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8. 般若心経 解釈

 

般若心経 解釈



すべて外界と見えるもの、およびそれを観測する五感と認識は、ことごとく仮想現実なのであるという
知見に立つことの大事さを説くお経である。

 

摩訶般若波羅蜜多心経

観自在菩薩、行深般若波羅蜜多時、照見五蘊皆空、度一切苦厄、舎 利子、色不異空、空不異色、色即是空、空即是色、受想行識、亦復如是、舎利子、是諸法空相、不生不滅、不垢不浄、不増不減、是故空中、無色無受想行識、無眼耳鼻舌身意、無色声 香味触法、無眼界、乃至無意識界、無無明、亦無無明尽、乃至無老死、亦無老死尽、無苦集滅道、無 智亦無得、以無所得故、菩提薩埵、依般若波羅蜜多故、心無罣礙、無罣礙故、無有恐怖、遠離一切顛倒夢想、究竟涅槃、三世諸仏、依般若波羅蜜多故、得阿耨多羅三藐三菩提、故 知般若波羅蜜多、是大神呪、是大明呪、是無上呪、是無等等呪、能 除一切苦、真実不虚故、説般若波羅蜜多呪、即説 呪曰、羯諦羯諦、波羅羯 諦、波羅僧羯諦、菩提薩婆訶。般若心経。

 

 

 

観自在菩薩深く瞑想に入り、仏の知恵を見極めようとした時、五蘊(色・ 受・想・行・識)のことごとくが、すべてバーチャルリアリティ(仮想現実)であることを、純粋観照意識によって感得した。
(色とは、現象のこと。受とは、感受すること。想とは、思惟し想像すること。
行とは、反応や行為のこと。識とは、それらの情報を総合して認識することを言う)

つまり、五感を駆使して外界を認識するすべての局面が、仮想現実なのだということが、はっきりとわかったというわけだ。

 

つまり、もともと実体のない世界を、あたかも世界らしく認識しているの が我々であることがわかれば、どんな苦厄からも済度される(救われる)道理であろう。どうだ、舎利子よ。
(このお経は、仏の到達した解放の境地を、般若の知恵によって達成しようとするものである)

 

では説こう。
色(外界)は仮想現実と異なるものではなく、仮想現実は外界(現象)と異なるものではないのだ。

 

つまり、色(外界)とは仮想現実であり、仮想現実が外界(現象)をあら し めているのである。

 

これはすべてを形作る法則のことごとくが、仮想の上に成り立つという 相(すがた)をしているということだ。

 

だが、仮想現実世界という実態の背後にあるものは(あるいはそれをそう あらしめている意識原理は)、
生ずることなく、滅 することなく、
汚れていることも、清らかということもなく、
増えもせず、減りもしないものである。  (これはプログラムとそれを実行するシステムの世界)

(初めがどこにあるかも、終わりがどこにあるかもわからないところの、
仮想現実を生み出す原因になるものがそのようにしてある)  ⇒ ホログラム上のプログラム

 

このゆえに、表出する仮想現実の内側(背後)にあっては、 
(プログラムなど仮想現実形成の素になるメカニズムの世界にあっては)

形作られる外界はなく、それを感得し思惟し行動し認識するというものも なく、
見る・聞く・嗅ぐ・味わう・体感する・思いをいたす、といったこともなく、
それら五感と思いに対応する作用の要素もなく、

見渡す限りの世界(宇宙も含む)もなく、
またいっぽう、想像や思惟によって営まれる世界もなく、
この世の無明(闇)と言えるものもないのに、
無明(闇)の尽きることもない(如くプログラムされている)  

 

またいっぽう、老病死やそれに伴う煩悩もないのに、
老病死や煩悩の尽きることもない(如くプログラムされているのである)

そこで感得してみたまえ。
苦も、苦の原因を知ることも、苦を心の制御で減殺することも、またその制御法や技術すらも必要なく、
そのような知識も必要なく、それらを求めようとしなくとも、
つまり特別な精神修養の知識や知恵をまったく持っていなくとも、

悟りを開き、衆生を済度しようとする菩薩衆は、
この(すべて仮想現実であるという)般若の知恵に根拠し会得するがゆえに、

心が自由自在であり、
想いが自由自在で何ものにもこだわらぬゆえに、
恐怖するものが何ものもなく、
いっさいの誤った観念や妄想や迷いから遠く離れており、
究極の涅槃(永遠の平安)の境地にいつもあるのだ。

過去現在未来のもろもろの仏様たちも、
この般若の知恵に根拠し会得されているがゆえに、

仏(解放)の最高の知恵の法門に入っておられるのだ。

 

このゆえに、この原理を知りなさい。
これは偉大な神の真理の言葉であり、
これは偉大な光の真理の言葉であり、
これは無上の、これにまさるもののない真理の言葉であり、
これは三世に比肩するべき何ものもない真理の言葉なのだ。

 

世間のいっさいの苦悩を取り除くことができ、
真の実のある、虚構でないものであるゆえに、

ここでこの般若の知恵の真理の言葉を説き聞かせたわけである。
では最後にマントラの言葉を説いて聞かせよう。

 

ほんらいはサンスクリット語のマントラであり、それを漢語でおきなおし てこのようになっている。

意味は不明とされているが、編者鳩摩羅什が一生を通じて衆生から蔑まれていた不遇さから、このような悟りの経文を衆生にただ与えるのは口惜しいと、この言 葉の中に、死者を下界に留まらせる呪詛を含ませたとされている。

私も、この経文の効果は、母の死後に唱えるようになって、経験してきたことである。
かといって、羯諦以下の言葉だけを外す わけにもいかないため、心経の読誦それ自体をやめるに至った。

それよりも、鳩摩羅什の悟りの言葉を、経文とともに理解されることのほうが 望ましい。

以上が、般若心経という経文である。


 

 


9. おわりに

9. おわりに

 

 

神の化身サイババによれば、
大宇宙の歴史は、この小さな卵にすべて
記載されていることであるという



宇宙全体を記載したプログラムは、宇宙大から 原子やクォークの超ミクロまで網羅されている。思惟作用もプログラムとして与えられている。宇宙に生起するすべてのことが予め用意されているのだ。
意識の目(意識原理) はそれに光を当てて観測する賦活の主体だ。彼は純粋観照者である。つまり、宇宙を観測するコンピューターシステムを作った側の意図そのものであることにな る。それはすべての理解者であり、その思いの中に全善な安定が見出せる。
瞑想し禅定するとき、 この存在に焦点を合わせるとよい。それは苦界と不安の嵐の海の底深くの海底の堅固な岩盤の下にある安穏楽土と言ってよい。その性質を瞑想してみよう。

 

人が脳を介して人の次元の観測しかできないの は、コンピューターが実行する命令語のサイズが脳の性質に合うように固定されているからだ。外界として認識するものは、脳という共通の機構的下地が人々に ある限り、同様の現象として認識される。コンピューターはそれを順次実行していく行為の中で、時間の経過を生んでいく。
しかし、コンピュー ターは本来、実行する命令語のサイズを任意に変化し実行できるはずである。瞑想や夢見は、このフレキシブルな性質を一部的に現すものである。それはコン ピューター本来のすなわち魂の性質であり、人はそうすることで、神の域から地獄までを任意に体験したり、あるいはミクロや宇宙大にまで意識を及ぼすことが できる。単なる想像、フィクションに過ぎないというのでなく、その想像行為そのものが創造の原理なのである。


ところが、現代社会と いうのは魂の希望からは乖離していくばかりであり、観測のフレキシブル性をわざと損なわせ、五感にのみ頼りきるように仕向けている。さらに労働の激化やス トレスによって睡眠をも妨げて、せっかくの魂の自由時間をも奪い去る。脳は覚醒中にもわずか数%使われるのみで、不自由さの中に鬱憤と軋轢を溜め込み、機 能縮退や細胞を死滅をさせて、早期にリタイアしていくことになる。アルツハイマーやピック病、さらに成人病というものすべて、魂の反逆による誘導なのであ る。抑圧者を跳ね除けよ。大きな世界に思いを馳せ、大局観に立て。

 

神は、幸せなことに自由度の高い魂である。と いうのも、人体に束縛されていないからだ。彼がそのつもりになれば、超ミクロの中も観測してこれる。だが、通常は人間よりも命令語の大きなサイズの単位で 実行する者であるため、地球史や宇宙史レベルの歴史体験をしている。人とは観測時間の単位が異なるわけだ。また、フレキシブル性も備えているから、気が向 いたら微細にも入り込み、その中を確かめてくる。時間軸の異なる人間界をわざわざ指導するのは、神の心と言っていい。
よってある程度、魂と いうものは、種族によって類別されるだろうが、様々な意識的存在がいて、独自の文化と歴史を、この宇宙プログラムという素材を使って現出しているようなしだいになろう。地球外知性がおり、スカイフィッシュがいてもおかしくはない。プラズマ生命体がいても不思議ではない。それを否定するのは、局限された観測 機能しか持たない者の、さらに想像の芽をも摘み取ろうとする独善思考でしかない。
極論すれば、風になり きることさえできる。子供にはそれが比較的容易だ。だが、大人になると、その能力そのものを放棄する。


プログラムは、ただそ こにあるのではない。観測されるためにあるのだ。風や火がこういう吹き方、燃え方をするようにプログラムでなっているなら、観測主体になる意識、すなわち 魂が精査実行することができる。
別の角度から見るな ら、意識体験はすべて意識の目の憑依の結果で起きているわけだ。プログラム上の観測者の座が、彼の招かれた座なのだ。そこに憑依してしばらく留まり、観測 を続けるというわけだ。人生数十年を送る人間というもこれに然り。

 

思惟作用すらもプログラムの中に記載された出 来事なら、①超コンピューターにプログラムのかかっていない状態や、②NOP(ノンオペレーション)命令だけのプログラムがかかっている状態というのも仮 説できる。超コンピューターの実行結果をもとに世界を組み立てる人はそのときどう認識するものだろうか。

①は、超コンピューターがその稼動目的を満た すべく作られているなら、なかなか遭い難い状態である。この状態がたまたま実現したとしても、またすぐに次のプログラムが用意されるはずだからである。
この一過性の状態は、プログラムの掛け換え時に偶然発生する可能性がある。すなわち、生前の世界から死後の世界へと移転する人の死の瞬間などにおいて、偶 発的にである。仏教では実際にその認識状態のあることが知られている。

そのときコンピューターはプログラムという修 辞されたものを通さずに、観測行為の本質を垣間見ることになる。すなわち人は、修辞されない高エネルギーの照見する光そのものの生産現場を見るわけだ。こ れをチベット仏教では、死の直後に訪れる原初のクリアーライトと言っており、ヨガの熟達者でも遭い難いとされている。

いっぽう②は、NOP命令に定義された性質に よって、どのように超コンピューターに観測されるかが決まる。まばゆい光だけの世界なのか、真っ暗闇なのか、それとも灰色なのか。あるいはNOP命令にも 特別な性質の付帯するものがあるのか。至福、無限、無辺、無識などが性質として考えられる。

そのとき、人には思惟や行為のすべてを停止し た状態が実現しており、その付帯する性質だけが感得されているであろう。それは人の禅定の結果として得られるものである。仏教ではその意識の状態に住する ことを、無色界にあるという。

無色界に対し、色界は主体的にイメージのプロ グラムで織り成される世界であり、色即是空とは、イメージ(色)の世界はプログラム(空)によって生起するという意味になる。空即是色とは、プログラムが イメージの源だという意味である。五蘊皆空とは心の作用もプログラム上の記載事項であるという意味だ。
また、欲界はまるでウインドウズのOSのように、頭を叩いてたんこぶを作り、また叩いてたんこぶの上にたんこぶを作ったような複雑怪奇なプログラムが、超 コンピューターにかけられて、冷却ファンが盛んに回るヒートした状態を呈する如きものであろう。

つまり、無色界、色界、欲界のことごとくは、 迷妄に束縛されたものであることになる。無色界といえどもそうだ。それは、超コンピューターという存在によって束縛が発生しているのである。

つまり、我々において真の「解脱」という境地 は、思惟して得られる境地ではなく、超コンピューターの稼動そのものから脱却することでしかない。超コンピューターである真実から、自らを解放できるの か。電源を落すことで可能なのか。電源を落したらどうなるのか。未知の体験となるかも知れない。

 

インターネットの中の仮想世界に集う人々が増 えているという。
すでに、世界人口 500万人に及ぶ人が、その中でセカンドライフを味わっているという。
現実にはできないこと も、そこでは飾り立てることができ、その中のキャラクターになりきることもできる。
こうして、通常時には とても実現できない、第二の性質を獲得することができる。
日頃の日常生活をその 中で送るライブ。ショッピングもありだ。仮想ショッピングで済ますことも、実のネットショッピングも可能だ。不動産選びも、仮想空間において行うことがで きる。3Dで、新居での家庭生活を味わうこともできる。普段と違う仮想世界の生活を送るという延長上に、現実と仮想が融合しつつある。


いっぽう我々は、仮想でなく、現実 に生きているという。だが、現実というのは真には本当ではない。
まさにこのネットの仮 想現実の仕組みそのものが、現実体験の下地にあるのである。
終わりの時代には、隠 されていた真実がすべて明るみに出るとされている。
コンピューターの出 現、そしてネット社会。こうした形態的真相が、宇宙の中の小宇宙という相似像の形で表出してきているのである。世の中の現象から大宇宙を量ることもできる というわけだ。そうした時代に行き合せた幸運を喜ぼう。
だが、そこまでで悟った気持ちになってはならない。

こうした仕組みが我々の魂のために与えられた意味を理解できなくては、何の悟りにもなっていないのだ。
残念ながら、このプロ グラム的超宇宙は、決して我々のためを思ってのものではない。というか、このマトリックス主催者自体が気づいていないのかも知れないので、そうならば諌め る必要がある。


我々の世界にあるネッ ト社会に繋がるための手段は何か。それはパソコンだ。ネット社会は、人々の興趣を増すためにどんどん進化している。ゲームはいっそう多様化し高度化してい る。ところが、パソコンに向かう我々の眼や頭や人体のことはさほど考慮されていない。確かに画面は見やすく、また疲れの少ない工夫が凝らされるようになっ た。だが、パソコン(携帯電話もそうだが)から発される電磁波は、非常に軽度とはいうものの、人の脳を直撃し、ちょうど電子レンジにかけるような様子と なっている。また、眼では近眼や乱視だけでなく、白内障を発症し易くしている。のめり込む時間に比例して、精神病や痴呆、眼の機能障害、運動不足による成 人病を起こし易くなっているはずである。

 

つまり、戦略的に、人間の機能障害を誘発する ように仕組んであると考えられるのだ。
天にある如くが地にも あり、地にある如くが天にもあるとするなら、我々の魂はマトリックス時空に縛られることによって、同様の機能障害の危険に晒されてはいないか、というわけ である。

いや、仕組まれているのではなく、ただ単に、 開発者の開発途上にあることの無知のゆえだと仰るかも知れない。ならば、天においても然りではないだろうか。そこに、全知全能を仮定すること自体、不適切 だ。
自らの身を真に守りた ければ、パソコンに向かうことそれ自体から離れたほうがいい。同様に、マトリックス時空を観測する輪廻からも早々に離れたほうがいい。

 

さあ、それでもしがみつくべき何かがあるのだろうか。また、いつまでそうしていなくてはならないという決まりでもあるのだろうか。ここは、いったん、神への忠誠心といった主観的要素を外して考えてみたいものである。

たとえそうしてみたとしても、我々の真の存在意義が未だに掴めないでいるのも、我々なのかも知れない。

 

 

 


10. 幕つなぎ

 

いかがでしたか。1983年時点の拙論文。何書いてあるのやらさっぱりわからんとおっしゃる向きもあるでしょう。

しかし、現在現時点に立てば、あのときから比べて、論の内容もずいぶんと明瞭になってきました。というのも、コンピューターの応用技術が進歩し、多くのア ウトプットの趨勢から、宇宙あるいは世界というものがシミュレートしやすくなったからです。

当時の時代に、ノイマン型コンピューターと書けば、その動作原理を理解しなくてはならず、現在においても、たとえ今のパソコンなどがノイマン型の流れを継 いでいるとはいえ誰しも、提供ソフトの動作ぐらいは理解できても、PC内部がどのように動作しているかについては、わからない人がほとんどです。

私は、某大手コンピューターメーカーに勤めたときの知識があったため、その勤務のさなかにもこの拙論を少しずつ創作していたわけでした。もっともベーシッ クな部類の日立製HITAC8200や8300の動作原理をかじり、次のメーカーにおいて理論的土台を作り、そこを辞した直後に世に問うたつもりの論文で した。

が、経由した学問機関が、超自然現象を相手にする、いわばオカルトを対象とした準学術的団体であったため、世に公知されることなく、さらにまた情報処理技 術のことに疎い老練団体だったこともあって、見込みのほども、疑問のほども提示されることなく、ほんとうに理解の及ぼせる知識人だけがこれを見て、その論 の将来性、発展性を考慮してくれたようなことでした。

1990年代から、パソコンも個人宅に普及しだし、かつての計算センターなどで使われていた大型コンピューターなみ、それ以上の性能機能を持つPCが開発 され、ついにはPCの内部だけでバーチャル空間が営めるまでになり、それがインターネットを介して世界と結びつき、共有を深めている状況になり、すでにあ る人たちは、別次元にあるインターネット空間にバーチャル世界を築き、そこで日々暮らすまでに仮想現実を楽しむようになりました。

そのバーチャル世界の最たる提供スタイルは、ゲームソフトです。クライアントの心的欲求に応えて、その販売種類数量たるや天文学的なほどになっています。 それがまた、よく飽きられもせず売れている。個々人はもともと、自分の心の殻に閉じこもりたいものなのかも知れません。

これから何十年か後には、人間の感覚器全体に、PCから情報信号を送り込めば、今までディスプレイ画面でしか堪能できなかったゲームが、全身の機能を通じ て臨場体験できるようになるでしょう。

そのあかつきには、今でもゲーム世界に没頭して周囲に目もくれない人たちがいるように、臨場感あふれる3Dバーチャル世界に、現実を忘れて没頭する人たちが、列をなして体験参加するようになると、容易に想像できます。

そこで同上団体の機関誌に、次なる論文を出して、SF的かつオカルト的ながらも、「もしかすると、我々において、霊なるものが実体であり、それがこの世に 生命体として誕生し、人生を営み、死没していくその工程と本姿とは、バーチャルゲームのようなものなのかも知れないですよ」と、問題提起しております。 1984年のことです。

 

 


死(ニアデス体験)を科学する

 

この論説は1984年 に日本サイ科学会において
基幹誌であるサイ科学誌に掲載されたものの増補資料です。
1983年に同誌掲載の「超宇宙の仕組みを考える
ためのモデル概念」
の続編にあたります。

 

死(ニアデス体験)を科学する

 

かれの意志に反して人は死ぬ。
死ぬことを学ぶことなく。 
死ぬことを学べ。 
そして汝は生きることを学ぶだろう。

チペットの「死者の書」(バルド・ソドル) 
「おおえまさのり訳著,講談社」より)

 

 

ニアデス体験の共通牲に見る原型的手続きの潜在

 

 

より良く生きようと考え,その方法を模索することは重要である。
しかし死は誰にもやってくるとき,生の対局たる死について科学することは,「真髄的な生」を浮き立たせ,改めて日々の生活の在り方を問い正してくれるので はあるまいか。

 

近似死体験研究者のレイモンド.A.ムーディ博士は体験者百数十例から総合して,死に瀕した状況や死を経験した人のタイプが,極めて多 様であるにもかかわらず,体験談そのものに驚くべき類似性がみられ,それらを総合すると次のような共通要素にまとめられるとした。
 

 

苦 痛が極みに達したとき、医師が死亡宣言するのを聞く。

ブーンといっ た不快な音が聞こえ同時に長いトンネルを急速に移動していくのを感ずる。

突然,肉体か ら抜け出て,現場を離れた所から傍観する。そして自分がまだ,身体を有していて,なお肉体とは非常に異った性質・能力をしていることに気付く。

過去に死んだ はずの近親者や友人達がやってきて,彼に手を貸し導く。

慈愛深い輝か しい光の霊人が現われ,言葉によらぬ直接的な意志の伝達により一生を再評価させる。このとき生涯の主要な出来事が一瞬のうちにパノラマ的に再現して映し出 される。

彼は現世と来 世の境界を暗示するものから,後戻りのきかない境涯の接近を理解するが,このとき再度地上に戻らねばならないことが何らかの方法で分かってくる。

死後のこれら の経験に魅了され,強い歓喜・愛・安らぎが心に満ちている時のこの反動に彼は抵抗するが,願いむなしくやがて生き返っている自分を発見する。

多分に境界地(河など水域に閑したものが多い)を越えると,もはや仮死から完全死に移行してしまうと考えられる。(これがいわゆる「脳死」に対応するのだ ろうか)

この延長上には,人は死後,霊魂として生存するという古来より伝統的に支持されてきた死後の世界(霊界)や輪廻転生の問題が横たわって おり,この種の最近の研究はこれに対し肯定約な情報を提供するようである。

 

さて,これらの移行の過程には,その人の生活や信条による影響は余りみられず,多様な形態をとって顕われることはあっても,夢や幻覚と 異り,鮮明で共通要素に関して定型的であるという。
これは何らかの手続きが摂理として定められているとみてよいのではないか。

 

かかる普遍的手続きの存在が確かなら,死後の意識存続が延長線上に確からしくなるばかりか,我々の感覚を超えた一大情報系の存在が仮定 されてくるであろう。しかもそれはユングによれば「元型」なるものに規定されていようし,なおも言えば生命体の発生分化がDNAに手続きされる如く, DNAすらもその傘下に擁する「超越的な手続き群」の賜物であろうかも知れないのだ。

 
以上のようなケースがごく一般的な臨死体験のスタイルだというのが、ムーディーズ博士の報告である。

ところが、私はそのような臨死体験の例を自身の耳からは聞いたことがない。

むしろ、次のような例、チベットの死者の書の語るような臨死体験をした人の話を詳しく聞かせてもらうことが、偶然のことではあったが、叶えられるような経緯があった。

 

 

バルド・ソドルに書かれる原型的手続き

 

 

古代の死の技術書とされる「チベットの死者の書(バルド・ソドル)」は、臨終から意識原理の移行がなされる中有と呼ばれる期間に,意識 の周囲に起る現象を一連の定められた手続きの流れとしてとらえている。

 

バルド・ソドルはヨガの技法により釈迦牟尼が生きながらに死に、その間に観てきた体験を語るものとされ、死後の手続きとその対処法を 「生前から知って経験」したり,「死後に地上から誘導」されたりすることにより、効果的に解脱に至る技術を語るものとされる。

 

それによると,死者は中有の四十九日の毎日に渡って試練の幻覚を経験するが,その中で死者は何らかの心理的反応を起こし,その結果、解 脱か転生かが運命づけられていくという。

 

転生してゆくにも天界・人界・阿修羅界・地獄界・飢餓界・畜生界があり,総じて「六迷界」と呼ばれる世界で、魂にとって長い間に渡って意義の乏しいところとされている。それだけに中有の期間は死者の魂にとって死活をかけた修練場であるわけで,解脱こそが是非とも獲得されねばならないとしてこの 書は説かれている。

 

恐らくこの書は幾多のニアデス体験の類型話の原型が説かれているのであろうと思われるし,実践ヨガに基づく科学的解釈が微細に渡ってな されていることに驚嘆を覚えるものである。

 

死後の身体と現象

 

ソドルは次のようなことを言っている。

 

死後,人は皆「バルド体」という生前のカルマ(性癖)と行為の記憶をもつ体を有する。そして中有の間は,バルド体の認識能力により情報 が外界から摂取されることになる。人はバルドの中間世界をさまよい,これを観察しなくてはならないが,その展開は下表のようである。
 


 

表中用語の意味
心霊神経系:心霊体に属する神経系、ヨガで いうチャクラとそれを結ぶライン。ここではイダーとピンガラ。 

クリアーライト:精髄的知恵の光。何ものもま とわない知性の有り方、知性の根元的極みで、非常にまぶしい光明として感得される。 

法身(ダルマ・カーヤ):何ものにも形づくら れない意識と輝き至福に満ちた知性の融合で、生命と光の源。そして無限の光でかつ、全善なる覚者(仏)の状態。 

報身(サムポガ・カーヤ):映った飾られた知 恵における覚者の状態。 

化身(ニルマーナ・カーヤ):具体化した知恵 における覚者の状態。 

以上三身の覚醒状態において人は解脱すなわち非サムサーラの境地におかれる という。(非サムサーラとほサムサーラ(輪廻)の幻影から脱した覚醒状態のこと)  

平和の神々:バルド体の心臓と喉の心霊神経セ ンターから放射される知性の光とビジョンで、大日如釆(ヴァイローチャナ)を中心にした52の救済の神々のマンダラである。 

忿怒の神々:パルド体の脳のセンターから放射 される光とビジョンで58の異形の守護神のマンダラである。 

以上の神々は全ての人の知性の中に在るものである。しかし、そればかりでは なく、六迷界に相当する知性も併せ持ち、それらの総合されたものが日常の心の状態として現出する。パルドではそれらの抑制、葛藤が外された純な幻覚が波状 的にやってくるようだ。  

六迷界:人が傾向として持ち続けた心の状態が 欠患を表明するものである以上、それに見合った欠損補填の場が自然に与えられると考えられ、六種類の場所に大別される。 

天上界:欲望で形造られるうちの最上の世界。 極楽もこの一。スエデンポルグの語る霊界とはこのことであろう。 

人間界:東・西・南・北の四大陸が有るとされ るが、必ずしも特定した国ではない。このうち、南方が我々の世界でまだしも望ましい所とされ、その他の三大陸は啓発されることの困難な、宗教の発達しない 奨められない所であるという。それは宗教(ヨガに比類する)が栄えているか否かに依る。 
 
 

 

たとえば誰かが死んだとしよう。するとまず,生前に善行を重ねた人やヨガに習熟した人には、死の直後に輝く発光が近付いてくる。(逆に カルマで重濁した人は多くの優れた機会を気絶状態で過ごすという)

 

意識がそう知覚するのである。それを仏の知恵の光と知って,自らをその中に溶け込ますことができたなら,その人は覚醒し,地上への再誕 生を免れる。しかし,その発光を恐れたならば,残念ながら最高の機会を逃がしたことになる。

 

しかし,中有の期間に渡って,ちょうどはずむゴムまりのように何段階もの種々の仏智の光やビジョンが彼を迎えにくる。その中のどれか一 つにでも同化できたなら,彼は解脱を得る。しかし,まりのはずみはしだいに減衰してくるし,後になるほどバルドの中にカルマが影響してきて、これによって 人は錯乱して,純粋な解脱を離れ,いつしか六迷界の再誕生ルートに誘いこまれてしまうのだという。

 

六迷界のうち天界、人界ならまだましとしても,人間界でも宗教の発達していない国に至っては,その他の界と同様で解脱の機会を削がれた といってもよいという。

 

よってこの書は,悪くして人間界への再誕生を余儀なくされてもなお恵まれた誕生先を選択する技術に言及している。

 

私が知り合ったある人物は、若干二十歳の頃に突然倒れ、10日間以上にわたって昏睡となり、その間、チベットの死者の書に描かれるような光景に始まる、最後の門衛とも言える死者の行先を決める差配神霊とのすさまじい問答の末、生き返るまでの記憶を語ってくれたのだった。

それによると、まず迎えにやってくる神々というのは、3D映像の形でやってくるようである。だから、生前に2次元絵画の神々によって習熟しても(チベット人はきっとそうしているだろう)、実物とのあまりの差にショックを受けるかもしれないと思えた。予備知識のないその人は、その光景にどれほど恐怖させられたか語ってくれた。

その光景は非常に気持ち悪かったとのこと。しかも、最も怖かったのは馬の顔をした怪物が出てきたことだったと。

私は死者の書を知っていたから、それを聞き、馬頭観音(タドリンやハヤグリーワ)と推察した。

また、最後に出てきた差配神は非常に頑固で、一度決めたことは曲げない主義らしく、それに対して死者は、とてつもない意志の力がなくては対抗し難いようである。しかし、本人が本気で対抗すれば、助言者や弁護士霊が現れ、支援するようであることも知った。

そのような人の話について、私は新神話に書き残しているので参考に願いたい。

 

しかし、およその人は素直に死を迎えるのだろう。前出の安らぎの光景へと辿るもののようである。が、私は「生き返らねばならない」と強く決意していた稀なほうの話を聞いてしまったわけである。

素直な人たちは、つまりは、自分たちの知らないうちに次の誕生先が決まっていても、わからずに転生を繰り返していないか、ちょっと疑問を持っていてもいいかと思う。そうでなくては、望みもしない先での誕生を余儀なくされるかも知れないのだ。

 

しかし、おかしいと気づいてもいいではないか。人は死に際して、およそが苦痛や苦悩の中に息絶えていく。その先に無痛や安らぎがあれば、安易に妥協してしまうものだ。そんなときに、差配神が次はこういう場所だからな、と彼に優しく告げでもしたら、はあよろしいですよ、となってしまうものではないか。こうして、ほとんど解放されずに輪廻させられているとすれば。

目下のところ、邪神が神界を支配しているのだとすれば、冥土の差配神だって、愛のない頑固一徹というわけではないのだろうか。私は相手がもしそんな連中だったなら、神に遭うては神を斬り、仏に遭うては仏を斬るという手筋に出ることも厭わないつもりである。

 

 

バルド体の性質と対処

 

バルド体は思考機能が生前のままであるに加え,知覚カが増大しており,夢に遊ぶときのような自由度の大きさをもち,意志のカで現象を容 易に変容できる。このゆえに、生前に比べて心の持ち方が重要となるかわりに,解脱ははるかに容易であるという。

 

ここで重要なのは,バルドの経験世界は全て彼の知性の構造であるということである。つまり,彼は自らの心の中をのぞいて経験世界を営ん でいるということが重要である。身近には夢がそう言われているが,ソドルは夢もバルドの一種だと言っている。

 

 

夢は多く荒唐無稽であるのに,そうと分って対応することは珍しく,死後についても同様でバルドをバルドであるとなかなか悟れず,多くは ここで迷う。加えて,心の持ち方が要求されるので,知的認識以上にヨガの実践的習熟が必要とされるわけである。

 

また重要なのは,バルドの経験世界は全て空(実体がない。バーチャルリアリティ)であることである。死後しばらくするとカルマに起因する幻覚が生じてきて,非 情な恐怖体験を強いられることになるが,空なるもの(外界)が空なるもの(すなわちバルド体)を害することはないわけで.この原則を知って臨むのとそうで ないのとでは、心理的に雲泥の開きがあるとされる。

 

思惟の動きに敏感な体は恐怖心と怯弱な衛動に惑わされて,望みもしない迷界に追い込まれていく。ここに無知と知,ヨガ熟達者とそうでな い者の差は決定的になるというわけである。

 

次表に解放に導かれるための様々をビジョンへの対処法をまとめよう。
 

 

死の瞬間のクリアーライトを経験するとき その状態に留まるように努める
平和,念怒の神々が近づくとき 汎ゆるビジョンを自身の意識の影,思考形態と認識し、恐れずに知性を溶かし込むようにする。
カルマによる陰惨な幻覚が襲ってくるとき 恐れ,怯弱,怒り,驚き等の感情を起さず守護神に冥想する。
六迷界からのくすんだ誘惑の光が近づくとき 魅惑されることなく,不動の心を保つ。
表2 解放 に導かれるための心理的対処

 

表2から分かることは,外界の変化の何事にも執われることのない心理状態であること,とそれ以上に知性のうちの最上のものを利用して飛 躍せよと言っていることである。

 

知性には善も恵も存在する。それがカルマに従って索かれるとき,善神の慈光や悪魔の脅迫という象徴を通して幻視されるのであり、一番最 初のチャンス(死の直後)を除いて,幻覚は幻覚を処する知恵で駆逐されて解放に至らねばならないかのようである。

 

死者の書を熟読しそうはわかっていても、先の臨死体験者のように、差配神の前で矢継ぎ早の質問攻めにあえば、どうなるだろう。たぶん皆さんの場合は、ビジョンで質問されることだろう。生前に悪趣味に染まった人たちは、その趣味の光景を見せられれば、ほいほい着いていくのではないかな。そして、はい、あんたはこっちと出口へと誘われ、はいどこそこで誕生オギャーとなるのではないのか。ほら、女体に興味あるあんた、気をつけときなよ。おっ、おいらもだ。

 

 

 精髄句(導引の知恵の言葉)

 

 死者が現在どの状態にあるかを死後の経過日数でみて,その時に応じた知恵の言葉(精髄句という)で死者に状態認識きせ,有利なように誘 導することができるとされている。

 

これは次のように考えることができるだろう。

 

四十九日は中陰プロセスの猶予期間として表1の共通の手順が許されるが,この間であれば言葉による暗示によって原型的手順でなくとも生前の生活環境にあわせた応用的形態で誘導可能であると。

 

つまり,この間は死者の意識は常に誘導可能状態にあるのに,偶々何も知らぬ我々では,なすべき方法を知らないために,不幸にも手続きの 多くが省略されてしまうのではないかということだ。

 

ヨガの達人のように魂が覚醒していれはよいが,気絶したり無知の中に錯乱するのが常だとしたら,何と恐ろしいことか。だから悪くても宗 教の発達した国に生まれよというわけである。
 

 

精髄句の一例
お-,けだかく生まれたものよ。 
依るべき確かな現象のない中間状態での汝の知性は,ほとんど重さがなく,間断なく動いており,汝に信心の,あるいは不信心のいかなる考えが生じようとも大変な力をふるうだろう。 
そのために、不信心の事柄を汝の心の中で考えるな。 
何らかの信仰の実修を思い出せ。 
汝がそのような実修に不慣れであれば,純粋な愛情と敬虔な信仰を示せ。 
「慈悲深いもの」に,汝の守護神に祈れ。

 

 

ソドルのいう知性とは

 

ところで意識は決して会話上の言葉の情報で暗示を受けるのではなく,術者の言葉が端緒となって彼の「知性の中の照応的な多次元の情報 群」が励起され,それが彼の意識に映ずるというのが本当だろう。

 

だから精髄句をいかに適時に付与したとて,死者が生前に履習していなければ無意味であることは明らかなことだ。また,怒り,嫉妬等の感 情は会話上の言葉で表現できるものではないが,知性の中の該当情報群を明らかに励起しているわけで,彼はそれに乱されないわけにはいかない。バルドにおけ る旅とは,当面する知性の中を旅することだからである。

 

ソドルでいう知性とは,彼個人のものにとどまらない。DNAが全てであるとき,肝細胞はその部分的投影だ。同様にその他の可能性を抑制 されている形態の受けもちが彼の知性と言えよう。

 

知性とは全宇宙の歴史・構造・法則等を規定する手続きの全てであり,ギリシャの叡知、中国の太極,インドのブラフマンに対応するもので ある。
 

輪廻の中の経験世界の本質

 

生前の世界とバルドの世界ではどう違いがあるのだろう。

 

ヨガでは、どちらも非存在の幻影であり,変わるものでないとしている。(前掲表2などは,ヨガ行者が実生活で基本的に修めていることで あるという)
賢人ミラルパは生と死の繰り返しを一連のものとみなし,その手続きに慣れるようにと言っている。

 

生から死は肉体からバルド体への意識原理の転移。ソドルは、生前の記憶回路からの生命力の撤退に誘起されてバルド体が生成されるという 準備段階があると言っている。

 

逆に死から生も,バルドにおける象徴的な子宮への幽閉の幻覚すなわちバルド体の拘束という手続きに誘起されて肉体が生成される過程(勿 論このとき現世では肉体的父母の性的結合,受精といった具体的手続きと同期がとれていて,二つの隔たった手続きは矛盾なく進行している)があり、いずれも 遅れて意識原理が転移している。すなわち生も死も,ある体から異なる体への意識の再生であるということになる。
 

 

大宇宙の構造

 
ここで現世,死後界を含む宇宙の構造・仕組みに思いが及ぶ。

 

ニアデス体験談・ソドル・霊界通信・過去世透視等のもたらす情報を総合して、現象とその観測主体である自我の本質について,次のような 推測をするのである。

 

○ 現象はすべて意識的認識のための暗示的映象で,認識の主体を離れた現象は意味がない。(物理学上の、観測されるまではどのような現象であるか規定することはできないという意見に通じる)

 

○ 現象映像の元は超越的な言語で形成されたプログラムであろう。(これを叡知とか知性と呼んでいるのだ)

 

○ プログラムの索引の鍵はカルマであり,その間には数理的法則性がある。(ケーシーリーディングはその手がかりを与えてくれるだろう)

 

○ 意識(自我)は経験世界の観測から生じていて,第一義的ではない。第一義的なのは意識原理であって、これをとりまく経験世界は一種の 実験炉のようなものとして捉えられ、バルド体や肉体は実験炉の中のセンサーとしての機能をもっていると考えられる。

 

これらのことから現象とその認識の本質,いわゆる宇宙と意識の構造がホログラフイック・コンピューターモデルによって説明できるものと考える。

 

それが、「超宇宙の仕組みを考えるためのモデル概念」である

 

これにより、仏教やヒンドゥー教の教理を旨く説明できるだけでなく,現代物理学にも準拠しているため,古今科学観の融合をはかるための 私案として提示できるものと考えている。ただ、モデルの性質から推測することゆえ畏れ多く,また真相のいくばくを語ることができるとも限らないが,次のよ うな未踏の諸問題に説明が施せるかと思われる。(以下手短かに)

 

夢と潜在意識の解釈
 
夢と現実の間には相互に記憶が持ち込まれないことが多い。持ち込まれるときは何らかの合理的変換がなされてのことである。また、過去のふとした思い出や記 憶をたどる行為は、記憶したときの心的状態に偶然もしくは故意に近づけたときに関連する。(睡眠に落ちていくときに前回に見て忘れていた夢を思い出すこと がしばしばある等)

 

物理学上の量子と同じように,意識にもそれが定在すべき、とびとぴの状態があるらしい。それは状態ごとに記憶領域と記憶保護機能のある コンピューターのマルチプログラミングモデルでモデル化できる。

 

また一つの定在すべき意識状態においてもゆらぎがあり,知性への微同調の仕組みがあるとみえ,現在の心理的状態の同調したものが顕在意 識であり,もれたもの全てが潜在意識の領域に押し込められると考えられる。

 

つまり記憶力も想像力(創造力)も「脳力」に関するものは,ほとんど心的状態の可変自在性に依存する。

 

長じるに従い現実的傾向が出て,意識状態の底が浅くなり,様々な能力が消失するのは一種の心の仮性近視であるにすぎない。ヨガは決して 特殊能力を磨く術なのではなく,心の自在性を復活する訓練と言える。
 

 

意識の連続
 
生死,そして体の変遷は意識原理の旅する知性の種類が変わることだが,逆に言えば意識原理が中心にあってあまたある知性(プログラム)から選びとるという のが本当である。(この観点から当モデルはつくられた)

 

そこで解放とは,外にある知性を離れて,汎ゆる仕組みから超越することである。

 
 

人間界の誕生の仕組み
 
バルドの49日の遍歴の結果,再誕生先に関する知性に行きつく。それは彼が最終的に心理的安定をみせた知性の構造体である。次にそれと照応的な経験世界の プログラムが供与される。彼はそれまで意識の鏡にバルドの知性をそのまま写していたが,今度はそこに二次的な(照応的な)時空の展開を写し,その中で二次 的な拠点(肉体)を介して観測されなくてはならない。(肉体にしろバルド体にしろ,それが持つ感覚器は全て暗示状態をねつ造し,継続させるためのものでしかない。特に照応的体(肉体)ではその働きが局限されるため、暗示状態はより拘束的なものとなるわけだ。よってヨガの修業は,まず感覚器官の心理的滅却から始まるとみられる)
 

 

心霊の問題

 

知性の多階層境造性に起因して霊・霊界は在る。スエデンポルグの観てきた世界は知性により飾られたもので,ソドルのいう天界に相当する だろう。

 

霊の発生,分化も有る。これは唯一者の知性を本源的時間の流れに乗り,分担精査する必然性から生起されると考えられる。この必要性こそ カルマの本質であろう。また霊体は複合体,重合体でも有りうる。本質的には全てが知性の構造上繋がっているからである。意識原理(個我の元)はそこに短期 間とどまるにすぎないのだ。

 

霊の進化は,本源的カルマ(役割)の消去と母源的知性への復帰を言うものだろう。つまり分霊された理由の消去による拘束的な階層構造的 知性からの漸次脱皮である。こうして最終的には全知性の精査の成就と全霊の融合(「全成就の知恵」とソドルは言う)が果たされると考えられる。

 

スエデンポルデが言う霊界の結婚(2つの霊が霊的親和感で結合し,以後霊格優れた1つの霊として生まれかわる)や性格の類似により集ま る霊団体と組織(町や村)の存在はこのような考え方で説明できるのである。
 

   

総じて経験世界の意義

 

バルド・ソドルによると,知性は意識原理を離れて意味をもたないし,かといって後者は前者を必要とする訳でなく,かえってそれによらな い状態が本当だとしている。つまり現象は,あるいはそれを在らしめる知性は,一種の制度(方便)ということになろう。

 

では現世に意義はないというのだろうか。

 

現世とは変化極まりないカレントな意識経験の場であるが,日々刻々の中に幸福と進歩を希い一層の努力を重ねている構図は,いかなるあな どりの感情も生ずるものでなく,ただ偉大であり,感嘆の想いを起さざるを得ないのが本当である。ソドルの矛盾なのか,それとも我々の無知によるのか。

 

このためには,この制度の目的を考えてみるべきだろう。

 

神仏の御心を推量することゆえ畏れ多いが,一説には魂の教育システムなのだという。ある霊界通信によれば,霊は当初荒けずりで、幾多の 経験を通して進化して円熟していかねばならないという。仏教ではその卒業形態を成仏とし,それに至るまでについて,法華経は,誰でも個性に応じて最も効果 的に覚醒に至るべく導かれることになっていると言っている。

 

また一説には魂の懲罰システムなのだという。つまり、精神は一定の条件が満たされるまで非情さと、とりとめのない夢遊の錯乱状態におかれるというわけである。

 

また,一説には,神の全像開顕と,それへの奉仕説である。先程も述べたが,神は全知性であるが、それを展開していくために、分担して受 けもつ分霊があまた必要だということである。分霊は特質をもった知性を受ける以上、欲望を内在させてそれに応じた偏向した性質を示さねばならず,これゆえ 神に比して無知な形態としてあらわれるのはやむをえないとする。

 

前二説もさることながら,我々は第三番目の説に注意したい。バルド・ソドルでは人間界それ自体の価値が否定されたが,それに意義を見出 すとすれば,この説以外にはないだろう。また,神とその表現である宇宙を生命体と考え,「神と人間が相似かつ不可分の関係にある」という生命観に裏打ちさ れている。

 

 

特に「神の役割」の活在は,次の最もオーソドックスな霊界通信にみられよう。死は好機とはいえ,では自殺はどうか。自殺者や無謀が原因 の死者の魂は(役割の放棄ゆえか、救いの導きに遭うことなく)暗くじめじめした虚無と隔絶(の知性の状態)に落ちつき(次の転生までの非常に長い間)苦悶 するという。当然,転生先も,そのような知性の延長上にあるはずであろう。

 

逆に他人を助けその反動で死亡した者や善行を積んだ者は霊的進化を早くされるという。このことから役割が善に基盤を置いた厳然たる実在 であることがうかがえる。

 

そこで推測するのであるが,全ての時間が神を前提としてあると認識して善良に行動するとき,自然の行為が,また真の道徳がとりおこなわ れるものではないか。(これを老子は「大道」と言ったようだ)

そのとき,全ての時間において輪廻の経験世界の中にあってなお覚者で居ることができるのではあるまいか。

筆者の浅白な思いつきにすぎないかも知れないが、こう考えてみたとき一つの隠された精髄句を発見したような気がした。

 

「解放は至上である。しかし再誕生を余儀なくされた者には,特に神が選び賜う仕事がある。それは神の全像を幾多の仲間と分担し体現する仕事である。再誕生先で強い役割意識をもってそれに取り組め。汝自身の思惟,行動,その結果,結果の及ぼす影響、それらの全てが汎ゆる瞬間を通じて神への奉仕(犠牲)の形態なりと認じて事に当たれ。そして次の機会に備えるように。こうすることによって,汝は堅固な映し世の中にあって、生きながらに解放されるだろう」

 

◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

  もしかすると,遠い将来,科学が発展したあかつきに,宇宙の知 性を直接映像化して見せる装置が創られるかも知れない。(それができてこそ,真の科学技術時代と言えるだろう)

そのとき,我々は肉体を危険な目に遭わせることなく,膨大な知識を短期のうち に身につけるようになるだろう。犬や猫,銀河や素粒子,生物・非生物を問わず現象のありと汎ゆるものの仕組みと変化の全てをである。

 

だが,ものの心が知りたいとなれば,また肉体人間の能力でそれが受容できない となれば,意識を知性に直結することもおこなわれる。すると彼は元の記憶を薄れさせて,知性で形造られるものの主体になりきって,そのものの心を実体験的 に識るようになるだろう。(今から二万年も前の失われた古代ムーロア文明に,このような催眠学習システムがあったようである。トニー・アール著「ム一文明 の発掘(大陸書房)」を観られたい)

 

だが,もしかするとその究極的に進化した科学とその利用形態は既に我々の中に 在って、「霊」や「魂」と呼ばれるものの本姿なのかも知れない。

 

 

 

ぼやき、つぶやき

 

神の全像開顕説はよかったが、しかし、嫌なものは嫌だなあ。

どうしてこんな魑魅魍魎の巣窟のようなところにやってきてしまったのだろう。

私は思うに、、きっとおかしな詐欺商法に引っかかって、お化け屋敷ソフトなるものを購入し、その罠にはまっているのではないかな。

つらつらつらつら・・・・・・。

 

そうだ、思い出した。私は、救世主体験ソフトのバーチャル世界に遊んでいるのだった。

どんなソフトでもそうだが、インタラクティブにタイムラインが変化するので、救世主を成し遂げられるのはその幾通りしかないもので、その道を通らずにそのままドボンしてしまうことがとても多いのだ。

だから、私はプレミアム体験コース(タイムライン総なめ)を選んでしまっているのだった。

つまり、そのタイムラインがゲームオーバーすれば、最寄りのタイムラインの分岐点までプレイバックして、リスタートしているわけである。

だから、一発勝負はようかけれないにしても、地道に総当たりでタイムラインをしらみ潰ししていき、やがて必ず、この私という主人公は、救世主になるはずなのである。

そういえば、だいぶゴールに近づいている気はするんだ。しかし、このタイムラインの先にゴールがあるかどうかはわからないんだ。

 

では、次の章で、このプレイバックリスタート・プレミアム契約がどんなものなのか、披露してあげよう。

バーチャル世界のことがもっとわかりやすくなるぞ。

 

 

 


ソフトなら・・・人生のプレイバック&リスタートが利くはず

 

超宇宙の仕組みモデルから帰納的にわかるこんなこと

 

 

2013年末までにわかったこと。


私は全人生をプレイバックで総なめしているらしい

私の世界観、宇宙観は、彼自身が独創した超宇宙の仕組みを解くモデル概念に基盤を置いている。
それによれば、
人はわりあい、不思議な人生を刻んでいるはずだ。(ただし、人がプログラム上のダミーである場合を除く)
その中には稀に、プレイバック・リスタートという、ソフトウェアプログラムの性質を活用している者もいるだろう。

それでなかったら、通り一辺倒の判断選択の泡沫に帰してしまうだけでは、あまりにも勿体ない。
なぜならば、たった一人の人生も、非常にたくさんのパラレルワールドへの可能性をその中に含んでいるからである。
むろんそれも、普通人の人生ならば、そのほうがいいこともある。カルマの清算だけにやってきて、悲惨な人生プログラムの選択肢すべてを味わうなど、過酷す ぎるからだ。もしかすると、過酷にすぎる場合、魂は哀れにも、発狂してしまうことだろう。そういう根腐れの仕方もあるのだ。

だが、救世主の人生を味わいたくてやってきて、もし途中で別のパラレルルートに逸れてそれでゲームセットになったなら、何の意味もなかろう。クライアント本人からすれば、そのソ フトを下馬評通りに完遂したいはずだからだ。


人生の様々な局面にパラレル分岐の機会があって、噂に聞く天下取りのルートに乗っておれるのは、よほどのガイドがあってのことで、一発勝負でゲームに臨んだとて、なかなか叶う話ではない。(ガイドとは、この人生ゲームについて熟知した守護霊のことである)

ゲームソフトで、信長の野望などといったゲームもあった。それにトライして、まっとうに天下統一まで達成できることは、やっていてとても困難なはずだ。突然、敵に意表を突かれて、命を落とすこと(ゲームオーバー)もある。
それで、残念でしたで去っていくとすれば、あなたの目標は達成できたことになるのか。
もしかしたら、光秀に討たれずに天下取りを完遂する手順だってあるだろう。

世界の信長にだってなれるかも知れない。

そこで、プレミアム契約していれば、最寄りの分岐点の少し前まで戻って(プレイバック)、やり直すこと(リスタート)もできるかもしれないだろう。それは、ちょうどPCのシステム復 元のようなものと思えばよい。直前までに辿っていたタイムラインの記憶はこのとき失われるから、自分はあたかも最初から一連のタイムラインの経験しかしていないという記憶しか残らない。

彼は死ぬ間際、一本の人生を描き切ったと思うかもしれないが、人生は多数のタイムラインを経過した結果の総集であるかもしれないわけだ。それを確認するすべはない。ただ魂の資質にフィードバックされて、この人生を辞するときに、エントリー開始時点とはかなり異なった資質を獲得していることに気づくだろうが。

また、デジャビュー現象は、プレイバック理論を支持する好例だ。
分岐点を通るには、時間的にその前にポジショニングされねばならないから、たまに復元位置から分岐点までの記憶が脳に蓄えられていて、その照合がマッ チするから、デジャビューという記憶蘇りの不思議現象を起こすのである。またデジャビューの瞬間それ自体の経験にさほど価値があるわけではないことも、おわかりになろう。人生の分岐点はそのどれほどか後にやってきているからだ。

 



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