目次
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1 余命宣告と秘めた決意
2011年7月6日(1)
2011年7月6日(2)
2011年7月6日(3)
2 放射線治療とトキメク寄り道
9月1日
9月13日
9月27日
10月20日
3 大きな痙攣と男性的幻覚
11月1日(1)
11月1日(2)
4 抗がん剤と父の苦悩
11月25日
2012年1月1日
1月11日
5 蘇るパチスロッターと勝負の行方
2月4日(1)
2月4日(2)
6 寝たきり生活と父の意地
2月12日(1)
2月12日(2)
2月26日
7 介護タクシーの秘技と高齢者団地
3月2日(1)
3月2日(2)
8 再入院と家族の穏やかな決意
3月23日(1)
3月23日(2)
3月23日(3)
9 在宅療養と父の笑顔
4月13日(1)
4月13日(2)
4月13日(3)
5月28日
10 デイ利用と素敵な出逢い
6月2日
6月8日(1)
6月8日(2)
11 父の異変と歌詞変更の危機
6月15日(1)
6月15日(2)
6月15日(3)
12 嚥下障害と死を悟る父
6月18日
6月21日(1)
6月21日(2)
6月25日
6月26日
13 止まらない痙攣と最期の四日間
6月27日(1)
6月27日(2)
6月28日
6月29日
6月30日
14 旅立ちと火葬窯はラッキー7
7月4日
7月7日
7月8日
15 身内を亡くして思った事
2013年7月21日(1)
2013年7月21日(2)

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9月13日

車の廃車手続きをする。

 

二度目の手術以降、父は運転することを辞めた。医師に止められたからだ。だが、今年が免許更新の年だったので、今月終わりの誕生日ぎりぎりまで車を手元に置いておきたがった。

 

数か月前まで、父は免許の更新をするつもりでいた。シニア運転者講習の日程まで抑えていた。

 

「講習、キャンセルしないといけないね」

 

 お知らせハガキを見ながら、そう告げるのも胸が痛む。

 

この時、父が何を考えていたかは、なかなか廃車手続きに踏み込めなかったことを思えば容易に想像がつく。でも父は、「ああ、電話しといてくれ」と、にこやかに答えた。

 

 

 

 私が五歳くらいの頃(つまり四十年前)、父は初めて買った車の助手席に私を乗せ、建設中の小学校の校庭で運転の練習をした。オートマだったはずだが、不安だったのか校庭をぐるぐると何周かした。こういうところは慎重な性格が出る。

 

その学校は現在、廃校になっている。ガランとした校舎や雑草の生えた校庭を見る度、一時代を超えてきた両者に何か不思議な繋がりを感じる。

 

父は車を購入するまで、カブというバイクで私をいろいろなところに連れて行った。

 

父のズボンのベルトがグリップ代わりだ。背中側のベルトに手を突っ込んで掴まる。走っている最中に眠ってしまったこともあるらしい。体を固定されるものが他になく、ベルトに食い込ませた手が唯一の命綱だった。今だったら危険行為で虐待などと言われてしまうのだろうか。でも、私は成長してからもバイクの後ろに乗るのが好きだったので、トラウマとなるような怖い思いはしなかったようだ。

 

父の最後の車となったのはホンダのアコード。父は歴代、ホンダ車を愛用していた。

 

乗り心地のいい車だったし、値段がつかないというので、私が引き継いで乗りたい気持ちもあった。が、母子家庭でアパート暮らし故、車の維持費にお金を掛けられない。普通車は軽に比べて税金が五倍くらい高い。

 

廃車当日、私は複雑な気持ちで、アコードに載っていた工具やクッションを自分のアルトに乗せ換えた。


9月27日

通院による全三十回の放射線治療を開始した。

 

「病院まで送迎してくれー」

 

 父は私に電話でそう頼んだ。

 

私はこの一週間前まで、電注センターで働いていた。だが、センターが半年後に地方移転となり、全員辞めることが決まっていた。

 

仕事は夕方からで、送迎してからでも間に合う時間ではある。しかし、私の体力からして、一か月の間に徐々にきつくなっていくのは目に見えていた。遅かれ早かれ解雇される仕事だ。私は送迎に専念することにした。

 

 

 

通院では、助手席が空いているというのに、父は後部座席に座りたがった。私は運転歴十年で、走行中に事故を起こしたことはない。それでも娘の運転を信用できないらしい。

 

初日、行きの道中でコンビニの前に差し掛かった。

 

「ちょっと寄ってくれ」

 

 父が唐突に言った。何か買いたいものでもあるのかと駐車場に入ると、父は私を待たせて車から降りた。

 

 杖をつきながら歩いていった先は、店の前に設置してある灰皿の前だ。手術以降、久しぶりに吸ったのではないだろうか。一本吸ってから足取り軽く戻って来た。病院でも毎回、診察券を私に託しては喫煙所に直行した。率先して歩く父の姿に、私は「いいリハビリだ」と思いながら見ていた。

 

また、大学病院へ行くには父が通っていたパチンコ屋の前を通る。そばに近づくにつれ、父がそわそわしだした。

 

「もう、二か月くらいパチスロやってないんじゃない?」

 

 私がそう切り出すと、「帰りに寄ってくか」と父が嬉しそうな顔をした。即、了承。私も父の子なので、ギャンブルとなると血が騒ぐ。節約生活で遊戯断ちをしているので尚更だ。

 

 

 

 パチンコは四十年前、一つ一つ球を投入して打っていた時代から連れていってもらっていた。椅子などないので立ったまま打つ。ハンドルは手動。勝った日には茶色の紙袋にお菓子をたくさん入れて持ち帰った。

 

 昔は子どもが入店してはいけないという規制はない。もっとも、父が私の存在を忘れるほど熱中することはなかったが。

 

 三十回の通院中、数回に渡って寄り道をしたわけだが、その度心配して待つ母に、父娘で怒られたことは言うまでもない。

 

だが、右手に違和感を持ち始めていた父が、積極的に楽しく手を動かすのにちょうど良かった。必ず隣同士の台に座るようにし、何かあった時に備えることは念頭に置く。リーチが掛かると目押しを頼んだ。脳のリハビリだ。

 

これは私が都合のいいように解釈したものだと思っていたら、とある老人施設では業者から古くなったスロットルをもらい受け、リハビリとして使っていると先日のテレビで報道していた。

 

お年寄り達はコインを掴んで、投入口に入れて、スロットルを回して、ボタンを押すという一連の動作を楽しんでいるという。

 

考え方として間違っていなかったのだ。私は理学療法士の素質があるかもしれない(と誰かに言ってもらえたら嬉しい)。

 

一方で表情を曇らせる母に、私は「体の自由が利かなくなって、ただでさえストレスの塊になってるから、出来る限り、やりたいことをやらせてあげようよ」と、説得していた。

 

ごく近い将来、タバコもパチスロも出来なくなる日がくる。そのことを何度となく母と話した。

 

 母は「そうね」と納得するのだが、日を改めると再び声を尖らせる。夫の健康を常に気遣ってきた妻の立場としては、体に良くないとわかっていることを、「好きなようにやらせてあげよう」と言えないのも無理はない。


10月20日

いつものように放射線治療科の待合室で、私は父の治療が終わるのを待っていた。

 

この待合室にはテレビがあり、いつも何かしらのビデオが上映されている。ジブリだったり、NHKの情報番組だったり……。音を小さくして、その日一日、同じものが繰り返し流される。

今日は珍しくお笑いで、ドリフターズの『8時だよ! 全員集合』だった。

 

メンバーがかなり若く、ドタバタと軽快に走り回っている。舞台上で大型バイクを走らせたり、トラやライオンなどの猛獣相手にコントしたりと、ホールでの公開生放送とは思えない大胆さだ。昔見ていたはずなのに、なぜか新鮮に感じた。

 

待合室に誰もいなかったこともあり、私は少し大きな声で笑っていた。そのおかげで、病院の外来という、どちらかというとエネルギーが停滞しそうな場所で思いがけず元気になった。

 

自然に笑っていた私は、ふと、いつも笑えるビデオを流していればいいのにと思った。

 

笑いが様々な病気を回復させた例は、ネットを検索すればたくさん出てくる。笑いによりNK細胞が活性化し、がん細胞を破壊したり、リウマチ患者のインターロイキンの値が下がったり、等々。病気の症状が軽減されることは実証されているのだ。こんなに手軽で安全な方法を使わない手はないだろう。

 

 また、『病気にはなっても病人になるな』という言葉を聞いたことがある。

 

笑っている間は、自分が病気であるということを忘れている。忘れているということは、病気に囚われていない状態だ。楽しいことに気を取られているうちに、いつの間にか具合が良くなっていたということが、一度や二度、誰にでもあるのではないだろうか。病状にもよるが、笑う機会が多ければ多いほど辛い時間は少なくなるはずだ。

 

とは言っても、病院の待合室は痛みを堪えている人も多くいるわけで、騒がしい音が苦痛に直結する場合もある。だから、一概に「笑いを取り入れましょう」とはいかないだろう。しかし、病気を扱う機関でTPOを考慮した上、もう少し笑える場面を増やせないものかと思った。

 

 

 

 放射線治療が後半に差し掛かったこの頃から、父は車の中で、これまでの人生を振り返るような昔話を私に話して聞かせた。

 

 親戚の話や上京してきた頃の事、母との馴れ初めなど……。

 

ただ、具体的にどんな話だったのか、断片的にしか思い出せない。運転しながら話に集中できる技量が私にはない。

 

でも、父の嬉しそうな声だけは、しっかりと頭の中に残っている。

 

私が四五年間生きてきた中で、父と過ごした一番濃い時間だった。いや、子どもの頃はいつも父と一緒だったので、私が忘れていた時間の再来だったのかもしれない。

 

 この時はまだ、父が死を覚悟していたとは思えないのだが、もしかしたら予感していたのだろうかと、今思う。


11月1日(1)

放射線治療もあと数回を残すのみとなった。父の髪の毛は少々抜けたが、吐き気などの苦痛な副作用はない。

 

この日、父は母に買い物を頼まれていた。天井照明だ。私は直接聞いていなかったので、父が言った「こんなようなもの」に近いものを二人で探した。

 

だが、父は母に「同じ形のものがなければ買ってこないで」と言われていたことを忘れていた。買って帰ったものは、材質は同じだが形が違うもの。案の定、母の機嫌が悪くなった。

 

 私は、労いの言葉こそ受けてもいい場面で、思いがけない言葉を受けて戸惑い、その後、じわじわと怒りが込み上げてきた。

 

 送迎だけでも疲れるのに……。

 

 実際、一か月に渡る送迎は想像以上に私を疲労させた。アパートから実家まで三十分、実家から病院まで三十分。毎日往復二時間の道のりを、父の体に負担が掛からないように目と耳と気を遣って運転していたのだ。

 

悲しくて、悔しくて、反論するより先に涙が出てきた。でも、親に泣いているところを見られるのが嫌な私は、必死で堪えていた。

 

 母娘の険悪な様子を、父は居間から内心悲しみでいっぱいで見ていたのであろう。それでも父は笑顔を絶やさなかった。

 

「コーヒー、いれてくれ」

 

 父は私の機嫌を取ろうとしたのだと思う。何か違うことで、空気を変えようと思っていたのかもしれない。でも、私はこの場にいることが耐えられなかった。

 

「もう帰るから」

 

 私は仏頂面でそう言い放った。

 

「そしたら、照明だけ取り付けてってくれるか。お父さん、付けられないから」

 

体が不自由になってしまった父は踏み台に乗れない。母は小柄なので天井に届かない。私は他の誰かを当てにできないお願いをされてしまった。

 

仕方なく、私は無言のまま照明器具を箱から出した。こういう時に限って組み立てに手間取る。そばで父が見守っている。油断すると泣きそうだ。

 

 四苦八苦した末、照明を天井に取り付けた。

 

「ありがとう。助かったよ」

 

その言葉にも素直に頷けず、目を合わせることのないまま私は実家を後にした。

 

 

 

 その一時間後、父は大きな痙攣を起こした。母から連絡があったのは、既に救急車で病院に運ばれてからだ。術後、初めての痙攣だった。父はそのまま入院した。

 

 この痙攣により、酷い幻覚が起きた。見えないものが見えたり、思い違いを信じ込んだり。また、ベッドから勝手に降りてしまう為、身内がいる時以外は拘束帯で固定された。


11月1日(2)

「なぜか動けないんだよなぁ」

 

 上半身を起こそうとしながら父が言った。拘束されていること自体、わからないようだった。

 

「これが付いてるからじゃない?」

 

 私は『いつもの父ではなくなった父』に、事実だけをさらりと述べ、拘束帯を外す。いつもの父ではなくても『穏やかな父』である事には変わらず、縛られていても声を荒げたり、反発して暴れるというようなことはなかった。

 

数日たっても幻覚が治まらず、医師からは、「幻覚症状が治まるかどうかは何とも言えない」と告げられた。

 

 痙攣の原因の一つに、精神的ショックがあると何かで読んだ。私は、治らなかったら私のせいだと悔やみ、一人になると涙が止まらなかった。

 

幸い、十日程すると幻覚が治まって来た。入院中に、残りの放射線治療も済ませた。病院にいるより家にいた方が改善しやすいとのことで退院。家に戻った途端、幻覚症状はなくなった。あとは一か月に一回通院すれば良いとのことで、私の送迎生活も一段落ついた。

 

 

 

症状が起きるきっかけは悲しいものだったが、幻覚だけに限って言うと、ある意味貴重な体験だった。

 

父愛用の腕時計をベッド脇にあるサイドテーブルの引き出しに入れておいたのだが、父はそれを取り出し、

 

「ぶかぶかで合わないんだよ。他の人のと入れ違ったんだな。看護婦さんに聞いてきてくれるか」

 

 と、言った。

 

私は父の話に合わせ、「わかった、ちょっと待ってて!」と言い、病室を出たところで立ち止まり三つ数える。戻ってから「あったよ、これだよね」と言いながら時計を父の腕にはめた。すると、父は少し変な顔をしつつも、「これだ」と納得していた。

 

 また、昆虫好きの父らしい幻覚もあった。

 

「あのドアからナナフシがたくさん入ってくるんだよ。ほら、母さんの服にもいっぱい上がって来たよ。払わなきゃ」

 

 私は、「ホントだねー」と言って、母の服についている見えないナナフシを追い払う。放射線治療室に移動する時も車椅子にバッタがいたらしく、看護師さんに訴えていた。看護師さんも父の話に合わせる。

 

私はこれまでの対応の仕方で間違っていなかったかを聞いてみた。すると看護師さんは、「うん。そうだねって答えていればいいのよ」と小声で教えてくれた。

 

 もう一つ、父は男性らしさを発揮して、ちょっとエッチな幻覚も見ていた。

 

「昨日、ベランダで裸の男女が抱き合ってたろ? おまえがそういうのを平気で見ていられるとは思わなかったよ」

 

 そう言って、父はニタニタしながら私を見た。

 

日頃、下ネタOKな私も、親と話すのだけは抵抗がある。それには何と答えたらいいかわからず、勘弁してくれ、と思いながら苦笑いしていた。

 

 他にも病室の壁から人が浮き出てくるという怖いものもあった。幻覚症状がなくなっても父はそれらをすべて覚えていた。



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