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変幻虻蚊の怪(後)

 

前話の通り、私の感覚器の自由はまったく奪われてしまっていた。

 

ヒガンバ:「はーい、ネアン。聞こえる?」

 

私:「は、はい。聞こえます。助けてー。もう悪いことはしません」

 

ヒガンバ:「ははは。あなたって、心の声も、口に出す声も同じだわね」

 

私:「は?何のことで?」

 

ヒガンバ:「今、あなたは口で物言ってるのでなく、

心に思うことがそのまま翻訳されてここに届いてるのよ。

それが同じってことは、裏表の厚みが少ないってこと」

 

私:「褒めていただいてるんですか」

 

ヒガンバ:「そうよ。実感できるでしょ?」

 

私:「はい」

 

私の心が、何か暖かいものに触れているようで、

次第に安心できたのだ。

 

ヒガンバ:「今、何も見えていないでしょうから、映像を送るわね」

 

私:「はい」

 

次の瞬間、バーンと視野の全体に入ってきたのは、

先ほど(前話参照)のスクリーンに映っていた光景だった。

しかし、それは違和感のあるものだった。

なんせ、白黒の映像に、とってつけたようにピンクと薄緑が

斑になったり入り交じりながら色付けがされているのだから。

 

私:「これは、ひどいなあ」

 

ヒガンバ:「どう?なじめそう?」

 

私:「うん。しばらくしたら何とかなりそうだけど、

映像がほとんど動かないですからね」

 

ヒガンバ:「分かった。時間を少し先に送るから」

 

私:「うん」

 

映像がしばしぶれて、再び落ち着いたときには、

光景がどんどん変化していた。

前方に様々な種類の草木が、白黒のコントラストを浮き上がらせ、

それに色具合が不自然に付いた状態で、徐々に近付きつつあった。

つまり、この視座を持つ生き物は、まさに空を飛んでいるのだ。

 

しかし、これが蚊であるにしては、余りにも遅々としている。

もし蚊なら、誰しも知るように、もっとスピディーなはずなのだ。

 

周りを見れば、視界の下方には、材木のようなものが左右に1本づつあり、

左右上方には、トンボの羽根を大きくしたようなのが、

バタバタ上下しているではないか。

ようやくこれらが「蚊」の足と羽根なのだと気が付いた。

 

そのスピードは、見えないほどの早さではない。

もし音が出ているなら、鳩が飛ぶ程度の羽ばたき音が聞こえるだろう。

つまり、全てがスローモーションになっているのだ。

 

そして、外界はと言えば、遠目であれば普通に見える光景も、

近付けばどんどんクローズアップされてくるではないか。

つまり、マイクロカメラの視座であったと言える。

 

ヒガンバ:「どうやら、分かったようね。そう、

この速度が、実際の蚊の認識している時間経過なの」

 

私:「えーっ、そうなの。いったいどうして?」

 

ヒガンバ:「動物は一般的に、認識が形成できるまでの神経回路の長さが、

時間経過認識の基礎になっているからなの。

地球人は、認識を形成するまでにXXスターチの神経伝達距離

があるけれど、蚊の場合は、YYスターチで済むことから、

蚊の時間認識の単位は人間のYY/XXとなるわけ」(*注1)

 

私:「はーあ、何となく分かる気がする」

 

視界は、遅々としてようやく、一枚の葉の裏を大きく

クローズアップさせて静止した。

 

私:「ふーっ。どうやら、大きな旅を一つしたようだ。

こうやってみると、けっこう蚊も大変なんだね」

 

ヒガンバ:「大変というのは、あなたからすれば退屈だってことでしょ。

だけど、蚊そのものからすれば、

もっと豊かな認識をしているかも知れないのよ」

 

私:「そうなの?」

 

ヒガンバ:「だって、たくさんあるうちのたった3つの要素

しか表示できてないんだから、分かるわけないじゃない」

 

私:「そりゃ、もっともだ」

 

ヒガンバ:「それに、あなたが蚊そのものになって経験しない限り、

蚊の気持ちなんて永久に分からないでしょう」

 

私:「これまた、ごもっとも」

 

ヒガンバ:「じゃあ、次のステップに進みましょう」

 

私:「まだ何かやるの?まさか・・」

 

ヒガンバ:「エレメント9オン」

 

とたんに、バンと、音が聞こえるようになった。

それは聞いたこともない、くぐもったような低音で織りなされる

奇妙な音だった。海の中の潜水音に似ている。

 

ヒガンバ:「エレ・ント・・イチオン」

 

ヒガンバの声もこの音のためにとぎれはじめた。

 

そのとき、驚くべきことに、蚊の想いらしきものが伝わってきたのだ。

それは、ここにいれば求める何かがやって来るという期待感の塊。

私は、そうか、この蚊はここで何かを待っているのだと理解した。

 

そんな風に、印象が流れてくるのを拾っていると、また次第にいくつかの

感覚の扉が開き、別の印象も流れてくるようになった。

エレメントとやらが次々とオンされているに違いなかった。

蚊と私にとって、しばし豊かな感性の時が経過した。

 

ヒガンバ:「ネアン。聞いてる?

あなたはかなり、印象を拾うことに慣れてきたよ。

だから、人工的な色付けをやめるからね。

生(なま)の印象を受けるのよ」

おっ、ガイドがボリュームを上げたようだ。そこでふと我に返る。

 

パッと、ピンクや薄緑の色合いが消えた。

代わって、甘いような感覚の印象が掛かったり途切れたり、

また、方角に対する好感度、嫌悪度の強弱といった印象も得られてきた。

 

蚊と私にとって、さらに時が経過した。

 

様々な、奇妙な音が聞こえ、また去っていった。

その時の印象の多くは無感動を伝えたが、

時には恐怖の印象を伝えてきた場合もあった。

そして、視野に入ってくる物体が時折あって、

大きな天敵の昆虫と認められた場合もいくつかあったが、

新たな行動をとることに繋がるような印象はなかった。

 

ところが、少し変わった音が聞こえてきたとたん、

喜びの印象の沸き上がりが伝わってきた。

次に、好感度の強い方角が明らかになってきたとき、

飛び立とうという意志の沸き上がりがおもむろに伝わってきて、

いきなり映像は大きく揺れて、羽ばたき始めたのだ。

 

「バタバタバタバタ・・・・・」

 

好感度の強い方角に視野の中心を定めて、

直線的に向かっていこうとしていた。

向こうから聞こえる音は、音程が低いながらも、

次第に大きくなり、ついに音源が視野に入った。

 

それは何と、むくつけき毛を生やし、長い足と羽根、

大きな図体をした雄の蚊だった。

いきなりのことなので、私は気分を損ねたが、

こちらの蚊は雌であって、喜びの感情を沸き上がらせていた。

私は、このカップルが結ばれるに違いないと思った。

 

その時である。もう一つ、別の方角から、

好感度の印象が強まってきた。

同時に音も、また少し異なる匂いの印象も。

 

やがて、視野にもう一つの雄の蚊の巨体が入ってきた。

2匹の雄は、長い羽根をばさばさ言わせながら、

互いにぶつかり合った。

 

私にとっては気持ち悪い限りだったが、

この雌の蚊は、あこがれの感情を持って、両者を眺めているのだった。

私は、傍観者的にならざるを得ないことを残念に思った。

そのとき、声が聞こえた。

 

ヒガンバ:「ネアン。確かに傍観者では学べないわ。それで、

蚊の認識をあなたの認識のレベルに合わせようと思うの。

エフェクターを使うから、突然映像が変化するけど、

覚悟しといてね」

 

私:「は、はい。よろしく」

 

突然、目の前の光景がすっかり変わった。

あらゆるものに天然色が付いたばかりか、

目の前の2匹の蚊と思われたものが、

何と、羽根を付けた一糸まとわぬ肉体美の2人の男となったのだ。

そして、飛びながら声を掛け合い、そして殴り、また絡み合った。

 

後から来た雄蚊:「お前などに彼女を渡すわけにはいかぬ」

 

先に来た雄蚊:「なにお、私が先に見つけたのだ」

 

それはギリシャ神話の世界か、妖精の世界を思わせた。

 

羽根男が彼女と言ったが、そう言われたこちらはと、視野の下位を

注意して見ると、何とこれまた一糸まとわぬ女体であった。

あら、わたし、どうしたの?は、恥ずかしい。

これは天地が覆るほどの衝撃だった。

 

やがて、私は2人の格闘の場から離れて、草むらに向かい、

一片の草の上に降りた。2人のうちの勝者が、

ここに迎えに来るに違いないという印象があった。

 

草のベッドに身を横たえると、困った色気をたたえていて、

当の蚊とは裏腹に、赤面してしまう私であった。

そして、このストーリーに知らず知らずのめり込む私であった。

 

そうするうちにやってきたのは、初めに遭った方の羽根男であった。

 

先に来た雄蚊:「待っていたかい」

 

雌蚊の私:「はい」

 

体が熱くなるのを感じた。それはこの蚊の感覚なのか、

それとも私の感覚なのか?倒錯する想い。

 

男は側にやってきて、ぐいっとこちらの体を引き寄せた。

早いじゃないか。蚊の世界って、こんなものなのかなあ?

ああ、私やばいよ。

 

雌蚊の私:「あなた、なんて名前?」

 

先に来た雄蚊:「俺はジョージと言うんだ」

 

ジョージ?ああ、危険なジョージ。

 

そう思った瞬間、バンと画面は白黒と、毛むくじゃらの胴長昆虫を

映し出したのだ。ありゃ、エフェクターを切っちゃったよ。

突然、私はこの蚊の想いの高揚していくに反して、

情感の消えていくのを感じた。

それでも、あらゆるシグナルは、無事彼らの間で

交尾が始まったことを伝えていた。

 

その時、ただならぬ声が聞こえた。

 

ジャコバ:「ヒガンバ、ダメじゃない。この男は精神的に幼くて、

感情の分離もやっていることの切り分けもできないんだから」

 

ヒガンバ:「でも、我々にとって地球人観察にはなると思ったもので」

 

ジャコバ:「あなたの職務じゃないでしょ」

 

ヒガンバ:「分かりました」

 

ジャコバ:「ここは私に任せなさい。さて、ネアン。よくお聞きなさい。

この蚊の世界をあなたの認識に沿うようにアレンジすることは、

本来間違ったことなの。

かといって、蚊の印象を拾いながら、

あなたの感情がそれと乖離することも、とても危険であるわけ。

それで、見聞は続けてもらうとしても、

あなたに、蚊そのものに成り切ってもらうからね」

 

私:「あ、あの、見聞はもう十分広まりましたので、もうそろそろ・・」

 

ジャコバ:「エフェクター・スーパーα、フェード・イン」

 

ヒガンバ:「ネアン、さよなら、また後でね。

色気だけはサービスして付けとくから。エフェクター5オン」

 

私:「えっ、色気の、さ、サービス?」

 

どうも弄ばれてる感じが否めなかったが、

すぐに白黒の映像に天然色だけが甦った。

そして、私がネアンであるという自我意識も薄れていった。

 

場面は、雄の蚊が交尾を終えて去って行くところだった。

私は図らずも、今し方受精卵を抱える身となった雌の蚊であった。

ああ、疲れた。少し休憩しよう。その場で、私は眠りに就いた。

 

どれほどか経って、目が覚めたとき、当たりは真っ暗だった。

しかし、ものの輪郭はよく見える。

私は、なぜか無性に喉が渇いていた。かといって、

記憶にある花の蜜や樹木から浸み出すドリンクが欲しいのではない。

もっと違ったスペシャルドリンクが欲しいのだ。

私は、それを探しに飛び上がった。

 

「バタバタバタバタ・・・・・」

 

右手のほうに好感度を察知し、そちらに進路を取った。

すると甘い香りもしてきた。

そうだ、この香りの主が飲みたいドリンクの持ち主なのだ。

その実体はすぐに現れた。大きい。(それは眠っている豚だった)

より近付くと、若干の危険シグナルを感じたが、

その度合いの少ない場所に着地した。

 

やっと、ありつけるわ。4,5歩移動して、

おぼろに霞む幸せのドリンクの水脈を見つける。うれしー。

涎がたらたら出てくる。長い長いストロー口を、堅めにして、

わくわくしながら突き立てると、やや抵抗感はあるも、

ちょうどいい感触で入っていった。

そして、プツンと音がして薄い壁を突破するや、

独りでに甘い甘いドリンクが口から喉に流れ込んできた。あー、おいしい。

 

喉越しの良さをずっと実感していた。おなかの膨満感も覚えた。

見ると、おなかは大きく膨らんでいた。よし、これぐらいにしよう。

私は、口を抜くと、危険度のないのを確かめながら、離陸した。

そしてしばらく、甘い香りのする地域の大きな壁に止まって、

腹のこなれるのを待つことにした。ああ、満足した。

ここに居れば、またいつでもいただきに行けるわあ。

その時、おなかの卵が動いている感じがした。

そうだ、私はこのおなかの子供のために、ドリンクが必要なのね。

 

そうしたことを2回繰り返し、私はまだ早いかとは思いながらも、

生まれ故郷に似たところ(穏やかな水辺)を探しておかねば

ならないと思うようになっていた。

 

朝、薄明るくなろうとする頃、私は大きな建物の中から、外に飛び出した。

あちこちに、目的とするもの(水辺)の印象を感じた。

 

その時だ。危険とも怖いとの印象もないが、ばたばたと

私と同じような羽音を立てるものが近付いてきた。

別の雌の蚊だった。

おなかが大きく、どうやら同じものを探しているようだ。

 

私は付いていこうとしたが、向こうから私を認めて、

話しかけてきた。

 

ベテランの雌蚊:「おおい、あんたまだ飲み足りてないようだけど、

向かって右の方に行ってみな。

どんなものよりも美味しい飲み物があるよ。

子供の栄養分としては、最高級だ。

ただし、命がけだよ。余程気を付けないといけないがね。

なあに、私はもう子供を何回も産んできて、年季が入ってるから、

いろんなこと知ってるんだよ」

 

雌蚊の私:「あらそう。私も飲んできたけど、

まだ少し飲み足りない気もしていたの。右の方ね?行ってみるわ」

 

そのほか、いくつか世間話を交わしたが、

その様は奥さん同士の井戸端談議もいいとこであった。

そうそう、その際に井戸端ならぬ産所に良好な水場も

教えてもらったのである。

 

私は、もう一回喉を潤すべく、右手に進路を取った。

すると、建物が見えてきた。

そして、光を反射するもの(窓)の隙間から、

甘い香りと、好感が漂い出ているのを見つけた。

前のよりも香りが良い。これだわ。いただきましょう。

 

隙間から中にはいると、そこは香りの部屋だった。

好感度も抜群、しかし、危険度も強く出ていた。

うーん、これは注意しなくてはならないわね。

どんな危険かはよく分からないけど、四方八方に気を配っとかなきゃ。

まだしなければならないことは、たくさんあるんだから。

 

「バタバタバタバタ・・・・・」

 

そこにはいくつかの幸せの森があった。

その中でも一番上等そうなのが右にあったが、

それはゆっくりと動いており、危険度も高かった。

(注:それは昨晩酒をたっぷり飲んで寝たオッサンで、

他の蚊に食われた痕が痒くて掻いていたのだ)

 

私はその横の、危険度の少ない方に向かった。

そして、広い場所に降り立つと、良さそうなところを調べた。

やや水脈が細かったが、涎の垂れる口を突き刺していった。

あー、これはひと味もふた味も違う。おいしーい。

見ると、私の向こうにお仲間が居て、やはりご馳走に預かっていた。

 

別の奥様蚊:「あら、奥さん。あなたも?」

 

向こうから先に問いかけてきた。

 

雌蚊の私:「はいな。ここにもっと美味しいものがあると聞いてきたの」

 

別の奥様蚊:「そう。でもこれ一回切りにして、出た方がいいわよ。

もうすぐしたら危険度がずっと増すから。

私はこの時間帯をここで迎えるのは3回目だから、よく分かるのよ」

 

雌蚊の私:「あらそう。こんな美味しいのに、もったいないわねえ」

 

私はなおもいただき続けたが、やがてゆっくりと足場が揺れ始めた。

 

別の奥様蚊:「奥さん。そろそろ行くわよ」

 

雌蚊の私:「そう?じゃあ、私も」

 

向こうの奥さんが飛び立ったすぐ後に、私も離陸した。

向こうはどこへ行ったか分からなくなったが、

私はこんな美味しいものとは思わなかったし、

おなかの子供にもう少し栄養をと思い、近くの壁にとどまった。

幸せの森は4つあって、そのうちの3つはゆっくりと動いていた。

(注:つまり4人のうちの母と子2人が起きたが、父親はまだ寝ていたのだ)

 

私は腹のこなれが五分くらいになったとき、

残った森が動きかけたり止まったりして、

危険度を増しつつあるのを見て、今しかないと思って離陸した。

 

「バタバタバタバタ・・・・・」

 

近付くと、先ほどよりも一段と芳香を放っていた。

これは絶対いただかなくては。

おなかの子供がまた動いた。待ってらっしゃい、もうすぐよ。

 

危険度はかなり増していた。

何か別の殺気のようなものまでしていた。

何かに注視されているような感じも。

それでも、注視感が希薄になった狭いところに、

やや芳香は希薄だったけれど、降り立ったのだ。(注:手の指の間)

 

そして、地面の下に遙かにおぼろの水脈を見つけると、

足を踏ん張ってそこに口を突き立てようとした。

というのも、水脈は深いところにあったからだ。(注:分厚い角質だから)

 

その時だ。いきなり注視感が濃厚になったかと思うと、

危険度が一気に高まり、地面が突然動き始めると、

上の方から大きな壁が近付いてきた。

それも今までのスピードの比ではない。

私は咄嗟に飛び立って、力の限り羽ばたいた。

すると、ほんのわずかな向こうを、大きな壁はかすめていき、

それが起こす風の力で私は少なからず飛ばされた。

 

私は、羽ばたいて体制を立て直し、

命からがら注視感のない領域へ入り、

どこでも良いから停まることにした。

ハアハア。ゼイゼイ。ああ、大変だった。

しばらくすると動悸も収まってきたが、

スタミナを消耗した分だけ、また喉も渇いてくるのだった。

 

この状態でも、子供は何とかなるだろうが、

逞しく育ってくれるためには、ねえ。

何としても、もう一回・・。お母ちゃん、頑張るからね。

 

しばらくした後、あの森が見えるところまで出てみた。

すると形は異なってはいても、森はあの場所にまだあった。

 

危険度は今までに増して漂っていた。

注視感の場所は、サーチライトさながらに、

あちこち急速に移動していた。

好感度と芳香は、その間からたっぷりと漏れ出ていた。

 

よし、行こう。(この場合、もしかしたら、

敵戦艦に向かっていく零戦のようだったかも知れない)

 

「バタバタバタバタ・・・・・」

 

何とか、危険領域を避けながら、森の近くまで近付いた。

しかし、一瞬、注視感のサーチライトに触れてしまう。

だが、それは追ってこなかった。

 

危険度と殺気だけは、近付くにつれ、濃厚となっていたが、

目の前の芳香の泉を前に、いつしか私は恍惚感を催していた。

そして、広々としたところに着地すると、

浅く浮き出る喜びの水脈をすぐ目の前にしていた。

 

そして、急ぐようにして口を突き刺した。

すると、今まで味わったどれよりも美味しいドリンクが

喉をどんどん通過していくのを感じた。

子供(卵巣)は、それを受けて身をよじらせて喜んでいる。

 

その時だった。地面は動き、

上の方から急速に降りてくる大きな物体が視野に捉えられた。

これはいけない。

あらゆる警報のシグナルを、恍惚感が見失わせていたのだ。

 

私は、口を直ちに抜くと、思いっきり羽ばたいた。

上から落ちてくる壁はあまりに広い。

ひと羽ばたきで進む距離はこの程度。どっちが早い?

なるべく、避けられそうな場所を探して羽ばたいた。

しかし、壁は無情にも私の上に覆い被さってきたのだった。

 

ああ、子供が・・助けて。グシャッ。

 

ジェット機が飛んでいくような音が凄まじくこだまし、

視界が真っ暗ながら、それでも意識は続いていた。

やがて、ほのかな明かりが目の前に見えたので、

そこに羽ばたいていったとき、

目の前に視界が再び生じた。

 

それは、巨視的な情景だった。

森と思っていたのが人間の男性で、

自分のはだけた胸の上で、一匹の蚊を形なき血しぶきに

変えたところの情景であった。そして、こう言った。

 

「とうとう、退治したぞ。こんちくしょう」

そこに人間の子供がやってきて、覗き込んだ。

「わーいわーい。僕もかまれたんだよ」

 

私は、この血しぶきの中に我が子が居ることに、

たまらなく切ない気持ちになった。

 

そのとき光の存在が現れ、私を招いた。

それは、全てを受け入れることを求めると共に、

全てを受け入れる立場の存在であると感じた。

私は了承してまぶしい光の中に入って行こうとした。

 

 

「ざわざわざわ・・」

周りがあわただしい。

頭から何かが引き剥がされるような感じがして、外界が開けた。

 

ヒガンバ:「ネアン。ご苦労様。蚊の一生、終わったわよ」

 

私は、外界の光景がよく思い出せなかった。ここはどこだ。

心配そうに覗き込むおかめ顔が目の前に現れて、びっくりした。

その向こうには、金髪女性がいる。誰だ?

 

ヒガンバ:「まだ分からないの?ヒガンバよ。困ったわね」

 

ジャコバ:「だから、観察するばかりでなく、

途中でアドバイスを割り込ませる必要があると言ったでしょ。

とにかくこの人は切り分けがきかないんだから」

 

私は次第に記憶を取り戻してきたが、

遠い過去の空間であるような気が未だにしていて、

ため息が出るばかりで、言葉にならない。

 

ヒガンバは、私の瞳孔を調べたり、脈を取ったり、いろいろしている。

それでも、私は茫然としていた。

 

ヒガンバ:「かなりひどいショックを起こしているようよ。困ったわね」

 

ジャコバ:「一つだけ、一気に回復する方法があるわ。

あなた自身で、彼の関心を引くことね」

 

ヒガンバ:「とすると・・そうか」

 

ヒガンバは私の隣に座ってきて、私の顔を両手で挟むと、

いきなり接吻をしてきたのだ。わー、平安時代は平和でおじゃる。

 

私:「こりゃ、ヒガンバ。何をおたわぶれなさる」

 

ヒガンバ:「気が付いたようね。ちょっとショックだったかな?

ラストがああなってしまうんじゃあ仕方ないね。

でも見てご覧。あなただった蚊は、ちゃんとここにいるわよ」

 

見るとテーブルの上に、足を震わせてもがいている蚊が居るではないか。

そういえば、この蚊のデーターを元にして、

この蚊の人生を見てきたはずなのだ。

しかし、なぜ死んだはずのものがここにある?

 

ヒガンバ:「おかしいと思うでしょ?

実はね。この蚊は叩いて潰されることになっていたんだけど、

叩かれる直前に、探査船が身柄をかすめ取ってきたの」

 

ヒガンバは、その蚊をつまんで、私の手のひらに載せた。

 

これが私であった生き物か。そう思うと、涙が出てきた。

こんな嫌われ者の小さな生き物でも、精一杯生きていたのだ。

 

私:「そうか、これがシミュレーションというものなのか。

素晴らしいシステムだけど、すごく怖いシステムだよ」

 

私は、蚊を左手の甲の柔らかいところに立たせて置いた。

 

私:「いくらでも吸え」

 

蚊は、再び横倒しになったが、もがき方も派手になってきたので、

次第に元気になりつつあるようだった。

 

私:「疑問があるんだけど」

 

ヒガンバ:「いっぱいありそうね。なに?」

 

私:「この蚊。元々は殺される運命だったとしても、

どうしてラストが、ここに生きている状態を反映してなかったんだろう?」

 

ヒガンバ:「それは、特別なシステムで急速に運命が変えられたからなの。

でも、いずれは反映されるわよ」

 

私:「この蚊の運命が変わったことによって、歴史が変わるってことないの?」

 

ヒガンバ:「あるわよ。そうしたことは、結構たくさんある。

私たちが検体を強引な方法で収集したり、宇宙を航行したりするときには、

必ず運命、つまり歴史の慣性的成り行きに作用しているわけ。

ただし、それが必要になるときには、大きい変化なら事前に、

小さい変化なら事後あるいはその場で、

変更の手続きを踏むことになっているの」

 

私:「つまり、元の運命は初めから定まっているわけ?」

 

ヒガンバ:「大枠はね。だけど、いくらでも修正が掛かるわけだから、

元の運命なんて考えること自体、荒唐無稽なわけよ。

手続きが済めば、幾分かづつ変化した歴史が

その先にあることになるわけ」

 

えらく単純に言い切るじゃないか。こういう場合は因果律が崩壊して、

ややこしい問題が発生するのではないのか。

それともそんなことは、考えるに足りないのか。

私は、その時、因果律を滅茶苦茶にしている

彼らの行動がいぶかしく思えてきた。

 

私:「重要なことを聞くけど、

僕ら地球人やこうした生き物の力では、

それなりの技術はないから、運命を変えることはできない。

でも君たち宇宙人があっち行ったりこっち行ったりしていることによって、

日夜歴史が変えられているんだったら、我々はずいぶん迷惑してるよね」

 

ヒガンバ:「あら。そんなことないよ。あなた方だって、

運命を変える技術を持っていて、随時実行しているじゃない。

たとえば、この蚊が探査船に命を救われたのは、

手で叩かれる寸前だった。

そのま際の時、この蚊は絶対に生き延びねばならないと

決意していたこと、あなたも知っているわね」

 

私:「ああ」

 

ヒガンバ:「その熱意が宇宙の管理元に届いたというわけ。

でも咄嗟だったから、緊急避難措置として、

私の探査船の活動をシンクロさせるように働いたということなの。

今頃は、この蚊の歴史も置き変わっていると思うよ。

こういう場合には、若干タイムラグがあるからね」

 

私:「そうなのか。そんなものなのか・・・」

 

私は、ややこしい原理などどうでもよくなった。

むしろ手の中にある蚊が無性にいとおしくなった。

蚊は、もがいて逃げようとしている様子だったが、

私は生暖かい息を吐きかけて、元気を取り戻すのを見守った。

 

私:「こいつは、僕が大事にする」

 

ジャコバ:「ネアン。もう船の出発の時間が来たよ。戻る支度をしなさい」

 

ヒガンバ:「さあ、ネアン、行こう」

 

転送ルームで、私はヒガンバと向き合った。

 

私:「いい経験をしたよ。ありがとう」

 

ヒガンバ:「また来るからね」

 

別れ際にヒガンバはもう一回私の頬に接吻をしてくれた。

 

私:「待ってるよ」

 

手の中に、蚊が居ることを確かめた瞬間、私は地上へと送り出されていた。

地上で、私は船の方に手を振った。

宇宙船は、2,3回、サーチライトを私に浴びせると、

やや船体を傾け、すーっと、上空に去っていった。

 

 

さて私は、昔ながらの風物として、蚊帳を持っていたが、

その夜は、蚊帳を吊ってその中にあの蚊を入れて、

わざわざ私の血を吸ってもらうことにした。

 

次の朝には、2カ所ばかり食われた痒い痒い痕があって、

蚊は元気に蚊帳の中を飛び回っていた。

私は蚊に語りかけた。

 

私:「どうだ。もう子供は産めるかよ」

 

臆しもせず、蚊は、ぷーんと蚊帳の隅から飛んで私の鼻の頭にとまった。

あの機械船アブがとまった当たりだ。

どうもこの場所は高台のせいか、好まれやすいらしい。

しかし、ここを食われたらさぞかし痒いだろうな、と思って、

そっと手で払うと、蚊はぷーんと右耳の側にやってきて、

何事か囁いた。

 

雌蚊:「ぷーんと子孫を増やします」       

 

 

変幻虻蚊の怪・完

 

 


註釈

 

 

殺虫剤メーカーの草分け、フマキラーさんの「蚊」の説明によると、

「雄・雌ともふだんは花の蜜、果物の汁、樹液などが“食物”だが、

雌は産卵のために吸血する。

タップリ吸血するとそれを消化吸収して卵巣を発達させ、

4~5日後に300粒あまりの卵を産み落とす。

卵は2~5日で幼虫(ボーフラ)となり、

それから7~10日で4回脱皮してサナギ(オニボーフラ)になり、

さらに3日ほどで成虫になる。

つまり2週間あまりでまた新しい吸血鬼が続々誕生するわけだ」

とのこと・・・。凄まじい繁殖力だ。

 

ネアンの馬鹿。

こんな慈善家が巷にあふれたら、

地球は蚊に乗っ取られること間違いなし。

 

何でも度を超してはいけません。

 


 

*注1:「ゾウの時間、ネズミの時間」著者、東京工大の元川教授の説を参考にし、もう一歩踏み込みました。所説によると、生物 は体重の大小(心拍数)によって意識経験上の時間の尺度が異なるとのこと。何十年生きるゾウと、せいぜい1年の寿命のネズミの経験量は変わらないという。 私は、神経伝達距離の問題と考えた次第。

 

 


この本の内容は以上です。


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