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「はぁ……。やっぱりすごいな」 

 大学進学のため上京してきた優にとって、東京の生活は未だに慣れない。夕飯を外で食べようと家を出ると、時計は八時を回っているというのにその明るさ、往来する人の多さに驚いてしまう。目に入った二十四時間営業のファミレスでとりあえずドリンクバーを頼み、ドキドキしながらボタンを押して注いだオレンジジュースにはさっきから一度も口をつけていない。 

「明日、学校行きたくないな」

 ストローでくるくると氷を回しながらぼんやりしていると、つい嫌なことを思い出してしまう。

 

 長野の山奥で育った優は自然が大好きな女の子だ。大学で経済学を学び、過疎化の進む地域を元気にしたいと使命感に燃えて上京した。いよいよ初めての授業が始まる日。先生に聞きたいことをたくさんメモして意気揚々と教室に入ったとき、そこで初めて他の学生たちの様子を見たのだ。地元にはほとんどいなかった、同い年の同級生達。女の子たちは皆とっても大人っぽい。足にぴったりとフィットしたジーンズをはいている子、キラキラ光るピアスを付けている子、緩くパーマをかけた髪をサイドに流してふわふわの髪飾りで飾っている子――。 

(本当に、私と同い年の人たちなの?) 

 ゆっくりと自分の服装を見下ろすと急に恥ずかしくなってきた。初めての授業だから、今日は気合いをいれて一番お気に入りの格好をしてきたつもりだった。背丈が中学時代からあまり変わらなかったため、何年か前の誕生日に買ってもらったゆとりのある(言い換えればダボッとしている)ジーンズ、色が気に入ってずっと愛用している水色のチェックのシャツ。化粧はおろか、髪も頭の後ろで一本にぎゅっと縛っただけだ。急に居心地が悪くなり、回れ右をしようとしたその時だった。 

「君、このクラスだよね。こっち来たら?」 

 近くで仲間たちとおしゃべりをしていた男の子が声をかけてきた。つられて周りにいた子たちも一斉にこちらを見た。男の子の隣で楽しそうに笑っていた女の子は驚いたように目を大きく見開き、優を無遠慮に上から下までじろじろと眺めると、ぷっと吹き出した。ほかの子たちも似たような反応だった。カッと顔が熱くなるのを感じた。 

「私、窓際が好きなの」 

 聞こえるか聞こえないかの小さな声でそれだけ返すと、逃げるようにそこから離れた。空いていた席に着いたが、さっき笑った女の子がまだこちらを見ているのを感じ、急いで教科書をだして一生懸命読んでいるふりをした。

 その日は一日中そんな調子で、アパートに帰り着くやいなやベッドに倒れ込んだ。寝転びながらポケットに入れっぱなしにしていた、買ってもらったばかりの携帯電話を見ると一件留守電が入っている。 

『今日から学校だね。頑張りすぎないようにね。具合が悪くなったりしたらすぐ電話するのよ。じゃあ、またね』 

 優しくて大好きなお母さんの声だった。東京の大学に通いたいと伝えたときから一番の協力者になってくれて、一緒に学校を調べたりアパートを探したりしてくれた。その懐かしい声が電話を通して聞こえてきたとき、とてつもない寂しさが込み上げてきた。既に上京している兄がいたが、忙しい人なので何かあったらお母さんに言いなさいと言われていた。今すぐ電話をかけたくなったけれど、最初の一ヶ月間は弱音を吐かずに頑張ることに決めていた。初めての生活で何もかもが順調にはいかないことは予想済みだ。優は携帯をしまい、布団に潜り込むと少し泣いた。

  

 あれから二週間。未だにクラスの誰とも話ができていない。いつも授業は窓際の席に一人で座り、終われば真っ先に教室を出た。もちろんお弁当も一人で食べている。今の自分にとってはこれが精一杯だった。しかも、これからの生活のことを考えるとそろそろバイト先を探さないといけない。 

「はぁ。前途多難……」 

 のろのろとメニューを眺めると、カレーライスに決めて呼び出しボタンを押した。

  

 御飯を食べて店を出ると、藍色の空にはまあるく白い月が輝いている。

「レポートもあるし、帰るか」 

 行き来する人々は皆、急がしそうに早足で歩いている。 

(こんなにいっぱい人がいるって、やっぱり不思議だな)

  そんなことを思いながら歩いていると、ふと緑をした一角が目についた。 

「何だろう、あそこは」 

 どうやらお店のようだ。明るいネオンライトで掲げられた看板には『Edenz♣』と洒落た文字が踊っている。 

(――お花屋さんだ)

 誘われるように店内に足を踏み入れると、閉店間際なのだろう、人気が無い。並んでいる植物を一つ一つゆっくり見ていると、紫色の小さな花が房のように集まって咲いている、大きな枝ものの植物に目が止まった。くくりつけられた札には『ライラック』と書かれている。 

「可愛いなぁ……」 

 思わず独り言を言ってしまった自分が可笑しくてつい笑ってしまった。 

「何かお探しですか?」 

 突然声をかけられて振り向くと、男の人が立っていた。店員さんなのだろう、エプロンを付け、優しそうな笑顔を浮かべている。 

(やだ、この人いつからいたの。独り言、聞かれた?) 

 恥ずかしさに一気に顔が火照るのを感じ、慌てて下を向いた。ところが彼は気にすることなく近づいてくる。 

「ライラックですか。甘くていい香りですよね。僕は毎年この花を見ると、いよいよ春が来たなーって思うんです」 

 低くて聞き心地が良いが、どこか子供っぽい話し方だ。 

「ただ、持って帰るとすると結構大変かな。こんなに大きいから」 

「そう、ですね……。でも、部屋に置けたらいいなぁ。なんだか緑が懐かしくって――」 

 首を傾げた彼に、自分が大学進学のため田舎から出て来たばかりだと話した。 

「あぁ、そういうことか」 

 男の人は合点がいった様子で笑った。 

「僕も上京組ですよ。こっちにきてもう二、三年になるのでさすがに慣れましたけれど。気持ち、分かります」 

 彼はライラックに手を伸ばして、花が鈴なりになっている小枝を剪定バサミで切ると差し出した。 

「上京祝いってことでサービスです。緑が恋しくなったらいつでも来て下さいね」

 そう言って片目を瞑った。 

 

 店を出たとき、自分が何とも言えない穏やかな気持ちになっていることに気がついた。この春の夜の、暖かい空気のせいかしら……。ぼんやりと手の中のライラックを眺めていると、夜気に漂う香りのせいで現実と夢の狭間にいるような気持ちになってくる。店の横に小さな張り紙があることに気付いた。そこには大きな太い赤文字で

「アルバイト急募! 明るくて真面目な方募集します」

 と書かれていた。


優がEdenzで働くようになってあっという間に一ヶ月が過ぎようとしていた。決して時給は高めではないけれど、元々好きな植物に関われることが嬉しかった。

「篠原さん、そろそろ日が当たってくるからお花の移動お願いね」

 奥から店長の礼子さんの声がかかる。

「はーい!」

 元気よく返事をすると、優は日差しのまぶしい表へ飛び出して行った。

 Edenzは礼子さんが作ったお店だ。推定三十代。美しい黒髪をなびかせて働く彼女は、今や優にとって憧れの人だ。お店は生花や鉢物の販売がメインだが、店長自らが講師となって定期的にフラワーアレンジメントや育て方の講座を開いている。花屋としてのコンテンツが充実していることに加え、接客が丁寧ということも評判がいい人気のお店だ。

「いい、篠原さん。どうして花が欲しいと思ったのか、どのような花が必要なのか。お客様の目線になって考えることが私たちの仕事には大切な事よ」

 面接の際に言われたこの一言を、優はしっかり胸に刻みこんでいる。ここにいると経営のこともとても勉強になる。

「お、優ちゃんお疲れ様。大変そうだね」

 鉢の移動に奮闘していると、出勤してきた悟さんが声をかけてくれた。背負っていたリュックを下ろして腕を捲ると、手伝ってくれた。

「ありがとうございます」

「いいって。この方が早く終わるだろ」

 そういって悟さんは笑った。日差しに彼の茶色の髪が透けてキラキラ光っている。

 

 面接に来た日も彼はここで働いていた。店長に続いて店の奥から出て来た優に気付くと、一瞬目を丸くしたがすぐに気付いてニコっと笑った。

「悟くん。彼女、新しくバイトに入ってもらうことになったわ。いろいろ教えてあげてね」

「篠原優と言います。どうぞ宜しくお願いします」

 慌てて頭を下げた目の前に大きな手が差し出された。

「僕は鬼沢悟。こちらこそ、どうぞ宜しく」

 名字は怖いけれど優しいし、とっても仕事熱心な人よ、と店長に言われ、怖いとは何ですか、と笑う悟さんの横顔が優の目には眩しかった。

 

「あれからどう、学校には慣れた?」

 鉢を移動しながらさりげなく聞いてくる。彼が親身になって話を聞いてくれることが嬉しくて、優は些細なことでも話すようになっていた。

「はい。友達もできたし、先生にも質問できるようになりました」

 学校に行っているうちに、みんながみんなばっちり服装やメイクをきめている子ばかりではないことに気がついた。教室には様々な雰囲気の人がいる。席順は決まっている訳ではないが、いつの間にか自分の定位置の場所ができ、だんだんクラスメイトの顔と名前が一致し始めた頃、いつものように中庭のベンチに腰掛けて一人お弁当を食べていると突然後ろから話しかけられた。

「それ、自分で作っているの? 凄く美味しそうね」

 振り向くと、いつも自分の座っている席の何列か前にいる女の子グループの中にいる子だった。特に会話らしい言葉を交わしたことがなかったので突然のことに驚いた。

「あ、ごめんね、急に話しかけて。私、留美といいます。山戸留美。宜しく」

 このタイミングで宜しくってちょっと変だね、と笑いながら彼女は握手の形で手を伸ばしてきた。肩くらいの長さの癖のない毛がさら、と揺れる。

「わ、私、篠原優です。こちらこそ宜しく」

 何故か敬語になりながら握手に応える。

「篠原さん、いつも美味しそうなお弁当を食べているって噂だったの。確か一人暮らしだよね?」

 くったくなく笑う彼女の笑顔は人好きがして、緊張が和らいだ。彼女はそのまま隣に座ると、自分もお弁当を広げて食べ始めた。ちらっと見ると、卵焼きにウィンナー、炊き込みご飯が所狭しと詰め込まれている。

「山戸さんのお弁当、とっても美味しそう――」

「うちはお母さんのお手製だけどね。良かったらおかず交換、しない?」

「うん。あ、優でいいよ。家では皆、『ゆう』って呼ぶから」

「わかった。じゃ、私のことも留美って呼んで」

 照れくさい自己紹介を交わした後、午後の講義の時間まで他愛ないおしゃべりをした。そして次の日から、何となく一緒にお昼を食べるようになり、自然と休みの日も出掛けるようになった。

 留美は都会慣れしていない優にいろんなことを教えてくれた。可愛い雑貨が安く売っているお店、美味しいと噂のパン屋さん、学生にとって嬉しい値段で服が買えるお店など。レイトショーで映画を見たり、美術館に行ったりもした。そうしているうちに自然と留美のいるグループの、他の女の子たちとも仲良くなったが、優にとって一番自然体でいられるのは間違いなく彼女だった。

「そんな友だちができたんだ。そしたらもう、学生生活、思いっきり楽しむほかないね」

「はい。いろいろと聞いてくれて、ありがとうございました」

「俺は何もしてないよ。でも優ちゃん、本当によく笑うようになったね。最初に会ったときは、なんかこう、ドヨ~ンって、感じだったからさ」

 と、ひょいっと表情を変えてみせられた。そんな悟さんに「酷いですー」とか返しながら、幸せだなーと思った。

「悟くん、もう来ていたの? 少しいいかしら」

 店長が『会議室』と呼ばれている事務所から顔を出して手招きしている。彼はバイト歴が長いし、植物の知識もたくさん持っているため店長の片腕的存在なのだ。

「はーい。じゃ優ちゃん、あと宜しくね」

 その後ろ姿を名残惜しそうに見つめている自分に気付いた優は慌てて頭を振って気持ちを切り替えた。

 

「暑くなってきたなぁ……」

 澄わたる青空の下、優は額に手をかざして空を仰ぎ見た。もうすぐ夏が来ますよ、と太陽が教えてくれているようだ。店先の植物に水をあげているといつものようにマウンテンバイクで出勤してくる悟さんの姿が見えた。

「お疲れー。暑くなってきたね。汗、かいているよ」

 爽やかな笑顔で女の子が気にすることを言ってくる。

「ちょ、ちょっと待って――」

 慌ててエプロンのポケットからハンカチを取り出そうとしている優の目の前にハイ、と何かが差し出された。

「?」

「これ、めちゃ美味いんだ。ジンジャーエール。差し入れだよ」

 日差しに透ける、涼しげな緑の瓶。受け取ると、ひんやりと冷たくて気持ちいい。

「あ、ありがとうございます」

「冷やして飲んだら最高だよ」

 そう言って悟さんはニッと笑った。

 

 その日、お風呂から上がった後、台所の引き出しの奥から今まで一度も使う機会のなかった栓抜きを引っ張りだした。冷蔵庫で冷やしておいた瓶をテーブルに置き、栓抜きの爪を蓋に引っかける。そして、そっと持ち上げた。

 シュッ、ポンと音がしたかと思うと、シュワシュワと楽しげな泡の音。コップにとくとくと注ぎ、じっとそれを見つめてみる。

蛍光灯の灯りの下、黄金色の液体と弾けて登る粒さの泡たち。

(味わって飲もう)

 唇をつけ、クッと一口。途端に、ピリッと辛口の、強めの炭酸を舌に感じた。

(なんだこれ)

 美味しい、というのだろうか。期待していたのとはちょっと違った味。もう一口飲んでみる。さっきよりも慣れたのか、ピリピリとくる感じがいいのかも、と思えた。

(何と言うか、大人の味――)

 コップを片手に持ち、窓辺に近づいた。東京の夜は明るい。長野ならたくさん見えた星がここでは僅かしか見えない。

(でも、今私はここにいる。悟さんも、留美も、この同じ星空の下にいるんだ――)

 窓を開けると心地よい夜風が頬を撫でた。

(よし、明日からまた頑張る――かな)

 東京の夜空が、ちょっぴり好きになれたような気がした。


「素敵な恋をしているって感じがするね」

 嬉しそうに悟さんの話をする優を、留美はにこにこしながら聞いていた。

「そうなのかなぁ。でも、おかげでバイトがすごく楽しいんだ」

「初めてのバイトでそんないいところが見つかるなんて本当ラッキーだよ。私はファミレスだけど、全然そんなこと無いというか、普通だもの」

「本当ラッキーだったの分かってる。感謝しているよ」

「え、誰に?」

「ん、都会の神様、かな……」

 何だそりゃ、と笑ったあと留美はちょっと真面目な顔をした。

「でもその彼、優しいしかっこいいんでしょう? モテそうだけど、彼女はいないのかな」

 『彼女』という響きに胃のあたりがきゅっとした。うすうす思ってはいたのだが、考えないようにしていたのだ。明らかにどんよりムードになってしまった優を見て、留美は慌てて話の方向を変えた。

「そういえばさ、そこの店長さんの講習興味あるな。コースもいろいろあるんでしょ?」

「うん。今度パンフレット持ってくるよ」

 丁度そこへ、教授が来て講義が始まった。しかし優は、授業の内容より、悟さんのことをもっと知るにはどうしたらいいのだろうと考えていた。

 

 いつものようにバイト開始時間に余裕を持ってお店に着くと、店内にお客さんはおらず、店長が一人で帳簿の確認をしていた。優の気配に気付くと、顔をあげてにっこりと微笑む。あまりばっちりとしたお化粧をしない人だが、薄付けのリップとフサフサの自睫毛が元々整った顔立ちを充分引き立てている。

「こんにちは。いつも早めに来てくれるから助かるわ。そろそろ翔太の迎えに行かないといけないのよ。空調の調子が悪くってもう少ししたら業者の人が来るのだけれど、お願いしてもいいかしら」

「はい」

 翔太というのは店長の息子さんだ。幼稚園の年長で、時々お店にもやってくるがまだ優には慣れてくれない。バイト歴の長い悟さんや、他のパートさんたちには懐いていて、楽しそうに遊んでいるところをみるといつも少しばかり嫉妬してしまう。

「店長。あの、ちょっと個人的なことなんですが、聞いてもいいですか……」

 今まで仕事以外の話をしたことがないことと、今から聞こうとしていることで悟さんへの気持ちを知られてしまうことに緊張が高まる。だが一歩でも前へ進むためにがむしゃらにやって突破口を探し当てようと決めたのだ。店長は、ん? という表情で顔をあげた。

「悟さんのことなんです。――彼って彼女さん、いるんでしょうか」

「悟君? 彼女――」

 店長は、あぁ、といった顔になると微笑んだ。

「そうねぇ、実はあまりプライベートなことは話したことないのよ。ごめんなさいね、力になれなくて……」

 いえ、と(うつむ)いた優に店長は言葉を続けた。

「彼は長くここで働いてくれているし、仕事ぶりもとっても真面目で頼りになるわ。ただ、どうしてもお店のなかだと私からプライベートなことを聞いたりするつもりはないの。何故かというと、ここに来る時はお店の外の世界のことを置いてきてほしいからよ。辛いことや、抱えてしまっていることを含めてね。大人になっていくといろいろあるじゃない。もしも、あなたが彼のことを知りたいと思うのならば、直接本人に聞いてみるのが一番だと思うわ」

 そう言って優しく肩を叩いた。

 

 お昼休み。優と留美は学食に来ていた。いつもはお弁当派の二人だが、たまには学食に足を運んでみようという気分になったのだ。店内は大勢の学生で賑わっていた。ガラスケースの中には所狭しとシリコン製のカレーライスやラーメンが並び、その前には何を食べようか決めかねている人たちでごったがえしている。よく学食を利用している友人に「どんぶり系が早いし量も多くておすすめだよ」と聞いていた二人は人だかりを避け、比較的空いている「うどん/どんぶり」と書かれた列に並んだ。

「で、悟さんに聞いてみることにしたってわけ?」

 列に沿って壁に貼られたメニューを真剣に眺めながら留美が聞く。

「うん。一歩前進するためにもそれがいいかなって。あ、私この鳥天・蕎麦定食ってやつにしようかな」

「それ、すごく量が多いって女子ラクロスの松下から聞いたよ。相当ガッツリなんじゃない」

「今日も授業終わったらバイトだから、いっぱい食べておく作戦なの」

「そっか、それはいいかも。それで、具体的にどうするの?」

 留美の問いかけに答えようとしたとき、丁度二人が注文する番になった。優は鳥天・蕎麦定食、留美は焼き鳥丼と生姜の乗った冷や奴の小鉢を頼んだ。学食デビュー。なんだか照れ臭くて優はニヤついてくる顔を押さえきれない。恥ずかしさを紛らわそうと足早に空いている席を探した。丁度二人分、緑がいっぱいの中庭を覗く窓際の席があったのでそこに並んで腰掛けた。

「よし、食べようか」

 揃って箸を持つと、いただきます、とまず一口。

「――どう?」

 留美が目をキラキラさせて聞いてくる。優はゆっくりと味わってから、こくっと飲み込んだ。

「――美味しい!」

「だね! 私の焼き鳥も一口あげるよ」

「ありがと。鳥天もどうぞ。あー、今すごく、学生だなーって気分」

「今頃感動してどうする。でも、その気持ち分かる」

 二人は思う存分ご飯を堪能した。食後に一口サイズのミニケーキも追加で頼んだ頃、ようやく高まった気持ちが落ち着いてきた。留美はチーズケーキと苦めのコーヒーに舌鼓を打っていたが、思い出したように顔をあげた。

「私、今とってもいいこと思いついたかも」

「何?」

 ミルクレープに夢中になっていた優は半分上の空だ。そんなことを気にもせずに留美はぐっと身を乗り出して囁いた。

「悟さんがジンジャーエールをご馳走してくれたって言っていたじゃない。そのお礼という名目で、美味しいジンジャーエールのお店にご飯でも誘うっていうのはどう?」

 留美の提案が理解できるまで数秒かかった。ゆっくりと優の頬に赤みが差す。それなら誘っても自然に思えるだろう。そして何より、二人きりでご飯に行く……。

「留美、天才だわ!」

「美味しいものを食べると頭が冴えるのよ。うん。お礼は今度アイスを奢ってくれるってことでヨシとするわ」

 そう言って、彼女は茶目っ気たっぷりの笑顔で微笑んだ。


バイト後、優は店から曲り角を二つ分離れた街頭のしたで悟さんを待っていた。心臓が今にも飛び出してきそうな緊張感を少しでもほぐそうと、(既に何度も練習をしているのだが)考えた台詞を反復する。

「大丈夫、何があっても私は味方だからね」

 そう言った親友を思い出すと少し心が軽くなる。

(悟さん、まだかな)

 彼は大抵、最後の時間帯のシフトに入っている。平日の閉店間際はそこまで忙しくならない為、店長とベテランの悟さん二人で作業をしている。優がお店を出てから店仕舞いまで三時間ある。最初は駅前のカフェで待っているつもりだったが、いかんせん落ち着かない。ずっとばくばくしている心臓と共に台詞の書いてある紙を見つめていても何も頭に入ってこないし、彼を前にして急にトイレに行きたくなったら困るので飲み物も極力口を付けずにいた。仕方なく音楽を聴いていたが、それでも落ち着くことができず、カフェを出て駅前のファッションビルの中をうろうろした。そんなことをしているうちに時間が経ち、彼がバイトをあがるであろう時間よりもちょっと前にEdenzの近くに戻ってきた。

(悟さんに会ったらまず、家に帰ったら忘れ物したことに気付いたから取りに戻ったって言う。もう閉まっているよ、と言われて、急ぎじゃないからまた明日にします、と答える。そして駅まで一緒に行く。その途中で、そういえば……って切り出す。よし。大丈夫。完璧)

 何度目かの深呼吸をしたとき、店の方角からマウンテンバイクに乗ってくる人影が見えた。

(来た!)

 ささっと手で髪を整えると優はゆっくりと歩き出した。

「あれ、優ちゃん? どうしたの、こんな時間に。忘れ物?」

 気付いた悟さんが向こうから声をかけてきてくれた。

「お疲れ様です。学校で使う資料の入った鞄を置いて来てしまったみたいで――」

(大丈夫、すらすら言えている。でもちょっと声がうわずっているかも……)

 平静を装いながら優は続ける。

「でも、もうお店閉まっていますよね。急ぎで必要というわけでもないので、明日でも大丈夫です」

「そう? ちょうど今閉まったところ。鍵も店長が持っているからなぁ」

「そうですか。それならまた明日取りにくることにします」

「そっか。じゃあ、駅まで一緒に行こう」

 バイクを降りて押しながら歩く彼の隣を歩く。それだけでも幸せいっぱいのシチュエーションだ。嬉しさを噛み締めながらも、ここからだぞ、と自分を奮い立たせた。

「そういえば、この間頂いたジンジャーエール。とっても美味しかったです」

「それは良かった。アレ飲むとスカっとするんだ。俺、元々炭酸が好きなんだけど、甘いものはそんなに得意じゃなくて。でもジンジャーエールってピリッと辛みもあるじゃない? そこが気に入ってさ」

「そうですね。大人の味だなって思いました」

「大人の味? 確かにそうかもね」

 悟さんはクックと笑っている。

(今だ、行くなら今しかない!)

 優は手の平をぐっと握り締めた。

「そういえば、友だちからジンジャーエールの美味しいお店を教えてもらったんですよ」

 ん? と彼が優の顔を見る。

「良かったら、その、行ってみませんか。一緒に――」

 一秒、二秒――三秒。たったそれだけのはずなのにまるで時が止まってしまったかのように感じた。息が、詰まる。ちらっと見ると、彼はあっけにとられた表情をしていた。

「それって、あれ? あ、うん、いいよ」

 ちょっと顔を赤らめている。

「びっくりした。優ちゃんから誘ってくれるとは。いやぁ、驚いた……」

 ――嘘みたい。

頭の中がジーンと痺れた。嬉しくて、思いっきり、ヤッホーと叫んで飛び上がりたい。心の中は大騒ぎ状態だ。

「いいんですか、本当に」

「もちろんだよ。美味しいジンジャーエール、飲んでみたいじゃない」

 悟さんは、顔をくしゃっとして笑った。

 

「と、いうわけなの、留美。二人きりでご飯だよ。信じられない!」

 講義の合間の休み時間。優は隣の席で新発売のコーヒーを味わっている留美にさっそく報告した。

「誘いに乗るってことは、脈アリかどうかはわかんないけれど好印象ではありそうだね。――でも、うかれは禁物だよ?」

ビッと、ペットボトルのキャップで優の顔を指し、留美は声のトーンを落とした。

「初めての二人きり。バイト以外では全く知らないことだらけの相手。――君はきっと、緊張でパニック状態になることでしょう」

 うっ、確かに――と優は喜びから一変、不安顔になった。そうなることを見越していた留美は微笑んだ。

「でもね、大丈夫よ。それは相手も同じだから。同じように緊張しているはずだよ。それがわかっていれば、ホラちょっとは気が楽になるでしょ」

 私ってば、飴と鞭も使いこなしちゃってカッコイイじゃない……。と内心(えつ)に浸りつつ留美は一口、コーヒーを味わう。

「う、うん……。確かに。あのさ、もしかして留美って、実は本当はすっごく経験豊富な人――?」

「まさか。うちにはお姉ちゃんがいるからさ。人生の先輩がね、良くも悪くもお手本を見せてくれるってわけ」

「あぁ、そういうこと。――ちょっとホッとした。とても大人っぽく見えたから」

 思いがけない答えに思わずコーヒーを吹き出しかけた。

「――それは良かった、姉に感謝しておこう」

 そう言って笑いながら、確かにちょっぴりと自分が大人になったような、心の奥底がむずむずするような気分に気づき、留美はクスっとした。


太陽はいよいよ輝きを増し、日が暮れても尚、地面を覆うコンクリートにたっぷりと余熱と残す。夏はもうそこまできている。優は一人、駅前のターミナルを見渡せる位置に立っていた。白のふんわりとしたブラウスと、健康でスラっとした足によく似合うレギンスにデニムのスカート。そして涼しげなサンダルという出で立ちだ。

「さりげない女の子らしさ。初めてのデートはそれくらいのほうがいいわ。可愛らしさ全開で行くのは男の人の好みが分かっていない時点では危険だし、サバサバした格好だと、相手は意識されてないかも、って思うかもしれないから」

 人生初の「気になる男の人と二人きり」というシチュエーションに狼狽(うろた)まくりの優に対し、留美は的確にアドバイスをしてくれる。

「でもそんなこと言われても、どれにすればいいか分からないよ……」

 何軒服屋を巡ってもこれだ、と満足できる服がなかなか見つからず、優は焦りに焦っていた。そんな彼女を見かね、趣味じゃなかったら却下してね、と前置きをして留美が幾つか候補を選んでくれた。だが選んでくれたものがどれも好みに合った可愛いもので、これまた迷いながら何とか一組選んだ後、二人はすっかりヘトヘトになってしまった。

「でも、おかげで大丈夫って気がしてきた。ありがとう」

「いいって、いいって。まぁ、頑張ってこい」

 そう言ってガッツポーズでエールを送ってくれた親友と別れた後、家に帰り慣れないお化粧に取りかかった。マスカラにチーク、アイシャドーにリップグロス。世の中の女の子たちは毎日これをしているのかと驚嘆しながらメイクをしていく。仕上げには留美に借りたコテを使い、髪の毛をフワフワにした。数時間の格闘の末、何とか出来上がった姿を鏡で見ると、

(いいかも……)

 そこにはいつもの自分とは違う、女の子の姿をした自分がいた。

 腕時計を見ると、そろそろ待ち合わせの時間になる。

(緊張してきたな。でもここまでしてくれた留美のためにも頑張ろう)

 

 太陽が沈んだ薄紫の空の元、ターミナルの向こう側から見慣れたマウンテンバイクがこちらに近づいて来た。

「ごめん、待たせちゃった?」

 焦った顔で悟さんが言う。その姿が可愛くて優は微笑んだ。

「いえ、たまたま早く着いてしまって」

「そっか。でも、最初分からなかったよ。何だかいつもと違くない?」

「遊びに行くときはこんな感じなんです」

 そうなんだ、としみじみ眺めている悟さんを見て、こっそり心の中でガッツポーズを作った。

 

 留美の教えてくれたカフェは、待ち合わせの駅からさほど遠くない、静かな住宅街の中にあった。看板には可愛らしい文字で「Coko café」と書かれている。平屋の民家を改装した造りでさほど広くはないが、オレンジ色の柔らかな照明に照らし出された店内には、マホガニーのテーブルとフカフカなソファが並び、ゆったりとした音楽が流れている。奥にはカウンターバーも併設され、数組の大人のカップルや女の子だけのグループがちらほらいる中、二人はすぐに空いているテーブルに案内された。

 カリグラフィー文字で書かれたメニューに目を通すと、学生の身には少々割高ながらも美味しそうな品々が写真付きで並んでいる。その最後の「Drink」のページの中に「当店自慢の自家製ジンジャーエール」があった。小さな赤文字で「おすすめ」とさりげなく記されている。

「これだね。自家製で、しかもおすすめだって」

「ですね。楽しみです」

「それじゃあ、ご飯決めようか。どれも美味しそうだなぁ……」 

 二人はさんざん悩んだ末、悟さんはハンバーグ定食、優が明太子と青紫蘇のパスタに決まった。飲み物は最後にゆっくり楽しもうと、食後にお願いし、注文を終えると彼は感心した様子で店の中を見渡した。

「いい雰囲気のお店だね、友だちに教えてもらったんだっけ?」

「はい。お姉さんがいる子で。一度連れてきてもらったんだそうです。そのときおすすめだよって言われてジンジャーエールを頼んで。あまりにも美味しかったのでそのあと何回か一人で来たんだそうです。すっかりはまってしまったって」

「ふーん。俺も彼女がいれば、こんなところ一緒に来たりできるのになぁ……」

 ぼそっと呟かれた一言に優は動揺した。

「エ、エ? 彼女さんいないんですか?」

「うん。あんまりそういうことに興味がなくって」

「そうなんですか? 意外でした。だって、私の話を聞いてくれたりしてとっても優しいし、顔立ちも整っているし。モテるだろうなぁ〜って」

 顔が緩んでしまうのが自分でも分かる。これじゃあ不審な人に思われてしまいそうだ。

「今まで付き合ったことが無いというわけではないよ。でも、俺、女心に鈍いみたいで。相手から言われて付き合ったのに、最終的には振られて終わるってパターンが多いんだよね――」

 付き合うってことに向いていないのかも。と苦笑いする彼の顔を見ていると胸の奥がざわついた。でも、と彼は言葉を続ける。

「今は建築の勉強とバイトが凄く楽しいから、それで彼女も欲しいなんて言っても、実際いたら寂しい思いをさせてしまいそうで。優ちゃんはどうなの? 好きな人とか、いるの?」

「私は……。私も今は学校とバイトが楽しいし毎日凄く充実しています。でも、恋愛は……。出来ればしたいなぁとは思っています」

「そうなんだ。大丈夫だよ。可愛いし。しっかりしているじゃない。丁度同じ年頃の妹がいるからさ、どうしても兄貴目線で見ちゃうんだよね。変な男に引っかからないようにとか、ちょっと心配になったりする」

 妹、という言葉がひっかかりはしたが、それでも気にかけてくれていることが素直に嬉しい。

 店員さんがお料理と「よろしければお使い下さい」と取り皿を持ってきてくれた。

「美味しそうだなぁ、それじゃ食べようか」

 熱々のハンバーグを食べやすいサイズに切り分けるといくつか小皿 に乗せて渡してくれた。

「どうぞ、肉汁凄いよ。これは絶対に、旨い」

「ありがとうございます、私も……」とパスタを取り分けようとすると、俺は大丈夫だよ、と止められた。

「実は明太子があんまり得意じゃなくて。食べたいもの選んでほしかったからさっきは言わなかったんだ」

「そう、なんですか……」

 聞けば良かったとシュンとしてしまった優に、気にしないで、と彼は優しく笑う。

「ほら、温かいうちに食べよう? 冷めちゃったらもったいないよ」

 悟さんはパクっと一口頬張り、ウマーと目を細めている。そんな彼を横目に、分けっこしたかったなぁと若干後悔を引きずりつつ、スプーンの上でフォークをくるくると回してパスタを巻いて口に入れた。すると、明太子と紫蘇の何とも言えない味わいがふわっと口の中に広がっていく。思わず、んーと頬を緩めた優をみて悟さんは、

「……。良い顔しているね。俺も頑張って好き嫌い無くそうなかぁ……」

 と呟いた。



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