子はどう? 相変わらず負けてる?」

「……ああ。急に強くはならないよ」

「また言い訳。変わんないなあ」

 早く逃げ出してしまいたかった。朱里には嘘をついても無駄だから、本当のことを言うしかない。本当のことを言うのは、辛い。

「頑張ってるよ。結果が出ないんだ」

「そう。でもなんか、前よりはいい顔つきしてるかも。まあ、応援してるよ。じゃ、仕事あるから」

「ああ、じゃあ」

 後ろ姿の朱里を見ながら、ほっとすると同時に悲しくもなった。こんなに近くにいたのに、僕は何も知らなかった。彼女は何も知らせてくれなかった。僕らは、友達に戻ることすらできなかったのだ。

 彼女は、前向きな僕が好きだった。どんなに周りから評価されていなくても、朱里だけは僕を信じてくれた。けれども僕は、プロになることで歩みを止めてしまった。僕にとっては、そこがゴールだった。朱里にとっては、それが許せなかった。

 ほんの少しの時間だったけれど、彼女は今でも素敵だった。最初から僕になんか釣り合わない人だったのだ。

 気が付くと、強く拳を握りしめていた。やるせない気持ちが爆発して、気がつくとずっと欲しかったラックを購入してしまっていた。

本当に駄目だ。



 朝五時に目が覚めた。

 今日は運命の日だった。僕にとっての、ではない。にもかかわらず、眠りは常に浅く、いつになく早く起きてしまった。

 ロフトの方からは、いつもと変わらない、小さな寝息が聞こえてくる。

 布団にもぐりこんだが、頭は冴えわたっている。十分ほどして、あきらめて起き上がった。

 とりあえず、コーヒーを飲んだ。

 今日は、奨励会試験の日だ。

 ついていくわけにもいかないし、教えられることは全て教えた。僕がすべきことなど、何もないのだ。それなのにどうにも落ち着かない。

 自分が試験を受けたときのことを思い出す。まだ中学一年生だった僕は、絶対に受かると信じ込んでいた。両親はあまり興味がなさそうだった。将棋のプロというものがまるでわからず、カルチャースクールか専門学校にでも行くかのように思っていたようだ。師匠が直接説明してくれたが、それでもわかっていない様子だった。ただ、僕のすることには何も反対をしなかった。両親にとって僕は何もかもがそこそこの人間であり、たとえ「趣味であろうと」頑張るのであれば喜ばしいと思っていたようだ。

 僕はあっさりと試験に受かったし、両親はいつまでたっても「就職はどうするの」なんて聞いてきた。いまだに僕がどのようにしてお金を稼げているのか、さっぱり想像がつかないらしい。

 しばらく何もできずにボーっとしていた。まさか自分のものでない試験に、しかも数か月前までまったく知りもしなかった子のために、こんなに心が乱されるとは思わなかった。本当に心が弱い。僕は、どうにも勝負に向いていない人間だと実感した。

 七時前、いつも通りの時間に月子さんは梯子を下りてきた。

「おはようございます」

「おはよう。よく寝れたかい」

「はい。試験中眠くならないよう、しっかり寝ました」

 本当にいつも通りの、ふんわりとした感じだった。

「緊張は?」

「うーん。多分対局始まらないと。今はまだ、何にも実感はないです」

きっと受かる。そう思った。




「三東君」

 控室で検討をしていると、突然声をかけられた。振り返ると、そこには夏目七段がいた。がっしりとした体に白髪交じりの髪、とても男らしい。奨励会幹事を努めている、とても真面目で熱い先生だ。

「はい」

「……彼女は、何者なんだね」

「金本のことですか」

「ああ」

 夏目七段は、僕の目の前にどっかりと腰を下ろした。話は長くなるかもしれない。

「私が幹事になって、初めての女性でね。まあそれはいい。けれどね、誰も彼女のことを知らないんだよ。対局どころか、見たこともないというんだ。そのくせ、すごく強い。試験の将棋は圧勝だったよ。しかも師匠が君というのは……まあ意外でね。みんな、気になっててね」

 何となく予想はしていたが、いざその時になってみるとなんだか気まずい。将棋界は閉鎖的な、狭い社会だ。だから、異質なものにはひどく敏感なのだ。

「金本は故郷が同じで、彼女の父から頼まれたんです。事情があって大会に出ることができなくて、実戦経験は少ないんです」

「ふうむ。まさか現代社会にそんな逸材が隠れているとはねえ」

 確かに、最近の子供はどんどん大会に出て、ある程度実績を積んでから奨励会を受験する。みんなを驚かせたというのも、なんとなく、悪い気はしない。僕がどこまで助けられたのかは分からないが、弟子を褒められるというのは嬉しいものだ。

「彼女は注目されるよ。絶対」

「できれば、見守ってあげてほしいです」

「努力はさせてもらうよ」

  月子さんが奨励会に入って以来、僕に対する視線も変わったような気がする。これまでは、その他大勢の一人にすぎなかった。成績もいまいちなら、普及も熱心 ではない。研究会にも参加せず、グループを作るでもない。そんな無印の僕が、突然得体のしれない弟子を放りこんできたのだ。そりゃびっくりするだろう。

「よろしくお願いします」

「まあ、本人次第だけどね。でもなんか、すごく懐かしい感じの将棋を指すよね。重厚で、ゆったりした……」

「そうですね」

「まあ、君も弟子に負けないように頑張らないと」

「はい」

「ああ、対局の途中なんだ。また今度」

「ではまた」

 再び一人残された控室の中で、僕はぼんやりとしていた。僕はいつだって、何をしたって、注目されなかった。それが突然、自分の力以外でこうして声をかけられている。

 午後からは、講師の仕事だ。それが終わるとまた、十日間仕事がない。……その間は、師匠の仕事に専念できるということだ。




「先生、両親は夜逃げしました」

 夕食が終ると、突然月子さんはそんなことを言った。僕には、返す言葉がなかった。

「……隣の人に電話してみたんです。……勝手に電話使ってごめんなさい」

「いや、それはいいけど……」

「なんか、すごく悲しいです。でも、ちょっとだけ安心しました。荷物を持って逃げたってことは、生きようとしていると思うから……」

 とても口には出せないが、月子さんにとって何が一番いいことなのか、わからなかった。両親が生きている限り、借金も残っているのだ。

「一度でいいから、家族三人で普通に暮らしたいです……」

「月子さん……頑張れば、できるよ」

「はい」

 月子さんの顔には、不安や悲しみ、そういったものが浮かび上がっていた。この四カ月ほど、僕なりに精いっぱいのことをしてきた。けれども僕は、結局は月子さんにとって他人なのだ。たまたま師匠になっただけの人間には、彼女の心を癒してやれるだけの力がなかった。

 僕は大人なので、わかってしまう。月子さんの両親は、これ以上娘を支え続けることができなかったのだ。夜逃げに娘を連れていくだけの覚悟がなかったのだ。だから娘の良心に付け込んで、博打のような勝負の世界に放り投げてしまったのだ。

 月子さんも大人になっていく。いつ本当のことに気づいたら、どうするだろうか。将棋なんかやめてしまうだろうか。その時僕は何と言うだろうか。何か言えるだろうか。

 なんとなく、だけれど。きっと多くの人がベテランになってから弟子を取るのは、子育てで予行演習ができているからなんだ、そう思った。今の僕には、十五歳の少女を導くだけの逞しさはない。共に苦しみながら道を切り開いていくしか、ないのかもしれない。




「おかえり」
「……」
 なんとなく普通にはいかないことは分かっていた。今日は、奨励会の例会の日。月子さんの顔色は予想以上に悪かった。
「どうだった」
「……辛いです」
「勝てなかったの?」
「……知らない人といるのが、怖いんです……」
 月子さんは腰を下ろすと、テーブルに上半身を委ねた。
「そっか」
 大丈夫だよ、とは言えなかった。かつての自分も大丈夫ではなかったから。
「……私、もう行きたくないと思ってます。駄目ですよね……」
 僕は、月子さんの背中を叩いた。
「そのままじゃ、駄目だね。でも、急に治るもんじゃないよ。僕は、心を閉ざした」
「先生……」
「まず、勝つことだ。多くの人は、奨励会からいなくなる。友達になる必要はない。無理をしてまでは」
「でも……」
「君は目立ってる。それは確かだよ。でも、勝つことは目立つことなんだ。ずっと続く。観客がいないだけましと思わなきゃ」
「……努力します」
 先は長いが、あきらめればすぐに終わってしまう。将棋は強くなる一方でも、心を強くするのには時間がかかるだろう。月子さんは、乗り越えていけるだろうか。
 全ては彼女次第だ。僕にできることは少しだけ。そして僕は、誰にも助けてもらえなかったが、何とかプロになることができた。
 温かい紅茶をいれた。それが、僕に出来ること。





 将棋界で一番長い日、と呼ばれる一日がある。A級順位戦最終日のことだ。将棋界において最も強いであろう十人が、名人挑戦、そしてA級残留をかけて戦う。その様子はテレビで中継され、多くの将棋ファンがリアルタイムで見守ることになる。
 だが、C級二組の最終日も、同じぐらい長いのだ。対局が多い分、ドラマの数はケタ違いである。
 僕は結局、二勝七敗でこの日を迎えてしまった。順位も悪いため、降級点回避には勝利と運が必要になっている。
 先日、月子さんは4級に昇級した。相変わらず行くこと自体はつらそうだが、実力からして妥当な結果だ。一方の僕は、月子さんがプロになる頃には順位戦から姿を消していそうだ。そんな情けない事態だけは、絶対に避けたい。
 今日の相手は朝田五段。僕より二年先輩で、毎年昇級争いをしている強い若手の一人だ。テレビ棋戦でベスト4に進出したこともある。現在八勝一敗。僕に勝てば文句なく昇級、という状況だ。
 朝の喧噪の中で、「朝田君は決まりだな」という声が聞こえてきた。みんな心の中では、そう思っているのだろう。威勢のいい棋士と、勝率三割の棋士。誰が見たって、どちらが有利かはわかるというものだ。
 それでも。それでも、このまま降級点を取るわけにはいかないのだ。たとえ大した目標がなくても、落ちていくことだけは嫌だ。順位戦からいなくなれば、また元のその他大勢に逆戻りしてしまう。何のためにプロになったのか、わからなくなってしまう。朝田さんの心に、そしてみんなの記憶に大きな傷を付けたい。
 気持ちと高まりとは別に、将棋は淡々と進んでいった。角交換振り飛車のよくある形。流行り始めの頃かもにされまくったので、この戦型に関してはかなり研究した。朝田五段も自信があるのだろう、小刻みに時間は使っているが、考えているというよりは確認しているようだ。
 順位戦の時間は、世間と切り離されて進んでいく。ときには驚くほどゆっくりと過ぎるが、難しい局面になると驚くほど速く走りだすこともある。昼食休憩が過ぎ、夕食休憩が過ぎても、室内は静かだった。いつもならば数局が終わっているものだが、今日はまだどこも熱戦が続いているようだ。これだけの人が黙々と将棋を指す。観客はいない。将棋とは何と異様な競技だろうか。
 午後七時半。ついに未知の局面に突入した。駒損で攻める振り飛車、争点をずらしながら受ける居飛車。玉頭も戦場になり、非常にややこしいことになってきた。どこかで反撃しなければ、受け切って勝つような将棋ではない。
 午後九時。ごちゃごちゃした局面の中に、一筋の光明が見えた。桂馬を二枚捨てる筋で、一気の寄せが狙える。ただ、駒を渡すだけに読み抜けがあったら一気に負けになる。最後の持ち時間を使って、慎重に読んだ。そして、いけると思った。詰みまで読んだ。祈ってもいないのに、神様に感謝すらした。
 読み筋通りに進んでいく。朝田五段は相変わらず淡々と指している。まるで、結果は分かっているかというように。
 午後十一時。いよいよ、最終盤。あとは、詰ますだけだ。心の震えを抑えるため、小さく息を吐いた。後は作業だ。そう思っていた……
 王手の連続に、必然の応手だと思っていた。けれども浅田五段は、そんな僕をあざ笑うかのように、その残酷な一手を指した。
 8五同飛不成。しばらくは意味がわからず、そして、愕然とした。なんとこれで、打ち歩詰めになっているのだ。当たり前のように飛車は成るものと思っていた。盲点にはなる。けれども、プロならば読まなければいけない一手だ。
 もう、勝ちない。修正する順も思い浮かばない。けれども、こんな格好のいい一手で終わらせたくはなかった。不成を僕が読んでいなかったことを吹聴するような投了図には、絶対にしたくなかった。結果、棋譜を汚してしまう。僕は、どこまでもプロ失格だった。
 午前零時三分。終わった。
 朝田五段は昇級し、僕は降級点を取った。完全な勝者と敗者のコントラストが描かれた。

 



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