閉じる


<<最初から読む

3 / 28ページ

試し読みできます

2.帰郷

 

 2.帰郷

 


 はやく帰りたいな、とマナは思った。

 宇宙船の窓からはどこまでも広がる真っ黒な闇と、
 丸く美しく輝く球体が見えていた。
 あれを見ているとなぜだかほっとする。

 


「あれは君たちが今までいた星、『地球』というんだよ」

 あの人は言っていた。
 あの人、そしてあの人たち。

 どこか地球の人たちとは違う、
 それでいてたしかに人間、という感じのするあの人たち。

 


 地球の人たちと比べて、なんとなく目がやさしい気がする、
 とマナは思う。

 マナの目、そして母の目に似ているのかもしれない。


『地球の人たち』、
『やさしい人たち』と、マナはわけて呼ぶことにした。
 

 地球の人たちにさえあまり通じなかったマナたちの言葉も、
 やさしい人たちは理解してくれているようだった。
 
 やさしい人たちの言葉は、
 愛と心から発せられるものだから誰にでも通じるのだそうだ。

 むしろ地球の人たちの言語という、
 時に心と発せられる音の一致しないものの意味がよくわからないと
 困ったように笑っていた。

 そうだよね、とマナも嬉しくなった。

 マナたちの部族の言葉の単語は少ないが、
 感情をそのままのせることで、たとえ僅かな抑揚の違いでも
 部族間の者にならば誰にでもきちんと心が伝わるのだ。

 
 そんなふうに一度でも地球の人たちに
 ちゃんと伝わったことがあっただろうか?

 もし伝わるならば、マナと母を引き離したりしなかったはずだ。

 

 あの日、何も知らされず、
 小屋に閉じ込められたマナの耳に聞こえたのは、
 マナを呼んで悲しげに叫ぶ母の声だった。

 
「どれい」と、やさしい人たちは言っていたようだった。


「まして望まない相手との性交や妊娠など……」
 そこまでで、

 マナが聞いているのに気がついて会話をやめてしまった。

 


 マナは父を知らなかった。

 マナや母の暮らす小屋では、たまに『妊娠』した他の女性がいたが、
 やはり父親というものは見たことがなかった。

 一度だけ母にたずねたことがあるが、
 とても悲しそうな眼で困ったようにマナを見つめただけだった。

 

 それでもあの日までは良かったのだ。

 地球の人たちも、マナたちに冷たかったわけではない。

 いつでも自由に、とはいかなかったが、
 可愛らしい花の咲く草原で遊ばせてくれたし、
 日々食事も与えてくれた。そこにはたくさんの仲間もいた。

 それに何より、母やマナを美しい、とよく褒めてくれた。

 とくに黒い瞳や長い睫《まつげ》、褐色の肌を褒めてくれた。
 やがて母のように美しくなると。

 マナはそれが誇らしかった。


 その美しさが仇となったのかもしれない。

 母は『街』に売られたのだという。
 
 一度『街』に売られたものは帰ってこない。

 それはマナも聞いていた。

 
 だがなんの権利があって、
 地球の人たちはマナたちを離れ離れにしたのだろう? 
 別れの挨拶ひとつさせずに。ただ悲しかった。

 夜の小屋の片隅で、ひとり泣いた。
 長い睫を伝って涙がいくつもこぼれた。

 もし、神様がいるなら、マナも連れて行ってほしいと思った。
 帰って来られなくてもいい、もう一度母に会うことさえできたら。

 そう願った時に、空から光が降ってきた。


 そうしていつのまにかマナたちは、この宇宙船の中にいたのだ。

 

 やさしい人たちは、「地球を浄化する」のだと言った。
 もう悲しいことのない世界、自然で、
 愛に満ちたすばらしい世界になるのだ。

 そのためには、
 地球にとって一番の悪の根を抜き取ってしまわなければならない。

 だからその間だけ、この船の中にいて欲しいと。

 
 ひょっとしたら、とマナは思う。

 母も助けてもらって、この船に乗っているのかもしれない。

 そうして、地球がきれいになって、帰してもらったら、
 あの花の咲く草原で母に会えるんではないかと。

 

 その時、船内に声が響いた。

 
「地球の浄化は完了しました」

 


 気がつくと、マナはあの草原に立っていた。

 私たちの草原だ、とマナは思った。

 ただ、マナたちの住んでいた小屋がない。
 地球の人たちの住んでいた『家』もない。

 地球の人たちも、いなかった。

 ふと、マナは懐かしい視線を感じて振り向いた。

 やさしく、黒い瞳。艶やかな褐色の肌。

 これからの幸せを約束するような、
 その日の朝の光にも似た、美しいマナの母だった。

 マナは思わず、「モウ」と声をあげた。
 

 草原には、自由と再会を祝う、牛たちの声がこだましていた。

 

 

 

 〈了〉

 


試し読みできます

3.世界の平和

 

 3.世界の平和

 

 

 ある日突然、世界は平和になった。

 正確には三日ほどかけて、平和になった。 


 すべての戦争は終結し、
 民族間の争いから大国間の冷戦すらなくなった。


 各国でお互いに平和協定が結ばれ、
 首相や首脳間で握手が交わされ笑顔を固定して
 TVカメラや新聞記者の前でのパフォーマンスが繰り広げられた。

 

 そのきっかけは、宇宙船によってもたらされた

 一つのメッセージだった。

 乗っていたのは、宇宙からの使者、

 自称『宇宙連盟』の宇宙人たちだった。

 
 とはいえこの時、宇宙船自体はそれほど珍しくなかった。

 ある日を境に、地球外からの宇宙船、
 かつてはUFOと呼ばれていた物が
 堂々とあらゆる国の上空に浮かぶようになったのだ。

 

 最初は誰もがあわてて写真や動画を撮影し、
 ネットに流してはしゃいだり脅えたりしていたのだが、
 一年近くもそのままなんの変化もなく

 毒にも薬にもならないとなると、

 なんとなく興味が薄れていった。


 今や未確認飛行物体どころかいつでも誰でも撮り放題物体なのだ。
 レア感ゼロである。


 どちらかというと、空にただ浮かんでいる宇宙船よりも、
 自分が買った宝くじの当せん結果や
 これからの恋愛傾向やドラマの最終回や
 その日の夕飯のメニューのほうが

 現実として大きな問題になっていた。



 各国の政府はそれぞれに対策を講じていたが、武力的には
 お隣の火星に行くのもおぼつかない地球の科学力で
 そもそも太刀打ちできるわけもなく、
 ここはひとつ穏便にあちらからの動きを待とう、
 というのが多くの国の指針だった。 

 

 そんなわけで、地球人全体が
 なんとなく宇宙船と宇宙人の存在を受け入れ始めた頃に、
 ようやくあちらからのメッセージが告げられたのだ。

 要約するとこんな感じである。



『ビックリした? 
 いきなりだと驚くかと思って今まで黙ってたんだけど、
 実はずっと昔から君たちのこと見守ってたんだよ。

 今まで少しでも慣れてくれるように、
 ちょこちょこ姿は見せてたんだけど、
 今回はこれだけハッキリ長い間姿を見せていたんだから、
 これが現実だってこともわかるよね? 

 何を言っても驚かないよね? そうです異星人は存在します。
 みんな地球に注目しています。 

 もう黙って見ていられないし、そろそろ本気で
 君たちに言うことは言っておかないとダメだと思ったから、
 伝えようと思います。

 もう、戦争などやめて、自分たちの星を大事になさい』



 もちろんこれはもうちょっと形式ばった言葉で伝えられたが、
 地球のすべての国、すべての人間に向けてそれぞれの言語で、
 あるいはテレパシーのようなもので宣言された。


 まさに天からの声だった。


 そう言われて「ハイ、そうですよね」と答えるほど賢い人類だったら
 何千年か前にとっくに世界平和は実現されていたはずである。

 

 宣言一日目、各国の首相や首脳、その他各代表はごねた。

 彼らは直感的に、

 問題のない世界では自分の必要性がないことを知っていた。


 そうは言われても、いろいろ今までの歴史とかがあるんだよ。

 宗教上の問題とか積年の恨みつらみがあるんだよ。
 外から突然来て、そんなこと言ったって

 地球の事情、解ってないでしょ? と。



 ところが宇宙連盟の皆さんは答えを用意していた。

 突然、今までの地球の歴史の要所要所が
 まるで映画のように上空に映し出された。


 宇宙連盟には、
 そういった宇宙の歴史を記録して保管するチームがあるらしい。


 そしてその映像が示すこととは、
 あらゆる宗教上の神と言われる存在は、
 宇宙連盟から派遣された宇宙人だという事実だった。

 宗教上のトップである神や神様の使いのおおもとが
 お互いにもう戦争はよせと言っているのだから、
 宗教戦争の意味はなくなった。




  二日目。


 でも地球の資源には限りがあります、奪い合わずにみんなが……
 と言いかけたところで宇宙連盟の皆さんはとんでもなく優れた、
 しかもわかりやすいエネルギーの科学技術と地球の汚染を取り除き
 あらゆる土地で豊かな作物を得るあれこれを教えてくれた。


 地球上に、資源や食糧の問題はなくなった。

 



 そして三日目、自立心や自尊心の問題を持ち出す人類に、

 とどめの一言を送った。
 


『地球上で最初に完全平和を成し遂げた人物になって、

 記録に残りませんか?』と。
 

 

 かくして、世界は平和になった。

 

 

 

〈了〉

 


試し読みできます

4.うさぎの夢

 

 4.うさぎの夢

 

 

「うさぎにおまんまをやるのを忘れちまっただろか?」
 茶の間でうとうとしていた母が、僕にそう尋ねた。

「ウサギって、あの耳が長くてピョンピョン跳ねる兎のこと? 
 うちにはもう、兎はいないよ」

 僕は答えた。母は今年で96歳になる。
 痴呆も進んでいて、時々おかしなことを言う。

 こんなふうに昼寝して起きたあとは、
 今の季節どころか、昼か夜かさえ判らなくなることも多かった。
 きっと昔の夢を見たのだろう。

「うちで兎を飼ってたのは、僕が子供の頃だったろう? 

 今はもういないよ」

 

 そう僕が言うと、母はどこか納得できないように、
「自分ばっかりご飯を食べて」とか、
「可哀想なことをしてしまった」とかいうことを、

 口の中で小さく繰り返した。

 

 

 僕が子供の頃、それは戦争も終わってしばらくたった時代だった。

 食用で飼っていたからか、

 母は僕に兎の世話をさせることはなかった。


 きっと食べるために屠られる動物に対して、
 あまり愛着や同情心を植え付けたくなかったのだろう。

 僕の役目は、もっぱら山から餌用の草を集めてくるくらいだった。

「ウサギがいるの?」

 いつの間にか僕の足に、孫がまとわりついて目を輝かせていた。
 彼は動物が好きだ。

 幼稚園で飼育している動物や鳥の話をよく聞かせてくれる。

 こんな田舎の山奥だが、

 近頃では野生の兎なんてそう見られるものではない。

「いいや、おじいちゃんの子供の頃のお話だよ。

 今は小屋が残ってるだけ」

 僕は彼の頭をそっと撫ぜながら、笑って答えた。

 家から畑に向かう途中の裏山の手前に、木造の小さな牛小屋がある。
 そこの端っこに手前だけ金網でこしらえた、
 兎や鶏飼育用の小部屋がついている。

 僕が大人になる頃には牛や兎はもう飼っていなかった。
 今は使わなくなった食器や、家財道具が押し込んである。

 孫は「ふーん」とつまらなそうに部屋から出て行った。
 彼の夏休みは始まったばかりだ。

 また庭や畑やそのあたりの野原へ冒険にでも行くのだろう。
 心配しなくとも、近所のみんなが彼を見守ってくれる。

 良い時代だ。



「どこで子供が泣いているんだろっか?」

 真夏の深夜、母が僕を起こしてそう言った。

 孫は娘たち夫婦といっしょに寝ているはずだ。
 泣き声など、どこからも聞こえてこない。

「きっとまた夢を見たんだよ」僕は答えながら、
 母の寝室まで付き添って寝かしつけた。

 ことんと眠ってしまう直前まで、
 母は「赤ん坊が泣いている」と目に涙を浮かべて訴えていた。

 きっとその思い出の中の赤ん坊は僕のことだろう。
 僕は一人っ子だったからだ。
 だが一人っ子なのは僕だけではない。
 僕ら世代の人間はみんな、兄弟姉妹はいないはずだ。


 あの戦争は、人類全体の数が増えすぎて起こったと言われている。

 終戦後、世界的に平和条約が締結したあと、

 どの国でも『人類が一定の人口数に減少するまで、

 一人の人間が持てる子供は一子のみ』
 という法律が制定されたのだ。

 それはもう、国と国というレベルではなく、
 地球規模で人類が殺し合って食物や居住地を奪い合うか、
 譲歩して人口を減らしあい、
 種全体が生き延びるかを選ぶという問題だった。

 あの第三次世界大戦という、
 種の存在も危うくなるほどの醜い争いから、

 ようやく人類は学んだのだ。

 地球上には一定数の、
 そして平和に生きられる人間以外はいらないのだと。
 ある意味で人類は進化できたのかもしれない。

 そうして今では産まれた子供は一人残らず、
 まさに宝物のように大切に育てられている。

 もちろん捨て子などはおらず、
 子供の産まれない家族も肩身の狭い思いをすることはない。

 誰かの子供はみんなの子供であり、
 その子は地域全体、いや国、地球全体で守る対象なのだ。

 今、この時代にはもう、
 心から愛されずに育った子供など、世界に一人もいない。


 ただし、それは法的に正しい子供たちだけだ。

 法を犯してまで『二人目』を出産する夫婦はほとんどいないが、
 万が一産まれてしまった場合は国に没収され、

 医療等の目的に使用される。

 法律が社会に浸透するまでの間は、隠し子などもあったらしいが……
 その子は隠語で呼ばれていたらしい。

 それは例えば多産の動物の名などで……。


「おじいちゃん、ウサギ小屋に穴がある!」 
 突然、庭から興奮した孫の叫び声が聞こえてきた。

 孫に連れられて行ってみると、小屋の山側の板が外れていた。
 そこには山の中ほどまで続くであろう洞穴が口を開けていた。

 僕は遠い昔、牛の声に混じって聴いた気がする、
 赤ん坊の声を思い出していた。

 

 

 

 〈了〉

 


試し読みできます

5.消失論

 
 5.消失論


『人類は、なぜ尻尾を失くしたのか?』

 この問いに対するはっきりとした答えは未だに出ていない。


 一般的には二足歩行するのに必要がなくなったからだとか、
 座るときに邪魔になるためだとかの説がある。

 


 だが本当にそうだろうか? 
 もし今、自由に使える尻尾があったとしたら、
 あなたは欲しいと思わないだろうか?

 


 猿が木に尾を巻きつけて体を支えるように、
 人も高所での作業がより安全になるかもしれない。

 各種スポーツでの身体能力や技術の発展の可能性も、
 新たに発見されるかもしれない。

 そこまで特別なものでなくとも、

 ちょっと離れたところにある物を取り寄せる、
 両手がふさがっている時に物を支えるなど、
 日常での使用法はいくらでもありそうだ。

 


 尻尾があることで他の捕食動物に捕まる確率があがる心配も

 ほぼない現代では、プラス面のほうが遥かに多いと思われる。

 

 


 そういうわけで実際に

 尻尾を着けてみる実験が行われることになった。

 


 以前、脳波で動く高品質なオモチャの猫耳や尻尾が開発されたが、
 それを実際の動物たちの能力と同じレベルまでに強化したものだ。

 感度も柔軟性も強度も、既存のどの製品とも比べ物にならない。
 これは現代の科学と生物学の最高の技術と叡智を結集した
 人類の進化と退化を検証する実験なのだ。

 


 まず、尻尾のタイプだが、これはやはり種族の近い、
 猿の尾を基本にすることとなった。

 


 オランウータンなどの類人猿タイプの猿は
 どれも尾が退化して外見上は存在しないが、
 介護猿として期待されるフサオマキザルなどのように、
 両手で道具を使う知能の高い猿でも尾のあるものもいる。

 またジェフロイクモザルのように、
 尾の内側に尾紋という毛のない敏感なパッドを持ったものもいる。

 彼らはその尻尾を木に巻きつけて移動時に体重を支えたり、
 ピーナッツなどの細かな物まで掴んだりできる。

 それは『五本目の肢』と呼ばれている。

 


 このように体重を支え、細かな物も掴め、
 犬や猫のように尻尾の振り方によって
 感情を伝える機能も盛り込んだ人工尻尾が完成した。


 まずは政府が選んだ会社やスポーツ団体などに配布し、
 あらゆる場面で尻尾がどのように役立つかが

 検証されることになった。


 一般的な会社員の場合、

 最初に力を発揮したのは電車通勤の時だった。

 
 満員電車の中でも尻尾を伸ばすことによって
 やや遠くの手すりに捕まることができた。

 人によっては思わず網棚に尻尾を伸ばし、
 思わず自分の体ごと網棚に巻き上げてしまった場合もあった。

 最初は周囲の羨望とも軽蔑とも取れる視線に

 恥じ入ってしまっていたが、周囲に事情を説明してくれる

 実験の監視員も何人か配置されていたため、

 そういう光景も次第に落ち着いて見られるようになった。

 こうして尻尾のある会社員たちは、網棚の上で寝そべって、
 軽い優越感と共に通勤するようになった。

 


 スポーツで役立ったのはやはり、
 サッカーなどの球技や体操の場面でだった。

 サッカー選手はまさにもう一本の足という感じで、
 これまででは考えられないほど優雅でトリッキーな

 ボール運びを披露し、観客も熱狂した。

 ゴールキーパーは、尻尾でボールを叩き落とすことはもとより、
 例え体がフェイント方向に反応してしまっても、
 瞬間的にゴールポスト上部に尻尾を巻きつけることにより、
 四隅のどこへでも飛ぶように移動してボールを弾いてしまう。

 鉄棒などの体操競技でも両手を離しての大車輪など、
 新たな技が続々と開発された。

 


 日常生活では両手が塞がっていても階段の手すりに掴まれるだとか、
 食べ物で両手がベタベタに汚れている時に

 尻尾でティッシュが取れるだとか、
 大きなことから小さなことまで便利なことだらけだった。

 


 しかし、しばらく経つと、
 被験者のほとんどは自ら尻尾を取り外してしまった。

 


 サッカーでは狙っているゴールの方向や
 パスする相手に尻尾が向いてしまい、考えが読まれてしまう。


 会社では嫌な上司の前では尻尾がだらんと下がってしまうし、
 可愛い女子社員の前ではブンブンと元気よく振ってしまう。

 家庭では奥さんの手料理よりも

 インスタントラーメンを食べている時のほうが
 尻尾が喜びとリラックスを表していたりする。

 みんなだんだんと、

 尻尾に感情が現れないように集中するようになった。

 そして結局、尻尾がないほうが楽だと気がついてしまったのだ。

 人間は、身体的な自由よりも、心の自由を選んだのかもしれない。

 


 報告と結論。



『人類は、嘘をつくために自ら尻尾を切り落とした』。

 

 

 

〈了〉

 

 


試し読みできます

6.優しい人

 

 
 6.優しい人


 僕は光《ひかり》さんが本当は優しい人だということを知っている。    

 最初に会社の外で彼女を見たのは、

 東京のある大きな駅でのことだった。


 通勤途中で乗り換える人の多いその駅では、
 その日の朝も皆、自分が乗る電車のホームに急いでいた。

 その駅の壁際に一人、

 苦しそうにうずくまっているホームレスの男性がいた。

 
 悲しいことだがそう珍しいことではない。

 誰もが見て見ぬふりをするか、駅員がなんとかしてくれるだろうと、
 ちらりと横目で確認はするものの、足早に通り過ぎていった。
 
 かくいう僕もその一人だった。

 その日は遅刻しそうだったのもあり、

 正直に言えば関わるのが怖かったのだ。

 もし病気でもなんでもなく、
 親切心を出したばかりに因縁でもつけられたら厄介だ。
 もし本当に酷い病気なら、誰かが救急車を呼んでくれるだろう。
 
 そう思いながら通りすぎようとした時、
 人の群れの中から光さんが飛び出してきた。
 
 光さんは迷うことなく男性のそばに膝をつくと、
 覗き込むように容態を確認し、電話をかけはじめた。

 たぶん救急車を呼んだのだろう。
 その姿は一瞬、神々しいほど美しく見え、

 僕は思わず立ち尽くしていた。
 
 だがそれも後ろを歩く人たちに押しやられるまでのことだった。
 我に返った僕は、乗り継ぎの電車へと向かってその場を立ち去った。
 

 会社に着くと、僕はさっそく同僚たちにその話をした。
 するとみんな信じられないといった顔で一笑に付した。

 無理もない、影野光さんのあだ名は『影子さん』。

 ものすごい美人なのだが、ほとんど笑わず、
 仕事の要件以外は誰とも何も話さない。
 

 見た目は綺麗だが、

 心は冷たい人だというのが僕ら同期の間での常識だった。
 

 その日だいぶ遅れて出社することになった彼女は、
 いつもどおりクールな様子で、

 遅刻の理由を上司にのみ淡々と述べていた。
 
 これもよくある話かもしれないが、
 このギャップのある彼女に僕は恋をしてしまった。
 

 僕は影子さん、いや光さんに猛アタックを開始した。
 最初はもちろん、まったくと言っていいほど相手にされなかった。
 
 昼飯時に話しかけてみたり、帰りの電車の方向も同じなのだからと
 会社終わりに飲みに行きませんか、などと誘ってみたのだが、

 すげなく断られた。

 姿勢正しく真っ直ぐ前を向いたまま、表情を全く変えずに
「他人に関わりたくないの」との一点張りだった。

 ちらりとこちらを見ることも稀なほどだ。

 正直、何度か挫けそうになった。
 

 それでも諦めなければ縁はできるものなのか、
 帰り道や街中で彼女を見かけることも増えてきた。
 こっそりと観察していると、

 彼女はやはり優しい人だという確信に行き着いた。
 

 ある時は偶然居合わせた交通事故現場で

 運ばれる被害者の救急車にまで付き添い、
 またある時は夜の繁華街で酔いつぶれた女性を介抱していたりと、
 僕が彼女を見かける時は、

 とにかく献身的に人を救っていることが多かった。

 日の光や街灯の下に輝く美しく長い黒髪。
 それが地面につくのも厭わず他人を救おうとしている姿は、
 まさに天使のようだった。
 

 僕はますます彼女に夢中になった。
 他人に関わりたくないなんて言っておきながら、
 困っている人を見捨てられない、

 奥ゆかしい彼女の役にも立ちたかった。

 僕はその事も彼女に伝えることにした。
 僕だけは彼女の本当の姿を知っている、隠さないで欲しいと。
 

 そんな風に彼女にアプローチをはじめてから3ヶ月ほどたった頃、
 彼女の様子が目に見えて変化した。

 一緒に夕食を食べたり、

 時々は飲みに付き合ってくれるようにもなった。

 
 ようやく僕の気持ちが彼女に届いたのかもしれない。
 二人だけの時、彼女は優しかった。
 
 ある夜の食事中、

 僕はなぜ赤の他人にそんなに優しいのかと尋ねてみた。
 すると彼女は、少し戸惑って、うつ向きながらこう答えた。
 
「……誰にでも優しいわけじゃないわ」
  ただ、と僕の手のグラスを見ながら続けた。
 
「これから死んでしまう人には、優しくしようと決めているの」
 
 僕は最初、怪我や病気をしている人に対して、
 という意味で言っているのかと思った。
 だが彼女によると、そうではないらしい。
 

 彼女は幼い頃から、まもなく死ぬ人間が判別できたらしい。
 これから亡くなる人間の“影”が、彼女の目には映らないというのだ。


「だから、あまり人と関わらないようにしているの。
 親しい人の死は知りたくないから」

 そう言って彼女は席を立った。
 
 僕は彼女に、どうしても聞く勇気が持てなかった。
 なぜ突然僕に優しくしてくれるようになったのか、と。            

 

 

 

 〈了〉

 



読者登録

億錦 樹樹さんの更新情報・新作情報をメールで受取りますか?(読者登録について