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プロローグ

☆☆

 果てのない海の底を彷彿とさせる室内はどこまでも静まり返っている。だが、それは異様な熱さを孕んだ静謐さでもあった。
 よくよく耳を澄ましてみれば、時折、その不自然なほどの静けさの底をひそやかな物音が這うのが聞こえる。あえかな声は苦悶を告げる呻きにも似ているのに、どこか艶めかしく濡れている。
 人の重みでベッドのかすかに軋む音、衣擦れの音が吐息混じりの忙しない息遣いに重なる。薄闇にふいに一つの光景が浮かび上がった。それは天蓋付きの大きな寝台でもつれ合う二つの影だった。大きな影と小さな影が烈しく絡み合い、離れたかと思えば、また引き寄せられる。
 若い男が華奢な女を寝台の上で組み敷いていた。まだ女と呼ぶにはいささか若すぎる幼さを可愛らしい面立ちに残しているが、少女の身体は小柄ながら、既に成熟した女性のものだ。
 男の唇が真冬に降り積む真白な雪のような膚の上を這い回る。熱い口づけで熟した林檎のような唇から、ふくよかに育った乳房の頂を辿りながら、男は幾度も少女の名を呼び、請うた。
「愛奈、お願いだから、俺の名を呼んでくれ」
 男はただひたすら希(こいねが)う。まるで、少女の白い身体を夜毎、日毎、こうして蹂躙することを悔いて許しを請うように。彼女から愛されない自分を憐れんで欲しいかのように。
 だが、少女はけして彼に愛を返してはくれない。数日前に初めて純潔を失ったときに泣き叫んだ彼女とは別人のように、時折、堪えがたい艶めかしい吐息を洩らす。それが彼の女体を知り尽くした巧みな愛撫の成果によるものだと彼は誰よりも知っていた。
 強情な彼女はそれでも彼の愛撫に感じている自分を認めまいと唇を噛みしめ、寝乱れたシーツの端をしっかりと握って声を洩らすまいと健気な努力をしているのだ。
「それで良い、小鳥はただ愛らしいだけでは物足りない。飼い慣らされまいと必死にあがくその姿こそが籠の鳥にふさわしいもの」
 お前は声を洩らすまいと堪えているその表情こそがかえって男の嗜虐心を煽っていることをまだ知らないのだね。
 耳許で濡れた声が聞こえ、熱い舌が耳朶をネロリと掠めた。
「今はそれでも良い。だが、憶えておいで。お前はいずれ俺の手に堕ちてくる。そして、快楽という名の魅惑的な鎖でお前の翼を縛り付け、二度と私の許から逃げ出そうなんて考えられないようにしてやろう」
 男は気まぐれに弄んでいた少女の胸の頂をそっと口に含んだ。執拗に弄られ吸われ続けた胸の蕾は唾液に濡れ光り、ほの暗い室内でもそれと判るほど淫猥に見えた。
「お前が幾ら強情を張ろうと、身体は正直だ。ご覧、ここはこんなにも俺を欲して固く凝(しこ)っている」
 熟れたグミのような二つの先端がまろやかな双つの乳房の上で誘うように揺れていた。さんざん弄り回された胸の先端は固く凝り、勃ち上がっている。彼がいきなりその一つをすっぽりと口に含むと、少女は苦しげな喘ぎ声を上げた。
 いや、それは苦しさを訴えるというよりは、堪え切れない快楽を逃がそうとするような―。
 男が少しだけ力をこめて噛んでやると、少女が悲鳴を上げた。
「ぁ、ああっ」
「気持ち良いのか痛いのか、最早、お前には判らないのだろう?」
 男が恍惚とした表情で少女を覗き込む。その小さな愛らしい顔は涙に濡れていたが、それでも、瞳はまだ反抗的な輝きを失ってはいない。残った意思の力を総動員して睨みつけてくる彼女の漆黒の髪を宥めるように撫で、彼は極上の笑みを浮かべた。
「これだ、この眼だよ。俺はお前のこの眼が堪らなく好きなんだ。すぐに堕ちる女なぞ、端から興味はない」
 もう一度、乳房の先端を甘噛みしてやると、少女は今度ははっきりと鼻にかかるような甘い吐息を洩らした。二人きりの室内には誰もいない。それでも男は自分以外の何者にも女の淫らな声を聞かせまいとするかのように、その形の良い唇を狂おしいまでのキスで塞いだのだった。
 少女は奪い尽くすような口づけで呼吸するのもままならない。ただひたすら涙を流し続ける。
―どうして、こんなことになってしまったの?
 兄のように一途に慕い、心から信頼していた男のあまりといえばあまりの豹変がいまだにまだ悪い夢を見ているようで信じられなかった。


 Sudduness(運命の狂った日)

 Sudduness(運命の狂った日)

 

 愛奈は深呼吸を一つした。これから向かうことは、先に進む上では、どうしたって避けて通れるものではない。父の娘として、亡くなった父のためにもきちんと対処しなければならないものだ。何故なら、愛奈はそれができるたった一人の人間だから。
 愛奈は無意識の中にセーラー服の白いリボンを指先で引っ張っていた。
 よく磨き抜かれた廊下を辿り、応接室のドアを開ける。かなりの広さを持ったそこにはオーク材の重厚なテーブルといかにも座り心地の良さそうなソファが対になっている。広く取ったガラス窓は庭園に面していて、手入れの行き届いた庭が一望に見渡せた。
「お待たせしました」
 わざとつんと顎を反らすようにして、ゆったりとした足取りで室内に入りドアを閉める。その拍子に複数の視線が一斉に自分に注がれるのが判った。
 招かれざる客は二人、やたらと背の高い坊主頭、小柄なニキビ跡の目立つ男の二人組だ。二人ともに黒いスーツに黒いサングラス、いかにもといった雰囲気で、違うといえば、のっぽの方はスーツの下に白いシャツを合わせているのに引き替え、小男は派手な今時流行らないアロハ柄のシャツを合わせていることくらいか。
 判りすぎるくらい判りやすい男たちに、思わず失笑が洩れそうになってしまう。と、忍び笑いに気づいたのか、小男の方がいきなり喚いた。
「何だ、何がおかしいってえんだ」
 愛奈は淡く微笑んだ。
「いえ、別に」
 借金の取り立てというよりは吉本新喜劇の売れない芸人の方が似合っている―とは流石に言うだけの度胸はなかった。
 と、それまで黙り込んでいた傍らの坊主頭が高々と組んでいた両脚を解いた。
「見たところ、随分と余裕があるようだが、お嬢さん。前もって用意しておくように指示した金は工面できたのか?」
 愛奈は更に傲然と顔を上げた。
「いいえ」
 彼女は彼らの向かいに座り、勝ち気そうな瞳に更に力をこめた。
「何だとォ。手前、俺たちを馬鹿にしてるのか、子どもの遣いじゃねんだからよぉ」
 ニキビ跡の男が叫ぶのに、横から坊主頭が片手を上げて制した。
「言っておくが、俺たちも遊びで来てるんじゃないんでね。あんたの親父さんが残した金はきっちり耳を揃えて用意しておけと言ったはずだが?」
 男はテーブルの上のクリスタルの灰皿を引き寄せ、ポケットから出した煙草に火を付けた。
「失礼ですが、部屋が汚れますので、煙草はご遠慮頂いております」
 余裕を滲ませた口調で言うと、坊主頭がフと小馬鹿にしたように鼻を鳴らし、火の付いたばかりの煙草を灰皿に押しつけた。
「なかなかたいしたお嬢さんだ。だが、この屋敷はもう、あんたのものでも死んだ親父さんのもんでもないはずだ。あんたの親父はこの屋敷を抵当に俺らから金を借りたんだからな」
 愛奈はクッと言葉につまった。男の言葉は的を射ている。父はこの家を抵当にサラ金から金を借りたのだ。その金が返す目処が立たない今、愛奈が幾ら訴えようと、正当性は男たちの方にある。
 愛奈が押し黙ったのを見、男は更に続けた。
「更にそれを言うなら、この世の中には今、あんたのものだと言える所有物は何一つないとも言える。あんたのその身体さえもね」
 そこで、愛奈はじっとりとした視線が自分の身体に這うのを感じた。
「なあ、お嬢さん、俺たちだって鬼でも蛇でもねえ。父親が首吊って行き場がなくなった哀れな小娘に億のつく金を返せないことくらいはよく判ってるさ。だから、お前にはお前にできることをやってくれれば良いんだ」
「私にできること?」
 愛奈は息を呑んだ。いつしか百戦錬磨の男に上手いように話に乗せられたのも気づかない。
「そうとも。あんたにしかできないことがある」
 男は少し気を持たせるような勿体ぶった物言いをし、見せつけるようにまた脚をゆったりと組んだ。
「どうだ、うちの社長がやってる事務所に所属しないか? そうなりゃ、あんたも明日からすぐにドラマの主演女優だぞ」
「女優? ドラマって、それ、もしかして」


愛奈は唇を噛んだ。そこまで愚かでも世間知らずでもない。自分のようなずぶの素人がすぐにドラマで主演できるなんて甘い話がそうそう転がっているはずもないのだ。
「アダルトですか?」
 つまり、この男どもは愛奈にAV女優になれと言っているのだ。あまりの屈辱に、愛奈は顔が燃えるように熱くなった。愛奈の心など知らぬげに、坊主頭の男は滔々と喋る。
「マ、見たところ、あんたは処女のようだし、それだけ出演料は高くなるはずだ。大体、AVに出るような子で、処女なんていないからな。初出演でロストバージンが撮れるなんざ、なかなかないチャンスさ」
 次々と繰り出される言葉に心が抉られるようだ。屈辱をとうに通り越して、傷つけられた心は血の涙を流していた。しかし、男は愛奈の沈黙を躊躇いか恥じらいと勘違いしたらしい。
 今度はやや優しい声音で宥めるように言った。
「いきなりAVが嫌なら、モデルはどうだ? もちろん、脱ぐことに変わりはないが、性行為を強要されることはないぞ? まあ、いつまでもというわけにはいかないだろうが、気持ちの整理がつくまでくらいは待ってやっても良い」
「私」
 お断りしますと言おうとした愛奈の機先を制するように男が鋭く言った。
「言っとくが、俺はあんたに選択権を与えたわけじゃない。ただ、ほんの少しの情をかけてやっただけだ。こちらが優しくしてやったからと言って、あまり図に乗らない方が身のためだぞ、お嬢ちゃん」
 愛奈の息を呑む音がヒュッと聞こえた。
「さて、どうする? 明日にはこれまで後生大事に守ってきたバージンをあっさりと棄てるか、それとも、しばらくは脱ぐだけにするか。この場で選んでくれ」
 坊主頭に言われ、愛奈は唇を噛みしめた。固く眼を瞑り、戦慄く声で返す。
「AVに出るのは嫌よ」
「なら、モデルになるんだな?」
 念を押すように問われ、愛奈は小さく頷いた。愛奈の気が変わらない中にと坊主頭が顎をしゃくると、それまで出番のなかったニキビ面がいそいそと持参したブリーフケースを開いた。中から数枚の書類を取り出した。
「話の理解が早くて結構だ。こんな場面で修羅場を演じるのは俺も苦手でね。中には泣きわめいたりする女の子もいるんだが、あんたは度胸が据わっているらしい。それじゃ、手始めに、ここにあんたの名前と印鑑を―、ああ印がなければ拇印でも良い」
「それは何ですか?」
 愚かな何の力もない小娘だとて、言われるがままになる必要はない。愛奈が力なく問うと、男がニヤリと口の端を引き上げた。
「契約書類。別にあんたを騙くらかすつもりなんざないから、よおく読んでみるんだな」
 男が言い終わらない中に、横から小男が何やら囁いた。ちらちらとこちらを見ながら耳打ちする視線はねっとりしていて何か嫌な鳥肌が立つようなものを感じる。坊主頭が頷き、また、こちらを見た。
「契約の前に、確かめたいことがある。まず、あんたが使い物になるかどうか、この眼で確かめさせて貰う」
 愛奈は膝の上で組んだ両手に力をこめた。
「それはどういうこと?」
「言葉どおりさ。モデルになるというのなら、モデルとして通用するのか、事前に確認するんだ」
「一体、私に何をしろと―」
「服を脱いでくれ」
 無情にも言い放たれ、愛奈は黒い瞳を忙しなくまたたかせた。この男は私にこいつらの前で服を脱げというの!?
「お断りします」
 考えるよりも前に言葉が飛び出していた。
「そんな恥をさらすくらいなら、死んだ方がマシだわ」
 プイと顔を背けた愛奈を見つめながら、坊主頭の男が小馬鹿にしたように嗤った。
「流石に世間知らずのお嬢ちゃんは甘いねえ。良いかい、あんた、世の中はそれほど甘くはないんだよ。ヌードだって馬鹿にしてるんだろうが、それでもモデルはモデル、仕事は仕事なんだ。身体にたとえ滲み一つでもあれば、あんたはモデルとしては失格なんだぞ。いつまでもお高く止まってるんじゃねえッ」
 一見、物静かな雰囲気を纏う男が放った怒声に、愛奈は震え上がった。所詮、こんな男と自分がまともに闘えるはずもなかったのだ。
 愛奈は敗北と絶望に打ちひしがれ、緩慢な動作で立ちあがった。
「着替えてくるから」
 どうしても脱ぐという言葉は使えなかった。しかし、男はどこまでも容赦がなかった。
「今、ここで脱ぐんだ。最初は脱ぐだけで済んでも、いずれはAVに行くことになるだろう。たかだか俺たちの前で裸になるのビビッてちゃ、到底あんた、この世界でやってけないぜ」
「―」
 男の声は静かながら、有無を言わせぬ口調だった。愛奈は更なる敗北感に打ちのめされ、唇を噛む。
「お嬢ちゃん、こう見えても、俺たちもなかなか忙しい身でね。いつまでもあんた一人に拘わってるわけにもいかないんだ。やるんなら、さっさとやって終わらせちゃくれねえか」
 揶揄するような響きがあるのは、これまで生意気を言い続けた愛奈への意趣返しなのか。大の男が高校生相手に大人げないことだが、今の愛奈にそれに気づくだけの余裕はなかった。


 愛奈は歯を食いしばる。立ちあがると、目を伏せたまま、セーラーの制服のスカーフを緩めた。シュルリと静寂にスカーフが解ける音が妙に響く。
 前合わせのスナップボタンを一番上から、ゆっくりと外していく。固唾を呑んで見る男たちの双眸がまるで得物に飛びかかる寸前の獣のように欲情しているのも知らない。
 ついに制服の上着がはらりと床に落ちた。制服の下はもうブラだけだ。お気に入りの白いレースのついた清楚なブラジャーに包まれた胸は既に大人の女性のものだった。
「近頃のガキは発育が良いなぁ」
 小男が今にも涎を垂らしそうな惚けた表情で愛奈の胸を凝視している。
「さっさとしてくれ」
 対する坊主頭は少なくとも小男よりは落ち着いて見えるけれど、やはり、そのサングラスに隠された眼には粘着質な淫らな光を帯びている。
 愛奈は震える手を今度はスカートのホックにかけた。これを脱げば、後はブラとお揃いの小さなパンティを履いているだけだ。混乱の気持ちが目尻に涙を押し上げてきたけれど、こんないけ好かないヤツらの前で絶対に涙を見せたりするものかと、最早、なけなしの自尊心だけが今の彼女の折れそうな心を支えていた。
 ホックを外そうとしたまさにその瞬間だった。応接室のドアが音を立てて開いた。
「貴様ら、何をしてる!」
 坊主頭も身の丈があるが、それよりも更に頭一つ分高い若い男が飛び込んでくる。やや鋭角的な曲線を描く頬の形、意思の強さを感じさせる濃い眉が個性的といえばいえるが、まず今風にいえば、イケメンの部類に入る端正でほどよい甘さが混じった顔立ちだ。
 愛奈は幼い頃から、このイケメンの年の離れた従兄が大好きだった。中学生になってからは大好きになった韓流スターのペ・スビンに似ているこの従兄を〝お兄ちゃん〟ではなく〝拓人さん〟と呼ぶようになった。愛奈の自慢の従兄なのだ。
 おや、というように坊主頭が片眉を跳ね上げる。
「一体、誰の許可を得て、こんなことをしてるんだ」
 拓人はつかつかと大股で近づいてくると、坊主頭の男の胸倉を掴み上げた。
「手を放してくれませんかね」
 しかし、坊主頭は依然として落ち着き払っている。
「我々は、こちらのお嬢さんの亡くなられた父上が書いた書類を預かっています。必要なら、今、この場でお見せしますが」
 拓人が悔しげな顔で男から手を放した。坊主頭は汚いものにでも触れられたように襟元を払い、咳払いする。横からニキビ面がさっと別の書類を渡した。
「こちらを」
 拓人は座りもせず、その書類を受け取った。数枚の書類を難しげな表情で眺めた後、坊主頭に突き返した。
「確かに君の言い分にも一理の正当性はあるようだ」
「ご理解頂けて何よりです」
 拓人は今日も濃紺のビジネス―ツでびしっと決めている。
「亡くなった叔父が残した借金はすべて私が払う」
 刹那、流石の坊主頭も眼を見開いたようだった。
「いや、しかし、これだけの」
 相手に皆まで言わせず、拓人は仕立ての良いスーツの上着から名刺を出した。
「僕の言うことが信用できないというのなら、これからすぐに付いてくれば良い。会社の経理担当が今日中には全額耳を揃えて君たちに望み通りの金を進呈するだろう」
 拓人が差し出した名刺には〝アークコーポレーション 代表取締役 平城(ひらき)拓人〟と書いてあった。
「アークコーポレションの社長」
 小男がこれまで以上に惚(ほう)けたような顔で拓人を見、更に傍らの愛奈を見た。拓人は男の不躾な視線から隠すように、さっと自分の上着を脱いで愛奈に羽織らせた。
「失礼ですが、天下に名高いアークの社長があなたのような若造、失敬」
 わざと言い間違えたに違いないのだが、坊主頭は言葉だけは慇懃に言い換えた。
「お若い方だとは迂闊にも知りませんでした」
 態度も物言いもいっそう丁重にはなったものの、男の瞳には拓人をこの場で射殺しかねないほどの物騒な光がある。
「私の親父が十年前にR航空の飛行機事故で亡くなりましてね、当時、高校生だった私が名義だけは社長職を受け継いだのです」
「なるほど、当時、あの事故は世間を賑わせましたからな。そうですか、あの痛ましい事故で先代が亡くなられたとは」
 坊主頭が立ちあがった。
「アークの社長が肩代わりを申し出て下さるのなら、間違いはないでしょう。今日のところはこれで失礼します」
 行くぞ、と、小男に声をかけて去っていく。小男はまだ愛奈の方をちらちらと未練がましい眼で見て、坊主頭にこづかれていた。
 パタンとドアが閉まると同時に、愛奈はこれまで張りつめていたものがプツンと音を立てて切れたようだった。身体がふらつき倒れそうになったところを拓人が支えてくれる。
「大丈夫か?」
「拓人さん」
 愛奈は大好きな従兄の腕に抱かれて、甘えるように頬を預けた。従兄の背広から漂っているのは爽やかな柑橘系のコロンの香り、いつも拓人が好んで身につけているのを知っている。 
「大好きよ。拓人さんはいつも私が困っていたら、助けにきてくれるんだもの。まるで白馬の王子さまみたい」
「俺が王子さま?」
 拓人は笑いを含んだ声で言う。
 うんと無邪気に頷く愛奈の髪をくしゃりと撫で、拓人はからかうように続けた。
「じゃあ、さしずめ愛奈は姫なのか? 姫は王子さまに助けられて、王子の花嫁になるんだぞ」
「あら、拓人さんは私のお兄さまだもの。兄と妹は結婚できないのよ」
「兄妹(きようだい)じゃない、俺たちは従兄妹(いとこ)だろ」
「そんなことはどうでも良いの。兄王子は妹姫に本当に運命の王子さまが現れるまでずっと見守ってくれるのでしょ」
「随分と都合の良い解釈だな」
 拓人は笑いながら愛奈を抱く腕に力をこめる。
「万が一、そんな男が現れても、俺はお前を渡してなんかやらないからな」
 その時、愛奈は大好きな従兄のその言葉がまさか冗談どころではなかったことをまだ知らずにいた。ある意味、サラ金会社の男たちに付いていった方が幸せだったということすらも。彼女の運命の鍵を新たに握ったのは気高く麗しい天使の仮面を付けた悪魔だった―。


 安浦愛奈、十七歳。公立N高校普通科の三年生で、別段、目立つような女の子ではない。ただ物心ついたときから、二重のはっきりとした黒い瞳が愛らしいと言われることは多かった。顔立ちは世間でいう可愛いの部類には入るだろう。かといって人眼を引く美人ではけしてない。
 愛奈の父安浦禎三(ていぞう)と拓人の父平城俊介は血の繋がった兄弟である。禎三は大学卒業後、見合いでアークコーポレーション傘下の中小企業であるY&A企画の社長令嬢と結婚、婿養子に入って安浦姓を名乗るようになった。Y&A企画は広告代理店で、禎三の代になってからも経営状態は安定していた。
 しかし、数年前に請け負ったテレビCMの仕事が見事に失敗してしまった。有名化粧品メーカーの春に売り出される新色口紅のコマーシャルに出演するはずの女優がドタキャンしてしまったのである。
 ギャラの問題で大揉めに揉めて降板、急遽代理を立てたものの、今度は化粧品メーカーの方が気に入らず、この話は暗礁に乗り上げた。結局、間に入ったY&A企画が大損をすることになってしまった。
 その頃から何もかもがうまくいかなくなった。父は懸命に赤字を埋めようとしたものの、やることなすことすべてが裏目に出た。やがて最初はほんの少しだった負債は見る間に膨れ上がり、返済の目処さえつかなくなった。禎三が首を吊って変わり果てた姿となって山中で発見されたのは、つい一週間ほど前のことだ。
 今日はその初七日だった。物言わぬ骸となった父と病院の霊安室で対面した後、葬儀を何とか済ませられたのもすべては拓人が側で支えてくれたからだ。高校生の愛奈はただ黙って座っていれば良かった。拓人がすべて采配をふるってくれたからこそ、初七日を無事に迎えられたのだ。
 愛奈は今日は高校を早退して、そのまま菩提寺に行って読経をあげて貰って自宅に帰ってきたのだ。拓人は一緒にいてやりたいが、仕事が忙しくて、どうしても抜けられないのだと事前にメールが届いていた。
 帰宅早々、お手伝いの美代子さんが慌てて出迎えたのである。
―お嬢さま、どういたしましょう。
 聞けば、あの二人組が押しかけてきて応接間に居座っているとのことだった。
 しかし、愛奈自身、いつかこんな日が来ることは覚悟していた。既に父が多額の負債を残していることも知っていたし、サラ金業者がこの日に自宅に来るとの連絡も入っていた。
 もちろん、葬儀の直後、言いにくそうな様子で父の秘書から負債の件を告げられたときは愕いたし、父を恨みもしたけれど、今更、あがいたところで何になるだろう。大好きだった母を突然の事故で失った小学一年生のときから、愛奈は諦めるということを知った。
 人生には時には幾ら懇願しても叶えられない望みがあるのだと。
 あの日、母は入学したばかりの愛奈が忘れていった筆箱を学校まで届けにきてくれた。母が事故にあったのはその帰り道だった。トラック運転手の居眠り運転で横断歩道を歩いて渡っていた母は撥ねられた。即死だった。
 救急車で搬送された病院で次第に冷たくなる母に取り縋って泣きながら、もし、この世に神さまがいるなら、どうかママを連れていかないでと懸命に祈ったのに、ママは死んだ。
―あたしが忘れものさえしなきゃ、ママは事故に遭うこともなかったんだ。
 その想いは今も愛奈の心から消えたことはない。
 お給料も払えないから、大勢いた使用人もどんどん辞めていって、今では長年勤めてくれた美代子さんが一人だけ。美代子さんは愛奈が生まれる頃から、ここで働いている。今はもう五十歳は過ぎているだろう。母が突如としていなくなってからは、美代子さんの存在は愛奈にとっては心強かった。
 いずれはこの屋敷も手放し、出ていかなければならないことは判っていた。父親の残した借金を娘の自分が払うのは仕方のないことだと理解はしていたけれど、まさか、この身体で払えと言われるのは想像だにしていなかった。
 確かに小説やドラマではよく聞く話である。父親が残した借金を残された娘が支払うために、吉原遊廓に身を沈める悲話は江戸時代では実際に珍しくはなかったという。 
 それでは、自分はさしずめ、借金の形に苦界に身を沈めなければならない哀れな娘になるところだった? 危機一髪のところを拓人が助けてくれなければ、江戸時代の遊廓ならぬ現代の苦界に堕ちて、やがては、この世の底の底まで堕ちていく悲哀をこの身で味わうことになったに違いない。
 それを思えば、拓人は一生の恩人だ。
―拓人さんのために何かできることがあれば、私は何だってするんだから。
 この日、愛奈は心に誓った。その〝何か〟が意味するものを、まだ愛奈はまったく掴めていない。でも、拓人がいなければ、これから先の自分はいなかったのだと思えば、何でもできる。このときの愛奈は心底からそう思った。
 いつか拓人にも愛する女性が現れるだろう。自慢の従兄が女性にはモテるのを知らない愛奈ではなかった。ルックスもモデル並のイケメンでしかも優しくて話術も巧み、何もかもが洗練されていて、しかも一流企業の社長ときている。
 拓人ほどの男に想いを寄せられて拒む女はまずいない。いつか従兄が選ぶ素敵な女性を見てみたいと愉しみにしている愛奈だ。
 安心して彼を託せる女性が現れるまでは愛奈が側にいて彼の世話をする。それが、窮地を救ってくれた彼への愛奈ができるせめてもの恩返しだ。拓人が彼にふさわしい女性と結ばれたその後、愛奈はこれからの自分の人生について考えれば良いと思っていた。



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