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 信号が変わる直前、前にいたタンクローリーの進路に割り込む形で、軽自動車は右折した。

「今の危なくない?」

 助手席の女がリップクリームの蓋を閉じながら、運転席の男に言った。

「いいんだよ、向こうがさっさと行かなかったから悪いんだ」

 男は額から目に落ちようとする汗を拭った。

 

 フル稼働のくせに今一つ効かないクーラーの雑音に混じり、ラジオからニュースが聞こえる。


 ――本日午前、東京都葛飾区の美容室に中年の男が進入し、「俺の頭を奪った」などと意味不明な言葉を叫びながら、持っていた草刈り鎌で店内にいた店員や客に襲いかかりました。

 

 この事件で、店長である三輪咲子さんが喉を斬られ、病院に搬送されましたが、まもなく死亡が確認されました。

 

 男は駆けつけた警察官に取り押さえられ、現在警察の取り調べを受けているとのことです――


「鎌だって! 怖いね」

 そう言った後、女は空になったペットボトルを後部座席に放り投げた。

「犯人、何でおかしくなっちゃったのかなあ」

「そりゃ毎日この調子だもん」

 男はラジオの上に表示された「38℃」という文字を指差す。

 「これと人殺しと何の関係があるのよ」

「頭がやられるんだよ」

「あり得ないわ、機械じゃあるまいし」

「機械の方がまだ丈夫だよ」

 

 車は何度か赤信号に止められながら道なりに走り、前方にあるガソリンスタンドへと向かっていく。



「ちょっとガソリン入れるわ」

「その後どうするの? 私どこでもいいけど……」

 女が何か言う前に、男は女の腿を触って答えの代わりにした。

 女はまんざらでもなさそうに笑って、頷いた。

 そして車はガソリンスタンドへと入っていく。

 

 若い店員が近づいてきたので男は窓を開け、ガソリンを入れてくれるよう頼んだ。特に気にしてもいないタバコの吸い殻や、無駄に時間のかかる車体の掃除をいかにもマニュアル通りにオススメされたが、男は「いい、いいから」とぶっきらぼうに断った。


「さっきの話だけどぉ」

 女が男の肩をつついて話しかけてくる。

「鎌の犯人って、動機は何だと思う? ねえ?」

「頭がおかしかったんだよ」

「納得いかないわ、まともな理由があると思うのよ」

「だからどうでもいいよ」

 

 顔つきと身体以外、この女を連れ回す理由はない。

「鎌で喉を切り裂いたのよ、きっとすごい恨みがあるんだわ」

 とは言え逃げられるのも癪なので、男は適当に相手することにした。

「別に大したことないって。イライラしておかしくなったんだよ」



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