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レフ・カミンスキー爆殺未遂事件

 ドスン、と地面が沈み込む感覚。
 敷石の間から土煙がパパッと噴き出す。
 一瞬後に上空からガラスが降ってきて、澄んだ音とともに石畳にぶちまけられる。上を見上げれば、鉄格子がひしゃげて窓から落ちそうだ。テラスの天井には、部屋の内部でちろちろ動く炎の照り返しも見て取れる。

 その建物からわらわらと走り出てくる人々の中に、細身で金髪、ぱりっとした―とはいっても埃まみれの―背広姿の背の高い青年がいた。
 彼がかばうように肩を抱きかかえて一緒に出て来た老婦人は、額の辺りから血を流している。
「糞どもが! 強硬手段に出やがった!」
彼は思わず英語で悪態を吐き、歯をギリギリ噛みしめて今出て来た建物の上の方を見上げている。

 早くも物見高い人たちが集まり始めている。
 くたびれた軍服姿のチェコ人あり、プラトークで頭を被ったロシアのおばさんあり、上半身裸の荷揚げ人夫風の屈強な男あり、和服に日本髪を結った女あり……。
 顔つきも彫りの深いのから平たいの、髪の色も金髪、赤毛、黒髪、灰色、茶色その他色とりどりの頭をした雑多な連中が、ありとあらゆる言葉で怒鳴り合っている。

 顔を血で染めた老婦人は、青年にしっかり支えられながら必死に夫の名を呼んでいた。
「レフ……レフ!」
「ここだ、エーヴァ……」
建物の中から声がした。
 膨らんだ書類カバンを抱え、白髪の老人が建物からよろよろと出て来た。
 ふさふさした白髪はやや乱れ気味、足取りは若干おぼつかなかったが、特に怪我はしていないようだった。
 そればかりか、眉間に深い縦皺を寄せ、丸い眼鏡の底から鋭い眼光でじろりと周囲を見回す様は闘志満々、どんな脅しにも屈しない強固な意志をありありと表している。
「……怪我は?」
彼は妻の怪我に気付き、そして初めて書類カバンを足元に置いて血で額に貼りついた彼女の髪をベリベリと剥がした。派手に出血しているが、大きな怪我ではなさそうな事を見て取り、彼は胸をなで下ろしている。青年から彼女を引き取って、ハンカチで血を吸い取ってやる間も、
「レフ……あなた、どこにいらっしゃるの?」
と老婦人は不安そう。彼……レフ・カミンスキーは彼女の手をとって自分の頬に引き寄せた。時折咳き込みながらも、
「わしは……何ともない」
と、その手に口づけをした。
 それから、強張った表情で野次馬たちが怪しい動きをしまいかと観察している青年と顔を見合わせた。
「……ボリシェビキのヤツら、随分と思い切ったことをする。ウラル山脈の向こうならともかく、ここは極東だ。しかも、連合国が目を光らせているウラジオストクの街中だ。そんなにしてまでわしを消したいのか?」
 それは当然でしょう、とでも言うように青年は憮然とした表情で肩をすくめる。
「だが……」
ヤツらの企みを挫いてやった、してやったり、という気持ち。紙一重で生き延びたという危うさ……。それらが胃の中で混じり合い、咽頭で笑いとなってほとばしり出た。
 カミンスキーは笑った。
 事情など知らない野次馬なら恐怖のあまり狂ったか、と思ったに違いない。現に眉を寄せてひそひそ話し合っている者も結構いた。確かに、こう何度も繰り返すカミンスキーの姿には狂気を感じられたことだろう。
「ヤツらは失敗したのだ。わしはこうして生きている! そう簡単に消されてたまるか!! わしは生きているぞ!!!」


1.

 丘の斜面にぽっかりあいた空き地。
 明るい林の中、丘の麓までの草地に緩やかにうねりながら道が付いている。中腹に建っている家まで上る人や馬が踏みつけて自然にできた道だ。林は海までカーテンをかき分けたように放射状に開けているから、屋敷からは訪ねてくる人が最初から見える。

 だから、安藤が道なりに黙々と登っていく様を住人は早くから観察していたのだろう。

 安藤がようやく玄関に辿り着いて呼び鈴を鳴らす前に、細身の金髪の青年がすっ飛んできた。
「止まれ! 身分証明証を提示しなさい」
流暢だがクセのあるロシア語で言った。
「じゃあこれで……日本国の海軍の者です。新しくここの担当になりましたので、ご挨拶にと思いまして。カミンスキーさんと今会えますでしょうか」
喉がからからに渇いて素っ頓狂な声が出た。その声が耳に入って焦ったせいか、どっと汗が噴き出る。
 安藤は焦りに焦って名刺を取り落とした。金髪の青年は安藤を見据えたまま腰を屈め、名刺を拾い上げた。胸元にちらりと拳銃の銃把(グリップ)が見えた。
「アンドー……クラタさんね。……どっちが名前?」
「庫太(くらた)が名前です。安藤とお呼びください」
「では、ガスパジン・アンドー(安藤さん)」
青年は安藤を敬称付きで呼び、丁寧な口調で話し始めた。

 しかし、内容は不躾とも言える程に率直な不満だった。
「……日本の方にしてはきれいなロシア語をお話しになる。カミンスキー氏はひどくご立腹だ。日本の海軍は、『ウラジオストクの民衆を護る』と言って陸戦隊を上陸させながら、ウラジオストクの状況をまるで掌握していない。だから、2週間前のボリシェビキの襲撃のようなことが起こるんだ、とね。その後の対応もまったくなっていない。現に君がここにこうして来るまで、2週間も放ったらかしにしてるじゃないか」

 欧米人に対してははっきり言わなきゃ、と安藤は体の芯に震えを感じながらも思った。
息を大きく吸って、同じくらい率直に思った事を吐き出した。単語の一つ一つ、子音の一つ一つをはっきり意識して発音しながら。
「カミンスキーさんにはご自分の立場がよくわかっておられないようですね。それに、2週間前の事件。あの事件の犯人はまだわかっていませんよ。なぜボリシェビキの仕業と決めつけるのです? カミンスキーさんには、ロシアの内にも外にもありとあらゆる敵がいるじゃありませんか。とにかく僕は、カミンスキーさんに会いに来ただけだ」
これじゃ喧嘩腰だ、と安藤は言ってしまってから心配したが、そんな心配は全く無用だった。青年はニヤニヤと笑みを浮かべ、
「気に障ったかい?」
と、誰何するような口調は薄まっていた。彼は肩をすくめて言った。
「いや、こっちもね、あの事件以来ピリピリしているもんでね。意地悪しようってつもりじゃないんだ。カミンスキー氏だって日本の海軍が手を尽くし、この家を手配し、夜間の警備に兵員を割いてくれている事には感謝している。でも、正直言ってオレは怖い。あんな昼日中、チェコの兵隊がうようよいる中で襲撃されたんだぜ? ボリシェビキというのはそういう蛇のように執念深くて、鼠のようにどこにでも潜り込んでくる連中なんだ。だから、どんな小さな穴でも警備上の穴が気になってしょうがないのさ」

 しばしの沈黙。
 彼の言う不安は、誠にもっともな事である。
 ふと、青年はある事に気付いたようだ。
「あ、そっか。言い忘れてた。オレはフレデリック・ルイ・チエール。よろしく、安藤さん」
と、右手をさしだした。
「よ……よろしく」
この人が件の米国(アメリカ)人、フレデリックだったのか。想像していたのと違う、と安藤は戸惑いながらも右手を出して握手した。

 で、中に招じ入れられた。
 暗い玄関の中にはまた扉。冬の酷寒を防ぐための工夫で、冬ならここで雪をはたき落とすところだ。今は壁に麦わら帽子が引っ掛けられているだけだ。もう一つの扉を開けるフレデリックに導かれてながら、安藤は心に思ったまま尋ねてみた。
「チエールさん。あなたはカミンスキーさんの秘書だと聞いていましたが?」
フレデリックは少々芝居がかった動作でくるりと振り返り、
「そうだよ。でも、ボディーガードでもある。いざって時は、誰もが戦うつもりなのさ、カミンスキー夫人……エヴェリーナ婆さんでさえ!」

 ちょうどその時。庭先から年配の女性の声がした。
「キャサリン……カーチャ! ちょっと来て!」
「はぁい! ちょっと待ってくださぁい!」
華やいだ若い声が家の奥から答えた。
 と同時にタッタッと軽い足音をさせて小柄な若い女が家の奥から駆け出してきた。
小柄な、と見えたのは体のツクリが全体的に細いからであって、彼女が安藤の横をすり抜けたとき、彼女の顔は安藤の頭の上を通り過ぎていた。猫の毛のように細い柔い金髪が、安藤の頬をさらりとかすめた。
 彼女は玄関に掛けてあった麦わら帽子を引っ掴むと、外に飛び出した。
 安藤は思ってもみない闖入者に、どういう反応をしたらいいのかわからない。
「……あれは?」
と、訊くまでに変な間ができてしまった。が、
「あれがエヴェリーナ・カミンスカヤだ」
というフレデリックの答えに対しては、即座に問い返した。
「いや、今横を通って行った若い娘……」
フレデリックはわかってる、わかってる、というように頷き、ニヤニヤしながら安藤の肩ををぽんぽんと叩いてきた。
「そうだろう、そうだろう。オレの妹のキャサリンって言うんだ。君も可愛いと思うだろ? でも駄目だぜ。キャサリンにはもう恋人がいるんだ。そのうち、厭でも会うようになるだろう。まだつきあい始めて10日も経っていないのに、キャサリンときたら全くぞっこんなんだから。素朴で気の良い青年でな。ただ素朴な分、自分たちの国を良くしていこう等々の志もまるでない所が欠点かな」
 フレデリックの話を聞く間、安藤は何か説明のできない胸騒ぎを感じていた。
「10日前……10日前ね……」
おそらく「何か」引っかかるモノを感じたのはそこだ。安藤は思わず知らず眉間に皺を寄せて考え込んだが、フレデリックはそういう不安は感じていないようだ。
「余計な話でしたかな? カミンスキー氏の所へ案内しよう」
フレデリックは肩をすくめて話題を転換した。安藤は見過ごすことができずに忠告した。
「そいつには気をつけた方が良い。どこの誰か知っているのですか?」
しかし、フレデリックには安藤の漠とした不安感は理解してもらえなかったようだ。
「おやおや。焼き餅ですかね……」
と下世話な話と受け取ったのは、自分の身近な人間過ぎて彼にとってはカミンスキーの件とは別件と感じられているのかもしれない。
「ネルグイって名ですよ」
「ロシア人ですか?」
得体の知れない相手に安藤は警戒心を剥き出しにして尋ねた。
「いやいや、心配ご無用。ボリシェビキの一派じゃないさ。中国東北部から来たバルグートだと言っていたよ」
「バルグート?」
安藤にはそれが民族を指すのか、なんらかの政治的団体を指すのか(たとえば「ボリシェビキ」のような)、さっぱりわからなかった。
「なんでも、モンゴルの一部族だそうだ」
「モンゴル……?」
安藤はモンゴル→蒙古と頭の中で変換しながら問い返した。
「成吉思汗(ジンギス・カン)のモンゴルですか?」
「ジンギス・カンとは古い所を来たな。まぁそうなんだろうが、今はラマ教(チベット密教)に毒気を抜かれた腑抜け連中さ。内蒙古のことは君の方が詳しいかと思ったが、そうでもないんだな」
フレデリックは少々当てこするような調子で言った。
「とにかく。気をつけた方が良いって話ですよ」
安藤がムッとしているのを見てフレデリックはおもしろがり、茶化すように言った。
「はいはい。ウラジオストクの守護天使・日本海軍の方針に従います! ……で、カミンスキー氏に会うのか会わないのか。どっちにするんだ?」
フレデリックに指摘されて安藤も最も大切な用事を思い出し、慌てて言った。
「会います! 会います!」


2.

 叱りつけるような怒鳴り声を聞きつけたキャサリンが慌てて飛び出すと、白い尻に黒いブチの入った小柄な馬が明るい林の縁で下草をブチブチ噛み千切って食べていた。
「ネルグイ。ここには来ないでって言ったのに……」
キャサリンが馬に向かって声を掛けると、馬は耳をくるりと回しつつ長い鼻面を草の中からひょいと上げた。縮れた黒いたてがみの下から大きな瞳でキャサリンをちらりと見やった。
「んん……じっとしていられなくて」
そう言って、馬の足元で馬と同じくらいもしゃもしゃの髪をした若者が両手をついて上半身を起こした。
 それから草の中で胡座をかいて欠伸をしているものだから、キャサリンはその背後から覆い被さるように抱きついた。
「僕だって君の役に立ちたいよ。そりゃあ田舎者の僕には、世界大戦とか革命とか遠い世界のことにしか思えないけど。でも、君の信じているもののために僕も働かせてくれよ」
彼は頬を寄せてきたキャサリンの耳元で言った。
「でもね、中には入れないのよ、あなたは。日本軍の許可がない限り」
「うん。番兵に何か言われて怒られた。銃を突きつけてきたんでしかたなく君が出てくるまで待つことにしたんだけど。それでも僕に銃を向けてじっと睨んでるんだ」
ネルグイが視線で指し示す方向を見やると、なるほど、銃口を下に向けてはいるものの、警備兵が口をへの字に引き結び、顎が真っ赤になるくらい力を入れてこちらを凝視している。
 人目がある事に気付いてキャサリンはネルグイの前、草の上に腰を下ろした。ネルグイはキャサリンの両手を取って軽く振りながら言う。
「随分すごい警備だねぇ。まるで要塞だ。……そのう……誰って言ったっけ? 匿われている人の名前?」
「レフ・カミンスキーよ」
「レフカミン……スキー?」
「そこで区切らない。レフが名前でカミンスキーが名字よ」
「名字って? 氏族とか部族の名前とは違うの?」
「そうね。似たようなものではあるけれども。昔はロシアでも誰でも自分は部族・氏族に属しているって意識があったけれども、今は家族が社会の基本になってるから、家族ごとに名前ができたのよね」
「じゃあさ、名前で呼んでもいいかな。レフなら覚えやすくていい名前だ」
確かに。ロシア人の名前はアメリカ人にとっても長くて覚えにくい面があるので、ネルグイの正直な感想に思わず笑みがこぼれる。
「そうね。でも、カミンスキーさんはみんなに尊敬される先生だから、尊敬を込めて呼びたいじゃない? 名前だけだとお友達みたいになっちゃうから、名前で呼ぶんだったらレフ・ダヴィドヴィチと呼ぶべきだわ」
「うう……長すぎる」
キャサリンは頭を抱えるネルグイを可愛いと感じて声を上げて笑ってしまった。実際はネルグイの方が5歳程年上のようであるのだが。キャサリンは傍らでずっと口をもぐもぐさせている馬の頬に手を伸ばして言った。
「ネルグイ、ねぇ、ちょっと走らない? 私をこのおちびちゃんに乗せてちょうだい」
「いいけど。でも勝手に遊びに行っちゃっていいのかい? 君のお兄さんは心配するんじゃないのかい? 可愛い妹がボリシェビキにでも誘拐されたんじゃないかって」
「あはは。そう言われたら、馬賊に拐かされてたって言うわ」
「そりゃあひどいよ。僕は盗賊やら泥棒の仲間じゃない……」
自分の軽口にネルグイが本気で困っているのを見て、正直すぎるくらい正直な人なんだなぁ、とキャサリンは思う。そう思うとなおさら弟のように思えて愛おしくてしょうがなくなるのだ。
 ここでぎゅっと抱きしめたいところなのだが、こちらをじっと見ている目もあることなので、キャサリンはネルグイの髪の代わりに馬のたてがみを撫でた。馬は大人しくしている。
 そこでキャサリンは馬の背にさっさとまたがった。
「さ、行きましょう!」
と手を差し伸べると、ネルグイも笑顔になって立ち上がった。そして、キャサリンの後ろにまたがった。
「ええー? 二人も乗って大丈夫?」
ネルグイの馬はポニーと呼ぶのさえ躊躇われるくらい小さいのだ。四肢はがっしりとしていていかにも馬力がありそうではあるのだが。
 ネルグイの方を振り返って、本当に馬の背が折れてしまわないかと聞こうとして、キャサリンはどきりとして口をつぐんだ。
「ああ、平気平気。君なんか鳥の羽毛がひらりと一枚くっついたようなもんだ」
と、言いながらキャサリンの肩に顎を乗せるようにして顔を突き出してきたからだ。彼はキャサリンとそんなに身長も変わらない……というか1、2㎝低いようなので、こうしないと前が見えないのだろう。
 キャサリンが全身の筋肉を緊張させているのに気付いて、ネルグイは頬がくっつくくらい首を曲げてキャサリンをのぞき込む。
「怖くなった?」
「い、いいえ。……あっ」
ネルグイが座った位置をずらして体をぴったり寄せてきたので、キャサリンはびくりと身を縮めた。
「大丈夫だよ。ゆっくり走らせるから。ホラ手綱を持って」
言われるままに革紐を握ったキャサリンの手を包み込むようにして手綱を取ると、ネルグイは馬を出発させた。

 カラッと晴れあがって雲一つない空。
 風は吹いていたが、じわじわと汗ばむ暑さ。手の汗で革の手綱が湿って千切れるかと思える程だった。背中の方はネルグイの呼吸や筋肉の動きが直に感じられて暑さを感じるどころではなかった。
 それでも、しばらく行くと幾分緊張も解れてきた。
「どんなことをしても馬は思うままに操れるのね」
キャサリンは話を振ってみた。
「操っているんじゃない。馬のやることに合わせていってるだけさ」
ネルグイは簡単に頷く。
「それだけじゃないと思う。だって、初めて会ったときのこと。あんなに暴れてる馬をあっという間に手懐けちゃうんだもの。他の誰も、飼い主でさえ手を付けられない程暴れてる馬を」
「あの時は危なかったね。君が怪我をしなくて良かったよ」
ネルグイの返事は素っ気ない。自慢しても良い事さえ自慢げには話さない。まぁ、そこが良い所でもあるが、もっともっとこの人のことが知りたい、と思うときには……つまり、今がその時な訳だが、もどかしくてならない。
「あなたってば自分の事はあまりしゃべらないんだもの。もっとあなたのことを知りたいわ」
「僕もだよ」
と笑顔で言ってからなぜか少し黙り込み、ため息のようにつぶやいた。
「……でも……。知らないでいた方が良い事もあるかも」


3.

 安藤の実家はウラジオストク市内で店を営んでいる。
 安藤が家に帰って夕食をとっていると、ひょっこりと以前から安藤家に出入りしているコサック崩れのフェージャおじさんが店先に顔を出した。晩飯目当てなのが厚かましい程にあからさまだ。でも、まぁ、いつものことだ。今帰宅した家族、のような自然さで飯は盛られる。おかずはたいした物もないわけだが。
 いかつい体躯で髭面のフェージャおじさんが刺青の入った太い指で箸を持つと、まるで爪楊枝のようで滑稽と言えば滑稽なのだが、子供の頃から見慣れたごく普通の光景ではある。
 安藤はちょうど良いところに来たとばかりに訊いてみた。
「フェージャおじさん、バルグートって知ってる?」
「坊……」
と、彼はいい加減大人になった安藤のことをいまだに小さな子供のように呼ぶ。先っぽの反り返った口ひげに米粒を乗っけたまま頷いた。
「知ってますぜ。……モンゴルの部族でやしょ?」
「そうらしいね」
と、安藤が頷く間にコップいっぱいのお茶を飲み込んで口の中を空にすると、猛烈な勢いで話し出した。
「獰猛な連中だって評判でさぁ。セミョーノフも自分のコサック軍に引き入れようと呼びかけたらしいですぜ。先の辛亥革命の混乱に乗じて勝手に独立を宣言した外モンゴルの軍を率いていたダムディンスレンという族長がバルグートだそうで。なんでも、生け捕りにした漢人捕虜の胸を生きたまま切り裂いて動いている心臓から噴き出す生き血を軍旗に捧げたとか」
 その話は安藤も聞いたことがあった。それでようやくピンと来た。
「あ……ああ、バルグートってこっちで言うバルガのことか。内蒙古の東の端の方にいる未開で野蛮な部族だろ?」
 馬賊、匪賊の類ではないか、と安藤は思った。安藤にとってはどの国にも属さない人間なんて考えも及ばない存在なのだ。日本なら、たとえアウトローの任侠の徒であっても日本人、日本国に属しているという意識はあるはずだからだ。

 しかし、フェージャおじさんの認識はちょっと違うようだ。
「ははっ。軍隊はそれくらいの元気があった方が頼りがいがあるってもんでさぁ」
捕虜を虐待するのは国際法で禁止されてるだろ、と安藤は眉を顰める。
 そんな安藤の表情を見て、フェージャおじさんは重ねて言う。
「やつらにとっちゃ、漢人なんざ盗人でしょうからな。土地を奪い、国を奪った憎い相手だ。制裁を受けて当然でさぁ」
「それにしたって、私刑(リンチ)だろ。皆が自分の法(ルール)で好き勝手にやれば世の中、滅茶苦茶になってしまう」
「ははっ。今のロシアにも中国にも法なんてありゃしません。力のある者だけが己の身を守れる。そういうシンプルな掟があるだけでさぁ」
坊は真面目だなぁ、とフェージャおじさんは笑う。真面目とかそういうレベルの問題じゃないだろ、と安藤はあきれた。フェージャおじさんは独立不羈の精神を持つコサックの出とはいえ、コサックだってロシア皇帝に忠誠を誓っていたのではないか?
「そういえば、坊。モンゴルといやあバルグートじゃないがおもしろい話を聞いたことがありやすぜ。ドイツとの戦争で、日本人部隊がロシア軍に加わってドイツ軍と戦っていたって言うんでさぁ」
フェージャおじさんは良い事を思いついたとばかりに身を乗り出して話し出した。
 もちろん日本とロシアは同盟国だからあっても良い話ではあるが、日本軍がヨーロッパまで部隊を送り込んだことはない。ロシア領内でさえ、今回の海軍陸戦隊がウラジオストクに上陸したのが初めてなのだ。
「どうせ根も葉もない戦場の与太話だろ?」
安藤が全く信じていなそうなのを見て、フェージャおじさんは唇から米粒をポロポロこぼしながら力説し出す。
「それが、またおもしろい話なんです。もちろん日本人じゃありゃあせんで。ロシア皇帝に仕えていたモンゴルのブリヤートという部族の部隊だったってのが噂の真相だったって事でさぁ。坊はブリヤートの人間と会ったことがありますかね? いやいや本当のところ、日本人と見分けが付きませんぜ。で、日本がヨーロッパ戦線に部隊を送り込んでいる流言が飛んだって訳でさぁ」
「欧米人から見たら、日本人も中国人もモンゴル人も同じだろ?」
フェージャおじさんは大袈裟に言っているんだろう、と安藤は話半分に聞いている。
「坊。あっしの一番言いたいのはそこじゃないんで。ブリヤートなんかは顕著ですけど、モンゴルだ、アジア人だ、といってもロシア人と変わりないって事なんでさぁ。つまり、皇帝派もいりゃあ、ボリシェビキもいる。モンゴルだから日本の敵だ、味方だって決めつけるのは危ないですぜ」

 フェージャおじさんの話を真剣に聞き入っていた安藤に、父が唐突に言った。
「こういう状勢なので、ウチも内地に引き揚げようと考えている」
「うん。いいんじゃないかな」
 日露戦争時、ウラジオストクの日本人は全員日本に避難した経験がある。戦後すぐに戻ってきて今の状態があるわけなので、これから何が起こるかわからない状態のウラジオストクから退避するのは、大変だけれども安全第一に考えればあり得る選択だと思い、安藤は食事の手を止めずに頷いた。
「いや、ここを引き払って北海道へ帰ろうって話だよ」
言葉足らずの父の話を引き取って母が言った。
「え」
 さすがに安藤は手を止めて母の顔を見た。
 安藤の生まれは北海道だが、赤ん坊の頃に家族共々ウラジオストクに移住してきているので、ウラジオストクが故郷のようなものだ。そこを引き払うとなると家族の大事件だ。
「日露戦争の時みたいに、落ち着いたら帰ってきたらいいんじゃないの? いろいろな国の軍隊が入ってくればごたごたするだろうけど、それも一時的なことだよ。そこまで深刻に考えなくたっていいんじゃない?」
「いいや、今回は何か違う。あたしは厭な予感がするんだよ」
母は言う。
「たかが予感で……」
そんな家族の将来にもかかわるような重大な決定をするのかと安藤は言葉を失った。
「たかが? 女の勘を舐めてもらっちゃ困るね。商売ってのは損失が出たときにすぐさま手を引くかもう少し踏ん張るかの見極めが肝心さ。損を取り返そうと思って見込みのない事業にズルズル巻き込まれていくのが一番まずい。傷が大きくならないうちに引くのが肝心だが、それにはなかなか勇気が要る。そういうときは偉い人の言うことや占いまで、他の誰かを当てにしたくなるもんだが、長年商売をしてきた自分の勘ってヤツが一番当たってたりするものさ」
「そりゃそうだろうけどさ……」
家を、故郷を捨てる決断が勘だなんて。
 安藤が納得しそうもないので、母はもう少し「女の勘」の中身を説明しだした。
「庫太、おまえも見ただろ? 日本の海軍の船をさ。戦艦石見。あれは元々ロシアの軍艦さ。日露戦争の分捕り品のオリョール号さね。あれを見て、ロシアの人たちがいい気がすると思うかい? 日本の軍人さんたち、少々奢っているんじゃないかね? そういう時は碌な事がない。厭な予感とは、そういうことさ」
「いや、奢ってるなんてそんな事はないよ!」
と、安藤はムキになって食って掛かったが、
「まぁ、また平和になったらまたこっちに店を出すって事もあり得る」
と、父がボソボソと言ったので、無理に押し止めることもあるまいと、それ以上の反論はしなかった。


4.

 高緯度地方の夏の日は長い。
 とはいえ、そのピークは夏至の頃、六月だから、八月に入ると急速に日没が早くなってきており、キャサリンはうっかりその時刻を読み誤ってしまった。ウラジオストク辺りだと白夜になるほどの日長にはならないのだ。
 急いで帰ると、戸口には既にフレデリックが待ち構えていた。
「遅かったじゃないか。ボリシェビキにでも誘拐されたんじゃないかと心配したんだぞ」
「モンゴル独立運動の闘士と会ってたのよ」
と、キャサリンは自分自身の後ろめたさを冗談めかす事で誤魔化した。
「モンゴル……? ああ、ネルグイか。おまえも18歳の大人の女だ。誰とつきあおうと朝帰りしようと自分で責任を持てば構わないが、前もって言ってもらわないと。あと5分遅かったらやっこさん、捜索隊を出す所だったぜ」
フレデリックは監視役がいるであろう家の奥を目顔で示して言った。
「兄妹(きょうだい)なんだからそれくらい察してよ……」
と、フレデリックに半分責任を擦り付けながらも、そういえば、フレデリックよりもっと面倒な人がいるんだった、と気が重くなった。
「……あの人、まだいるの? いつまでいる気なのかしら? アンドレイとか言ってたわね?」
キャサリンは声を潜めた。フレデリックも声を潜めた。
「安藤だ。ガスパジン・アンドーはここにいるのがお仕事ですってよ」
そうこうしている間に、気配に気付いた安藤が足音を荒らげてやって来た。
「チエールさん。いったい何事です?」
「オレ?」
フレデリックがわざとおどけて言ったが、それがまた安藤の怒りに油を注いでしまったようだ。冗談の通じない男なのだ。
「キャサリンさんに言っているんです!!!」
噛みつくように言ってフレデリックを押し退けた。
「……最近、態度がでかいんだよなぁ」
ぶつぶつ言いながらも、フレデリックはひとまず引き下がる。
キャサリンは素直に謝った。
「ごめんなさい。ネルグイに久しぶりに会ったものだから……」
「ネルグイ……。例のバルグートですね。そもそもそのネルグイなる人物がどういう人間かもわからないのに、不用意に親しくするのは感心しませんね」
母親が小さい子供を叱りつけるような安藤の一方的な言い方にキャサリンは自分が悪いとわかっていながらもカチンと来た。大人げないことはわかっていたが言い返した。
「私が誰と会おうと自由でしょ。あなたに何の権利があってそんな事を言うのです?」
「あなたは、軽々しく外部の人間と接触すべきではありません。ご自分の立場をよく考えてください。カミンスキーさんが常に狡猾極まりない連中に狙われているって事を忘れないで欲しいですね」
キャサリンが言ったことに対して安藤は倍にして小言を返してくる。日本人が無口で控えめだなんて絶対嘘、とキャサリンはムシャクシャしてきた。
「立場立場って、あなたの大事なのはご自分の立場でしょ? 面倒に巻き込まれるのが厭でそういう事を言うんだわ」
「当たり前じゃありませんか。私はカミンスキーさんの安全を護らなきゃならない立場なんです。わずかの危険も見逃すわけにはいきません」
「ネルグイが危険だと言うんですかっ!?」
 キャサリンが安藤の肩をどんと突いたので、安藤は見る間に耳まで赤くなった。
 歯がみして怒りに震える安藤の形相に、これは拳銃を抜きかねない、と咄嗟にフレデリックが間に割り込んで二人を引き離した。
「いやぁ、まったく野暮だよな。恋人同士を引き裂いちまうなんてさ!」
「ルイ兄さんは黙ってて!」
「そもそもあなたがちゃんと監督していないから悪いんだ!」
双方から迫られて、フレデリックは両手を挙げて大袈裟な身振りで天を仰ぐ。
そして節を付けて芝居がかった台詞回しで叫んだ。
「おお、許せ、許せよ、皆の者! 全ては余の責任じゃ!」
 さすがにこれには二人とも毒気を抜かれた。安藤は咳払いして一歩退いた。そんなにムキになる事はなかった、とキャサリンも反省した。はいはいといってやり過ごしておけば良かった。
 それでも、今後ネルグイに会う度に厭味を言われるのも癪に障る。キャサリンは安藤に提案してみた。
「安藤さん。一度ネルグイに会ってみますか? 私たちにやましい事はないんですから。もしそれであなたの気が済むなら、ネルグイにそう頼んでみますけど」
「なるほど。それなら彼をどんな人物を見極める事ができますね。これは楽しみだ」
少々皮肉っぽい言い方にまたもやカチンと来たが、キャサリンは深呼吸して気持ちを落ち着かせた。
 一度会えば、職務上過剰に疑り深くなっている安藤でも、ネルグイが人の良い素朴なだけの青年だとわかってくれるに違いない。



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