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第一章

 玄関の前に、高校生ぐらいの女の子がいた。大きなリュックを抱くように座っていて、髪の毛はぼさぼさ、服も薄汚れている。階段を上ってくる僕を見つけるなり、喉を震わせてずっと僕のことを凝視している。僕がもう少し歳を取っていたなら、生き別れになった娘と再会したかのようなシーンだ。僕はこの子に全く見覚えがなかった。
「先生」
 か細い声で、女の子は言った。その呼び方で、僕のことをある程度知っているのだろう、と推測できた。
「君は……誰」
「私……先生を探してここまで……あの……」
 くぐもった、震えた声だった。
「うん、僕に会いに来たんだね」
「……弟子にしてください」
「……はあ?」
「あの……私……将棋のプロになりたいんです。だから、弟子にしてください」
 今にも泣き出しそうな顔なのに、真剣なまなざしにはぐっと力がこもっていた。しかしあまりに予想外の言葉に、すぐには何も言葉を返すことができずにいた。
「どうしても……プロにならないといけないんです。でもプロになるには師匠が必要で……他にあてもなくて……」
「……よくわからないけれど、本気なのは分かるよ。ここじゃ何だし、とにかく中に入ろう」
「すみません」
 鍵を開け、女の子を家の中に誘った。運よく掃除したばかりで、それほど部屋は散らかっていない。
「座って。何か飲むものを入れるよ」
「すみません」


 やかんを火にかけて、戸棚からカップを取りだす。ちらりと振り返ると、女の子はテーブルの前でやっぱりリュックを抱えて座っている。
「名前は」
「……金本月子」
「うーん」
 名前も聞き覚えがない。いや、しかし……
「はい、紅茶」
「あっ」
 粉で出すアップルティーがあったので、それを入れてあげた。月子さんは、口を付けずに両手でカップを握りしめている。
「すごく……あったかい」
「体が冷えてるんじゃないか。飲みなよ」
「はい」
 促されて、月子さんはそれを一気に飲み干した。まるでサラリーマンが一杯目のビールを飲むときのようだった。僕はしばらく凝視してしまった。
「……ご……ごめんなさい、久しぶりにちゃんとしたもの飲んだから……」
「もう一杯入れようか」
「……お願いします」
 月子さんは顔を真っ赤にしているが、それでも断らなかったのは、よほど喉が渇いていたのだろう。立ちついでに、買っておいたスナック菓子も持ってくる。
「食べなよ」
「……え」
「お腹すいてない?」
「……すいて……ます」
 最初は僕の方をちらちらとうかがっていたが、一度手を付けると、すごい勢いで食べ始めた。
この子には、師匠以前に今すぐ必要なものがいっぱいある気がしてきた。
「で、誰に紹介してもらったの? 会ったことはないよね」
「……父に」
「お父さん、僕のこと知ってるの」
「……金本六段って言えばわかるって」
「……金本……六段?」
 今も昔もそんな名前のプロはいない。だが、なんとなく「金本六段」という響きには覚えがあった。どこだろう、将棋以外ということもないだろう……
「金本……金本……のおじさん?」
「そう呼ぶ人もいます」
「ハンチングの」
「よく被ってます」
「あーあー、六段って言うからわからなかった」
 金本のおじさんは、地元でお世話になったアマの人だ。小さい頃から道場でよく将棋を指してもらい、たまにはお菓子も貰った。大会などでそれほど活躍していた記憶はないが、六段の免状を持っているのが自慢だと聞いたことがある。そのことは今でも疑っているが。
「その父が……三東先生に頼めばなんとかしてくれるって」
「なんとか、ねえ……。まずさ、なんでそのお父さんは一緒に来てくれなかったの。おじさんが来ればすぐ分ったのに」
「父は……その……」
 月子さんは突然肩を揺らしてもじもじし始めた。別に変なことを聞いたつもりはないのだが。
「どうかしたの」
「……外に出られないんです」
「……は?」
「私たち、借金がとても多くて……。だから、だから私がプロになって、借金を返すんです!」
「……」
 開いた口がふさがらなかった。今まで将棋のプロやプロを目指す人を数多く見てきたが、こんな理由は前代未聞だ。だいたい、将棋棋士がもうかる仕事だと思ったことがない。少なくとも僕は貧乏だ。
「お願いです!力を貸してください!」
「……プロになるには、条件は一つしかないよ。勝つこと」
「……はい」
「でも、君はプロになるだけじゃだめだよ。借金を返すには、プロとしてもうんと勝って、稼がなきゃならない」
「……はい」
「今まで女性でプロになった人はいない。それでも、目指すのかい」
「はい」
 突然、とんでもない案件が舞い込んだものだ。僕には任せておけ、と胸を張るだけの度胸もなければ、お断りだ、と突っぱねるだけの勇気もなかった。
「とりあえず、それ着替えようか。シャワーも浴びなよ」
「……本当にすみません」
「大変だったろ。その……お金ないのに、どうやってここまで来たの」
「自転車で」
「自転車?」
「……それしかなかったから……」
 僕は押し入れの中から、ジャージを取りだした。黒色に赤いライン。別れた彼女が使っていたものだから、本当は目にもしたくなかったが仕方がない。
「ピザ取ろう。好きかい」
「……食べたことが……ないです」
「そっか。きっと好きになるよ。これ、ちょっと大きいと思うけど」
「……突然押し掛けて……こんなに……本当に……」
「ここまでは君のお父さんに世話になった分だよ。けれど、将棋のことは別。ご飯を食べたら、試験だよ。将棋を見せてもらう。それでだめなら、弟子にはできない。悪いけど、帰ってもらう」
「……わかりました」
 ついに、月子さんの瞳から涙がこぼれ落ちた。緊張の糸が切れたのか、そのあとわんわん声を出して泣き始めた。そして、それを隠すように、すっくと立ち上がり浴室へと走った。
 残された僕はとりあえず、本棚の前方にある漫画と、奥にある将棋の本とを入れ替える作業にいそしんだ。もし万が一彼女が強かった時に、自分の弱さがばれてしまうのはとても辛い。



 

 驚いたことに、月子さんはコーラを飲むのも初めてのようだった。少し飲みこんで、「これが噂のしゅわしゅわ……」とつぶやいていた。
 ピザを食べながら、少しずつ話を聞く。この前中学校を卒業したばかりで、まだ十五歳。とはいえ、プロを目指すには少し遅いぐらいだ。将棋は父親に習い道場に行くこともあったが、実家の工場経営が苦しくなり道場代が払えなくなった。家からもなかなか出られなくなり、父と隠れるように将棋を指すようになった、とのこと。
 そしてある日、金本のおじさんは言ったのだ。「月子ならプロになって、お金を稼げるかもなあ」
「じゃあ、月子さんはプロに将棋を見てもらったことはないの」
「……はい。会ったのも今日が初めてです」
「うーん」
 正直、期待薄だと思った。自称六段のおじさんが、身内贔屓も含めて保証しただけとは。
「まあいいや。とりあえず、指そう」
「わあ!」
 対局をしようと盤駒を引っ張り出すと、なぜか月子さんは目を丸くして大きな声を上げた。
「どうしたの」
「こんな分厚くて脚付きの……初めて見ました」
「そう」
 この調子では、ありとあらゆるものに驚き続けてしまいそうだ。案の定対局時計を取りだすと……
「こ、これって個人で買えるものなんですか」
「まあ、お金出せばね」
「やっぱりプロの先生ってお金持ちなんですね!」
 これぐらいのことで感動されては、とても申し訳ない気持ちになってくる。名人の家など見たら卒倒してしまうのではないか。
「振るよ。……月子さんの先手だ」
 歩を五枚取り上げ、振り駒をした。時計を三十秒の秒読みに合わせる。
「お願いします」
「おっ……お願いします」
 盤上に伸びた腕は細く、指もとても短く見えた。そして、白い。1九から盤を横切って、2七の歩をつまんだ。駒に触れた瞬間、震えていた手が力強く伸びていくのが分かった。駒音が高く響き渡り、初手2六歩。
 顔を覗くと、目じりは上がり、頬も引き締まっていた。先ほどまでのおどおどした感じは全くなくなっており、獲物を狙う猛禽類のような顔つきになっている。ここまでは、合格点だ。
 少し予想外の初手だが、それならばこちらも試させてもらうしかない。僕は8三の歩をそっと一マス前にはじき出す。二手目、8四歩。アマチュアが苦手とすることが多い、相掛りに誘導する。月子さんは圧倒的に実戦経験が足りてないはずなので、プロの対応に惑わされる可能性が高い。そこをどう乗り越えるか、それをこの対局で試験させてもらう。
 飛車先の歩を切ったあと、月子さんはその飛車を2六に引いた。最近の流行は深く引く2八飛だが、そんなことすら知らないのかもしれない。とりあえず、しばらくは普通に対応するつもりだった、が。
 月子さんは、僕が飛車先の歩を切って深く飛車を引いた手に対して、9七角と指した。瞬間、僕の飛車は8九に成りこむことができる。しかしそれには8八角と戻って竜が閉じ込められてしまい、こちらが不利になる。プロならばだれでも知っている展開だが、アマでこれを指しこなす人は少ない。金本のおじさんがこういう将棋を指していた記憶もないし、月子さんはそれなりに勉強をしているということなのだろうか。
 僕としても、あまりこの形の実戦経験がないので一手一手が慎重になる。負けることは万が一にもないのだが、できるだけ月子さんの実力が分かるような局面に誘導しなくてはならない。常に半歩差しかつかないような局面を作る。これはプロになってから鍛えられた技術だ。
 いたってオーソドックスな駒組みで迎え撃つ……ように見せかけて、僕は罠を仕掛けておいた。漫然と駒組みを進めれば、こちらには用意の駒組みがある。もちろんそれだけで有利というわけではないが、現代的な感覚では負けにくい形だ。歩を伸ばす、銀を出る、それらの手ならば、3三玉とする。一見不自然な形だが、次に2二玉から1二香として穴熊に囲う。そうなれば、後手も強い戦いができる。
 月子さんの手が、また盤上を横切った。その手つきは優雅だ。そして9七の角をつまみ、7九へ。全く考えていなかったし、見たこともない手だった。それでも、悪い手とは思わなかった。その角は遠く1三をにらみ、駒組みに制限を与えている。



 僕は、2二銀と指した。月子さんの力をある程度信用し始めていたのだ。プロになれる云々は分からないが、少なくとも弱さは感じられない。個性も迫力もある、魅力的な指し手だ。何より、目つきがいい。目の前の獲物をしとめなければ餓死してしまうと言った、とてつもない切迫感が伝わってくる。
 だが、問題は駒がぶつかってからだ。僕らプロがアマより優れているのは、駒の潜在能力を見極める力だ、と思っている。将棋の作りによって、役に立つ駒、立たない駒が変わってくる。また持ち駒にしておくことで相手にプレッシャーを与えられる駒もある。駒台を盤上に反映させる、その能力の足りないアマが多い。持ち駒は使わないのが一番いい、なぜなら駒台にある限り相手に取られないからだ。しかし多くの人は、持ち駒を使いたがる。手下を簡単に戦場に送るのは、愚かな将のすることだ。
 歩がぶつかり、局面が動き出す。秒読みなので、加速した流れはなかなか止まらない。月子さんは直接手を指さず、じんわりと駒を前に進めてくる。女流プロでもなかなか指せない、落ち着いた順を選んでくる。しかしがっぷり組んでしまえば、こちらの方が地力は上なのだ。僕の駒台に歩が増えていく。いずれこの歩は、1筋の端攻めに役に立つ、かもしれない。その可能性がある、というだけで非常に価値が高いのだ。
 だが、相手の手をつぶすようなことはしない。どのような組み立てで攻めてくるのか、それを見なければならない。強い人には天性の「すじ」がある。定跡や終盤は地道に勉強することができるが、「すじ」だけはどうにも修正できないものだ。どれだけ指導しても両取りばかりかけてしまう人、全然響かないところの駒を取りに行く人、歩を突き捨てられない人、と金を作れない人。これはもう、直しようがないのだ。他のところで強くなることはできるが、筋の悪い人は僕らの側には来ることができない。
 果たして、月子さんのすじはどうなのか。ただ、形に明るいだけなのか、それとも天性のものがあるのか。
 チェスクロックは容赦なく時間の経過を宣告し続ける。三十秒は短い。世の中には、一手に対して五時間以上考えたプロもいる。昔は、時間無制限で何日もかけて一局を指したという話もある。それに比べこのような練習将棋は本当にあわただしく、作品を創出する作業からは程遠いものとなっている。
 1七桂。残り一秒で指されたのは、全く予想していなかった手だ。この桂馬は次に2五にしか飛べない。決して筋がいい手とは言えない。しかし、考え方としてはすじが通っている。歩損をしており、攻め始めたのならそれを貫きとおさねばならない。多分その攻めは僕には通用しないだろう。しかし万が一にも僕に勝つことがあるとすれば、それは、攻めの姿勢を貫いたときだろう。
このような展開になると、自然と指が伸びてくる。僕は何回もこのぐらいの棋力の人と指しているが、月子さんはプロと指すのは初めてだろう。正確に読み切れるということは、大きな武器だ。大ナタを振り回す攻めは、空振りしてしまえばそこで終わりだ。
 こちらはじわじわと相手を圧迫していく。5七歩、そして2六歩。だいたいこれで勝ち、そう思った。だが、月子さんからは異様な気迫を感じた。顔を上げると、額に手を当て、激しく瞳を動かしながら必死で何かを探している姿があった。もがいているという感じではない。あるはずの答えを必死に探求しているようだった。
 髪をかきむしり、少し宙をさまよった後、その右手は駒台へと伸びた。歩をつかみ、2七へ。玉の頭の傷を消す一般的な手筋だが、僕は全くその手を読んでいなかった。これまでの流れから逸脱する手だからだ。そして、いい手だった。
 頭の中で、スイッチを切り替えた。もう、テストは十分だ。自称六段の客観性はいまだに疑わしいが、それでも月子さんの実力は確かにプロを狙ってもおかしくないものだと思った。それがわかれば、後は将棋本来の目的……勝利を目指すのみだ。
 想定よりは手数が伸びたものの、逆転の目はない。最後は緩みのない攻めで、先手玉を追い詰めた。受けがなくなったところで、月子さんは頭を下げた。
「負けました」
「うん」
 唇を噛んでいた。負ければ悔しい、当たり前のことだが、できない子もいる。
「なかなかだね。十分可能性はあるよ」
「……本当ですか」
「もちろん、これから次第だろうけど。色々な戦型も見てみないといけないし、優勢な将棋の勝ち方とか。まあ、しばらくは試験延長かな」
「じゃあ、これからどうすれば……」
「君、お金持ってないんだろ」
「……はい」
「こっちに知り合いとかいる」
「……ないです」
「しょうがないな。そのロフト、貸すよ」
 僕は、斜め上を指さした。天井にぶら下がるようにあるその空間は、人一人が眠ることもできるスペースになっている。
「……いいんですか」
「すごい暑いよ」
「全然問題ないです」
「あと、家賃は借金ね。食費も、光熱費も付けていくよ。僕はボランティアするほど優しくないし、余裕があるわけでもない。早くプロになって、僕への借金も返してくれ。それでも良ければ、師匠になるよ」
「……はい」
 いい人と思われるのが嫌だった。本当はお金のことなんてどうでもよかったけれど、気が付いたら言っていた。
「ありがとうございます。……本当に……」
 肩を震わせながら、月子さんは泣いていた。これからは、もっとたくさんの悔し涙を流すことになるだろう。




 金本月子十五歳との、奇妙な生活が始まった。
「あの……すみません……」
 色々なことがずれている子だとは思ったが、まず最初に驚かされたのはリュックの中身だった。てっきり着替えが詰まっているのかと思っていたら、出てきたのは分厚い本が五冊。
「小川靖男全集……。これは……」
「……父が唯一売らなかったものなんです。……何度も何度もこれを読んで勉強しました」
 そのうちの一冊を開いてみると、どのページにもびっしりと書き込みがしてあった。月子さんなりの感想や検討を記入してあるのだ。
「ずっとこればっかり?」
「はい……」
 小川靖男は、名人を七期務めた偉大な棋士だ。粘り強い指し手に定評があり、「受け方の定跡」を作ったとまで言われている。
「あの、服とかは……」
「これだけです……」
 月子さんが取り出したのは、小さなスーパーの袋。中身を見せてはもらわなかったが、大きさからして下着が数枚だけだろう。
「とりあえず……明日買い物に行こう」
「はい」
 ロフトに布団を運びこみ、とりあえず彼女の居住スペースを作った。一畳ほどの広さしかないが、正座できるぐらいの高さはあるし、電源もある。
「このスイッチでここの電気が付くから。トイレ行くときとかは気を付けて」
「はい」
 自転車をこいでここまで来て、その上真剣に将棋を指したのだから、ひどく疲れていたのだろう。すぐにロフトから寝息が聞こえてくる。
 外に出て、駐輪場に向かった。そこには、薄汚れた、ぼろぼろの自転車が止めてあった。かごは歪んでいるし、タイヤのホイールも曲がっている。彼女はあのリュックとこの自転車だけでここまでやってきたのだ。会ったこともない、僕を頼りにして。
 僕は、すぐに寝る気にはならなかった。帰宅してからの数時間で、考えてもみなかったことが起きている。頭の中がぐちゃぐちゃで、ぐらぐらと揺れている気さえする。
 僕はまだプロになって四年目の若手棋士だ。弟子を取るなんてことは考えたこともなかった。しかも今どき内弟子なんていうのはほとんど聞かない。そして何より問題なのは……月子さん自身が、僕のことを何も知らない、ということだった。
 三東幸典、四段。プロになってからのこれと言って目立った成績はない。いや、むしろ悪い方で目立ってしまっている。通算勝率は四割を切り、順位戦では三期連続負け越しで、一つ降級点を取っている。早指し棋戦での予選突破もなく、そのため当然ながらテレビ棋戦で戦ったことがない。あまりの不出来ぶりに、陰では「四東三段」というあだ名まで付けられているようだ。
 月子さんは、よりにもよって今一番弱い若手棋士のところに弟子入りに来てしまったのだ。確かに、地元では一番強かった。しかしプロは皆、故郷では一番強いアマだった。奨励会時代は何度も降級の危機にあい、三段リーグでも連続四期負け越した。それでもたった一度の勝ち越しを、何とか昇段につなげて四段になることができた。自分でも奇跡のようだと思った。そして奇跡は、プロの世界では起こらなかった。
 今はまだ、月子さんの遥か先を行っている。けれどもこれから月子さんがプロになるには、借金を返せるぐらいの強いプロになるためには、僕を追い越して遥か先まで行かなければならない。
 僕に弟子を取る資格なんてあるのだろうか。弟子を育てる才能なんてあるのだろうか。そもそも家に少女を住まわせるなんてこと、周囲から見たら許されるのだろうか。ぐるぐるは続く。
 通帳を開いてみた。彼女の部屋を借りてやれるほどの収入は、当たり前だがない。かといって僕にも頼れる人はいない。師匠は亡くなってしまったし、他の棋士との交流も避けてきた。いっそベテランの先生のところに行って、代わりに師匠になってくださいと頼めばいいだろうか。その方が月子さんのためになるのならば……
 これまで、女性でプロの正会員になった人はいない。確か、二段ぐらいが最高だったはずだ。あきらめて女流棋士になる、というのでは月子さんの場合意味がないだろう。勝って勝って勝ちまくって、借金を返さねばならないのだ。女流トップの収入は、平均的な男性棋士ぐらいしかない、と思う。
ふと、彼女がそんな運命を背負わねばならないのだろうか、と思った。月子さんには、将棋を楽しみながら強くなるだけの素質があると思う。焦らずゆっくり勉強していけば、時間はかかっても芯のある棋士になれるかもしれない。または、アマ強豪として仕事しながらでも将棋を楽しめるようになるかもしれない。けれども彼女は、とにかく急いで強くなろうとするだろう。しかもそれは将棋を楽しむためでも、極めるためでもないのだ。
 そもそも、彼女は将棋が好きなのだろうか。
 プロは、だいたい将棋が好きだ。だから続けられる。深夜まで及ぶ熱戦を負けても、将棋が嫌いになるのは数日だけだ。気が付けば将棋のことを考え、他の対局結果を調べている。棋譜を並べ、詰め将棋を解き、次の対戦相手のことを考える。僕のようなへぼ棋士でも、普段からさぼっているわけではない。義務ではなく、将棋に関わることが自然になっているのだ。
 部屋に戻る。相変わらずの寝息。誰かがいるという、不思議な感覚。
「おやすみ」
 頭が痛くなってきた。聞こえていないと分かりながら、久しぶりの言葉を呟いた。


 

「あの……」

 すぐに将棋の勉強、というわけにはいかなかった。何せ彼女は本と下着数枚しか持っていないのだ。普通に暮らしていくだけでもいろいろとそろえなければならないものがある。まずは、自転車を修理に行った。正直新しく勝った方が安いと思ったのだが、本人のためにならないと思った。その自転車は、月子さんの人生にとって大きな意味を持つものになるかもしれないのだ。そのあとは、買い物だ。

「いいんですか、こんなに」

「もちろんこれも借金ね」

 僕自身女の子の服なんてよくわからないので、スーパーの二階にある洋服店で適当にそろえた。普通のこの年頃の女の子なら、「こんなとこじゃいや!」と言うところだろうが、月子さんの眼はきらきらとしていた。よほど普段から何も買ってもらえなかったのだろう。

「いいかい、ただ将棋が強ければいいってことじゃないんだ。プロ棋士は将棋の発展や普及も仕事。人に見られて恥ずかしくない格好やたたずまいをしないといけない」

「はい。いろいろと教えてください」

 本当は、僕は師匠から将棋以外のことはほとんど教わっていない。今は、名義だけを貸すような場合すらあるのだ。しかし月子さんの場合、僕が親代わりとならなければいけない。親……そういえば。

「家に連絡しないとね。僕からも挨拶しとくよ」

 携帯を取りだした僕を、月子さんは気まずそうな顔をして見上げている。

「あの……今は通じないと思います」

「え」

「よく止められるし……その……電話線を抜いていたり……」

 思った以上の惨状だ。そんな状態では仕事の受注もできないではないか。

「私……手紙書きます。だから……切手代も貸してもらって……いいですか」

「あ……ああ」

 僕はだんだん、腹が立ってきた。それほどまで切迫したつけを、こんなに若い女の子に払わせる親は絶対に正しくない。棋士になって借金を返すなんて言っても、止めるべきではないか。そのために昔少しかかわりのあっただけのプロを紹介するだなんて、無責任過ぎないか。

「あの……父が言っていた通りでした」

「なにが」

「とっても優しい子だったって。……あの、はい」

「まずは、大人に騙されないことから教えないといけないね」

「……え?」

 ついでに、美容院にも寄った。月子さんの髪の毛はよく見るとぼさぼさで、聞けばいつも母親に切ってもらっていたらしい。

 これは本人には言わないつもりだが、月子さんがプロになるためには、想像以上に女性であることが足かせになるはずだ。僕自身何局か経験があるが、やはり女の子には負けられない、と思ってしまう。かといって男性に同化すればいい、というわけではない。どこまで行っても、将棋という男性社会の中で女性は異質なものなのだ。だから、それを逆手に取るべきだと思う。月子さんは磨けば光ると思うし、異性として意識されるぐらいきれいになって、対局相手に余計なことを考えさせるべきだ。将棋に真摯に向き合うならば、邪道な考え方かもしれない。しかしこちらの目的はお金なのだから、どうとでもして勝たねばならないのだ。

「あの、今日はどうされます?」

「え……短くしてください」

「どのような感じに」

「……さ、さっぱりと」

 月子さんは美容師とのやり取りもなかなかうまくいかないようだ。まあ、初めてなら無理もない。

 それでも全てが終わると、全く見違えていた。髪は全体的にふんわりとして、野暮ったい感じが消えていた。眉毛も剃ってもらったのか、目の周りもすっきりした気がする。さすがプロ、本当にさっぱりにしてくれたようだ。

「あの……どうなりました」

「鏡で見たまんまだよ。いいんじゃない」

 とりあえず、今すべきことはこれぐらいだと思った。これ以上のことは本人の責任だと思ったし、正直化粧云々になると何をしていいのかよくわからないのだ。

「なんか食べて行こうか。何がいい」

「え……いんですか、外食なんて」

「まあ、そんなたいした店にはいかないから」

「……もう、五年ぐらいお店で食べてないんです。どんなお店があるかもわからないし……」

「わかった。じゃああれに行こう」

「あれ?」

 僕は、自分が初めて東京に連れてきてもらった時を思い出した。あまりに色々なものがありすぎて、目が回りそうになった。そして父親は、「都会にはすごいものがあるんだぞ」と言ってその店に連れて行ってくれたのだ。

「わあ」

 店に入るなり、月子さんはとてもいい反応をした。僕も、同じような感じだった記憶がある。

「本当に回ってる……」

 月子さんはしばらくその場に立ち尽くしていた。さすがに僕はそこまではならなかった。

「月子さん、座るよ」

「は、はい。……大人になる前に、回転寿司に来られたなんて信じられません」

「……ここは、おごりでいいや。いっぱい食べて」

「そ、そんな、滅相もございません」

 テンションが上がりすぎて、言葉遣いまで変になっている。見ていて微笑ましい。

「何してるの、取りなよ」

「あ、あの見たことないものばかりで……何を取っていいのか」

「しょうがないなあ。取ってあげるから食べなよ」

 何となく回転寿司のだいご味を味わえていない気もするが、月子さんは僕の選んだ皿をゆっくり時間をかけて食べ、その度に感嘆の言葉を漏らしていた。なんだか自分が大富豪になって、遠い国から養子を迎えたみたいな気分になる。

「多分……生まれて初めて貝を食べました」

「へぇ」

「早くプロになって、いっぱい回転寿司に来たいです」

「うーん、そうだね」

 もし月子さんが訪れたのが僕のような弱いプロでなければ、寿司は回っていなかったかもしれない。まあ、玄関で門前払いされた可能性も高いが。

 そういえば僕も、プロになったらおいしいものがいっぱい食べられる、と子供の頃は思っていた。大きな家、いい車、綺麗な奥さん。将棋が強くなるだけで、全てが手に入ると思ったのだ。

 もちろん、もっともっと強くなれば、手に入るのかもしれない。同期の一人は挑戦者リーグ入りしたり、新人戦で優勝したりしているが、つい最近外車を買ったと言っていた。二四歳でタイトルを取った先輩は、二五歳で結婚し、二七歳で都内のマンションを買った。

 上を見ればきりがない。よく言ったものだ。

「家族にも食べさせてあげたいです。うん、決めました。最初のお給料は、ここに来ます」

「そうするといいよ」

 無邪気な笑顔に、なぜか少し心が痛んだ。いや、理由は分かっている。月子さんの進む道は、果てしなく険しい。たとえプロになれたとしても、親の借金や、周囲の好奇心や、勝負の厳しさが重くのしかかってくるだろう。彼女はまだ、そんなことを知らない。

「あ……でも、まずは先生にお金を返さなきゃ」

「そうだね」

 帰りは、いっぱいの荷物を抱えて地下鉄二つ分の距離を歩いた。二人の共通の故郷の駅から、二人とも少し遠いところに実家があるという話をした。そしてふと、月子さんはつぶやいた。

「……毎日あの駅まで歩くんだなぁって、ちょっと思ったんです」

 最初、僕はその意味がわからなかった。そして家に着くころになって、ようやくわかった。そういえば僕も、毎日あの駅から電車に乗って、高校まで通っていたのだ。

 そう、普通は女子高生になる年齢なのだ。今はほとんどの奨励会員が高校までは行っている。この世界で生きるにしても将棋以外のことを知ることが大事だし、結局将棋の世界から離れていく人も多いのだ。

 月子さんも高校には行くべきだと思う。けれどもそれを決めるのは僕ではない。そこまでサポートしてあげることもできない。もし高校に行きたいと望んでも、それを許さない家庭環境を恨むしかないのだ。

「よし、毎日歩くことを義務としよう」

「はい」

 扉を開ける。今からここは、戦場になる。

「ただいま」

 なんとなく言ってみた。

「あ……ただいま」

 月子さんもつられて言った。

「さあ、将棋だ」





 小川靖男全集を教師としているだけあって、月子さんの指し手は本格的だ。他の若い子には見られない、腰の入った受けが時折見られる。しかしまた、軽いさばきやとにかく固めるといった現代的な感覚は全く持っておらず、序盤から苦戦に陥ることも多い。……とまあ、これが何局もぶっ続けで指し続けて得た感想だった。
 奨励会に入れるかと言うと、今のままでは無理、というのが率直な意見だ。
「もっと勉強しなければいけないね」
「はい」
「二か月で2400点。これが次の試験だ」
「2400……点?」
「ええっとね……」
 パソコンを起動させ、インターネットにつなぐ。月子さんはそれすらとても興味深そうに眺めている。
「これをするんだよ。将棋道場365」
「これが……道場?」
 ログインしただけでは、ただハンドルネームと数字が縦に並んでいるだけにしか見えないこのページは、まぎれもなく将棋道場だった。しかも年中無休(四年に一度だけ休みがある)、そして無料。
「そう。ここで名前を作って、世界中の人と指すんだ。勝つと点数が増えて、負けると減る。それで、2400になったら合格」
「よく……わからないです」
「まあ、見てて」
 とりあえずレーティング対局室に入り、「早指待」に設定する。十秒後、小さいウィンドウが開き、「挑戦 katto-01」の文字。「承諾」ボタンを押すと、また新しく中くらいのウィンドウが開き、その中に将棋の盤駒、駒台のイラストが現れる。
「わあ」
「ここで将棋が指せるんだ。こっちが俺ね」
 先手のpittapittaが僕。
「あの……先生、2920点……ですか?」
「そう。まあ、この辺はだいたいプロだろうね」
 後手のkatto-01も2913点ある。誰かは知らないが、プロの誰かだろう。
 挨拶をすませ、初手を指す。全てマウスだけで操作できる。
「こうやって対局するんだ。同じぐらいの点の人なら、15点ぐらい移動する。最高でも30点までしか移動しない。わかった?」
「何となくわかりました……ただ」
「ん?」
「その矢印は、どうして動いているんですか?」
「え?えーこれはね、このマウスを動かすと……」
「マウスってどれですか」
「……わかった。パソコン講座から始めよう」
「……すみません」
 結局、一日目午前はパソコン講座に費やされてしまった。月子さんはパソコンを触るのも初めてで、キーボードやショートカットという言葉から教えなければならなかった。そしてその中でわかったのだが、月子さんは中学校にもあまり行っていなかったようだ。今ではだいたいの学校にパソコンがあり、授業で使い方を教えるものだ。しかし月子さんは、何も知らない。
「毎日どうしてたの」
「……私……」
「言いたくない?」
「……私、不登校だったんです。最初は午後になるときつくて……。だんだん午前から保健室に行くようになって、学校にも行かなくなって……。どうせ家にいるんなら、仕事を手伝えって言われて……」
「そっか」
 月子さんはコミュニケーション自体が苦手そうだと思っていたが、その原因の一つが分かった気がした。元々苦手だったのだろうが、それを何とかしてやろうとした人がいなかったのだろう。ずっと家にいて、親の言いなりになって、他の人と関わらなかった。せっかく将棋が強いのに、全集ばかり読んでいた。
「強くなるには、人と関わる必要があるよ」
「……え」
「勝負は盤上だけじゃないんだ。手つきとか、指し手の早さとか、呟きとか、水分補給のペースとか。そういうことから色々読み取れるようになって、初めて勝負師になれるんだ」
「……私……そういうの苦手です」
「やるしかないよ」
 偉そうに言っているが、僕も苦手だ。どちらかと言うと、うまいこと読み取られている方だろう。だからこそ、月子さんにはそれを乗り越えてほしい。
「まあ、そんなこと言ってネット将棋から始めるわけだけどね。最初は、いろんな将棋を経験することが大事。他のことは、まあ追々」
「はい」

 昼食は二人で作った。何となくいつも通り朝食は抜いてしまったが、月子さんは何も言わなかったので、金本家も朝食はなかったのかもしれない。月子さんは米を研ぐのはうまかったが、包丁の使い方は危なっかしかった。野菜炒めと簡単なスープを食べた。
 昨日は慌ただしかったので気が付かなかったが、この家でテーブルに向かい合ってご飯を食べるというのは本当に久しぶりだ。かつて目の前にいた人を思い出し、少し胸が痛くなる。
 午後はいよいよ実戦である。パソコンにはまだ慣れていないようだが、とにかく今はネット道場にログインして、将棋を指すだけのことができればいいのだ。
「まずは名前を作らないと」
「……えーと」
「いや、あのね……」
 月子さんはハンドルネームの欄に「Kanemoto Tsukiko」と打ちこんでいた。
「……何か問題が……」
「本名がまるわかりだとちょっと。奨励会に入ってからも使いたいし」
「そうなんですか」
「うーん、なんかこう、好きなものとか組み合わせてみて」
 月子さんは首をひねって考えていたが、しばらくしてから「TomatoMama」と打ちこんだ。
「どういう意味?」
「……トマトとお母さんが好きだから」
「まあ、それでいいや」
 とにかくハンドルネームを作り、レーティング対局室に入場することができた。最初は2000点から始めることにした。これはだいたいアマ四段くらいの点数と言われていて、今の月子さんならば過大申告ということはまずないだろう。
「えっと……ここからどうするんでしたっけ」
「持ち時間を選んで待つんだ。いっぱい指せるように、『早指待』にしよう」
「はい」
 昼間は人が少ないので、すぐに挑戦者が現れるというわけではない。
「来ないね。こちらから挑戦しよう」
「どの人にすればいいんですか」
「だいたい前後百点以内の人と指すからね。その、UMAMANIAって人にしよう」
「はい」
 月子さんが挑戦したのは、2078点の人だった。TomatoMamaが先手になり、挨拶を済ませ対局が始まる。
「あの……」
「どうしたの。助言はしないよ」
「盤が……変な感じです」
「……ん?」
 最初、月子さんの言わんとしていることの意味がわからなかった。しかし、月子さんがデスクトップの角度を一所懸命調整しようとしているのを見て、納得した。
 普通、将棋は見下ろして対局する。そのため、当たり前だが、相手陣になるほど遠く見える。しかしパソコンの画面は縦向きであるため、相手陣が上で自陣が下側になる。月子さんはその風景に戸惑っているようなのだ。
「これ……倒せませんか」
「残念ながらそういうわけには……慣れるしかないね。最近ではネットの公式棋戦とか指導対局もあるし、プロになるには必要なことだよ」
「……わかりました」
 月子さんは下からのぞきこむようにして、何とか対局を続けた。将棋自体は相手の四間飛車に対して急戦がうまく決まり、問題なく勝ちそうだった。この戦法は、小川名人が得意としていたものだ。まあ、教科書が一つしかなかったのだから、当然小川流しか指せないのだが。
「あ」
 月子さんの駒が完全に相手を抑え込んでいき、嫌になったのか中盤のうちに相手は投了した。終わりの「ありがとうございました」のあいさつを終え、すぐに相手は去って行った。
「うん、まあここらへんはすぐかな」
 あきらかに実力が違う、という感じだった。それでなくてはプロなど目指せないというものだが。
「今ので14点だね。この調子で2400までだ」
「はい。頑張ります」
 この後二局指したが、どちらも快勝だった。月子さんの点数は2046点まで上がった。
「まあ、もうちょっとしたら苦戦するようになるよ」
「……あの……」
「ん、どうした」
「この人たち、父より……」
「まあ、どうでもいいじゃないか」
 2000点というのはアマではかなり強い方ではあるが、県代表クラスというわけではない。ほとんどの人は六段など持っていないだろう。
「君はお父さんよりはるかに強くなるんだろ」
「……はい」
 金本のおじさんは、六段の実力などないのだ。四段も怪しい。月子さんにとって、それがわかってしまうのは悲しいことだろう。
 しかし、現実を見なくてはいけない。
「将棋に関しては、上だけを見るんだ」
「……はい」
 月子さんは、これから多くのものを見なくてはいけなくなる。汚いものも、無意味なものも。



 ぎこちないながらも、二人の暮らしは確立されていった。
 食事を作るのは当番制で、主に朝食が月子さん、それ以外が僕だ。以前はコンビニ弁当なども多かったが、食費節約のため自炊するようにした、というのは月子さんには内緒だ。
 大変なのは着替えや風呂である。朝、七時の目覚ましで二人とも起きる。そして僕は風呂へ。その間に月子さんが着替え、僕もシャワーを浴びた後そのまま着替える。夜は月子さんがシャワーに行くと、僕は散歩に出かける。恋人でもない女の子がうちでシャワーを浴びている状況は、どうにも落ち着かないのだ。
 テレビはほとんどつけなくなったし、コンポもほとんどがオフのままだ。四六時中将棋の勉強というわけではないが、お互いに邪魔になることはしない、というのが暗黙の了解になっている気がする。
 一週間もすると、この生活にも慣れてきた。少し楽しくなった気さえするのは、一人きりの生活に疲れていたのかもしれない。ただ、八日目の夜、食事をしながらついに月子さんは当然の疑問を口にした。
「あの……先生の対局っていつなんですか」
 僕はしばらく、瞬きを繰り返した。自分にとっては当たり前のことになっているが、世間から見ればあまりにも休みが多いというのが実情だろう。負けている棋士は、ともすると一ヶ月以上対局がないのだ。
 けれども僕は。
「……今回はちょっと間が空いてね。ちょうど明日、あるんだ」
 しょうもない嘘をついてしまった。本当は来週までない。弱いプロであるということを知られたくないということもあったし、ただ単に見栄を張りたかっただけというのもある。
「そうなんですか。頑張ってください」
「ああ」
 そんなわけで、次の日は朝から出かけなくてはならなくなってしまった。月子さんは精いっぱいの笑顔で、「いってらっしゃい」と言って僕を見送った。胸の真ん中あたりが、ずきずきと痛んだ。
 普段からほとんど家にいるので、四年もいるのに東京のことをあまり知らない。買い物もしないし、遊びに行くこともない。とりあえず足は駅に向いているが、全く行くあてがなかった。
 気が付くと、一番慣れ親しんだ路線に乗り、いつもの駅で降りていた。ここまできたらもう、あそこに向かうしかない。僕らの職場、将棋会館に。
 対局を装って出てきたので、本当の対局者たちがちょうど入っていくところだった。そういえば今日はC級一組の対局日だ。他にも二次予選や女流の対局などもあり、会館の中は息苦しいほどだった。
「あれ、三東君今日対局あったっけ」
「いや、勉強に」
「珍しいねえ」
 プロになってから、対局も指導もないのに会館に来たのは初めてかもしれない。対局以外の仕事すら少ないので、多くの人が僕がいることに驚いている。僕だって来るつもりなんかなかったのだ。とりあえず、控室に行く。観戦記担当者やネット配信係の人が、忙しくいろいろと準備していた。
「おはようございます」
「おはようございま……三東君、どうしたの」
 僕は勉強に来ないという都市伝説でもあるのか、観戦記者まで目を丸くしている。
「いや、ちょっと勉強しようかと。一度くらい、活躍したいですからね」
「そうかあ、じゃあ、いいコメント頼むよ。東京は控室が静かなことも多くてね」
 たまに出入りはあるものの、対局がないプロは僕だけのようだった。こうなると僕の発言がネット解説に採用される確率が非常に高くなってしまう。
 どうせ午前中はあまり指し手も進まない。ちょっとした雑談や戦型の解説などをして、十一時過ぎには控室を出た。なんとなとく、昼食休憩になる前に控室を開けるのが礼儀と思ったからだ。
 会館を出て、ぶらぶらと歩く。別に戻らなければならないこともないが、相変わらず行き先も思いつかない。ふと見上げると、高くそびえる緑色のネットがあった。いつの間にか、野球場横のゴルフ練習場まで来てしまったようだ。そういえば、ここのレストランでサンドウィッチを食べると強くなれると聞いたことがある。
 ふらふらと、店に入っていった。普段そんなものは信じないのだが、今日はちょっとすがってみたい気分になった。
 一人でいることが多いのに、一人で食べることが苦手だ。サンドウィッチが出てくるまでの間、ずっと意味もなく携帯を眺めていた。待ちうけになっている近所の猫が、こちらを睨んでいる。
 サンドウィッチがきて一口食べたとき、月子さんのことを思い出した。毎日三食一緒だったので、変な気分だ。月子さんも、一人の食事に戸惑うだろうか。それとも、食べるのも忘れて将棋に打ち込んでいるだろうか。
 嘘をついて外出して、ぼんやりと昼食を食べている。なんか駄目な父親みたいだ、そう思った。金本のおじさんもこんな感じなのだろうか。それとも、真面目にやっても駄目な人なのだろうか。
 耳の奥で、あの時の声が蘇る。「戦わなくなったから、もう追いかけられない」
 そして、彼女は去った。
 そう、僕は今日も逃げ出している。月子さんから、そして控室から。
 食べているものの味が分からなくなった。思い出すこと全てが、後ろ向きだ。
 僕は字がうまかった。けれどもみんなそのことを知らなくて、習字で賞をもらった時、クラスが騒然となった。
 僕はバスケがうまかった。けれどもみんなそのことを知らなくて、体育の時間、クラスが騒然となった。
 だから、僕が将棋が強いなんてことも、誰も知らなかった。僕が将棋の用事で休んだ時、みんなが嘘だと思ったらしい。
 ただ彼女だけが、僕のことを知っていて、信じてくれた。だから、頑張れた。降級もしたし、三段リーグで負けが込んだこともあった。それでも僕がプロになれることを信じてくれる人がいたから、僕は強くなろうと思った。
 自分のためではなく。
 プロになった僕は、もう無理がきかなくなっていた。認められたい、そんな思いが僕を将棋に向かわせていた。けれども気が付くと、僕のことを知る人は将棋関係者ばかりになっていた。本当の僕を知らない人たちは、僕とは関係ない人たちになっていた。
 目標のなくなった僕は、近年まれにみる弱い若手になってしまった。そんな僕に愛想を尽かし彼女も去ってしまい、さらに僕の意欲はなくなってしまった。
 もう、いいと思っていたのだ。先輩にあきれられようが、後輩に笑われようが、僕はプロとして生きていける。名誉も金もなくても、地位だけを守れさえすれば。
 それなのに、月子さんのせいで。あんなにも純粋な思いで、そのくせ金のために強くなりたいと願う姿に、僕の心は常に揺さぶられてしまう。何とかしてやりたいという思いは日々大きくなるのだが、それとともに自分のふがいなさを実感してしまう。月子さんが来て以来大きく生活が変わったという事実は、僕がいかにいい加減な日々を送ってきたかということを示している。将棋にあてる時間は少なく、夜更かしばかりして、食事も適当で。勉強して強くなるとは限らないが、こんなんじゃ弱いのは当たり前だ。
 僕が会館に現われただけで驚かれたのも、単に珍しいから、というだけではないのだろう。本当に真剣に強くなろうとしている人たちは、僕の意識が低いこともお見通しなのだ。そんな僕が、何をしに来たのだろう、と思っているに違いない。
 何とかしなければ、本当に駄目な人間になってしまう。そう思うのに、店を出た僕の足は会館に向かわなかった。怖かった。大事な局面での意見を求められることが、控室にいる他の誰かが、僕の気付かない手を発見することが。僕より若い子が、僕の上のクラスで勝ち誇る姿を見ることが。
 あてもなく電車に乗り、乗り換えて、戻って、ホームでボーっとして、また乗った。いつの間にか窓の外が暗くなっていた。そろそろ帰ってもいい頃か、と思った。


「ただいま」
「どうでした?」
 玄関を開けると、月子さんが駆け寄ってきた。今までで一番素早い動きだった。
「あ、ああ。勝ったよ」
「おめでとうございます!」
「お、おう」
 月子さんは今度はパソコンのところまで駆け戻り、ディスプレイを指さして言った。
「2200になりました」
「おお」
 最近は少しずつ負けるようになってきたが、思ったよりも早く点数が上がっていた。慣れない戦法についてもよく質問してくるし、本気でプロになりたい気持ちがよく伝わってくる。
「まあ、ここからが大変かもしれないね」
「はい。でも私、将棋が楽しくなってきました」
「……そうか。それはよかった」
 月子さんの笑顔が、僕を苦しめた。それでも僕は、笑顔を作った。
「一度、普通の対局もしてみよう。慣れておかないといけないから」
「はい」
「なんか、疲れたから寝るよ」
「……プロの対局って、やっぱり凄い体力使うんですね」
「……ああ。おやすみ」
 服も着替えずに、僕は布団にもぐりこんだ。疲れていたのは事実だ。心のすりきれる音が聞こえてきそうなほどだった





 そして、本当の久々の対局は負けた。
 これで順位戦は2勝4敗。降級点を心配しなくてはいけない成績だ。
 負けて、感想戦を終えて、終電がなくて。一番居心地の悪い時間だ。月子さんはもうとっくに寝ているだろうし、早く帰らなくちゃいけない理由なんてない。それでも飲みの誘いを、ふわふわとした理由で断る。
 本当は、飲みたい。けれども、みんなと行くのは苦手だ。今日の将棋のことを振り返ったり、今後の目標を述べたり、先輩に奮起を促されたり、どれもが苦手だ。
 タクシーに乗る気にもならず、会館を出て、徒歩で家に向かう。空を見上げるが、星なんて見えやしない。吸い込んだ空気が肺の中で鉛になっていくような錯覚に陥る。
「あれ、三東君じゃないか」
 後ろから声を掛けられ、振り返ると背の高いおじさんがいた。よく見ると、水田六段だった。同じC級二組に所属しており、僕と同じで対局の帰りなのだろう。
「君も歩いて帰るところ?」
「ええ、まあ……」
「そうだよねえ。負けるとタクシー乗る気にはならないよねぇ。本当は終電までに終わりたいけど、なんやかんやで粘っちゃうんだよねぇ」
「そうですね」
 水田六段は、特に目立たないベテランの先生で、体格はいいのにいつもペコペコしているイメージがある。確か、順位戦で勝ち越したことがないのに降級点を持っていない唯一のベテランだった気がする。
「嫁がね、待ってるんだよ。何時になっても。将棋のことをよく知らなくてね、俺のことまだ強いと勘違いしてんだ。そのうちタイトル取れますよねぇ、だって。いやんなっちゃうよ」
「それは……プレッシャーですね」
「いやいや、もちろん聞き流してるよ。俺が頑張るのはね、息子の授業料とか、娘のピアノのレッスン代とか、そういうもののことを考えてね。せめて子供たちが一人前になるまでは緊張の糸が切れないように、そればっかりだよ」
「そういうものですか」
「家族を持つと分かるよ。名誉よりもお金。これが原動力」
 先輩もそういうものだったんですか、という言葉は飲み込んだ。僕にはお金すら原動力になっていないのだ。
「あ、俺はこっちなんで。また」
「はい。それでは」
 水田六段は、交差点で北に曲がった。僕は信号を待つ間、何となくその背中を眺めていた。辛い競争を勝ち抜いてきても、プロの世界ではその他大勢になってしまう人ばかりだ。対局した棋譜がどこにも載らないこともざらで、いったい何のために将棋を指しているのか疑問になることもある。それでも歳をとり、家庭を持つととにかく与えられた勝負を指すしかなくなるのだ。
 水田六段を笑うことなどできない。憐れむことも、同情することもない。勝負の世界においては、敗者の存在も必要なのだ。敗者が必死になればなるほど、勝者が輝くのだ。僕も、主役になれないことは身に染みてわかっている。せめて、注目されるような脇役になれれば。
 素面で歩くと、鮮明に余計なことを考えてしまう。どれぐらい時間がたったかわからないが、我が家の玄関の前まで帰ってきた。扉を開けると、電気が点いていた。
「起きてるの?」
「……先生。勝ちましたか」
「……負けたよ」
「……それは……残念でした……」
 聞こえてくる声は、震えていた。月子さんはテーブルの前で、がっくりと頭を垂れていた。
「どうしたの」
「……これ……」 
 月子さんは僕に、封筒を差し出した。宛名には、「金本光男様」と書かれている。
「返ってきた」
「え」
「前に出したのに返事がないから、もう一回出したんです。そしたら……」
「転居先不明……」
 よく見ると、赤い印が押されていた。引っ越してしまったうえに、転居先を届けていないということになる。
「私に何も知らせないで……」
「まあ、そのうち連絡が来るさ」
 そうは思わなかった。娘を預けたタイミングで転居。多額の借金。
「……私、どうしていいか……」
「とにかく、待つしかないよ。さあ、寝よう。明日も七時起きだぞ」
「……。……はい」
 月子さんは、よぼよぼとした足取りでロフトに上がって行った。僕は色々なものを洗い流すため、シャワーを浴びた。
 全部さっぱりとは行かなかったが、いくぶん気分は良くなった。このまま眠ってしまえば、嫌なことのうちのいくつかは忘れてしまうだろう。
 しかし、僕は布団に入ることができなかった。斜め上から、すすり泣く声が聞こえてくる。
「月子さん?」
 返事はない。梯子を上がっていくと、瞼を閉じ、毛布を抱きしめる少女の姿があった。
「……お母さん……お母さん……」
 うわごとのような呟き。もう心は夢の中なのだろうか。十五歳が等身大の姿で、苦しみを耐え忍んでいた。
 僕は、そっと髪をなでた。すると月子さんは右手を伸ばして、僕の手をつかんだ。母のことは呼び続けたまま。
 僕は動けなくなってしまった。今、この子が頼れるのは僕しかいない。月子さんにとって僕は、師匠であり父親であり、そして母親でもあるのだ。
 あの時僕が追い返していたら、月子さんはどうなっていただろうか。彼女の両親は、娘を追い出したかっただけなのだろうか。
 洗い流したところへ、別のものがこびりつき始めた。月子さんが寝息を立て始めたのを確認して、僕はビールを取りに行った。



「……ひゃぉー」

車窓から流れていく風景に、月子さんは珍妙な感嘆の声を漏らした。

今二人は、新幹線に乗っている。電車すらほとんど乗ったことのない月子さんにとって、このスピードはとても刺激が強いようだ。

 僕らの目的地は、地方のとある道場。ネットではいい調子で点数を上げている月子さんだったが、やはり向かい合っての対局をこなしておく必要があった。駒をつかむこと、時計を押すこと、相手の様子をうかがうこと。対局には様々な技術が必要だ。

 とはいえ、奨励会受験前にあまり目立ちたくはなかった。ただでさえ内気な子なので、あまり注目されてしまうのはよくないと思う。それに僕が師匠であることや、東京に単身出てきていることなどは、できるだけ長く隠しておきたいのだ。

 新幹線を降り、バスに乗る。二十分ほど揺られて、海の近くの停留所で降りた。風が穏やかに吹きつけてくる。

「久しぶりに海を見ました」

 月子さんは、しばらく立ち止まって風景を眺めていた。彼女には、ゆっくりとできる瞬間は少ない。

「行こう」

「はい」

 そこから歩いて約五分。白い壁に青い瓦、目的の将棋道場に到着した。中に入ると、すでにおじさんたちでいっぱいだった。足の長い分厚い盤を使って、十秒将棋などを楽しんでいる。

「お久しぶり」

「おおっ、幸典。本当に久しぶりだなあ」

 玄関から入ってすぐ、右手の机の前で手を振る男性。長い顎に大きな眼鼻で、一度見たらなかなか忘れられない顔だ。

「すごい人だね」

「まあ、これでも減ったよ。爺さんの頃は入りきれないぐらいだったらしい」

「へー。あ、恒義、この子が金本月子さん。今日のトーナメントに参加するから」

「あ、あの、よろしくお願いします」

「おー、若いねえ。俺は北森恒義。まあ一応ここの責任者。おっさんたちが失礼なこと言ったら追い出してやるから、伝えてね」

「は、はい」

 恒義は不細工な顔を出来るだけ朗らかにして笑いかけていた。しかし月子さんは、人の多さに圧倒されてしまっているようだ。愛想笑いすらできずに、きょろきょろと視線をさまよわせている。

「Aクラスでいいの」

「いいと思うけどね」

「幸典も出たら。優勝逃して恥かいてよ」

「やだよ」

 僕らの会話を聞いてか、何人かがこちらに近寄ってきた。

「あの……三東先生ですか?」

「あ、はい」

「いやあ、本物のプロの先生が来られるなんて」

「……伊藤さん、どーゆー意味ですか」

「ああ、これは失礼」

 恒義は本気で怒っているわけではなく、苦笑いを浮かべながらトーナメント表を準備し始めた。

「みんな、俺のこと偽物だと思ってんだよなあ。まあ、仕方ないか」

 僕はどういう言葉を返せばいいかわからず、曖昧にうなずいた。

 恒義は奨励会の同期で、僕が唯一気兼ねなく話ができる将棋関係者だった。恒義は勝負師らしい厳しさや破天荒さといったものとは無縁で、普通っぽいということで将棋の世界では浮いていた。それでも僕よりはかなり強く、僕が3級のときには初段になっていた。その頃の僕は色々な自信をなくし、恒義は四段になれるだろうけど、自分は違う、そう思った。けれども、実際は逆になった。先に三段リーグに入った恒義は、僕がそこにたどり着く前に奨励会を辞めてしまった。「こんなとこでもたもたしてるようじゃ、タイトルは取れない」と言って、恒義は故郷に戻り祖父の道場を継いだのだ。

「今でも幸典よりは強いと思うんだけどなあ」

「失礼な」

 それは、本当かもしれないのだ。タイトル云々は別にして、恒義は三段リーグを抜ければ強い方のプロになれる素質があった。退会後も将棋に関わっていたことを考えれば、僕より強いなんてことは十分にあり得る話だ。

「もしよかったらさ、指導対局とかしてくれよ。金本さんの分ただにするからさ」

「入場料600円だろ。俺の指導、どんだけ安いんだよ」

 そうは言っても、最初からそのつもりだった。普及も大事なプロも役目だし、なにより他にすることがない。

「えー、本日は三東四段が指導対局をしてくれるので、負けても損しません」


 しばらくして、トーナメントが始まった。この道場では休日に将棋大会を開いており、今日はA・B級に分かれたトーナメント戦が行われる。各クラスで優勝すると、海の幸がもらえる。

 月子さんはおどおどしていたが、名前を呼ばれ盤の前に座ると少し落ち着いたようだった。

 B級でシードが一つできたので、空き番の人を二枚落ちで指導することになった。月子さんのことは気になるが、放っておくのも本人のためというものだ。

 しばらくすると月子さんの対戦相手から「あちゃー」という悲鳴が上がった。今まで何度も見てきたが、幼い子供、女の子などに負けるとおじさんは照れ隠しに声を出すようだ。

 恒義がトーナメント表に結果を書き込む。二十分もかからず、月子さんは準決勝進出を決めた。

 負けた人たちがぞろぞろとこちらにやってくる。世の中には百面指しをこなす先生もいるが、僕は選べる時は三面指しまでと決めている。勝たせることを大事だという考え方もあるが、勝ったことが過信になってしまう人も多いので、できるだけためになるように負かしてあげたいのだ。見せ場を作りながら一手差で勝つ、この技術はプロ特有のものである。

 一時間ほどすると今度は、「おお」という声が湧きあがった。月子さんの対局相手が頭を下げているのが見えた。またまた勝ったようだ。

「強いね、あの子」

 僕の傍らまで来て、恒義は唸っている。

「プロを目指すんだ。勝ってもらわなきゃ」

「……まさか、お前が師匠なのか」

「そうなりそうだ」

「そっか。お前が弟子を持つのか。なんか、本当にプロになったんだな」

 恒義は、僕の肩をポンポンと叩いた。その顔は、少し寂しそうだった。僕も、少し切なくなった。

 月子さんの方は、対戦相手が決まるのをじっと待っていた。もう一つの対局を見るでもなく、瞑想するでもなく。ひょっとしたら、貧乏な生活の中でうまく「何もしない」ことを身につけたのかもしれない。プロになると、それは大事だ。長い持ち時間、ずっと考え続けることなどできない。いかに疲れないように時間を浪費するか、それも技術の内である。本当に強い人はどれだけでも考え続けることができているのかもしれないが、なったことがないのでわからない。

「あー、やっぱ飯原さんか」

「こりゃ見ものだ」

 もう一つの準決勝も終わったようだ。そして、その結果は予想通りだった。勝った飯原さんは、正真正銘のアマ六段、何回も県代表になったことのある強豪だ。全体的にバランスのいい将棋で、無理をしない勝ち方が多い。実はアマ時代、一度対戦して負けている。

 指導対局もだいたい一周し、皆の関心も決勝戦へと移っていった。道場一のベテランと、突然現れた少女の決戦は、確かに興味をそそられるものだろう。僕も、決勝戦は観戦することにした。

 持ち時間は20分、切れたら一手30秒の秒読み。時間に関してはネット対局の成果が試されるところだ。そして、ここからが本番とも言える。これまでの相手は普通にやれば勝てる実力差だった。しかし、飯原さんは別だ。基本ができているうえに、これまでの経験値が半端ではない。注目される中、月子さんはどれぐらい実力を出し切れるだろうか。

 飯原さんが駒を振り、先手になった。

「ではお願いします」

「……よろしくお願いします」

 二人が挨拶して、対局が始まった。すらすらと相矢倉に組みあがっていった。矢倉は将棋の純文学とも言われる、最も基本的な戦法の一つだ。守りは金銀三枚、攻めは飛車角銀桂という格言にもぴったり当てはまる。

 少しやばいかな、とも思った。矢倉は指す人も多いだけに、研究も随分と進んでいる。小川名人の時代からは、かなり進歩しているのだ。

 二人とも小刻みに時間を使い、知識を確認しながら指しているようだ。組みあがるまでは、問題がない。仕掛けてからが、どうなるかだ。もしくは、仕掛けなかったときに。

 飯原さんは、右手を顎に当てて次の手を考え始めた。そして、二分ほどして右手は左端に伸びた。9八香。穴熊に囲い、さらに自玉を固くしようという作戦だ。最近になって現れた指し方で、後手が飛車先の歩を突いているときにはこうなることが多い。

 月子さんの額に、縦の皺が刻まれる。予想していなかったのだろう。瞼を閉じ、頭の中の盤で考えているようだ。後手は右の銀も守りに使っており、右の桂馬はすぐには跳ねられない。仕掛ける手はないが、相手は攻めてこない。このような時に、損にならない手を指すテクニックもプロになるには必要だ。もちろんちゃんと最新の情報を入手していれば、ただそれをなぞるだけでもう少し先まで行けるのだが。

 時間がどんどん過ぎて行き、ついに秒読みに突入した。十秒過ぎ、二十秒過ぎ。そして、時間ぎりぎりで角が一つ、右斜め上に動かされた。6四角。月子さんは、自力で定跡の一手にたどり着いた。

 飯原さんはさほど時間をかけず6五歩。月子さんは7三角。相手に歩を突かせただけのようだが、争点を作るための高等戦術だ。この短い時間の中でこの手順にたどり着いたというのは、相当のセンスを感じる。

 ただし、中盤で定跡通りに進んだからと言って、有利になるわけではない。穴熊に囲った先手はついに総攻撃を仕掛けてくる。後手はそれをぎりぎり何とか受け続けなければならないのだ。後手の勝ち方は三つ、完全に受け切って先手の攻めを切らせるか、もらった駒で一気に反撃するか、もしくはするすると玉が相手陣に入っていくかだ。

 月子さんは、そのどれを選ぶのかが定まっていない様子だった。ある手には受け、ある手には手抜き、ある手には逃げ。一つ一つはそれほど悪い手ではないが、一貫性はない。そしてベテランは、そんな相手の様子を見逃してくれない。

 ゆっくりと放たれた、2五桂馬の王手。相手の歩の頭であり、どう見ても只だ。しかしそれを取ると、同銀で全軍躍動、とても受け切ることはできない。かといって逃げると、上からじわじわと押しつぶされて駄目だろう。先手は穴熊、王手がかからない。つまりそれは、攻めれば必ず駒を渡すことを意味する。これ以上相手に駒を渡せば、確実に攻め切られる。

 月子さんの瞳から、少し光が失われたように見える。そして、力なく歩で桂馬を取った。相手が間違えるのをひたすら待つ、辛い指し方だ。そして、矢倉に慣れている飯原さんは、もう間違えない。20手ほど続いたが、逆転の筋はなかった。

「負けました」

 月子さんが頭を下げ、髪の毛が盤に覆いかぶさった。今度からは結ばせた方がいいかな、そんなことを思った。月子さんが負けたことについては特に何も感じなかった。結果は、僕の予想通りだったのだ。

 たっぷりと感想戦をして、そのあとに月子さんは小さな準優勝の賞状をもらった。日帰りの旅なので、そこでお暇することになった。

「今日はありがとう」

「いやいやこちらこそ。またいつでも来いよ」

 帰り道、何度振り返っても恒義は手を振っていた。月子さんはうつむいたままだった。

「どうだった」

「……強かった……です」

「そうだろう。でも、奨励会員はあの人より強いぞ」

「……まだまだ、先なんですね……」

「まだまだ、伸びる年だ。月子さん、君は僕が15歳の時より強いよ。ただ、色々なことを知らないだけなんだ」

「……頑張ります。もっと強くなれるように……」

 新幹線に乗ると月子さんは、電池が切れたかのようにぐっすりと寝始めた。人と指すこと以前に、人に囲まれることに疲れてしまったようだ。プロになるためには、将棋以外にも本当にいろいろと乗り越えなければならないことがあるのだ。


 遠征の日以来、月子さんは自主的に最近の棋譜を並べるようになった。ネット上にあるものや、僕がコピーしてきたもの、そして年鑑に載っているもの。気になった棋譜はノートに書き写し、詳細にコメントを付けている。さらに僕の持っていた定跡書や詰め将棋の本も積極的に読むようになった。どうやら、将棋の楽しさと同時に、悔しさも本格的に感じ始めているようだった。

 一方の僕は、前半であまりにも負けが込んだために、順位戦以外の対局がほとんどないという状況に陥っていた。一ヶ月に二回、会館での将棋教室の講師の仕事があるので、ほぼ月に三日働いているという状況だ。相変わらず時折、対局があると嘘をついて家を出ていく。最近では暇つぶしにいいスポットをたくさん見つけるという、なんとも情けない有様である。

 月子さんが日に日に強くなっていく姿を見て、僕も頑張らなければ、とは思うのだ。けれども、一歩を踏み出しても、いつも同じところに戻ってきてしまう。いっぱい研究して、将棋も指して、気合を入れて対局に臨んでも、いつも通りの負かされ方をして帰ってくる。そして、こんな感じでも生きていけるじゃないか、と思ってしまう。たとえ勝率三割台でも、降級点を取らないようにして、順位戦で生き残っていればプロでいられる。贅沢はできないけど、今だって弟子と一緒に生活していけるぐらいの収入はある。

 僕は、タイトルを取りたいとか、A級に上がりたいとか、そういう具体的な目標を持ったことがなかった。ただ自分がプロになれることを、証明したかった。子供心にそう思って出発してしまったら、それしか選べない大人になっていた。

 僕が手に入れたものはなんだったんだろう、と思う。プロになれない人もいるから、プロであることはきっと誇ってもいいことなんだろう。けれども、子供の僕が望んでいたほど大きな充実感は、全く得ることができなかった。それどころか、唯一僕が手に入れたすばらしいものは、プロになった後に失ってしまった。

 月子さんがもしプロになれたとしても、同じような思いをするかもしれない。弱いプロでは、借金を返すことはできないだろうから。プロを目指す子に対する本当の優しさは、プロになんてなるなって言ってあげることかもしれない。

「やった!」

 僕のぐだぐだした思考を強制的に遮断するかのように、月子さんがいつになく元気な声で叫んだ。

「どうしたの」

「ついに、2400点です!」

 僕はテーブルを半周して、月子さんの後ろからパソコンの画面を覗き込んだ。確かに、TomatoMamaの点数は2403点になっていた。

「おめでとう」

「……先生」

 月子さんは炬燵から出て、僕の方を向いて正座をした。そして、深々と頭を下げた。

「私を、正式に弟子にしてください」

「ああ、約束だからね」

「……ありがとうございます……早く強くなって、先生に借りたお金もお返しします」

「待ってるよ」

 月子さんの瞳から、小さなしずくがこぼれ落ちていた。考えてみると僕は、そういう涙を流したことがなかった。

「幸典」

 突然声を掛けられて、僕は足を止めた。それは、聞き覚えのある声だった。

「あ……朱里……」

 僕は、完全に気を抜いていた。なにせ、このホームセンターは僕の暇つぶしスポットのひとつなのだ。とくに何を買うわけでもないが、お金をあればこれ買えるなー、と考えながら見て回るのが楽しい。そんな癒しの時間がまさか、こんな形で乱されるなんて。

「久しぶり。びっくりした?」

「あ、ああ。まだ東京にいたんだ」

「帰っても仕事ないしね。こっちの方が楽しいし」

「……ここで働いてるの」

「うん。先週から」

 目の前にいるちっちゃくて愛らしい顔の女性は、僕の高校の同級生であり、元恋人でもある工藤朱里だった。ずっと僕のことを応援してくれ、東京に一緒に出てきてくれて、そして愛想を尽かして去って行った。

「調子はどう? 相変わらず負けてる?」

「……ああ。急に強くはならないよ」

「また言い訳。変わんないなあ」

 早く逃げ出してしまいたかった。朱里には嘘をついても無駄だから、本当のことを言うしかない。本当のことを言うのは、辛い。

「頑張ってるよ。結果が出ないんだ」

「そう。でもなんか、前よりはいい顔つきしてるかも。まあ、応援してるよ。じゃ、仕事あるから」

「ああ、じゃあ」

 後ろ姿の朱里を見ながら、ほっとすると同時に悲しくもなった。こんなに近くにいたのに、僕は何も知らなかった。彼女は何も知らせてくれなかった。僕らは、友達に戻ることすらできなかったのだ。

 彼女は、前向きな僕が好きだった。どんなに周りから評価されていなくても、朱里だけは僕を信じてくれた。けれども僕は、プロになることで歩みを止めてしまった。僕にとっては、そこがゴールだった。朱里にとっては、それが許せなかった。

 ほんの少しの時間だったけれど、彼女は今でも素敵だった。最初から僕になんか釣り合わない人だったのだ。

 気が付くと、強く拳を握りしめていた。やるせない気持ちが爆発して、気がつくとずっと欲しかったラックを購入してしまっていた。

本当に駄目だ。



 朝五時に目が覚めた。

 今日は運命の日だった。僕にとっての、ではない。にもかかわらず、眠りは常に浅く、いつになく早く起きてしまった。

 ロフトの方からは、いつもと変わらない、小さな寝息が聞こえてくる。

 布団にもぐりこんだが、頭は冴えわたっている。十分ほどして、あきらめて起き上がった。

 とりあえず、コーヒーを飲んだ。

 今日は、奨励会試験の日だ。

 ついていくわけにもいかないし、教えられることは全て教えた。僕がすべきことなど、何もないのだ。それなのにどうにも落ち着かない。

 自分が試験を受けたときのことを思い出す。まだ中学一年生だった僕は、絶対に受かると信じ込んでいた。両親はあまり興味がなさそうだった。将棋のプロというものがまるでわからず、カルチャースクールか専門学校にでも行くかのように思っていたようだ。師匠が直接説明してくれたが、それでもわかっていない様子だった。ただ、僕のすることには何も反対をしなかった。両親にとって僕は何もかもがそこそこの人間であり、たとえ「趣味であろうと」頑張るのであれば喜ばしいと思っていたようだ。

 僕はあっさりと試験に受かったし、両親はいつまでたっても「就職はどうするの」なんて聞いてきた。いまだに僕がどのようにしてお金を稼げているのか、さっぱり想像がつかないらしい。

 しばらく何もできずにボーっとしていた。まさか自分のものでない試験に、しかも数か月前までまったく知りもしなかった子のために、こんなに心が乱されるとは思わなかった。本当に心が弱い。僕は、どうにも勝負に向いていない人間だと実感した。

 七時前、いつも通りの時間に月子さんは梯子を下りてきた。

「おはようございます」

「おはよう。よく寝れたかい」

「はい。試験中眠くならないよう、しっかり寝ました」

 本当にいつも通りの、ふんわりとした感じだった。

「緊張は?」

「うーん。多分対局始まらないと。今はまだ、何にも実感はないです」

きっと受かる。そう思った。


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