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第二章



「三東君」

 控室で検討をしていると、突然声をかけられた。振り返ると、そこには夏目七段がいた。がっしりとした体に白髪交じりの髪、とても男らしい。奨励会幹事を努めている、とても真面目で熱い先生だ。

「はい」

「……彼女は、何者なんだね」

「金本のことですか」

「ああ」

 夏目七段は、僕の目の前にどっかりと腰を下ろした。話は長くなるかもしれない。

「私が幹事になって、初めての女性でね。まあそれはいい。けれどね、誰も彼女のことを知らないんだよ。対局どころか、見たこともないというんだ。そのくせ、すごく強い。試験の将棋は圧勝だったよ。しかも師匠が君というのは……まあ意外でね。みんな、気になっててね」

 何となく予想はしていたが、いざその時になってみるとなんだか気まずい。将棋界は閉鎖的な、狭い社会だ。だから、異質なものにはひどく敏感なのだ。

「金本は故郷が同じで、彼女の父から頼まれたんです。事情があって大会に出ることができなくて、実戦経験は少ないんです」

「ふうむ。まさか現代社会にそんな逸材が隠れているとはねえ」

 確かに、最近の子供はどんどん大会に出て、ある程度実績を積んでから奨励会を受験する。みんなを驚かせたというのも、なんとなく、悪い気はしない。僕がどこまで助けられたのかは分からないが、弟子を褒められるというのは嬉しいものだ。

「彼女は注目されるよ。絶対」

「できれば、見守ってあげてほしいです」

「努力はさせてもらうよ」

  月子さんが奨励会に入って以来、僕に対する視線も変わったような気がする。これまでは、その他大勢の一人にすぎなかった。成績もいまいちなら、普及も熱心 ではない。研究会にも参加せず、グループを作るでもない。そんな無印の僕が、突然得体のしれない弟子を放りこんできたのだ。そりゃびっくりするだろう。

「よろしくお願いします」

「まあ、本人次第だけどね。でもなんか、すごく懐かしい感じの将棋を指すよね。重厚で、ゆったりした……」

「そうですね」

「まあ、君も弟子に負けないように頑張らないと」

「はい」

「ああ、対局の途中なんだ。また今度」

「ではまた」

 再び一人残された控室の中で、僕はぼんやりとしていた。僕はいつだって、何をしたって、注目されなかった。それが突然、自分の力以外でこうして声をかけられている。

 午後からは、講師の仕事だ。それが終わるとまた、十日間仕事がない。……その間は、師匠の仕事に専念できるということだ。




「先生、両親は夜逃げしました」

 夕食が終ると、突然月子さんはそんなことを言った。僕には、返す言葉がなかった。

「……隣の人に電話してみたんです。……勝手に電話使ってごめんなさい」

「いや、それはいいけど……」

「なんか、すごく悲しいです。でも、ちょっとだけ安心しました。荷物を持って逃げたってことは、生きようとしていると思うから……」

 とても口には出せないが、月子さんにとって何が一番いいことなのか、わからなかった。両親が生きている限り、借金も残っているのだ。

「一度でいいから、家族三人で普通に暮らしたいです……」

「月子さん……頑張れば、できるよ」

「はい」

 月子さんの顔には、不安や悲しみ、そういったものが浮かび上がっていた。この四カ月ほど、僕なりに精いっぱいのことをしてきた。けれども僕は、結局は月子さんにとって他人なのだ。たまたま師匠になっただけの人間には、彼女の心を癒してやれるだけの力がなかった。

 僕は大人なので、わかってしまう。月子さんの両親は、これ以上娘を支え続けることができなかったのだ。夜逃げに娘を連れていくだけの覚悟がなかったのだ。だから娘の良心に付け込んで、博打のような勝負の世界に放り投げてしまったのだ。

 月子さんも大人になっていく。いつ本当のことに気づいたら、どうするだろうか。将棋なんかやめてしまうだろうか。その時僕は何と言うだろうか。何か言えるだろうか。

 なんとなく、だけれど。きっと多くの人がベテランになってから弟子を取るのは、子育てで予行演習ができているからなんだ、そう思った。今の僕には、十五歳の少女を導くだけの逞しさはない。共に苦しみながら道を切り開いていくしか、ないのかもしれない。




「おかえり」
「……」
 なんとなく普通にはいかないことは分かっていた。今日は、奨励会の例会の日。月子さんの顔色は予想以上に悪かった。
「どうだった」
「……辛いです」
「勝てなかったの?」
「……知らない人といるのが、怖いんです……」
 月子さんは腰を下ろすと、テーブルに上半身を委ねた。
「そっか」
 大丈夫だよ、とは言えなかった。かつての自分も大丈夫ではなかったから。
「……私、もう行きたくないと思ってます。駄目ですよね……」
 僕は、月子さんの背中を叩いた。
「そのままじゃ、駄目だね。でも、急に治るもんじゃないよ。僕は、心を閉ざした」
「先生……」
「まず、勝つことだ。多くの人は、奨励会からいなくなる。友達になる必要はない。無理をしてまでは」
「でも……」
「君は目立ってる。それは確かだよ。でも、勝つことは目立つことなんだ。ずっと続く。観客がいないだけましと思わなきゃ」
「……努力します」
 先は長いが、あきらめればすぐに終わってしまう。将棋は強くなる一方でも、心を強くするのには時間がかかるだろう。月子さんは、乗り越えていけるだろうか。
 全ては彼女次第だ。僕にできることは少しだけ。そして僕は、誰にも助けてもらえなかったが、何とかプロになることができた。
 温かい紅茶をいれた。それが、僕に出来ること。





 将棋界で一番長い日、と呼ばれる一日がある。A級順位戦最終日のことだ。将棋界において最も強いであろう十人が、名人挑戦、そしてA級残留をかけて戦う。その様子はテレビで中継され、多くの将棋ファンがリアルタイムで見守ることになる。
 だが、C級二組の最終日も、同じぐらい長いのだ。対局が多い分、ドラマの数はケタ違いである。
 僕は結局、二勝七敗でこの日を迎えてしまった。順位も悪いため、降級点回避には勝利と運が必要になっている。
 先日、月子さんは4級に昇級した。相変わらず行くこと自体はつらそうだが、実力からして妥当な結果だ。一方の僕は、月子さんがプロになる頃には順位戦から姿を消していそうだ。そんな情けない事態だけは、絶対に避けたい。
 今日の相手は朝田五段。僕より二年先輩で、毎年昇級争いをしている強い若手の一人だ。テレビ棋戦でベスト4に進出したこともある。現在八勝一敗。僕に勝てば文句なく昇級、という状況だ。
 朝の喧噪の中で、「朝田君は決まりだな」という声が聞こえてきた。みんな心の中では、そう思っているのだろう。威勢のいい棋士と、勝率三割の棋士。誰が見たって、どちらが有利かはわかるというものだ。
 それでも。それでも、このまま降級点を取るわけにはいかないのだ。たとえ大した目標がなくても、落ちていくことだけは嫌だ。順位戦からいなくなれば、また元のその他大勢に逆戻りしてしまう。何のためにプロになったのか、わからなくなってしまう。朝田さんの心に、そしてみんなの記憶に大きな傷を付けたい。
 気持ちと高まりとは別に、将棋は淡々と進んでいった。角交換振り飛車のよくある形。流行り始めの頃かもにされまくったので、この戦型に関してはかなり研究した。朝田五段も自信があるのだろう、小刻みに時間は使っているが、考えているというよりは確認しているようだ。
 順位戦の時間は、世間と切り離されて進んでいく。ときには驚くほどゆっくりと過ぎるが、難しい局面になると驚くほど速く走りだすこともある。昼食休憩が過ぎ、夕食休憩が過ぎても、室内は静かだった。いつもならば数局が終わっているものだが、今日はまだどこも熱戦が続いているようだ。これだけの人が黙々と将棋を指す。観客はいない。将棋とは何と異様な競技だろうか。
 午後七時半。ついに未知の局面に突入した。駒損で攻める振り飛車、争点をずらしながら受ける居飛車。玉頭も戦場になり、非常にややこしいことになってきた。どこかで反撃しなければ、受け切って勝つような将棋ではない。
 午後九時。ごちゃごちゃした局面の中に、一筋の光明が見えた。桂馬を二枚捨てる筋で、一気の寄せが狙える。ただ、駒を渡すだけに読み抜けがあったら一気に負けになる。最後の持ち時間を使って、慎重に読んだ。そして、いけると思った。詰みまで読んだ。祈ってもいないのに、神様に感謝すらした。
 読み筋通りに進んでいく。朝田五段は相変わらず淡々と指している。まるで、結果は分かっているかというように。
 午後十一時。いよいよ、最終盤。あとは、詰ますだけだ。心の震えを抑えるため、小さく息を吐いた。後は作業だ。そう思っていた……
 王手の連続に、必然の応手だと思っていた。けれども浅田五段は、そんな僕をあざ笑うかのように、その残酷な一手を指した。
 8五同飛不成。しばらくは意味がわからず、そして、愕然とした。なんとこれで、打ち歩詰めになっているのだ。当たり前のように飛車は成るものと思っていた。盲点にはなる。けれども、プロならば読まなければいけない一手だ。
 もう、勝ちない。修正する順も思い浮かばない。けれども、こんな格好のいい一手で終わらせたくはなかった。不成を僕が読んでいなかったことを吹聴するような投了図には、絶対にしたくなかった。結果、棋譜を汚してしまう。僕は、どこまでもプロ失格だった。
 午前零時三分。終わった。
 朝田五段は昇級し、僕は降級点を取った。完全な勝者と敗者のコントラストが描かれた。

 




 三月の終わり。三東家の食卓には、小さなホールケーキが用意された。今日は、月子さんの十六歳の誕生日だった。

 月子さんは目を丸くしてケーキを見ている。喜ぶとかではなくて、得体の知れないものを発見したかのような感じだ。

「ケーキの本体を初めて知りました」

 実は僕は甘いものが苦手なので、ケーキはほとんど月子さんが食べた。おいしそうに食べる女の子の顔を見ると、僕の心も少し柔らかくなった。

「月子さん、十六歳の目標は」

「……初段になります」

「よし。頑張って」

 何気ない、やり取りのつもりだった。けれども、月子さんは思いがけないことを言ってきた。

「先生の目標は、なんですか」

「え」

「……聞いたことなかったから……。教えてもらえませんか」

 まっすぐな瞳で問われて、戸惑う。何と言えばいいのか、考えた。

「……とりあえずは、五段かな」

「きっと、すぐですね」

 月子さんは僕の成績のことがよくわかっていないのだ。昇級でも勝ち星でも、五段はまだ遠い。

 僕の心の中に浮かんだ本当の目標は、「せめて勝ち越し」だった。それすら大変な目標だということは、情けないが、真実なのだ。

「来年の今日は、もっといろんなことを祝えるようにしよう」

「はい」

 そう。笑われるかもしれないけれど、一分でも勝率五割を超えていたら、僕は僕を祝いたい。そう思わせてくれる弟子に感謝したい。



 なんだか、妙な気分だ。

 初めて会った日から一年とちょっと。師匠と弟子として一緒に暮らしてきたが、親子のようであり、兄妹のようでもあった。二人とも世間に触れるのが苦手で、家にいるときに安心しているのだと思う。たまにどちらかが仕事で出かけるときはあるが、私用で不在にすることはほとんどない。

 そんな二人が今、将棋会館の同じ部屋にいる。

 月子さんは、挑戦者決定リーグ戦の記録係だ。持っている中で一番かわいい服を着て、机の前にちょこんと座っている。僕は別のタイトルの一次予選一回戦。

 月子さんが、僕の仕事している姿を見るのは今日が初めてだ。すでに他の人から聞いて僕の弱さなど知っているのかもしれない。けれども今日だけは、堂々と勝ちたかった。月子さんの目指す強いプロの幻想を、僕の中にも見てほしかった。

 相手は沢崎九段。高級そうなスーツと腕時計が目につくが、今はそんなに儲けていないはずだ。タイトル獲得二期、A級在位四期の立派な先生だが、最近は全く勝てなくなっている。四十六歳とまだ老け込む歳ではないが、無理気味の勢いに任せた攻めは精度が落ちてしまったようだ。

 若手は、勝たなければならない相手だ。

 とはいえ、相手も僕には勝たなければならないと思っているだろう。

 序盤から、沢崎九段は気合十分に突っ張った手を指してきた。相居飛車で乱戦になると、あっという間に勝負どころが来てしまう。若手相手だと、研究にはまらないようにこういう将棋を仕掛けてくるベテランの先生は多い。

 僕は、用意していた缶コーヒーを飲み干す。効用はよくわからないが、頭がすっきりしたような気になる。

 できるだけ盤面に集中しようと思うのだが、月子さんのことも気になる。今のところそつなくこなしているようだが、この先も大丈夫だろうか。これまでは短い将棋ばかりだったが、今日の対局は遅くまでかかるかもしれない。果たしてそこまで体力が持つだろうか。

 僕が長考しているうちに、夕食休憩になった。今日は出前を取ってもらっている。だが、すぐに食べる気にはならず、廊下のソファーに座っていた。

「つっこちゃん今度さ、うちの研究会来ない」

 どこからか、聞き覚えのある声がする。少し記憶をたどってみたが、すぐには出てこなかった。

「……え……私、そういうのよくわからなくて……」

「いやまあさ、対局したり検討したり、ご飯食べたりゲームしたりするんだ。皆川さんも参加してるしさ、考えといてよ」

「……はい」

 皆川さんとは、皆川女流1級のことだろう。それで思い出した。あの声は、最近高校生で四段に上がった辻村君だ。奨励会ではほぼ入れ違いで、しかも声変わりする前だったのでうろ覚えだったのだ。皆川さんは彼の姉弟子になる。

「また詳しいことは連絡するしさ、メアド教えてよ」

「……メアド……は……ないです」

「え、携帯は?」

「……持ってないです」

「じゃあ電話は?」

「一応……。先生が出るかもしれませんが」

「……えっと……まあいいや、じゃあ電話番号教えてよ。またかけるからさ」

 僕は、席を立ちエレベーターに向かった。なんだか、これ以上は聞いていられないと思ったのだ。当たり前だが、月子さんにも彼女だけの人付き合いがある。同世代との関わりも大事だろう。そんなことは頭ではわかるのだが、しかしどうしても違和感を持ってしまうのだ。僕以外と関わる月子さんは、月子さんでないような気がしてしまう。

 会館の外に出て、思い切り息を吸った。わけのわからないもやもやを、何とか中和したかった。

 空から、雨粒が落ちてきた。ひどく気分が悪くなって、すぐに会館の中に戻った。

 味気のない蕎麦をさっさと食べ、盤の前に座った。よく見てみると、自分の方が随分と優勢になっている。何かにとらわれていては、一目でわかることも見えなくなってしまうようだ。ただでさえ少ない対局を、雑念で落とすわけにはいかない。

 長年そうしてきたように僕は、対局室の中で孤独を噛みしめた。しかしあろうことか、朱里のことを思い出してしまった。家に帰ると、僕は孤独ではなかった。……朱里は孤独だった、そう言ったのだが。

 ぐちゃぐちゃした思考が渦巻く中で、対局は再開された。まだ持ち時間は余っていたが、僕は思いつくままに次の手を指していった。形勢は揺れ動いたのかもしれないが、気が付くと相手玉に必至がかかっていた。沢崎九段のつむじが見える。

「負けました」

 今までで一番いい勝ち方だ、そう思った。そう思いたかった。

 僕らが感想戦を終えても、月子さんのところはまだ終わっていなかった。僕は部屋を出て、そのまま会館も出た。


 なんだか、おかしなことになってしまった。

 夜中、月子さんはタクシーで帰ってきた。辻村君に送られて。

 そして、そういうことに慣れていない月子さんは、何とかお礼をしようと辻村君を家に連れてきた。そして辻村君は、僕の顔を見るなり口をあんぐりと開けて固まってしまった。どうせいやらしい期待でもしていたのだろう。

「……本当に……一緒に暮らしていたんですね……」

 ようやく出てきたのは、そんな言葉だった。

「色々とあるんだ。まあ、上がりなさい」

 考えてみると、この部屋に三人入っているのは初めてだ。四角形の机に対して、どのように座ればいいのかから悩んだ。僕と辻村君が向かい合うことになった。

「あの……先生……」

「ん?」

「私タクシー代持ってなくて……」

「まあ……辻村君、そういうつもりじゃなかったんだろ」

「え、ええ……」

「どういうつもりだった?」

「え?いや、何も……」

 つい、意地が悪くなってしまったが、相手が高校生だということを思い出し反省した。

「ここからどのくらい?」

「あ、そんなにかからないです」

「じゃあ、これで帰れるかな」

「え、いや……これは……」

 僕は、戸惑う辻村君の手の中に、千円札を押しこんだ。

「コーヒー飲む?」

「え、はい、いただきます……」

「月子さんも飲む?」

「はい」

「じゃあ、待っててね」

 僕が台所に来ても、二人は黙ったままだった。辻村君は、さぞかし居心地が悪いことだろう。

 色々と疲れた。僕らは、無言のままでコーヒーを飲んだ。月子さんだけが、いつもと同じ顔をしていた。




 まず感じたのは、匂いだった。

 小さい頃はそれが何なのか分からなかったが、今ではわかる。カツオの匂いだ。

 名古屋駅には、思い出がある。

 小学生の時、一度だけ県代表として大会に出たことがある。その時の会場が、中部地方だった。初めて新幹線に乗っての旅行は、とてもわくわくしたのを覚えている。そして降り立った名古屋駅は、どこまでも、何番線もホームが続いているかのように見えた。

 それ以来、一度もこの駅に降り立つ機会がなかった。今ではホームの多さにも驚かない。当時よりは匂いも薄い気がする。

 あの時はさらにここから随分と電車に乗ったが、今回は名古屋での仕事だ。駅近くのホテルに泊まることになっている。

 チェックインを済ませ、ぶらぶらしてみることにした。仕事は明日だけなので、今夜は完全に自由なのだ。他の先生たちはどうしているのか知らないが、僕はだいたい遠征のときは当てもなく一人で歩き回ることが多い。偶然発見したものの中に面白さを見つけるのが好きなのだ。

 名古屋の街は、思ったよりも落ち着いていた。道が広いからそう感じるのかもしれないが、全体的に余裕が感じられる。きんきらきん、結婚ではスケルトン家具トラックのイメージとはちょっと違う。今のところ。

 狭い道も歩いてみる。ゲームセンターや洋服店、よくわからない店。こういうところは、どこの街も似通っている。

 多くの人とすれ違う。その中で、一人のふらふらとした足取りの男に目がいった。顔はあからんでいて、見るか らに酔っ払いだ。最初、何故その男に注意が引かれたのか、よくわからなかった。どこにでもいるような、普通のおじさん。けれども僕は、その人を知っている ようなのだ。

「金本の……おじさん」

 自分の理解にしばらく納得できなかった。借金取りから逃げた男が、偶然僕に見つかるなんてことがあるだろうか。しかし、結局は納得せざるを得なかったのだ。顔の形、目つき、髪の癖、そういうところが月子さんとよく似ているのだ。

「金本さん!」

 僕の声に反応して、おじさんは千鳥足でこちらに寄ってきた。次第に安っぽい酒の匂いが漂ってくる。

「……誰?」

 おじさんは僕の顔を覗き込みながら、たどたどしく言う。

「わかりませんか」

「……うーん、わかんないなあ」

「三東です」

「……さんとう? ……三東……幸典君?」

「はい」

「いやあ、大きくなったねえ」

 おじさんは僕の肩をばんばんと叩いた。

「プロなんでしょ……すごいなあ」

「いえ、そんなことは」

「こんどまた指してよ、もう勝てないだろうけどさ」

「……おじさん、どうしてここに」

「……」

 心の中で、様々な感情が渦巻いているが分かった。けれども、僕はできるだけ平静を装い続けた。

「名古屋に住んでるんですか」

「あ、ああ。まあ、気分転換ってやつかな」

 僕はあっけにとられそうなのを我慢した。

「なぜ月子さんに知らせないんですか」

「……幸典君、月子から聞いたのか」

「……聞いたのか、って、何故聞いていないと思うんですか」

 二人の視線が、しばらくぶつかり合った。おじさんの顔が、白くなっていく。

「まさか……幸典君、月子を本当に……」

「まさか? まさか? 何を言ってるんですか」

「ああでも言わないと、出ていかないと思ったんだ……。高校にやる金どころか、何も買ってやれなかった。東京に出ていけば何か仕事もあるだろうし……」

「ふざけるな!」

 イメージの中では、おじさんを殴り飛ばしていた。けれども僕の拳は、腰の横で震えるだけだった。人の殴り方を知らなかったのだ。

「月子さんは本気でプロになろうとしている。あんたの借金を返すためにだ!」

「……月子が……プロを……」

「見込みはある。……けど、どうするんですか」

「……え?」

「まだ保護者の意見を聞いていません。月子さんにどうなってほしいですか」

 しばらく挙動不審に陥っていたおじさんは、突然しゃがみ込み、土下座をした。

「頼む!月子をプロにしてやってくれ!」

「……なんのために」

「月子が一人前になれるなら、ぜひそうしてやってくれ!」

「……わかりました。手紙でも書いてやってください」

 頭を下げたおじさんの横を通り過ぎて、僕はまっすぐに歩いて行った。僕の一時的な感情は、僕の理性にこう訴えかけていた。「あんな奴のために、プロになることはない」と。




自分探しをする奴なんてバカだと思っていた。自分なんて、今ここにいるものでしかない、そう思っていた。

 この歳になって、初めて分かった。意味のないことでも、一度はしななければならないものなのだ。僕は今になって、自分を探している。

 月子さんは相変わらず、将棋に対しては真摯だった。だから、心配になる。本当のことを知ってしまったら、どうなるのか。

 考えれば考えるほどに、どうしようもない結論にたどり着いてしまう。

 僕らには、将棋しかないのだ。だから、将棋を頑張るしかない。




 本当によくわからない日々が始まった。

 何かを考えないためには、将棋しかなかった。誰に認められるためではなく、自分から逃れるために将棋に集中した。いや、これは幼い時もそうだったのかもしれないが。

 読めるだけの専門書と棋譜を読み、コメントを書き込んでいった。これは、弟子から見習ったことだ。会館にもよく足を運ぶようになった。月子さんと共に行くことも増えた。

 急に強くなることはないが、成績は少し良くなってきた。ぽっきり折れるような負け方が少なくなったのだ。初めてテレビ棋戦の予選も抜けることができた。

 逆に月子さんは初めての壁に当たっていた。誰もが経験することなのだが、駒落ちの上手がきついのだ。特に月子さんは駒落ちで指導してもらった経験なども少なく、定跡を外れたときの対処に不慣れな点がある。また居飛車党にとって香落ち上手は、どうしても飛車を振ることになり苦労するのだ。

 それでも控室で暇そうな先輩を見つけては熱心に教えてもらっているので、そのうちこの壁は破ることができるだろう。人に話を聞けるようになっただけでも、月子さんにとっては大きな前進だ。しかし本当にきつい壁は、その先にこそ待っているといってもいい。

 毎日が同じように過ぎていく。そして、それはある告知を先延ばしにしていくことを意味していた。毎日一度は考える。もし父親の本当の気持ちを知ったら、月子さんはどうするだろうか。それでも将棋を続けるだろうか。それでも借金を返そうと思うだろうか。もし将棋を辞めたら、月子さんは何を頼りに生きていけばいいのだろうか。その時僕は、何かしてやれるだろうか。何かしてやるべきなのだろうか。

 僕と月子さんの関係は、本当に言い表しにくいものになっていた。ほとんど毎日共に過ごし、同じことをして、多分嫌いではなくて。

 それでも思うのだ。僕と月子さんは、決定的に他人だ。だからこそうまくいっている部分もあるだろう。けれども、だからこそ一度歯車が狂えば、元には戻れない気がするのだ。

 きっかけは色々なところにあると思う。

「三東君」

 いつかのときと同じように、低い声で呼ばれた。振り返ると、やはり夏目七段がいた。

「はい」

「今日は金本さんは」

「今日は家にいます」

「そうか……ところで話なんだがね」

 やはり夏目七段はどっかりと腰を下ろした。

「金本さんは、女流棋士になる気はないのかね」

「ないようです」

「そうか……いやね、ほら、制度が変わって、育成会がなくなっただろ」

「そうですね」

「それで、なかなか新しく目指す子が入ってこなくて。金本さんならすぐに資格を満たすだろうし、活躍できると思うんだが」

 いつか、そういう話は出てくると思った。若くてかわいい女流棋士は、将棋界にとっての財産になるからだ。そして多くの奨励会員はプロになることができないが、月子さんは女流棋士になれるだけの実力は十分に持っている。

「夏目さん、彼女は女流棋士になれば、両親を養っていけますか」

「どういうことだい」

「金本には、それが必要なんです」

「……それは、将棋でなければならないのかな」

「将棋しかないんです。先生も僕も、そうじゃないですか」

 夏目七段は、深く頷いた。

「しかし……まだ誰もなれていないんだよ」

「それはきっと、彼女があきらめる理由にはなりません」

「そうか。すまなかったね」

「いえ」

 それがみんなの見解なのだろう、と心の中でつぶやいた。彼女の才能ややる気などではなく、彼女の性別がそう思わせるのだ。

 もちろん、そういう見方自体が障壁となるだろう。

 僕は、常に注目されない存在だった。だからこそ隙間を縫うように、ひょいと三段リーグを抜けることができた。けれども月子さんは、プロへの階段の全てがニュースになってしまう。 もしも僕が月子さんの本当の親ならば、将棋なんかやめさせる。本当に月子さんのことだけを考えてやれる存在ならば。けれども僕は、将棋の師匠なのだ。将棋以外の何も提示してやることはできないし、提示した時点で関係がない人になってしまう。

 夏目七段が去っていくと、僕は再び盤上に思考を固着させた。行ける所まで行くしかないのだ。今の僕らには将棋しかないのだと、何度も自分に言い聞かせる。


「あの……先生」

「どうしたの」

「観ませんか」

「何を」

「え……今日は、だって」

「あ」

 タイムラグというものを初めて実感した。今日は、僕の対局の放送日なのだ。

 月子さんが来てから、めっきりテレビの電源を付けることが減っていた。何となく月子さんの邪魔になることはしたくなかったし、月子さんの家にはテレビがなかったらしく、彼女にはテレビを観たいという欲求自体がないのだ。

 そんなわけで、まずリモコンを探すのに苦労した。テレビを点けたときには、すでに対局は始まっていた。自分がテレビの中にいるのは、とても不思議だった。

「あれ……ネクタイ、これ……」

「ああ、なんか途中で気が変わって、換えたんだ」

 初めてのテレビ。意識しないようにと考えても緊張するばかりだった。視聴率は1パーセントちょい、将棋ファンしか見ていないのだろうが、それでもやはり「テレビデビュー」というのは一大イベントに思えたのだ。

「やっぱり、普段とは違いますね」

「まあね。でも、対局始まると何もわからないよ」

「……そういうものなんだ……」

 画面の中の僕は、明らかに血色が悪く、強そうには見えない。他方、対局相手の貴島五段は気合十分の顔つきだ。前年度は三回戦まで勝ち上がっており、A級棋士と死闘を繰り広げていた、らしい。テレビ棋戦の全ての結果をいちいち確認しているわけではないのだ。まあ、普通のプロは毎週欠かさず放送を見ているのかもしれないが。

 将棋の中身は当然わかっている通りなのだが、解説の方は初見である。今回の担当はベテランの津曲八段で、独特の緩急のある口調でほとんど対局に関係のないことを話していた。

 相手の三間飛車に対して、オーソドックスな穴熊に潜る僕。よくある将棋だが、それだけに貴島五段の待ちうけるところでもあった。何気ない動きだと思っていた角引きが、遠大な構想の幕開けだったのだ。こちらが飛車先を破る間に、角を切っての端攻め。駒の損得で言えばこちらの大得なのだが、角は受けに利かない駒なのでもらってもそんなにありがたくない。その上穴熊はすぐには逃げられないので、端から攻められると一気に制圧されてしまう恐れがあるのだ。

「こんな攻め……あるんですか」

「感想戦では、少し無理という話になった」

 残念なことに早指しの対局では、最善手よりも勢いのある手の方が勝ちにつながりやすい。たった一つの正確な受けを秒読みの中で発見するのは大変なのだ。特に僕は早指しでの成績が悪い。終盤になるほどあたふたし始めて、指し手の関連性がなくなってくる。アマには悪い見本だ。

「なんかね……恥ずかしいな」

「でも、まだ5三角があるから……」

「え、それは……」

 只だよ、と言おうとしてハッと気が付いた。同龍の瞬間詰めろが消えて、しかも3五角が詰めろ龍取りになる。まあ同龍以外の変化もあるし、3五角から龍を抜いた瞬間が甘いということもあるが、それでも5三角は感想戦でも出なかった一級品の勝負手だ。

「……あるね。見えなかったよ」

「……でも、龍を取っても負けですね。……うーん……」

 実際には勝負手すらなく、攻め潰されて負けてしまった。貴島ファン以外には見所のない将棋だった。

「いやあ、せめてもうちょっといいところを見せたかったな」

「でも、テレビに出られるなんてすごいです。……いずれ、私も」

「そうだね」

 そういえば、僕が対局する姿をずっと見られるのはこれが初めてだった気がする。さすがの月子さんも、自分の師匠がどれほどしょっぱいプロなのか分かったことだろう。これからは、自分一人の力で這いあがっていく覚悟を持ってほしい。そのためにも、頼りない僕の姿を見ることも必要なかもしれない。



 朝十時。パソコンの前でそわそわする月子さんを見て、僕も緊張してきてしまった。やることは普段と変わらないのだが、多くの人が見ているとなればどうしても固くなってしまう。

 第二回竹籠商店街杯。インターネット道場で若手女性棋士がトーナメントで戦う棋戦である。女流棋士はもちろん、学生やアマのトップも参加しており、今回月子さんも「奨励会枠」で推薦された。

 月子さんにとって、女性と将棋を指すことも、非公式戦とはいえ連盟主催の大会に出るのも初めてのことだった。日本中の将棋ファンがリアルタイムで将棋を見るわけで、実質的な「お披露目の場」とも言えた。

 公平を維持するため、対局する姿はウェブカメラで撮っていなければならない。そのため、いつもより念入りにおしゃれをしなければならなかった。二人で悪戦苦闘して仕上げ、気合を入れて、今ようやくログインしたところである。

 対局は最初から三十秒の超早指し。一回戦の相手はアマ最強の小柴さん。いきなり実力が試される相手だ。正直なところ、最近はプロ女流棋士より女流トップアマの方が数段強い。小柴さんも招待選手としてプロの棋戦にも参加し、何回も勝利を収めている。

 画面右側に並ぶ、二つの動画。片方は月子さんを映している。落ち着きなく動くため、タイムラグも重なり画像がぶれている。もう一つは小柴さん。普段は公務員らしく、真っ白なスーツが似合っており、至って落ち着いているように見える。

 僕はカメラに映り込まないように、ロフトに上がった。僕が見えてしまうと、月子さんに対していらぬ疑いがかかってしまうかもしれない。観戦だけならば携帯でもできる。

 観戦者は現在五百人ちょっと。結構な数である。もしこれが会場ならば、その視線は相当なプレッシャーになるだろう。

 月子さんの先手で対局が始まった。相手は流行の中飛車。最近女流アマの間では本当にはやっている。月子さんは右銀をするすると上がっていく。最新形だ。研究していることがうかがえ、僕はうんうんと頷いた。

 秒読みということで、どんどん進んでいく。中盤に入る前に疑問手も飛び出していたが、まあ仕方ないことだろう。観戦チャットの方もそこそこ活発で、皆が月子さんのことを注目しているのが分かった。

 月子さんの攻めが、止まらなかった。途中から、大差になっていた。奨励会でもまれるということは、こういうことなのだと証明する形になったのではないだろうか。83手、月子さんの完勝だった。

 チャット上でどよめきが起こっていた。月子さんの将棋は、今までまったく公になっていなかった。他方小柴さんは、強い棋譜をたくさん残してきたのだ。その印象が、一局にして吹っ飛んでしまったのかもしれない。

 とは言え、月子さんは奨励会員、プロ組織の人間なのだからアマに勝って当たり前、と僕の立場上思わざるを得ない。問題は次だ。準決勝の相手は、皆川女流初段。辻村君の姉弟子であり、若手成長株の筆頭である。

 対局開始は午後一時。それまでに昼食を食べ、紅茶を飲んだ。

「どうだった?」

「大変でした。変な感じでした」

「でも、いい将棋だったよ」

「あまり定跡を知らなかったみたいなので……」

 何とも頼もしい言葉を聞けた。弟子の成長というものは、師匠の頬を緩ませるものだと知った。


 二局目。皆川さんは、紺色のブラウスを着ていた。胸元にはネックレス。髪は茶色に染められていて、眉毛も細くきりっと描かれている。月子さんとそれほど年齢は変わらないはずだが、全く違う人種だと感じた。

 対局開始早々、波乱が起こった。後手番になった月子さんが普通に角道を開けると、皆川さんは角を交換してきたのだ。そして3四角。筋違い角。アマチュアではそこそこ見かけるが、プロはまず指さない戦法だ。歩得はできるものの、手損した上に角を手放す。効率のいい戦法とは言えない。

 しかも、である。この戦法は振り飛車党に多用されるものだ。飛車を振りにくくなるからだが、居飛車党にとってはほとんど損がないのだ。定跡通を乱戦に持ち込むメリットぐらいしか思いつかない。

 月子さんはしばらく迷っていたが、普通に金銀を前に押し出して行く順を選んだ。正しい感覚だ。一歩損はしたものの、相手の角を目標にして行けば、後手の方が「わかりやすく」なるのだ。

 とはいえ、相手も指し慣れているのだろう。少々の抑え込みは甘受する方針のようだ。「指しやすい」「形勢がいい」いうのは、「勝勢」とは違う。特にこのような玉の薄い将棋は、あっという間に逆転してしまう。ひょっとしたら、普段からこの戦型を指している方が少しリードしながら対局は進んでいるのかもしれない。

 定跡を勉強する気にならない、と女流トップの一人が語っていたのを思い出す。どうせ定跡形にならないのだから、対局観や終盤力を磨いた方が役に立つ、と言うのだ。皆川さんの指し方は、そのことを実証しているかのようである。

「わかった」

 不意に、月子さんが声を漏らした。僕には、はっきりとした何かは見えなかった。

 端歩が突き捨てられ、歩が垂らされた。銀の横で、次に成っても取られてしまう歩だ。ただし、飛車で取ると角を打てる。つまり、潜在的な歩成りを残しつつ、飛車の動きを邪魔する歩なのだ。指されてみればなるほど好手だった。

 皆川さんは焦っているに違いない。指し手の方針が立てにくい局面だ。歩得していても、打つところがないので今のところあまり意味がない。突き捨てられた端を逆襲したいが、手数がかかるうえに隙ができてしまう。正確に指せばそれほど形勢は離れていないのだろうが、秒読みであること、そして月子さんが冷静であることが、皆川さんを追い詰めていると感じた。

 そして。予想通り皆川さんは暴発気味の攻めを選んだ。おそらく、月子さんの強さを実感し始め、心を乱してしまったのだろう。月子さんは冷静に受け止めていく。差はどんどん開いていく。

 結局、たらされた歩が成らないまま、全てを受け切って月子さんは勝った。まさに、完全勝利だった。

 ロフトから降りてパソコンを見ると、唇をかみしめる皆川さんの姿が確認できた。突然現れた女の子に負けたのだから、、そりゃ悔しいだろう。しかし先輩棋士としてなら、僕はこう言える。「月子さんの方が努力しているということだ」

 決勝戦までも少し時間があったが、弟子に対して何か言うこともなかった。次の相手は大学女流ナンバー1のアマだったが、きっと月子さんが勝つという確信があった。月子さんは、他の人間と目指す高みが違うのだ。たどり着けるかは分からない。しかし、しっかりと見据えて進んでいる。

 決勝戦の間、僕は本を読んでいた。そして一時間後、月子さんはしっかりと優勝した。

「おめでとう」

「ありがとうございます。……なんか、よくわかんないです」

「何が?」

「どれぐらいすごいことなのか……」

 チャットの方を見ると、月子さんの活躍に騒然としていた。それだけでもすごいことだが、決して実力以上の結果が出たわけではない。

「とりあえず、勝負だから勝ったら喜べばいいんだよ」

「……はい」

 月子さんは努力して、少しはにかんでみせた。それでいい。満面の笑みは、プロになってからでいいのだ。




 順位戦開幕局は関西将棋会館に遠征。名古屋以来トラウマになっていた僕は、前日の夜全く出歩かなかった。

 対局当日、福島駅から出ると、だいたい信号は赤だ。三分ほど歩くと、ぱっと見には普通のビルのような関西将棋会館。何となくだが、東京よりも僕はこっちの方が好きだ。梅田から歩ける距離なのに、それほど派手でないというのもいい。基本的に、東京よりも大阪が好きなのかもしれない。

 対局相手の黒澤五段は先に上座に着席していた。僕より少しだけ先輩で、三段リーグでも対戦経験がある。見た目の印象は、髪が細い人、だった。スーツの着こなしもいいし、ネクタイのセンスもいい。顔も整っているのだが、髪質だけがとても残念なのだ。本人もあきらめているのか、丁寧にセットなどしている形跡はない。

「三東君、弟子とったんやね」

 対局まであと数分だというのに、黒澤五段は気さくに話しかけてきた。まあ、関西ではよくあることだが。

「ええ、まあ」

「偉いなあ。弟子なんか、おっさんがとるもんやと思っとったよ。しかも女の子やろ。大変やろなぁ」

「まあ、対局があんまりないんで、少々の苦労は大丈夫です」

「なんや、自虐的やなあ」

 定刻になった。「ああ、仕事や」と言って、黒澤五段は両手で頬を叩いた。一礼をして、僕は初手を指す。黒澤五段はすぐに二手目を指した。

 そこから後は、のんびりとした調子で進んだ。気が付くと、昼食休憩の時間だった。なんとなくだが、今日は出前を取っていない。外食をしようと会館を出たところ、後ろから駆けてくる足音がした。

「三東さん!」

 振り返ると、そこには辻村君がいた。

「よかった。僕も食べに行くところなんです。ご一緒できませんか」

「……いいけど」

 この前と違って、今日の辻村君は朗らかな顔をしている。

「ちょっと歩くんですけど、コーヒーの美味しい店があるんです。紹介させてください」

「辻村君、お店に詳しいの?」

「中学までこっちだったんです。不真面目だったんで、普段からここら辺で遊んでました」

 そう言って得意げに笑う顔は、とても爽やかで高校生らしい。しかし遊んでいても高校生でプロになれたという事実には、少し腹が立つというところもある。

「あの……先日はすみませんでした」

「ん、ああ。月子さんを送ってくれたんだから、何も悪くないだろ」

「……でも、やっぱり、その。……僕、下心ありましたから」

「……正直だね」

 若いだけではなく、辻村君には天性の明るさが感じられる。きっと将棋を除けば、僕なんかとは全く違う世界にいる人間なのだろう。

「その、だから、すみません」

「告白とかすればいいじゃない。そういうわけでもないのかな。だったら怒るかもね」

 突然、辻村君は立ち止った。

「あの……ここです」


 それは、小さくて古い、いい感じの喫茶店だった。高校生が行くところとは思えないが。

「一人でよく来ました。で、ゲームするんです」

「ゲーム?」

「家では将棋の勉強してないと、親が不安がるから。僕は天才だから大丈夫って言っても、信じないんですよ。だから携帯ゲームを外でしてました」

 窓辺だがあまり光の入らない席に、二人腰かけた。建物に似合ったくたびれたおじさんが、水とメニューを持ってくる。

「これがいいんですよ、ビーフシチューセット」

「ふーん」

「これ二つでいいですか」

「任せた」

「おじさーん、シチューセット二つ。ホットコーヒーで」

 おじさんは返事もせずに料理を始めた。妙に愛想良くされるよりも、こちらの方が気が楽ではある。

「あの、それで……つっこちゃんのことですけど」

「うん」

「彼女は、何者なんですか。高校でも、将棋の世界でも、ああいう子は見たことがない。皆川さんも相当悔しがってましたよ」

 辻村君の目は、好奇心に満ちてきらきらしていた。わからないものに対しては恐怖することもあるが、強烈な好奇心を寄せることもある。特に男というのは、女性の未知なる部分に惹かれやすいのだ。

「それは、僕が説明することじゃないよ。君が研究すればいいことじゃないか」

「けん……きゅう?」

「得意だろ」

 ビーフシチューが運ばれてきた。小さなパンも添えられている。

「僕は苦手なんだ、研究」

「あの……」

「ただ……月子さんは、もっと苦手かもしれないね」

 二人はしばらく、食べることに集中した。まずくはないが、とても美味しいとも感じなかった。

 食後に運ばれてきたコーヒーは、とても好みの味だった。

「月子さんはね……ちゃんとした子供時代を経ていないと思う。そのことは、気にかけてやってほしい」

「……」

 帰り道は、将棋の話ばかりした。そういえば対局の途中だったと、ぼんやりと思った。

「みんなが進路を選ぶのを見ると、少し悲しかったんです。僕も、将棋以外の道があるかもしれないと、思ったりします」

 ふと、辻村君はそんなことを言った。天才なりの悩み、とは思わなかった。僕らは皆、あまりにも幼い時に職業を決めてしまう。そして、辻村君はまだ、取り返しのつく年齢だ。まあ、そういう理由で将棋界から去った人はほとんどいないのだが。

 月子さんは、まだ引き返せるのだ。

 どうやら僕は、月子さんのためと思っていたことに対し、疑問を感じているらしい。寂しかった時にたまたま現れた少女。何の躊躇いもなく僕に全てを頼ってくる存在。僕の方が、甘えていたのではないか。

「辻村君……君たちと接することが、あの子には必要だと思う」

「え……」

「……自分一人では決められないことを、決意しなきゃいけない日が来るかもしれない」

 月子さんにとって、プロになれないときの決断はどれほど厳しいものとなるだろうか。連盟としては女流棋士になってほしいようだが、彼女にとってはそれでは意味がない。しかし最近の月子さんには、純粋に将棋を楽しむ様子も伺える。彼女を両親の呪縛から解放し、将棋そのものを目的としてやることはできるだろうか。

 今のところ、彼女は僕に従うことしかしないのだ。僕が嘘をついても、簡単にそれを信じてしまうだろう。

 友人や、ときには恋人も必要だ。

「わかりました」

 会館に着き、僕らはそれぞれの盤へと別れて行った。

 将棋は、ペースが速くならないまま進んでいき、夕食休憩を過ぎてもほとんど駒がぶつからない展開だったが、突如黒澤五段が果敢に攻めだしてきて、それを丁寧に受けていたら投了された。

「あかんわ。なんか、今日の三東君、えらい落ち着いてるんやもん」

「いやいや、そんなことは……」

 自分でもよくわからないが、余計なことを考えているせいか、失敗を恐れることなく指せたのかもしれない。もしくは、本当にたまたま間違わなかっただけなのか。

 とりあえず、初めて開幕局に勝つことができた。順位戦で、初めて勝ち越しているのだ。


 買い物から帰ってくると、電気が点いていなかった。時間はまだ七時。靴はある。

「月子さん?」

 電気をつけた。下にはいない。見上げると、ロフトの中にこんもりとした布団があった。

「どうしたの」

「……」

 今日は奨励会の例会があった。そこで何かあったのだろうか。僕は梯子を上った。

「起きてるよね」

「……はい」

「ご飯は食べられる感じ?」

「……わからないです」

「何かあったなら、言って」

「……Bに落ちました」

 絞り出すような声だった。

 奨励会では、ある一定の悪い成績を取ると、Bというレッテルが張られる。ここでさらに一定の成績を取ってしまうと、降級するのだ。つまり今月子さんは、降級予備軍ということになる。

「僕なんか、何回も落ちたよ。降級もした」

「……時間が、ないんです」

「月子さん?」

「こうしてる間にも借金は増えて……。先生への借金も……。夢を見るんです。お母さんが、私に別れを告げて……海へ入っていって……。それなのに私は、プロになるどころか、勝ち越しすら……」

「月子さん、一つ教えておかなくちゃいけないことがある」

「……はい」

「挫折を知らないまま成功した棋士なんて、僕は知らない。大天才も、他の大天才に一回は打ちのめされている。だけど、奨励会に落ちたり、降級して名人になった人もいる。並の天才は、挫折を糧にして強くなるんだ」

「……私は……」

「ここまでは、生まれ持っての才能だよ。実戦が少ないのに、これだけの将棋を指せるのはすごい。でもここからは、自分で勝ち取っていくんだ」

「……はい……でも……」

 月子さんの手は、僕の胸に伸びてきた。そして、体ごと、飛び込んでくる。

「辛いんです……。辛いんです」

「……仕方ないんだ」

 やめてしまえばいい、と言いたかった。将棋も両親も捨てて、普通の貧乏な女の子になってしまえ、と。けれども、僕にはそんなことは言えなかった。僕も、将棋を辞められなかったから。どんなに辛くても、将棋を続けたから。それさえなくなってしまった時のことを考えたら、眩暈がするから。

 そんなことも、父親のことも、口に出すことはできなかった。ただただ、そこから動かなかった。

「……先生でよかったです」

「……え」

「よかったです。……なんとか、頑張ります」

 なぜか、僕も月子さんから力をもらった気がした。こんな僕でも人から頼られるなんて、月子さんがいなければ知ることができなかった。

 僕も、頑張りたい。純粋に、そう思った。


 一時間後、月子さんは下りてきた。僕らは遅い夕食をとった。

 月子さんが風呂に入っている間、いつものように外に出る。夜空を見上げるが、星は見えない。遠すぎるらしい。

 僕は壁に当たった時、ただじっと時が過ぎるのを待つしかなかった。両親は僕がプロになろうがなるまいがどうでも良いようだったし、師匠とは会う機会さえほとんどなかった。自分のメンタルを調整するすべなんて知らなかったし、将棋のほかに趣味もなかった。だから、落ちるときは底を知らなかった。あるとき、朱里が僕にとって大事な存在になるまでは。

 月子さんにとっても、大事な人が必要な時が来るだろう。それが誰なのか……辻村君のような人なのかは、僕の知るところではない。

「幸典」

 突然の声に、僕はつんのめってこけそうになった。いつかもこんなことがあったような気がする。

「朱里?」

「今から、家に行こうかと思ってたんだ」

「どうしたの」

 街頭に照らされる位置まで来て、朱里の顔がはっきりと確認できた。五メートルほどの距離をおいて、二人は向かい合うことになった。

「この前テレビ観たよ」

「ああ……あれ」

「頑張ってんじゃん」

「そうでもないよ」

「……あのさ」

 朱里が俯き、長い髪が垂れ下がった。そう、別れた時よりかなり長くなった髪。

「なに」

「私、勘違いしてたんだよね」

 朱里が顔を上げた。僕のよく知っている顔だ。

「私がいるから、安心しちゃうんだって。追い詰められて、独りで苦しんで、そこから立ち直るのが勝負師だって……でも……そうじゃなかった。私がいるとかいないとか、関係ないんだなって」

「そんなことはないよ」

「……幸典はさ、いろんなことに敏感すぎるだけで、でも私はそんなところが好きで……。何言ってるか分かんないね」

「……続けて」

「私の方が辛いから。わがままなのは分かってるけど……戻れないかな」

 あまりにも突然のことだった。それなのに……僕の頭はあまりにもはっきりと返答を導き出した。

「無理だよ」

「……」

 何故そう言ったのか、自分でもわからなかった。でも、答えは決まっていたのだ。

「朱里は……僕じゃなくてもいいはずだよ」

 口から出たのは、そんな理由だった。僕の頭が考え出したのかどうかすらあやしいが、この場では有効的だった。

「でも……可能性ぐらいは、あるってことにしてよ」

「……同じことを繰り返すことになるよ。俺は、変わらないもの」

「前とは、違う顔してる。テレビで見て、思った」

「……そんなことはないよ」

 朱里は、拗ねたときの顔をした。今の僕には、その表情の甘ったるさを受け取る資格はないと思った。

「ただ、張り合いはあるよ。弟子をとったんだ」

「幸典が……弟子?」

「ああ。だから、しっかりしなきゃ、って思ってるのかも」

「そうなんだ」

 半分は本当だけど、残りの半分は違った。それを言い訳にして、全部のことを簡単に考えようとしているだけだ。

 かつては朱里も言い訳にして、プロを目指した。それでプロになれたのだ。だから僕はまた、言い訳を正当化する。

「それなら、私、見守るだけにするね」

「……ありがとう」

「じゃあ、またね」

「じゃあ。気をつけて」

 送っていくよ、とは言わなかった。彼女がどちらに帰っていくのか、知らない方がいいと思ったから。

 闇の中へ消えていく、かつての恋人。僕はその人のことをもう好きではないと、今、わかった。


 何があっても勝負は続く。勝負師とは、常に勝ち負けにこだわる生き物だ。

 Bに落ちた月子さんも、昔の恋人に会った僕も、将棋に向き合う日々が続いた。月子さんは何とかBを脱出し、降級の危機を免れた。そして僕は勝ったり負けたりを繰り返しながらも、ほぼ五割の勝率を保ち続けていた。若手としてはよくない成績だが、僕としては例年になくいい成績だ。

 それでも、何もかもが問題なく続くほど人生は楽ではない。

「あの……先生」

「どうしたの」

 ある日の夜。夕食後のまったりとした時間、僕がネットでニュースを見ていると、神妙な顔つきをした月子さんが近づいてきた。

「その……本当に申し訳ないんですが……」

「えらくかしこまるね」

「その……服がちっちゃくなってるんです」

「え……ああ」

 確かに、最近月子さんはぐんと大きくなった。初めて会った時の彼女は僕よりも随分背が低かったが、今では僕の鼻あたりまである。体つきも丸みを帯びてきた気がするが、これはあるいは食生活のせいかもしれない。

「そんな恐縮しなくてもいいのに。明日買いに行こうか」

「すいません……本当に、どんどん借金してしまって……」

「ははは、いいよ、すごく強くなったら、倍にして返してね」

 口ではそんなことを言うが、最近は僕に対する借金のことなんかどうでもよくなっていた。いろいろと考えながら生活していたら、いつのまにか一人暮らしの時とそんなに変わらない出費にまで抑えられていた、ということもある。ただそれ以上に、月子さんからお金を返してもらうなんてことは、今では想像もできなくなってしまったのだ。出会ったときは他人だったが、今では家族同然に思えている。食事を食べさせるのも、服を買ってあげるのも、義務のような気すらしているのだ。

 ただ、月子さんにはそれを言わない方がいい、と思う。彼女にとってお金を返すことは、将棋に打ち込むための大きな動機だからだ。そして、家族を再び手に入れることが彼女の目的である以上、僕は彼女の家族でない方がいいのだ。

 少し、寂しさも感じる。将棋の師弟というのは、はっきりとしたきずなで結ばれているような、ただの書類上必要な関係のような、曖昧なものだった。病気と闘いながら共に暮らしたような子弟もあれば、何年間もほとんど会話もないままの子弟もいる。僕たちの関係は珍しいだろうが、どういうのがオーソドックスかと言われても答えづらい。

 次の日、朝から僕らは買い物に出かけた。二人とも人混みが苦手で、平日の午前中が一番出かけるのに適しているのだ。社会人ぐらいの男と高校生ぐらいの女が昼間からぶらぶらしていれば、相当不真面目なカップルに見えていることだろう。

 大きなショッピングセンターに着くと、月子さんにお金を渡してそれぞれ単独行動ということになる。女の子の服のことは相変わらずわからないし、だいたい月子さんから切り出すときは下着などが必要となった時だから、ついていくのがためらわれる。

 特に自分のものはいらなかったので、雑貨店などで時間をつぶした。昔からこまごまとしたものを見るのが好きで、気にいると要りもしないのに何本もペンなどを買ってしまう。今日は、「一行日記帳」というものに目がとまった。その名の通り毎日一行だけ、三年間日記が書けるものだが、「50%オフ」のシールが貼られていた。僕は、その日記帳を購入した。

 そして、買った後すぐにいつも思う。これ、本当に使うのかな?

 待ち合わせの時間まではまだもう少しある。何となくぶらぶらしていたら、時計店の前にいた。こういう高い小物にはあまり興味なかったが、店内でカップルが腕時計を選んでいるのを見て、気が付いたことがある。月子さんは、女物の腕時計を持っていない。僕が昔使っていた大きなものを貸しているが、あれでは女の子として可愛くないなあ、と今初めて思った。

 月子さんに選ばせたら、きっと遠慮して安いものを買う。そう思った僕は、躊躇わずにそこそこいい腕時計を購入した。

 そろそろ時間だ。待ち合わせの場所に行くと、月子さんはすでに来ていた。両手に紙袋をぶら下げて、きょろきょろとあたりを見回している。

「お待たせ」

「あ、いえ、待ってないです」

 月子さんは手をぶんぶんと振り回したが、紙袋も一緒に振り回されて、遊園地の乗り物のようになっていた。

「ご飯食べようか」

「はい」

 本当にデートみたいだな、と思った。朱里はいつも僕を待たせていたから、この感じはちょっと新鮮だ。

 外食も久しぶりだったし、なんとなく気持ちが落ちていた二人が、優しく笑えた気がした。

 それなのに……


 帰宅すると、玄関の前におばさんがいた。大きなリュックを抱くように座っていて、髪の毛はぼさぼさ、服も薄汚れている。階段を上ってくる月子さんを見つけるなり、喉を震わせてずっと彼女のことを凝視している。僕はこの人に全く見覚えがなかった。しかし、その顔つきやたたずまいは、初めて見るようには思えなかった。

「月子ちゃん!」

「お母さん!」

「お母さん?」

 そう、このおばさんは、月子さんによく似ている。それは、親子の再会だった。母親は、娘を抱きしめた。

「ごめんね、月子ちゃん。ずっと、迎えに来ようと思ってた……」

「……お母さん……」

「お母さんね、お父さんと離婚したの」

「……あの……」

「それですぐに迎えに来たかったけど、生きていくので精いっぱいで……。でも、こんなお母さんと再婚してもいいって人がいてね……お金もないし、弱気な人なんだけど、お母さんこの人と生きていこうって。ね、月子ちゃん、新しいお父さんと、三人で暮らそ」

 突然の話に僕は見ているしかなかったが、月子さんも戸惑っているようだった。感動する暇もなく、突然の話が襲いかかってきているのだ。

「わ、私は……」

「もう、将棋なんかしなくていいの。ね、ちょっと遅れちゃったけど、何とかして高校にも行かせてあげるから」

「……お父さんはどうなるの?」

「お父さんは、一人で借金を返すからって。私たちに心配はかけないからって。月子ちゃんがお金のことを心配する必要はないの」

「……わかんない。よくわかんない」

 その時、初めておばさんと眼があった。僕がいることに初めて気付いたかのようだった。

「三東先生……今まで本当にありがとうございました」

「……いえ」

 頭を下げられたので、僕も頭を下げた。

「さ、月子ちゃん、準備して」

「お母さん……私、行けない」

 月子さんは母親の腕から逃れ、真正面から対峙した。

「私、お父さんとお母さんと三人で、普通に暮らすのが目標だった。だから、別の人と暮らすって言われても……。それに、私、将棋のプロになるの」

「月子ちゃん……無理にそんなもの目指さなくていいのよ。あんな男くさくて博打みたいな世界からは早く抜け出さなきゃ」

「私、将棋が好きなの」

「月子ちゃん……」

「どうしていいのか、突然過ぎてよくわかんないけど……でも、将棋を辞めるとか、ここから離れるとか、すぐに決められるようなことじゃないの……。ごめんなさい……」

 三人の時間が、別々に動いて、それでいて全てが止まっているようだった。母親は、失っていた娘との生活を取り戻そうとしている。月子さんは、足枷のようになっていた父親の借金から解放され、家族との暮らしを手に入れられる。僕は……僕のメリットは、只飯食らいがいなくなるということだろうか。少なくとも、僕らは今不幸に直面しているのではない。けれども、誰も幸福な顔をしていない。

「月子ちゃん……将棋を続けたいの?」

「うん」

「先生……止めてください」

「……え」

「向いてないでしょう? 月子は将棋なんかに向いてないでしょう? あの人のせいで無理やりやらされていたんだから、もうそんなことからは……」

「僕が決めることじゃないです」

 自分の出した声が、とても低くてとがっていることに驚いた。感情が抑えられないらしいが、それがどんな感情なのかはよく分からない。

「向いているとか、いないとか。ただ僕は、月子さんの頼みを受け入れました。そして月子さんは奨励会に受かって、昇級した。そんな子を途中でやめさせる師匠はいませんよ」

「先生までそんな……」

 なんとなく、自分の心の中で膨れていく感情の名前が分かってきた。それは、憐れみだ。この人は、自分の都合でしか娘を愛せないのだ。本当に必要ならば、最初から手放してはいけなかった。本当に大事ならば、娘の目標をもっとじっくり聞いてやらねばならない。僕と過ごした日々のことを聞きもせずに、ただ自分の元に引き戻そうとする身勝手さを、僕は憐れんでいる。

「どうするかは、月子さんが決めればいい」

「……私……そこには行けない」

 月子さんは僕が握っていた鍵を奪い取って、乱暴に玄関を開けた。そして、家の中に飛び込んで行った。

 残されたのは、初対面の二人。

「あの……」

「考える時間をあげてください。落ち着いたら、考えも変わるかもしれません」

 そのおばさんは、何もかも信じられないとでも言いたげに、何回も首を振った。そして何も言わずに振り返り、そのまま去って行った。

 一人きりになったマンションの廊下で、僕はもっとお礼を言われてもいいはずなのにな、と少しだけ怒りが込み上げてきた。




 彼女は、ロフトの上で泣き続けた。僕は、ただその声を聞いていた。

 慰める言葉など、意味があるだろうか。全て、僕が知りもしない状況なのだ。多額の借金も、失踪した両親も、新しい父親も、目標への諦めも、僕の人生にはなかったこと。わかったふりなんて、とてもできない。

 それでも、今そばにいてやれるのは僕しかいない。彼女にとって唯一明白な関係性を持った存在。僕らはお互いのことをどう思っているとか、話したことはない。けれども、絶対に敵にはならない、そういう確信を抱き合っていると思う。師匠と、弟子。家主と居候。言葉で表せばそうなのだけれど、もっと簡単で、もっと根本的なことで二人の関係は成立している気がするのだ。

 それが僕の思いすごしだとしても、かまわない。少なくとも、僕は月子さんを信頼している。どんな答えを出してもいい。失敗しても、後悔してもいい。ここから出ていくことになっても、将棋の道をあきらめることになっても、僕は何も反対しない。

 何かのきっかけですごく変われるほど、僕の錆付きは容易いものじゃなかった。それでも、何かが少しずつ変わっている実感がある。僕の前に月子さんが現れなければ変わらなかったことを、少なくとも僕は、変えたいと思った。

 もう、十分だ。か弱い少女から受け取る恩恵としては、本当に充分すぎた。そして、僕もできるだけのことを月子さんにしてきたつもりだ。師匠であり、父のようであり、兄のようであり。なにも後悔することはない。この先も望まれれば続けるが、ここで終わるというのならばそれはそれで解放されるということだろう。

 ふと、月子さんがいなくなった後のことを考えた。あのときのように、突然一人になって。けれども僕は、そもそも引き止めなかったのだ。朱里の選択の正しさを、わかっていたから。僕は、仕事でしか人に会わず、そして仕事はとても少なかった。この部屋の中で、ずっと過ごしていた。将棋の研究だってしたが、それはプロとしての義務みたいなもので、強くなるためにやっていたとは言えない。

 また、あの頃の僕に戻ってしまうのだろうか。

 もし、戻らないとすれば、本当に変われたということだ。

 どれぐらいの時間が過ぎただろうか。外は暗くなっていた。空腹を感じた。昼、幸福だった食事を思い出し、そして、渡し忘れていたものを思い出した。

 泣き声がやんでいた。見上げると、ロフトから顔が出ていた。

「先生」

 目は赤く腫れていたし、髪の毛もぐしゃぐしゃだった。それでも月子さんは、はっきりとした声で僕を呼んだ。

「うん」

「なんか、家族のことで……すみません。ずっと迷惑かけてばかりで」

「別にいいよ」

「あの……私……自分でもよくわからないんです。どうすればいいのか、どうしたいのか……でも……」

「でも?」

「はっきりしてるのは……まだ、先生に借金を返せてないんです。だから……プロにならなきゃ駄目なんです」

「……ふふ」

 思わず、小さく噴き出してしまった。そんなこと、すっかり忘れていたからだ。

「……なんで笑うんですか。真面目に考えたんですよ」

「いや、だってさ、変じゃない。借金返すために弟子入りして、師匠に借金返すためにプロを目指すなんて」

「そ……そうなっちゃったからしょうがないじゃないですか」

「そっか……気が変わった」

「え?」

 僕は、半分まで梯子を上り、右手を伸ばした。

「これをあげようと思ったけど、貸すことにするね」

「これ……」

 月子さんは僕の手から、腕時計を受け取った。しばらくまじまじと見ていたが、ゆっくりと左腕に巻いた。

「こんなにいいもの……えっと……借りていいんですか」

「ああ。いつものやつじゃ、かわいくないだろ。最初の給料で、買い取ってよ」

「……はい」

「明日からも、弟子なんだね」

「はい。今後も、よろしくお願いします」

「お腹すいたね……ピザ取ろうか」

「……なんか、懐かしいですね」

「そうだね」

 僕が梯子を下りると、月子さんも続いて下りてきた。いつものように、二人で向き合ってテーブルの前に座った。

「先生……私……」

「なに」

「私が頑張れば、両親もうまくいくと思ったんです。でも……さっきの母を見て……きっと借金がなくても、二人はすれ違っていたって、そう思ったんです」

 淡々と、月子さんは言った。大人になったんだな、僕はそんなことを感じた。

「それに……まだ、父の借金から解放されたとは思えないんです。母が見捨ててしまったから余計に……私しか助けられないと思うんです。母は他人になれても、私には一生父親だから……」

 名古屋で出会った、金本のおじさんの姿を思い浮かべた。あんな人でも、月子さんにとっては大事な父親なのだ。どこまで行っても、月子さんの心を支えているのは、両親に対する想いなのだろう。

「でも……でも、将棋をもっと楽しみたい、そうも思うんです。……いい、ですよね?」

「そうだね。月子さんの思うままでいいよ」

 今回はネットのページをじっくりと見て、二人で注文するピザを決めた。月子さんは、どれも食べたことがないと言って、興味深々だった。

「今日で、人生二回目です」

 それはまだ作り笑いだったが、とてもいい笑顔だった。