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 金本月子十五歳との、奇妙な生活が始まった。
「あの……すみません……」
 色々なことがずれている子だとは思ったが、まず最初に驚かされたのはリュックの中身だった。てっきり着替えが詰まっているのかと思っていたら、出てきたのは分厚い本が五冊。
「小川靖男全集……。これは……」
「……父が唯一売らなかったものなんです。……何度も何度もこれを読んで勉強しました」
 そのうちの一冊を開いてみると、どのページにもびっしりと書き込みがしてあった。月子さんなりの感想や検討を記入してあるのだ。
「ずっとこればっかり?」
「はい……」
 小川靖男は、名人を七期務めた偉大な棋士だ。粘り強い指し手に定評があり、「受け方の定跡」を作ったとまで言われている。
「あの、服とかは……」
「これだけです……」
 月子さんが取り出したのは、小さなスーパーの袋。中身を見せてはもらわなかったが、大きさからして下着が数枚だけだろう。
「とりあえず……明日買い物に行こう」
「はい」
 ロフトに布団を運びこみ、とりあえず彼女の居住スペースを作った。一畳ほどの広さしかないが、正座できるぐらいの高さはあるし、電源もある。
「このスイッチでここの電気が付くから。トイレ行くときとかは気を付けて」
「はい」
 自転車をこいでここまで来て、その上真剣に将棋を指したのだから、ひどく疲れていたのだろう。すぐにロフトから寝息が聞こえてくる。
 外に出て、駐輪場に向かった。そこには、薄汚れた、ぼろぼろの自転車が止めてあった。かごは歪んでいるし、タイヤのホイールも曲がっている。彼女はあのリュックとこの自転車だけでここまでやってきたのだ。会ったこともない、僕を頼りにして。
 僕は、すぐに寝る気にはならなかった。帰宅してからの数時間で、考えてもみなかったことが起きている。頭の中がぐちゃぐちゃで、ぐらぐらと揺れている気さえする。
 僕はまだプロになって四年目の若手棋士だ。弟子を取るなんてことは考えたこともなかった。しかも今どき内弟子なんていうのはほとんど聞かない。そして何より問題なのは……月子さん自身が、僕のことを何も知らない、ということだった。
 三東幸典、四段。プロになってからのこれと言って目立った成績はない。いや、むしろ悪い方で目立ってしまっている。通算勝率は四割を切り、順位戦では三期連続負け越しで、一つ降級点を取っている。早指し棋戦での予選突破もなく、そのため当然ながらテレビ棋戦で戦ったことがない。あまりの不出来ぶりに、陰では「四東三段」というあだ名まで付けられているようだ。
 月子さんは、よりにもよって今一番弱い若手棋士のところに弟子入りに来てしまったのだ。確かに、地元では一番強かった。しかしプロは皆、故郷では一番強いアマだった。奨励会時代は何度も降級の危機にあい、三段リーグでも連続四期負け越した。それでもたった一度の勝ち越しを、何とか昇段につなげて四段になることができた。自分でも奇跡のようだと思った。そして奇跡は、プロの世界では起こらなかった。
 今はまだ、月子さんの遥か先を行っている。けれどもこれから月子さんがプロになるには、借金を返せるぐらいの強いプロになるためには、僕を追い越して遥か先まで行かなければならない。
 僕に弟子を取る資格なんてあるのだろうか。弟子を育てる才能なんてあるのだろうか。そもそも家に少女を住まわせるなんてこと、周囲から見たら許されるのだろうか。ぐるぐるは続く。
 通帳を開いてみた。彼女の部屋を借りてやれるほどの収入は、当たり前だがない。かといって僕にも頼れる人はいない。師匠は亡くなってしまったし、他の棋士との交流も避けてきた。いっそベテランの先生のところに行って、代わりに師匠になってくださいと頼めばいいだろうか。その方が月子さんのためになるのならば……
 これまで、女性でプロの正会員になった人はいない。確か、二段ぐらいが最高だったはずだ。あきらめて女流棋士になる、というのでは月子さんの場合意味がないだろう。勝って勝って勝ちまくって、借金を返さねばならないのだ。女流トップの収入は、平均的な男性棋士ぐらいしかない、と思う。
ふと、彼女がそんな運命を背負わねばならないのだろうか、と思った。月子さんには、将棋を楽しみながら強くなるだけの素質があると思う。焦らずゆっくり勉強していけば、時間はかかっても芯のある棋士になれるかもしれない。または、アマ強豪として仕事しながらでも将棋を楽しめるようになるかもしれない。けれども彼女は、とにかく急いで強くなろうとするだろう。しかもそれは将棋を楽しむためでも、極めるためでもないのだ。
 そもそも、彼女は将棋が好きなのだろうか。
 プロは、だいたい将棋が好きだ。だから続けられる。深夜まで及ぶ熱戦を負けても、将棋が嫌いになるのは数日だけだ。気が付けば将棋のことを考え、他の対局結果を調べている。棋譜を並べ、詰め将棋を解き、次の対戦相手のことを考える。僕のようなへぼ棋士でも、普段からさぼっているわけではない。義務ではなく、将棋に関わることが自然になっているのだ。
 部屋に戻る。相変わらずの寝息。誰かがいるという、不思議な感覚。
「おやすみ」
 頭が痛くなってきた。聞こえていないと分かりながら、久しぶりの言葉を呟いた。


 

「あの……」

 すぐに将棋の勉強、というわけにはいかなかった。何せ彼女は本と下着数枚しか持っていないのだ。普通に暮らしていくだけでもいろいろとそろえなければならないものがある。まずは、自転車を修理に行った。正直新しく勝った方が安いと思ったのだが、本人のためにならないと思った。その自転車は、月子さんの人生にとって大きな意味を持つものになるかもしれないのだ。そのあとは、買い物だ。

「いいんですか、こんなに」

「もちろんこれも借金ね」

 僕自身女の子の服なんてよくわからないので、スーパーの二階にある洋服店で適当にそろえた。普通のこの年頃の女の子なら、「こんなとこじゃいや!」と言うところだろうが、月子さんの眼はきらきらとしていた。よほど普段から何も買ってもらえなかったのだろう。

「いいかい、ただ将棋が強ければいいってことじゃないんだ。プロ棋士は将棋の発展や普及も仕事。人に見られて恥ずかしくない格好やたたずまいをしないといけない」

「はい。いろいろと教えてください」

 本当は、僕は師匠から将棋以外のことはほとんど教わっていない。今は、名義だけを貸すような場合すらあるのだ。しかし月子さんの場合、僕が親代わりとならなければいけない。親……そういえば。

「家に連絡しないとね。僕からも挨拶しとくよ」

 携帯を取りだした僕を、月子さんは気まずそうな顔をして見上げている。

「あの……今は通じないと思います」

「え」

「よく止められるし……その……電話線を抜いていたり……」

 思った以上の惨状だ。そんな状態では仕事の受注もできないではないか。

「私……手紙書きます。だから……切手代も貸してもらって……いいですか」

「あ……ああ」

 僕はだんだん、腹が立ってきた。それほどまで切迫したつけを、こんなに若い女の子に払わせる親は絶対に正しくない。棋士になって借金を返すなんて言っても、止めるべきではないか。そのために昔少しかかわりのあっただけのプロを紹介するだなんて、無責任過ぎないか。

「あの……父が言っていた通りでした」

「なにが」

「とっても優しい子だったって。……あの、はい」

「まずは、大人に騙されないことから教えないといけないね」

「……え?」

 ついでに、美容院にも寄った。月子さんの髪の毛はよく見るとぼさぼさで、聞けばいつも母親に切ってもらっていたらしい。

 これは本人には言わないつもりだが、月子さんがプロになるためには、想像以上に女性であることが足かせになるはずだ。僕自身何局か経験があるが、やはり女の子には負けられない、と思ってしまう。かといって男性に同化すればいい、というわけではない。どこまで行っても、将棋という男性社会の中で女性は異質なものなのだ。だから、それを逆手に取るべきだと思う。月子さんは磨けば光ると思うし、異性として意識されるぐらいきれいになって、対局相手に余計なことを考えさせるべきだ。将棋に真摯に向き合うならば、邪道な考え方かもしれない。しかしこちらの目的はお金なのだから、どうとでもして勝たねばならないのだ。

「あの、今日はどうされます?」

「え……短くしてください」

「どのような感じに」

「……さ、さっぱりと」

 月子さんは美容師とのやり取りもなかなかうまくいかないようだ。まあ、初めてなら無理もない。

 それでも全てが終わると、全く見違えていた。髪は全体的にふんわりとして、野暮ったい感じが消えていた。眉毛も剃ってもらったのか、目の周りもすっきりした気がする。さすがプロ、本当にさっぱりにしてくれたようだ。

「あの……どうなりました」

「鏡で見たまんまだよ。いいんじゃない」

 とりあえず、今すべきことはこれぐらいだと思った。これ以上のことは本人の責任だと思ったし、正直化粧云々になると何をしていいのかよくわからないのだ。

「なんか食べて行こうか。何がいい」

「え……いんですか、外食なんて」

「まあ、そんなたいした店にはいかないから」

「……もう、五年ぐらいお店で食べてないんです。どんなお店があるかもわからないし……」

「わかった。じゃああれに行こう」

「あれ?」

 僕は、自分が初めて東京に連れてきてもらった時を思い出した。あまりに色々なものがありすぎて、目が回りそうになった。そして父親は、「都会にはすごいものがあるんだぞ」と言ってその店に連れて行ってくれたのだ。

「わあ」

 店に入るなり、月子さんはとてもいい反応をした。僕も、同じような感じだった記憶がある。

「本当に回ってる……」

 月子さんはしばらくその場に立ち尽くしていた。さすがに僕はそこまではならなかった。

「月子さん、座るよ」

「は、はい。……大人になる前に、回転寿司に来られたなんて信じられません」

「……ここは、おごりでいいや。いっぱい食べて」

「そ、そんな、滅相もございません」

 テンションが上がりすぎて、言葉遣いまで変になっている。見ていて微笑ましい。

「何してるの、取りなよ」

「あ、あの見たことないものばかりで……何を取っていいのか」

「しょうがないなあ。取ってあげるから食べなよ」

 何となく回転寿司のだいご味を味わえていない気もするが、月子さんは僕の選んだ皿をゆっくり時間をかけて食べ、その度に感嘆の言葉を漏らしていた。なんだか自分が大富豪になって、遠い国から養子を迎えたみたいな気分になる。

「多分……生まれて初めて貝を食べました」

「へぇ」

「早くプロになって、いっぱい回転寿司に来たいです」

「うーん、そうだね」

 もし月子さんが訪れたのが僕のような弱いプロでなければ、寿司は回っていなかったかもしれない。まあ、玄関で門前払いされた可能性も高いが。

 そういえば僕も、プロになったらおいしいものがいっぱい食べられる、と子供の頃は思っていた。大きな家、いい車、綺麗な奥さん。将棋が強くなるだけで、全てが手に入ると思ったのだ。

 もちろん、もっともっと強くなれば、手に入るのかもしれない。同期の一人は挑戦者リーグ入りしたり、新人戦で優勝したりしているが、つい最近外車を買ったと言っていた。二四歳でタイトルを取った先輩は、二五歳で結婚し、二七歳で都内のマンションを買った。

 上を見ればきりがない。よく言ったものだ。

「家族にも食べさせてあげたいです。うん、決めました。最初のお給料は、ここに来ます」

「そうするといいよ」

 無邪気な笑顔に、なぜか少し心が痛んだ。いや、理由は分かっている。月子さんの進む道は、果てしなく険しい。たとえプロになれたとしても、親の借金や、周囲の好奇心や、勝負の厳しさが重くのしかかってくるだろう。彼女はまだ、そんなことを知らない。

「あ……でも、まずは先生にお金を返さなきゃ」

「そうだね」

 帰りは、いっぱいの荷物を抱えて地下鉄二つ分の距離を歩いた。二人の共通の故郷の駅から、二人とも少し遠いところに実家があるという話をした。そしてふと、月子さんはつぶやいた。

「……毎日あの駅まで歩くんだなぁって、ちょっと思ったんです」

 最初、僕はその意味がわからなかった。そして家に着くころになって、ようやくわかった。そういえば僕も、毎日あの駅から電車に乗って、高校まで通っていたのだ。

 そう、普通は女子高生になる年齢なのだ。今はほとんどの奨励会員が高校までは行っている。この世界で生きるにしても将棋以外のことを知ることが大事だし、結局将棋の世界から離れていく人も多いのだ。

 月子さんも高校には行くべきだと思う。けれどもそれを決めるのは僕ではない。そこまでサポートしてあげることもできない。もし高校に行きたいと望んでも、それを許さない家庭環境を恨むしかないのだ。

「よし、毎日歩くことを義務としよう」

「はい」

 扉を開ける。今からここは、戦場になる。

「ただいま」

 なんとなく言ってみた。

「あ……ただいま」

 月子さんもつられて言った。

「さあ、将棋だ」





 小川靖男全集を教師としているだけあって、月子さんの指し手は本格的だ。他の若い子には見られない、腰の入った受けが時折見られる。しかしまた、軽いさばきやとにかく固めるといった現代的な感覚は全く持っておらず、序盤から苦戦に陥ることも多い。……とまあ、これが何局もぶっ続けで指し続けて得た感想だった。
 奨励会に入れるかと言うと、今のままでは無理、というのが率直な意見だ。
「もっと勉強しなければいけないね」
「はい」
「二か月で2400点。これが次の試験だ」
「2400……点?」
「ええっとね……」
 パソコンを起動させ、インターネットにつなぐ。月子さんはそれすらとても興味深そうに眺めている。
「これをするんだよ。将棋道場365」
「これが……道場?」
 ログインしただけでは、ただハンドルネームと数字が縦に並んでいるだけにしか見えないこのページは、まぎれもなく将棋道場だった。しかも年中無休(四年に一度だけ休みがある)、そして無料。
「そう。ここで名前を作って、世界中の人と指すんだ。勝つと点数が増えて、負けると減る。それで、2400になったら合格」
「よく……わからないです」
「まあ、見てて」
 とりあえずレーティング対局室に入り、「早指待」に設定する。十秒後、小さいウィンドウが開き、「挑戦 katto-01」の文字。「承諾」ボタンを押すと、また新しく中くらいのウィンドウが開き、その中に将棋の盤駒、駒台のイラストが現れる。
「わあ」
「ここで将棋が指せるんだ。こっちが俺ね」
 先手のpittapittaが僕。
「あの……先生、2920点……ですか?」
「そう。まあ、この辺はだいたいプロだろうね」
 後手のkatto-01も2913点ある。誰かは知らないが、プロの誰かだろう。
 挨拶をすませ、初手を指す。全てマウスだけで操作できる。
「こうやって対局するんだ。同じぐらいの点の人なら、15点ぐらい移動する。最高でも30点までしか移動しない。わかった?」
「何となくわかりました……ただ」
「ん?」
「その矢印は、どうして動いているんですか?」
「え?えーこれはね、このマウスを動かすと……」
「マウスってどれですか」
「……わかった。パソコン講座から始めよう」
「……すみません」
 結局、一日目午前はパソコン講座に費やされてしまった。月子さんはパソコンを触るのも初めてで、キーボードやショートカットという言葉から教えなければならなかった。そしてその中でわかったのだが、月子さんは中学校にもあまり行っていなかったようだ。今ではだいたいの学校にパソコンがあり、授業で使い方を教えるものだ。しかし月子さんは、何も知らない。
「毎日どうしてたの」
「……私……」
「言いたくない?」
「……私、不登校だったんです。最初は午後になるときつくて……。だんだん午前から保健室に行くようになって、学校にも行かなくなって……。どうせ家にいるんなら、仕事を手伝えって言われて……」
「そっか」
 月子さんはコミュニケーション自体が苦手そうだと思っていたが、その原因の一つが分かった気がした。元々苦手だったのだろうが、それを何とかしてやろうとした人がいなかったのだろう。ずっと家にいて、親の言いなりになって、他の人と関わらなかった。せっかく将棋が強いのに、全集ばかり読んでいた。
「強くなるには、人と関わる必要があるよ」
「……え」
「勝負は盤上だけじゃないんだ。手つきとか、指し手の早さとか、呟きとか、水分補給のペースとか。そういうことから色々読み取れるようになって、初めて勝負師になれるんだ」
「……私……そういうの苦手です」
「やるしかないよ」
 偉そうに言っているが、僕も苦手だ。どちらかと言うと、うまいこと読み取られている方だろう。だからこそ、月子さんにはそれを乗り越えてほしい。
「まあ、そんなこと言ってネット将棋から始めるわけだけどね。最初は、いろんな将棋を経験することが大事。他のことは、まあ追々」
「はい」

 昼食は二人で作った。何となくいつも通り朝食は抜いてしまったが、月子さんは何も言わなかったので、金本家も朝食はなかったのかもしれない。月子さんは米を研ぐのはうまかったが、包丁の使い方は危なっかしかった。野菜炒めと簡単なスープを食べた。
 昨日は慌ただしかったので気が付かなかったが、この家でテーブルに向かい合ってご飯を食べるというのは本当に久しぶりだ。かつて目の前にいた人を思い出し、少し胸が痛くなる。
 午後はいよいよ実戦である。パソコンにはまだ慣れていないようだが、とにかく今はネット道場にログインして、将棋を指すだけのことができればいいのだ。
「まずは名前を作らないと」
「……えーと」
「いや、あのね……」
 月子さんはハンドルネームの欄に「Kanemoto Tsukiko」と打ちこんでいた。
「……何か問題が……」
「本名がまるわかりだとちょっと。奨励会に入ってからも使いたいし」
「そうなんですか」
「うーん、なんかこう、好きなものとか組み合わせてみて」
 月子さんは首をひねって考えていたが、しばらくしてから「TomatoMama」と打ちこんだ。
「どういう意味?」
「……トマトとお母さんが好きだから」
「まあ、それでいいや」
 とにかくハンドルネームを作り、レーティング対局室に入場することができた。最初は2000点から始めることにした。これはだいたいアマ四段くらいの点数と言われていて、今の月子さんならば過大申告ということはまずないだろう。
「えっと……ここからどうするんでしたっけ」
「持ち時間を選んで待つんだ。いっぱい指せるように、『早指待』にしよう」
「はい」
 昼間は人が少ないので、すぐに挑戦者が現れるというわけではない。
「来ないね。こちらから挑戦しよう」
「どの人にすればいいんですか」
「だいたい前後百点以内の人と指すからね。その、UMAMANIAって人にしよう」
「はい」
 月子さんが挑戦したのは、2078点の人だった。TomatoMamaが先手になり、挨拶を済ませ対局が始まる。
「あの……」
「どうしたの。助言はしないよ」
「盤が……変な感じです」
「……ん?」
 最初、月子さんの言わんとしていることの意味がわからなかった。しかし、月子さんがデスクトップの角度を一所懸命調整しようとしているのを見て、納得した。
 普通、将棋は見下ろして対局する。そのため、当たり前だが、相手陣になるほど遠く見える。しかしパソコンの画面は縦向きであるため、相手陣が上で自陣が下側になる。月子さんはその風景に戸惑っているようなのだ。
「これ……倒せませんか」
「残念ながらそういうわけには……慣れるしかないね。最近ではネットの公式棋戦とか指導対局もあるし、プロになるには必要なことだよ」
「……わかりました」
 月子さんは下からのぞきこむようにして、何とか対局を続けた。将棋自体は相手の四間飛車に対して急戦がうまく決まり、問題なく勝ちそうだった。この戦法は、小川名人が得意としていたものだ。まあ、教科書が一つしかなかったのだから、当然小川流しか指せないのだが。
「あ」
 月子さんの駒が完全に相手を抑え込んでいき、嫌になったのか中盤のうちに相手は投了した。終わりの「ありがとうございました」のあいさつを終え、すぐに相手は去って行った。
「うん、まあここらへんはすぐかな」
 あきらかに実力が違う、という感じだった。それでなくてはプロなど目指せないというものだが。
「今ので14点だね。この調子で2400までだ」
「はい。頑張ります」
 この後二局指したが、どちらも快勝だった。月子さんの点数は2046点まで上がった。
「まあ、もうちょっとしたら苦戦するようになるよ」
「……あの……」
「ん、どうした」
「この人たち、父より……」
「まあ、どうでもいいじゃないか」
 2000点というのはアマではかなり強い方ではあるが、県代表クラスというわけではない。ほとんどの人は六段など持っていないだろう。
「君はお父さんよりはるかに強くなるんだろ」
「……はい」
 金本のおじさんは、六段の実力などないのだ。四段も怪しい。月子さんにとって、それがわかってしまうのは悲しいことだろう。
 しかし、現実を見なくてはいけない。
「将棋に関しては、上だけを見るんだ」
「……はい」
 月子さんは、これから多くのものを見なくてはいけなくなる。汚いものも、無意味なものも。



 ぎこちないながらも、二人の暮らしは確立されていった。
 食事を作るのは当番制で、主に朝食が月子さん、それ以外が僕だ。以前はコンビニ弁当なども多かったが、食費節約のため自炊するようにした、というのは月子さんには内緒だ。
 大変なのは着替えや風呂である。朝、七時の目覚ましで二人とも起きる。そして僕は風呂へ。その間に月子さんが着替え、僕もシャワーを浴びた後そのまま着替える。夜は月子さんがシャワーに行くと、僕は散歩に出かける。恋人でもない女の子がうちでシャワーを浴びている状況は、どうにも落ち着かないのだ。
 テレビはほとんどつけなくなったし、コンポもほとんどがオフのままだ。四六時中将棋の勉強というわけではないが、お互いに邪魔になることはしない、というのが暗黙の了解になっている気がする。
 一週間もすると、この生活にも慣れてきた。少し楽しくなった気さえするのは、一人きりの生活に疲れていたのかもしれない。ただ、八日目の夜、食事をしながらついに月子さんは当然の疑問を口にした。
「あの……先生の対局っていつなんですか」
 僕はしばらく、瞬きを繰り返した。自分にとっては当たり前のことになっているが、世間から見ればあまりにも休みが多いというのが実情だろう。負けている棋士は、ともすると一ヶ月以上対局がないのだ。
 けれども僕は。
「……今回はちょっと間が空いてね。ちょうど明日、あるんだ」
 しょうもない嘘をついてしまった。本当は来週までない。弱いプロであるということを知られたくないということもあったし、ただ単に見栄を張りたかっただけというのもある。
「そうなんですか。頑張ってください」
「ああ」
 そんなわけで、次の日は朝から出かけなくてはならなくなってしまった。月子さんは精いっぱいの笑顔で、「いってらっしゃい」と言って僕を見送った。胸の真ん中あたりが、ずきずきと痛んだ。
 普段からほとんど家にいるので、四年もいるのに東京のことをあまり知らない。買い物もしないし、遊びに行くこともない。とりあえず足は駅に向いているが、全く行くあてがなかった。
 気が付くと、一番慣れ親しんだ路線に乗り、いつもの駅で降りていた。ここまできたらもう、あそこに向かうしかない。僕らの職場、将棋会館に。
 対局を装って出てきたので、本当の対局者たちがちょうど入っていくところだった。そういえば今日はC級一組の対局日だ。他にも二次予選や女流の対局などもあり、会館の中は息苦しいほどだった。
「あれ、三東君今日対局あったっけ」
「いや、勉強に」
「珍しいねえ」
 プロになってから、対局も指導もないのに会館に来たのは初めてかもしれない。対局以外の仕事すら少ないので、多くの人が僕がいることに驚いている。僕だって来るつもりなんかなかったのだ。とりあえず、控室に行く。観戦記担当者やネット配信係の人が、忙しくいろいろと準備していた。
「おはようございます」
「おはようございま……三東君、どうしたの」
 僕は勉強に来ないという都市伝説でもあるのか、観戦記者まで目を丸くしている。
「いや、ちょっと勉強しようかと。一度くらい、活躍したいですからね」
「そうかあ、じゃあ、いいコメント頼むよ。東京は控室が静かなことも多くてね」
 たまに出入りはあるものの、対局がないプロは僕だけのようだった。こうなると僕の発言がネット解説に採用される確率が非常に高くなってしまう。
 どうせ午前中はあまり指し手も進まない。ちょっとした雑談や戦型の解説などをして、十一時過ぎには控室を出た。なんとなとく、昼食休憩になる前に控室を開けるのが礼儀と思ったからだ。
 会館を出て、ぶらぶらと歩く。別に戻らなければならないこともないが、相変わらず行き先も思いつかない。ふと見上げると、高くそびえる緑色のネットがあった。いつの間にか、野球場横のゴルフ練習場まで来てしまったようだ。そういえば、ここのレストランでサンドウィッチを食べると強くなれると聞いたことがある。
 ふらふらと、店に入っていった。普段そんなものは信じないのだが、今日はちょっとすがってみたい気分になった。
 一人でいることが多いのに、一人で食べることが苦手だ。サンドウィッチが出てくるまでの間、ずっと意味もなく携帯を眺めていた。待ちうけになっている近所の猫が、こちらを睨んでいる。
 サンドウィッチがきて一口食べたとき、月子さんのことを思い出した。毎日三食一緒だったので、変な気分だ。月子さんも、一人の食事に戸惑うだろうか。それとも、食べるのも忘れて将棋に打ち込んでいるだろうか。
 嘘をついて外出して、ぼんやりと昼食を食べている。なんか駄目な父親みたいだ、そう思った。金本のおじさんもこんな感じなのだろうか。それとも、真面目にやっても駄目な人なのだろうか。
 耳の奥で、あの時の声が蘇る。「戦わなくなったから、もう追いかけられない」
 そして、彼女は去った。
 そう、僕は今日も逃げ出している。月子さんから、そして控室から。
 食べているものの味が分からなくなった。思い出すこと全てが、後ろ向きだ。
 僕は字がうまかった。けれどもみんなそのことを知らなくて、習字で賞をもらった時、クラスが騒然となった。
 僕はバスケがうまかった。けれどもみんなそのことを知らなくて、体育の時間、クラスが騒然となった。
 だから、僕が将棋が強いなんてことも、誰も知らなかった。僕が将棋の用事で休んだ時、みんなが嘘だと思ったらしい。
 ただ彼女だけが、僕のことを知っていて、信じてくれた。だから、頑張れた。降級もしたし、三段リーグで負けが込んだこともあった。それでも僕がプロになれることを信じてくれる人がいたから、僕は強くなろうと思った。
 自分のためではなく。
 プロになった僕は、もう無理がきかなくなっていた。認められたい、そんな思いが僕を将棋に向かわせていた。けれども気が付くと、僕のことを知る人は将棋関係者ばかりになっていた。本当の僕を知らない人たちは、僕とは関係ない人たちになっていた。
 目標のなくなった僕は、近年まれにみる弱い若手になってしまった。そんな僕に愛想を尽かし彼女も去ってしまい、さらに僕の意欲はなくなってしまった。
 もう、いいと思っていたのだ。先輩にあきれられようが、後輩に笑われようが、僕はプロとして生きていける。名誉も金もなくても、地位だけを守れさえすれば。
 それなのに、月子さんのせいで。あんなにも純粋な思いで、そのくせ金のために強くなりたいと願う姿に、僕の心は常に揺さぶられてしまう。何とかしてやりたいという思いは日々大きくなるのだが、それとともに自分のふがいなさを実感してしまう。月子さんが来て以来大きく生活が変わったという事実は、僕がいかにいい加減な日々を送ってきたかということを示している。将棋にあてる時間は少なく、夜更かしばかりして、食事も適当で。勉強して強くなるとは限らないが、こんなんじゃ弱いのは当たり前だ。
 僕が会館に現われただけで驚かれたのも、単に珍しいから、というだけではないのだろう。本当に真剣に強くなろうとしている人たちは、僕の意識が低いこともお見通しなのだ。そんな僕が、何をしに来たのだろう、と思っているに違いない。
 何とかしなければ、本当に駄目な人間になってしまう。そう思うのに、店を出た僕の足は会館に向かわなかった。怖かった。大事な局面での意見を求められることが、控室にいる他の誰かが、僕の気付かない手を発見することが。僕より若い子が、僕の上のクラスで勝ち誇る姿を見ることが。
 あてもなく電車に乗り、乗り換えて、戻って、ホームでボーっとして、また乗った。いつの間にか窓の外が暗くなっていた。そろそろ帰ってもいい頃か、と思った。

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