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 30分程経った後、祖父が檜でできた手桶のようなものを持って戻ってきた。おそらくかなりの年代物なのだろう、すっかり黒ずんでいて、取手の部分は所々がかけて今にも外れそうだった。

「今から森に行く、ついてこい」

 

その言葉を聞いて、愕然とさせられた。警察にも連絡しないばかりか、もう一度戻るだなんて。

「何渋ってるの、家の役割ぐらいちゃんとしてよ?」

 なんとも鬱陶しそうな目で、母が私を睨む。この時、まるで一瞬のうちにして自分が生きてきた今までの生活から切り離されたような、ぞっとするような感覚を覚えた。

「家の為に動けんというのか?」

 ぐずる私に、祖父が嫌悪感を露わにしている。

 昔から皆、「家」が第一なのだ。怒られる時、必ずと言ってよいほど、こう言われた。

――家の女として恥ずかしくないのか

――家の子として見られたくないようなことをするな

 得体の知れない家という概念に縛られ、その下に行動を定める。私の家族は異常なんだと、改めて思う。


 だが、私もまた黙々とそれに従わざるを得なかった。

 それでも、自殺した祖母を除いて、私は家族の誰からも可愛がられなかった。まるで産まれてきたことそれ自体が悪であるかのように、蔑まれ、見下され、今日まで生きてきたのだ。


 月も出ていない真夜中の道、祖父の背中について歩く。

 正直、あの人に遊んでもらった記憶なんて、ほとんどない。いつも偉そうにしていて、常に不服そうな目つきをしている80歳の陰気な老人。精神的に成長していくに連れ、彼の印象はどんどん悪くなっていく。

 数分歩いて、森に着いた。

 祖父は特に動揺もせずに血だまりを眺めていたが、しばらくすると手にした桶でその血を掬った。その光景を見て、て言いようのないを悪寒を覚えた。

 

 家に帰り、桶の縁から垂れる血をよく見てみたが、紅色というより濃い紫色で、人間のものとは思えなかった。

 祖父は居間に皆を集め、ちゃぶ台に先ほどの桶を載せた後、しばらく席を外していた。父も母も、桶を見つめたまま黙っている。


 時間が経つに連れ、血の臭いが部屋中に充満し、不快な気分になる。とても耐えきれず、外に避難しようと扉に近づいた時、祖父がぬっと姿を現した。

「どこいくつもりだ、座れ」

 渋々私が席についたのを見計らい、祖父は手に持ったぼろぼろの書物を開き、家族皆に言い聞かせるようにつぶやき始めた。

「追川の森、之もし何かしらの凶事あれば、必ずや森の口に鮮血流るなり。然るに、番頭の者、その血を以て一族皆喉を潤すべし。さすれば皆獣の如き様態なりて互 いに喰らい合わんとす。しかるに一族の内一人斃れたる者、森の口に捧げるべし。さすれば災い去りぬ、もし之儀果たさざれば、追川の姫封ずる場より出でて、 一族皆喰らわぬなり」

「つ、つまりどういうことなんですか」

 父が恐る恐る尋ねる。私の前では威張り散らす癖に、祖父の前ではこの調子だ。

「森に血が流れているのは、凶事の予兆やっちゅうことだ。このままほうっておけば、『追川の姫』なる亡者が現れ、我々を皆喰い殺す」


「そ、それは迷信でしょう・・・?」

「馬鹿もんが!」

 祖父は母の言葉を怒鳴り声で打ち消した。

「今まで何百年と続けてきた森の口への供えもの、お前はそんな生半可な気持ちで続けていたのか!? ええ!? ならこの度の凶事、お前の仕業ということになるぞ!」

「い、いえ! 違います!」

「誠か!」

「はい、断じて! 余計な口を挟んでしまって、申し訳ありません・・・」

 祖父の剣幕に押され、母は頭を低くした。この人は祖父と父、両方の言いなりだ。親戚筋から嫁に行けと言われてやってきた、自分の意志のない人なのだ。祖父か父に媚びへつらい、彼らに命じられれば私を平気で殴ることすらある。

「実を言うと、この凶事が起きるのは随分前から分かっておった」

 祖父が再び話し始める。

「これが起きるのには前触れがあってな・・・」

 女だ、と言って祖父は私を指さした。


「この娘がその、凶事を運んできたってことですか」

「そう、まあ疫病神みたいなものだ」

「なんだ、性格も素直じゃない、けったいな奴だったのはそういうわけか」

 家族の暴言に、私はじっと耐えた。酷い、いくらなんでもあんまりだ。

「しかし、この凶事を防ぐにはどうすれば・・・」

「これを飲め」と、祖父はちゃぶ台の上の桶を指さす。

「この血を飲むと、わしらは獣の如き残忍な本性を剥き出しにする。

 

 その結果、犠牲となった者の亡骸をあの地に捧げれば凶事を避けられる」

 血を飲む・・・?

 犠牲、亡骸・・・?

 この人は何を言っているんだ?

「誰か一人が生け贄になれば、家は助かるんですね」

「その通り。儀式を司る者達がこの血を飲んで、一族の誰かを殺せばいい。以前も行ったゆえ、手はずはわかっとる」

 以前って・・・。

 その言葉に、身体が自然と震える。



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