目次
目次
目次
1 余命宣告と秘めた決意
2011年7月6日(1)
2011年7月6日(2)
2011年7月6日(3)
2 放射線治療とトキメク寄り道
9月1日
9月13日
9月27日
10月20日
3 大きな痙攣と男性的幻覚
11月1日(1)
11月1日(2)
4 抗がん剤と父の苦悩
11月25日
2012年1月1日
1月11日
5 蘇るパチスロッターと勝負の行方
2月4日(1)
2月4日(2)
6 寝たきり生活と父の意地
2月12日(1)
2月12日(2)
2月26日
7 介護タクシーの秘技と高齢者団地
3月2日(1)
3月2日(2)
8 再入院と家族の穏やかな決意
3月23日(1)
3月23日(2)
3月23日(3)
9 在宅療養と父の笑顔
4月13日(1)
4月13日(2)
4月13日(3)
5月28日
10 デイ利用と素敵な出逢い
6月2日
6月8日(1)
6月8日(2)
11 父の異変と歌詞変更の危機
6月15日(1)
6月15日(2)
6月15日(3)
12 嚥下障害と死を悟る父
6月18日
6月21日(1)
6月21日(2)
6月25日
6月26日
13 止まらない痙攣と最期の四日間
6月27日(1)
6月27日(2)
6月28日
6月29日
6月30日
14 旅立ちと火葬窯はラッキー7
7月4日
7月7日
7月8日
15 身内を亡くして思った事
2013年7月21日(1)
2013年7月21日(2)

閉じる


<<最初から読む

19 / 48ページ

3月2日(1)

 通院日。ケアマネージャーさんの紹介により、介護タクシーを頼んだ。

 

 家に来たのは五十代後半に見える男性が一人。運転手さんだ。

 

実家はエレベーターのない団地の四階。私は、どうやって動けない父を一人で降ろすのだろうと思いながら見ていた。

 

すると、運転手さんは慣れた手つきで父を車椅子に移乗させ、グリップをしっかり持って、前向きのまま階段を一段一段ゆっくりと降りていった。踊り場は古い団地故に狭いのだが、車体を斜めにしてうまく方向転換していた。

 

痩せてしまったとはいえ、体重六十キロはある人間を乗せた車椅子はかなり重いはずだ。それを運転手さんは危なげなく操作する。

 

 

 

 築四五年のこの団地。高齢者が住民の多数を占めているのだが、こんな技術を持った介護者がそばにいない限り、引きこもりになるお年寄りや障がい者が増えること必須だ。

 

私は、「こうなったら、『階段を昇降する電動車椅子』を開発するしかない」などと考えた。

 

だが、既に開発されており、レンタル料一割負担で月額六千円弱で借りられることがわかった(父の死後に発覚。二〇一三年現在)。

 

でも、これを借りるほどの人は要介護3以上だろうから、他にもベッド周りの物やヘルパーさん、訪問入浴、デイサービスなどを使っているうちに、一割負担の利用限度額を超え、家庭になくても済んでしまう階段昇降サポート付き電動車椅子には、なかなか手が出せないだろう。

 

そうなると、やはり引きこもりが増える。市内には同じくらい築年数の経った団地が数多くあり、同じような問題を抱えていると聞いた。

 

四人に一人は六五歳以上の高齢者という時代。全団地にエレベーター設置が理想だが、敷地条件や容積率、建蔽率、日照規制や他の法規制をクリアしなければならない。何よりも予算という問題が大きな壁を作っている。

 

ならば『家庭用の階段昇降機』を各階段に付けられないだろうか。階段の手すりを付ける部分にレールを設置して、椅子を昇降させるものだ。安いもので一基50万円程度。エレベーター一基約600万円。十分の一のコストで済む。

 

うちの団地は総戸数3,435戸あり、単純に十戸に一基計算で344基。掛ける50万で1億7200万。市内には大規模住宅が他に十あり(すべてにエレベーターがないかは不明)、戸数が少ない団地もあるので予算は10億くらいか。でも、体の不自由な人がいない階段では使われないまま維持費だけが掛かる状況になりかねない。

 

やはり『階段昇降可能な電動車椅子』を『無償』で貸し出せるようなシステムがあるといい。先程も書いたように、利用者は既に限度額を使い切ってしまっているので無償でなければ意味がない。ただこれも、操作指導を受けないと借りられず、高齢者だけの世帯だと厳しいかもしれない。

 

 

 

一階に着くと、運転手さんはあらかじめセットしておいたストレッチャーに父を寝かせた。そして、介護タクシーであるワゴンのバックドアを開け、救急車のようにストレッチャーを乗せた。私はサイドからワゴンに乗り込み、父の顔が見える後部座席に座った。

 

一カ月振りの外出。父からも窓の外が見えるらしく、運転手さんの声掛けにより、早咲きの桜に気づいた。

 

「寒桜だね」

 

 父は小声ながらも、しっかりした口調で応えた。

 

 桜と言えば、実家の団地は樹齢四十年以上の桜が見事で、毎年桜祭りを行っている。シルバー作業員の父達が出店を開いたりするのだが、予定した日程に必ずといっていいほど雨が降る。

 

 父は昔から雨男だった。

 

私が小学生だった時の運動会はたいてい雨で、平日に順延する為まともに見に来れたことがないのではなかったか。父自身のゴルフも雨の中でプレイする。一度や二度ではない。

 

最期、通夜も葬儀も雨だった。ここまで徹底されると見事としかいいようがない。


3月2日(2)

 病院に到着し、運転手さんはストレッチャーを押して二階の脳神経外科の前まで一緒に来てくれた。その上、私が「長く掛かりそうだから、別の場所で待っててください」と言うまで、ずっとそばに付き添っていてくれた。父を帰りも乗せるし、待機時間も料金に入っているのだろうが、とても良心的な運転手さんだ。

 

待合室で待つ他の患者さんやその家族は、何事かといった様子で私達を見る。ストレッチャーに乗っている割に、急いで診察されるわけでもないのだから当たり前だろう。父は、「飴をくれ」とニコニコとしている。着いた当初は居心地の悪さを感じていたが、父の笑顔に周りの目などすぐにどうでも良くなった。

 

寝ている状態とはいえ、特別な異変があるわけではない父は、他の患者さんと同じように一時間待たされた。

 

いざ呼ばれてストレッチャーごと中に入る。いつも診てもらっていた診察室にはストレッチャーで入れない為、診察室と中で繋がっている処置室に通された。

 

医師は父に少し声を掛けた後、父を処置室に残し、私だけ診察室に呼んだ。

 

「まだ、あんなに動けない状態じゃないはずなんだけどな」

 

 ストレッチャーで通院してきたことに、医師は驚いていた。

 

「リハビリする手もあるけど……」

 

 医師は言葉を濁すようにそう言った。

 

私が家での様子を伝えると医師は、

 

「気力が落ちてるのか……。リハビリによって動けるようになったとしても、その頃に再発することもあり得るからね」

 

 と、付け加えた。

 

そうなると、父の落胆は大きなものとなるだろう。元々あった私の考え、『穏やかに過ごさせたい』事を告げると、「リハビリはしない方向で」ということになった。

 

食が細くなってきた不安を伝えると、エンシュア・リキッドを処方された。これはコーヒー味のする栄養補助飲料だ。これを飲んでみて、次回、血液検査で栄養状態を診るという。

 

診察を終え、会計と薬の受け取りの為に一階に移動する。ストレッチャーの父と運転手さんには少し離れた広いスペースで待っていてもらった。

 

抗がん剤は外部の薬局では取り扱っていないので院内薬局でもらうのだが、ここでもかなり待たされる。

 

ようやく呼ばれ、ビニール袋いっぱいの数種類の薬と、箱詰めのエンシュアを一か月分出された。

 

「台車使ってくださいね」

 

 受け取り窓口の横の関係者出入り口から、薬剤師さんが台車を出してきてくれた。ガラガラ物凄い音がするので、ストレッチャー以上に目立つ。運転手さんのところまで運び、父の付き添いを交替して、ワゴン車を駐車場に取りに行ってもらった。

 

運転手さんは病院玄関に車をつけると、父と箱詰め飲料をひょいと車に載せてくれた。

 

私はその間に台車を薬局に返しに行く。再びガラガラとうるさいので持ち上げたいところだが、台車も重い。私は「ええーい、目立ってやる!」と、暴走族さながら音を立て、薬局まで台車を走らせた。

 

再びワゴンに乗り込み、走ること三十分。実家の棟の前に到着。

 

運転手さんは一階で父を車椅子に乗せ換え、今度は階段を上る。四階まで休むことがなかった。物凄いパワーだ。上る前に、「飲み物も後で運びますからね」と言ってくれていた。本当に心優しく、どこまでもサービス精神のある運転手さんだ。

 

父をベッドへ移乗させて業務終了した運転手さんに料金を支払う。決して安くはない金額だが、もっと払ってもいいくらいのサービスだった。名刺をいただき、次回もお願いすることにした。


3月23日(1)

 私の仕事の都合で、月一回の通院を一週間早めてもらった。再び介護タクシーを頼み、通院。今回は熱があった為、受付でその旨を話すとマスクを手渡され、すぐに処置室に通された。そのまま入院となる。

 

顔見知りの看護師さんが、

 

「あらぁ、ぐったりしてる。でも、熱が下がればいつもの笑顔になるわよね」

 

 と、言った。父は病院でも、とにかく笑顔を絶やさなかったようだ。

 

 尿道炎の疑いがあるとの事で抗生剤を投与される。その日は声を掛けてもろくに返事が出来ない状態だったが、翌日には薬が効いて落ち着いた。

 

 排泄はおむつか尿瓶を使用していた。車椅子でトイレにも連れて行ってもらっていたので、家でもポータブルトイレを使えないかと看護師さんに訊いてみた。

 

「病院でも二人掛かりで車椅子に乗り換えてもらっているので、家庭では難しいかもしれません」

 

 そんな答えが返って来た。私や息子が同居していれば可能だったかもしれないが、仕事や学校がある。母は当然無理だし、ヘルパーさんも一人では無理なのかと諦める。

 

 

 

 だが、父の死後、私はその答えに疑問を持った。

 

私自身、あまりにも不甲斐ない介護しか出来なかったので、ヘルパー2級の資格を取ったのだが、実技の一つにポータブルトイレへの移乗があった。麻痺が進んでいる人に対しても一人で介助する。つまり、ヘルパーはそれが出来るはずなのだ。そうすれば、おむつへの排泄の回数が減るし、人としての威厳が保たれる。

 

父は、亡くなる十日くらい前まで、「(おむつに)おしっこ、漏れちゃったよ」と恥ずかしそうに笑っていた。寝たきりでもれっきとした七十代の紳士なのだ。まして、六月初めまで車椅子に腰掛けて、自分で食事をとれる状態だった。おむつに排泄しなくてはならない屈辱は相当なものだろう。介護の詳細を知らない為に自分で判断できなかった汚点である。

 

もしかしたら、下手に無理をさせて痙攣を起こさせてはならないという医師の指示があったのかもしれない。そうなると、ヘルパーが危険を冒してまで排泄介助を行うのはリスクが大きい。

 

 どちらにしても、早く介護の勉強をしておけばよかったという思いである。


3月23日(2)

入院中、母と私は別室に呼ばれ、医師から抗がん剤治療を終了するか否かを問われた。通常、半年で一度止める人が大半だというので同意する。

 

また、長期療養する転院先を探すか、自宅で療養させるかを本人と相談して考えてほしいとも言われた。転院先を探すとなると、ベッドが空くのを二か月くらい待つことになるので、早めに手配した方がいいとのことだった。

 

父は、考えて結論を出すことが少し困難になっていた。だから、私から「病院の白い壁をずっと眺めているより、家にいて自由にテレビとか見てた方がいいよね?」と問い掛けた。

 

すると父は、にっこりと笑顔を返してきた。

 

誤解があるといけないので付け加えると、父は病院でとても良くしてもらっていた。看護師さん達が親身になって話し相手をしてくれるので、父はとても楽しそうだった。家族も丁寧に対応してもらっていたので不満は全くなかった。

 

でも、苦しそうに唸っている訳でもないし、管などの医療器具に頼っているということもない。普通に会話が出来る状態で日常から離れた場所で寝ているより、見慣れた自宅の風景や生活音の中で過ごした方が、父としても落ち着くのではないかと考えたのだ。

 

家族としても、時間を気にせず会いたい時に会える。

 

母も家にいてもらった方がいいと言った。ただ、理由が少し違う。毎日、病院に通うのが体力的に限界だったのだ。

 

完全看護だから毎日通う必要はないのだが、「寂しがるから」と言って、無理をして通っていた。母が行ったら行ったで、父は母を無言で引き留め、帰らせないらしい。私の事は引き留めないが、母の事は引き留める。私は母の代わりにはなれない。

 

だから、私は「何かあった時、すぐに往診してくれる先生が見つかれば自宅がいい」と希望を出した。

 

往診医を自分で探す当てがなく不安だったのだが、病院の相談室で、実家の近所にある訪問医療・訪問看護が専門の施設を紹介され、問題は即解決した。退院日にさっそく往診する手配もしてもらえた。

 

この施設は開設されたばかりだという。タイミングが良かった。実は、前々回の通院でも医師から同じ話があったのだが、その時はまだ今後のことについて考えるに至らず、保留にしていた。

 

人との出逢いもそうだが、居場所との出逢いもベストな時期というものがあるようだ。


3月23日(3)

それにしても、昨今珍しいくらいの仲良し夫婦がそばにいたのに、娘の私はどうして結婚を解消したのだろう。

 

両親が喧嘩ばかりしていて結婚生活に夢が持てなかったとかではないし、母は専業主婦で家にいて、父も仕事から早く帰ってくるので寂しさを感じた事などなかったし、何よりも愛情を独り占めして満たされて育ってきた。

 

それなのに、自身の結婚生活を持続させることが出来なかった。離婚は忍耐力の欠如などというが、一度きりの人生、自分を殺してまで耐え抜く意味があるのかという想いが沸点に到達してしまった。

 

子どもの為に離婚しないという選択もあるが、そう考えたのなら両親の不仲を死ぬまで子どもに悟られるべきではない。自分のせいで親が我慢を強いられたとなると、これもまた子どもを苦しめる要因となるからだ。隠したところで子どもは敏感に察してしまう。

 

私は自分にも周囲にも嘘をつき通したくなかった。外せない仮面を被った上に成り立つ幸せなどあり得なかった。その状態で突然現れた大きな壁を乗り越える気力が持てなかった。

 

でも、経済的に弱い方の立場だったから主張できたという状況ではあった。私が守る側の人間で、相手に離婚後の生活を保障してやれないのなら、責任という意味で結婚生活を継続したかもしれない。

 

子どもは自由にさせた。元の家と新しい家とは目と鼻の先なので、子ども達は基本的にはアパートにいるものの、二つの家を都合のいいように行き来している。結果、離婚前より父子の関係が密になったように感じる。時に共感したり、時に反発したり。以前は父子でどこかに出掛けたり、日常の会話というものがあまりなかった。結果往来だと思うことが、この離婚では多々あるのだ。

 

独身に戻った今でも、両親のような老後には憧れる。

 

だが、結婚が人生の幸せと直結しているかというと、それは違うと思う。離婚や一生独身でいる事が不幸だというのも思い込みだ。どちらを選んでも、得られるものと得られないものがある。どちらにもプラスとマイナスがあるのだ。

 

故にうちの子ども達には、結婚してもしなくても自分を大切にする人生を送ってほしい。ただし、子ども達が私の持論を蹴飛ばす勢いを持つことは大歓迎である。



読者登録

たなかひまわりさんの更新情報・新作情報をメールで受取りますか?(読者登録について