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はじめに

本書のテーマは”人”です。
最近では人間について色々な事が判ってきています。脳科学、心理学、社会学…人体について、人間の社会について…。でもそれは本当に”人”の本質についての事なのでしょうか?
皆さんは光の3原則を知っていますか?そう、赤、青、緑の三種類の光を白い壁に当てると真ん中が白くなる、というものです。実際には壁が白いために白く見えるだけで壁を照らしているのは透明な光、です。人の本質についても同じです。脳科学や心理学が赤や青の光とすると真ん中の透明な光・・・この中に人間の本質が隠されているのではないでしょうか?しかし、透明であるから性質がつかみづらい・・・赤や青は色が付いているから調べようがあるのです。でも一番知りたい真ん中の透明な光・・・色の付いた部分の光の性質を知るだけでは永遠に判らないでしょう。でも、そこに光があることは皆が知っています。知ってはいるけど気づかない・・・それだけのことではないでしょうか?今現在わかっていることをつなぎ合わせる事ができれば「人とは?」と言う命題に答える事ができるのではないか・・・いや、すでに我々はそれを知っているのではないか。ただ、知ってはいるけど気づいていないだけ。そんな気がするのです。
「総合人間学」と言う分野の学問が最近生まれたようです。大学の中でも総合人間学科を創設したところがありますし、総合人間学会というところも出来ました。「やっと人の本質について語る学問が出来たな…」そう思いました。しかし、実際に彼らがやっている事は真ん中・・・透明な光が何かではなく回りの色についての事でしかないように感じます。確かに科学の発展は周りの色の付いた部分を分析し解明してきていると思います。それだけでなく以前は見えてさえいなかった光、紫外線やら赤外線の部分も見えるようにもなってきているのだと思います。物事をを細切れにしてその一つ一つについて分析する。そういった西洋科学のやり方はもちろん現在の科学の発展には大いに役に立ちました。でも人間について、いやそれだけでなく生命について・・・細切れにしては全体がわからなくなる分野は多く存在しているのではないでしょうか。真ん中の透明な光の部分は未だに手付かずなのです。彼らのやっているような事ではなく、もっと皆がすでに知っている事にその本質があるのではないかと思うのです。しかし判っているけど気付けない。どうしたらそこに気づく事ができるのか…。
想像の世界に入るしかないでしょうね。「想像」と言うと「なーんだ・・単なる想像か」と思われるかもしれませんが、研究の分野ではこの想像を「仮説」などと呼んだりもします。「仮説」のほとんどは単なる想像が元になっているのです。そして、そのそ「想像」の手助けとしてキーワードを並べてその事について書き連ねた物を並べ替えていく、という手法を使っています。「知っている」事を単に順番を並べ替えつなげてみる事で案外気づけない部分に気づくことがあるのです。話を元に戻します。人の本質とは・・・一番判りづらく考えるための手がかりも少ない心と精神に鍵がありそうです。心と精神は全ての人が持っているのです。なのにそれが何かは判っていません。でも判らないのではなく気が付いていないだけでは有りませんか?
人の社会にも不思議に思えることはたくさんあります。人はいつから他の動物とは違うと思うようになったのでしょうか?人だけが特別・・・そんな事はありえません。一人の人を他の動物と比べるとそれ程能力に違いがあるとは思えません。それなのに人だけは特別だと思われています。人がなぜ自分達の事を特別だと思うようになったか・・・。それ以外にも人が住み着いた全ての地域で宗教が発生している事や人だけが持つ無限の所有権への欲望などなど・・・。それらを解明する事によって透明な光の部分を少しづつでも理解できるようになれたら、と考えて前著および本書を書きました。

前著「本能の代弁者」を書き終えたのは2010年10月なのでもうずいぶん時間がたっています。前著は今から読み返すと確定している説でもない物を言い切っていたり迷いながら書いた物がなぜか自信たっぷりだったり…。まあ、全体的な流れは私の考え通りなので良いのでしょう。今回も前回と同じで「私はこう考えている」と言うだけの話であってちゃんとした学説を基にしているわけではありません。おそらく本書も前著も細かい点では間違いだらけでしょう。でも細かい点にこだわるのではなく大きな視点で読んでいただければと思います。


前著は

人間もどうかすると数千年、数万年後には単に優雅なだけの生物になっているかもしれません。それも人間の選択次第なのでしょう。もしかしたら、そんな世界こそがヨーロッパの人々のいう天国、アジアの人々の言う極楽浄土なのかもしれません。

 

と言う文章で終わらせました。でも本当は2部4章につなげる予定だったのです。1部では脳の機能について、2部では人間の社会に対してを書きました。そして最後に2部4章として人間の社会はどうあるべきか、そして実際にはどのような方向に変わっていくのかについて私の考えを書くつもりだったのです。しかし当時はまだ書ききる事が出来ませんでした。考えをまとめる事が出来ずに結局あのような最後にしてしまったのです。あれから4年。ちょっとは頭の中が整理できてきました。それに前著は某出版社の懸賞に出す為にある程度の枚数、文字数が必要でした。でもここなら文字数は関係ありません。それこそ本一冊を1行ずつで出す事だって出来ます。なので今後も修正や追加を行う前提で今の所の考えをアップしたいと思います。

その前に前著を読まれていない方に若干の説明をしておきます。
まず一般的に言われている言葉の意味は幾つもに解釈できてしまうので幾つかを定義します。

 

本能:個体自身の持っている遺伝子の発現によってある行動に駆り立てる性質

 

心(自分で意識できる脳の活動):脳の判断をする機能

 

精神:意識、無意識を含めた脳の活動

 

と定義します。「心」の解釈について詳しくは前著を読んでいただければと思います。とりあえず簡単に言うと、個体の行動は本能と経験によって影響を受けますが幾つかの本能、経験が相反する行動に駆り立てようとする場合に判断をする必要があります。その判断をする脳の機能が発達した物が「心」と呼ばれる物ではないかと私は考えています。また、本書でもこの解釈で話を進めます。

 


「心」の起源(前著の訂正)

前著では人間の精神は他の動物と同じ、と書きました。基本的には「他の動物」とは哺乳類の事を指しています。そして「心」つまり脳の判断をする機能を持っているのは脊椎動物である、と考えていました。たとえば昆虫や軟体動物に人間と同じ心があるか、と考えると?だったわけです。でもその後その考え方は変わりました。

まず哺乳類と対比できる高等生物としてとりあえず昆虫と比較してみましょう。昆虫と哺乳類はずいぶんと違います。たとえば呼吸をするのに哺乳類は肺で、昆虫は気門で行っています。物を見るのも哺乳類は目で、昆虫は複眼と単眼で行っています。どちらも構造はまったく違います。でも機能や目的は同じようなものですよね。それ以外でも構造は全く違っても同じ機能を持っていると思っていい事はたくさんあります。そもそも「五感」、つまり見る、聞く、感じる、嗅ぐ、味わうと言う「感覚」の部分は同じです。どちらも電波や放射能を感じる事はできない訳です。そして新鮮な空気(酸素の多い空気)を吸って汚れた空気(二酸化炭素の多い空気)を吐き出しています。体の構造はまったく違うのになんでそういった「体の機能」やそれぞれの器官の「能力」は同じなのでしょうか?
そもそもどれも生物が単細胞生物だった頃から持っていた能力です。単細胞生物も光や振動を感じ、触覚を持ち、化学物質に対する知覚も持っていました。たった一個の細胞ですべてを行っていたわけです。その単細胞生物が多細胞になっていく過程でそれぞれの細胞が特定の機能に特化していったのです。
世の中に単細胞生物しか存在していなかった当時、単細胞生物はたった一つの細胞だけで進化できる限界まで進化を進めたと考えられます。たった一つの細胞で狩を行い捕食者から身を守り生殖すらしていたのです。現在の高等生物と同じ事を一つの細胞で行う・・・生物は単細胞生物だった頃にすでに現在の高等生物が持っている性質をすべて身に付けていました。その後より強く、より大きく、そしてより賢くなる為に生物は分裂の際に体を切り離さずに多細胞になる道に進化しました。そしてたんに多くの細胞が集まった多細胞生物から一部の細胞の機能を限定してより高機能な細胞を作るようになっていったのです。目は目として進化したのではなく光を感じる事以外の能力を捨てる事でより高機能な感覚器官となったのです。多細胞生物の各器官はそのようにして他の能力を捨てる事で一つの事に特化した器官になっていきました。

当然人間でも同じです。目や耳や足などは最初から目や耳として発達したのではなく、すべて行える細胞が他の機能を捨てて一つの機能に特化する、というところからスタートしたのです。生まれた時は哺乳類も昆虫もいまだに同じ事を繰り返しています。すべての高等生物は「受精卵」と言う単細胞生物から発生しています。受精卵は1個の細胞でできていて、それが分割して多細胞になる。この時点ではどの細胞もすべての臓器になりえる能力を持っています。それが部位によって他の臓器になる能力を捨てていく事で特定の能力を持った臓器になっていくのです。
では、心や精神の部分はどうでしょうか?単細胞生物にも本能や学習能力はあります。と言う事は相反する本能や経験を状況によって「判断」する必要があるはずです。要するに「脳の判断をする機能」である心を持っているということになるのではないでしょうか。そして単細胞生物だった頃の能力はその後進化した先の生物にも受け継がれているでしょう。昆虫や軟体動物といった人間とはまるで体の構造が違う生物も人間とはまったく違った構造かもしれない「心」を持っていると思われるのです。

 

民の時代(前著の訂正)
前著では現在を「個人の時代」と呼んでいました。これは間違いではないと思いますが、今後を含めた「支配者の時代」に続く時代と言う考え方からするとちょっと違います。なので現在を「民の時代」(たみのじだい)と呼ぶことにしました。詳しくは2部4章に書きます。


2部4章

現在の人間の社会は数千年続いた支配者の時代から「民」の時代に移ってまだ2~3百年、と言ったところでしょうか。しかし民の時代はまだまだ完成していません。完成まで今後数千年の時を必要としています。しかしそれまでの間も時には大きく、時には逆行しながら完成形を模索していくことになります。その完成形を今現在完璧に予想することは誰にもできません。しかし今後数十年の予測程度であればある程度の事は予測可能です。


1.経済1 ***国家の債務***

封建的な社会から現在の民主主義になるきっかけを作ったのはなんだったのでしょうか。先進諸国の工業化によって誰かに支配されることのない一般市民が増えたことは大きな下地を作りました。しかしそれだけでは国を支配する支配者が没落することはなかったでしょう。国の支配者を直接的に没落させたのは革命や戦争です。フランス革命やソビエト革命、ヨーロッパの30年戦争から第二次世界大戦まで。その戦火が国の支配者を変える直接的な引き金になったのです。
しかし、国の支配者は没落しましたが社会全体ではまだまだ支配者の階級に属する人たちは多く残っています。その支配の構図はそう遠くない時期に崩壊するでしょう。では、今後起こる「支配者の時代の崩壊」はどこでどのように起こるのでしょうか。「民の時代」の勃興期のように戦争や革命が起きるのでしょうか?戦争や革命は今後もなくなりはしないでしょう。しかし第二次世界大戦のような広範囲に及ぶ全面戦争はおそらくもうないと思われます。世界の大国にはそれを行えるだけの資金力がすでになくなっています。もちろん第二次世界大戦の頃だって戦争の資金を調達するのは大変でした。でも現在の戦争は当時と比べてものすごく高くなっているんです。それに国民の同意も得ることは難しいでしょう。それと同時に先進国のトップは全面戦争の責任を負う事が出来なくなりつつあります。それでも人類の歴史を見ると社会が変わる時というのはその前の社会が壊されるような大きな事件があった時です。では何によって現在の社会は壊されるのでしょうか。今の時点で世界をガラリと変えてしまう可能性があるのが「経済」です。

 

では世界経済の現状を見てみましょう。世界全体の金融資産は現在軽く200兆ドルを超えています。それに対してGDPの総額は40兆ドルほど。でもGDPには裏世界、麻薬や密輸、売春といったアングラマネーは普通含まれていません。なので実際の世界の経済規模はもうちょっと多くなります。それでも現状の金融資産は世界の経済規模の3倍以上あるのではないでしょうか。これはもちろん国が、とか民間が、という話ではなく全体で、の話です。全体が使っている金額の数倍の金融資産があるのです。これは金融資産の総額であって不動産や貴金属などの実物資産は計算に入っていません。金融資産というものは預金や債券、株式などのことなので、裏をかえぜばそれだけ借金をしている人たちがいるという事でもあります。しかも全体でこの状況になるという事はたとえば半分の人たちがお金を貸して半分が借金をしたとしたら借金をしている半分の人たちはさらに倍の借金をしている、という事になってしまうのです。なぜこんな状況が生まれたのでしょうか?そして、それだけの借金はいったい誰がしているのでしょうか。実際に借金をしているのは国や自治体、企業、個人といった面々です。こんな状況はどうして生まれたのでしょうか。

国が国債を1兆円分発行して民間がそれを買ったとします。これは1兆円が民間から国に移ったと言うことです。わざわざ借金をして使わない人はいません。なので国はその1兆円を使ってしまうからその1兆円は民間に戻ります。そのお金で民間が国債を買う事で国に資金が戻り、国がそれを使って民間に1兆円をはらう・・・これを繰り返したから国の借金は膨大な金額になり民間の金融資産も同時に大きく膨らみました。本来は最初の1兆の国債を発行した時点で税率を上げて民間から1兆円を吸収しなければいけなかった。そもそも国債を発行して公共部門が使うと言うことは民間の資金を国が吸収して公共部門が使う、と言うことでもあります。資金自体の量は変わらないのでやり方さえ間違えなければ国債発行ではなく税金によって民間の資金を吸収する事で対応しても景気に対してはどちらも同じだったはずです。ただ、確かに民間に資金があっても使われずに退蔵されたら景気は良くなりません。民間に任せていたら貨幣の流通速度を上げることができないと判断した場合に公共事業を行う事で貨幣の流通速度を上げて景気を良くしたかった。でも、そのために税金を上げると景気が悪くなる、などという安易な考えを続けてしまっているのです。現状の経済の仕組み、あるいは運営の仕方は根本的に間違っているのでしょう。このことによって国は膨大な金額の金融資産を民間に提供してしまいました。今、日本の個人金融資産は1433兆円あると言われています。だけどそのうちの1000兆円以上は単に国が民間に配っただけのものです。本来は最終的に配った金融資産を回収しなければならないはずです。
では、国はどうやってばらまいた金融資産を回収しようとしてるのでしょうか。お粗末なことに消費税等の増税で資金を集める事で賄おうとしてるのです。国がばらまいた金融資産はどこにありますか?あなたの手元にあるんですか?もちろん国債という形ではなくても預金や年金、健康保険といった金融商品も裏を返せばかなりの部分が国債です。なのでみんなが相当な金額の国債を所有していると思っていいとは思います。それでも金融資産の所有は相当に偏りがあります。ま、日本以外の先進各国ほどではありませんが・・・。元々国がばらまいた金融資産の回収の為であれば偏って持っている所から重点的に回収する必要がありますが、その方法が消費増税・・・。大地と湖があって国の役目が雨の降らない時期に湖から大地に水を撒くことだとすると真逆の事をやってます。消費税の増税は乾いた大地から水を吸い上げて湖に流し込むことです。これは日本だけではなくアメリカを筆頭に世界中がはまり込んでいる状態だと思っていいのではないでしょうか。このままだと世界は砂漠とほんの一部のオアシスに分かれてしまう事になりかねません。そうなる前に暴動などで社会が破壊される可能性もあります。世界中で暴動は増えてるようですが無関係ではないと思います。
この解決策は一つだけだと思います。堂免信義氏が主張している方法で(参照:日本を滅ぼす経済学の錯覚 光文社)相続税として金融資産を国が回収する方法です。誰かが亡くなった場合亡くなった時点で金融資産は相続税として他の資産より高い比率で徴収するのです。もともと相続できるだけの金融資産をため込むことができたのは国の政策による所が大きいですし当然すべての人がインフラを使って生活をしているのです。一人の人間として一生使わせてもらったインフラの代償を亡くなった時点で国が回収する。まったくおかしな論理ではないと思います。それが嫌で生きている間に富裕層が金融資産を使うようになれば景気が良くなる要因にもなります。ただ、こういう政策は富裕層に評判が悪い点がネックとなります。金持ちほど国外に逃げる方法を持っています。今まで国が作り上げたインフラで生活し国の政策のおかげで大きい金融資産を積み上げることができた。それを税金が安い国に持ち出すわけです。これを防ぐには全世界で取決めを行う等の方法が必要ですがおそらくそんなものはできません。日本だけでなく世界中の国が行きつくところまで行くことになるんでしょうね。日本の場合は国の借金によってできた資金は日本国内からほとんど出て行ってません。なので国が借金した分だけ民間に国債を買う資金ができるので破綻なんてしないでしょう。でも世界の国の中には違った状況の国がたくさんあります。それらの国が破たんをし始めれば破綻の波は世界の経済を破綻に追い込み、これが社会自体も破壊することになる可能性は相当高いと思います。


2.経済2 ***国内途上国***

世界の経済ではもう一つ、社会を大きく変えてしまう現象が進行中です。それが「グローバル経済」です。
まず「経済」とは何を指すかもう一度確認しておきましょう。経済とはお金-貨幣を中心とした人間の活動を指します。ではお金―貨幣とは何なのでしょうか?
貨幣はもともと人間の社会の分業を高度化、効率化するために生まれました。私にはできないことがあります。私にできることもあります。私にできないことを誰かにやってもらい、その代わりに誰かのために働く・・・社会の分業とはそんな感じですよね。その分業を効率的に仲介するのが貨幣の一番重要な役割です。自分の行った「仕事」と他の人の行った「仕事」を効率よく結びつけるのがお金の代替価値としての役割、ということです。貨幣の役割がそうであるなら経済とはその貨幣の役割-社会の分業の効率化を促進するための社会の構造や社会の運営方法の事であると私は考えます。「社会の分業の効率化」、つまりできるだけ多くの人が自分に合った仕事を行い、その結果として生活を豊かにすること。これが経済活動の目的であり経済の役割なのです。

今現在の「社会の分業」はほぼ最終段階と思ってもいいグローバル経済の世界になってきています。社会はグローバル経済によって国の垣根を越えて分業を行うようになっているのです。しかしこの「グローバル経済」はすべての人に福音をもたらすわけではありません。というよりも先進国では大勢の人に過酷な「競争」を強いることになります。今までは「国境」が高い壁となってその内側、国内の人たちを守っていました。でもグローバル経済はその壁を壊し始めているのです。今までは仕事の成果を国内の他の人たちと競えば良い環境でした。それが国内だけではなく海外、それも所得水準が全く違う地域の人たちとも競争しなければならなくなったのです。農業協定などで「関税撤廃反対!」なんて言うのがよくありますよね。これも同じことです。でも企業で仕事をする人たちにとっては反対する機会も与えられずに海外に仕事を持っていかれるのです。海外に持っていかれたくなければ海外と同じ価格で仕事をこなさなければならない・・・結局はこれが格差問題です。
「格差問題」は政治の世界でも問題になっています。でもこの「格差問題」という言葉、私には違和感がありますね。実際にはどういうことか・・・国内でしかできない仕事は「先進国水準」の所得水準を保ち、海外でも同じ仕事ができる場合は「途上国水準」の所得水準になる。そういうことです。今までは「国境」、つまり国の壁が「途上国水準」になってしまうのを防いでいました。その国の壁をグローバル経済が壊し始めているのです。最終的にはすべての先進国で国内にほんの一部の「先進国水準」の国民と大多数の「途上国水準」の国民が共存する形になるでしょう。なのでこの問題は「国内途上国」問題なんです。人数の上では「途上国水準」の人たちが圧倒的に多くなるはずです。今までは曲がりなりにも先進国の人たちは先進国水準の所得を持ち先進国水準の生活を送ってきています。その生活水準を維持できなくなる人たちが増えると一つの国の中に先進国と途上国が同時に共生する形になる、と言った状態になります。そうなると現状の民主主義は成り立たなくなります。現状の民主主義は国民の間の格差が比較的少ない状態だからこそ機能していました。しかし、ただでさえ国家の債務は膨張を続けています。この状態で格差が一定以上に広がると圧倒的に数の多い「途上国水準」の人たちを国は守ることができなくなると思われるのです。



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