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 棚倉城の大手門の傍らには、桜の木が植わっている。

いつの頃に誰が植えたかは知れない。丹羽長重公が手ずからお植えになったと有り難がっているのは藩士だけで、領民たちはただとにかく年寄りの木だと思っている。

 黒い幹に瘤がいくつもあって、そこに分厚い苔が張り付き、蟻が幾筋も行列を成して木肌を上下しているような木である。冬に雪をかぶるとしんどそうに地面にはいつくばってしまうので、春になって花を咲かせる段には、領民が「ああ、良かった、今年も忘れずに咲いた」と胸をなで下ろすような、そういう木である。

 その桜の木が、今年に限って、つぼみをつけるのが遅れていた。

 慶応四年の春のことである。

 金澤兵馬の屋敷の庭にも、若い桜の木があったが、こちらも、細い梢を灰色の空に向けたまま棒きれのように突っ立っているばかりで、一向につぼみをつける気配がなかった。兵馬は時折様子を見ては、暖かい日射しのあるときに、根本に水をやったりしてみるものの、何ら変化もない。

 ある日の暮れ方のことである。西日の射すほうの枝振りを見ながら、兵馬が着流し姿で桜を見上げていると、家の中からこう声がした。

「まあ、いやだ、兵馬さん。袴もつけずに」

 振り返れば縁先に座った伯母が口を開けている。白髪を染めたばかりらしく、鼻をつく臭いがこちらまで漂ってきた。

「教え子に笑われますよ、ああ、やだ」

 伯母はそれから膝をかばいながらよろよろと立ち上がった。女中が手を貸そうとしたが、手のひらを振ってそれを嫌がる。そして大儀そうに腰を拳で二三叩くと、よたよたと太った体を左右に揺らしながら廊下の奥にひっこんでいった。

 兵馬はその背中に向かって思いっきり嫌な顔をしてみせた。女中の梅だけがそのことに気付いた様子で、あばただらけの顔がさっと青冷めたが、それも一瞬のことで、何も見なかったとでも言うかのように兵馬に背を向けると、きびすを返してそそくさと伯母のあとを追って奥へと戻っていった。

 思わず兵馬は庭に転がっていた適当な小石を蹴飛ばす。ぱちん、という乾いた音を立てて、小石はあさっての方向に飛び、兵馬の足の親指の爪に跳ね返ってきて、途端に激痛が額まで走った。

 つくづく外に出るとろくなことにならない自分の性分がうらめしくなって、兵馬はうずくまって膝を抱えた。

 しばらく外にいたせいで、足の爪先がかじかんでいた。見上げれば日も暮れ、西の空が薄桃色に染まっている。冷たい風に細い桜の枝が揺れていた。鼻先や頬も冷えていた。兵馬は両手を袖の中に引っ込めると、縁先から中へと上がった。

 


この本の内容は以上です。


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