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1.


 いくら頑張ったってどうにもならないことが世の中にはある。ここで生活するようになってから、わたしがいつも思っていることだ。いくら努力したところでそんなものは大人の前では蚊の涙ほどに価値も、中身のないことだろう。

 だが目の前のこの光景にこの考えを当てはめてみたらどうなるだろう。少しは彼の周りの状況は変わるかもしれない。

 幸一が蹴られている。暴れん坊のノボルだ。あいつとは一生かけても仲良くなれそうにない。これはリンチではないか。そもそもわたしはこんなときに冷静に眺めている場合ではない。助けなければ。

 しかし本当に幸一といったら、闘争心というか、ハングリー精神というか、男ならば生まれつき持っていそうな汗臭さがほとんどと言っていいほど感じられない。ただただ殴られることに身をまかせている。といって苦しそうというわけでもなく、いつもの少し笑みを含んだような表情をしている。そんな幸一の特徴がリンチの一因かもしれない。

 わたしはその場から数歩後ろに下がり、見当をつける。

 しばしの準備体操。その間にも幸一は蹴られ続けている。失敗は許されない。重心を一度後ろに置き、ノボルに向かって走り始める。トップスピードに達したとき、床を蹴ったわたしは身体を宙に浮かせる。しばしの気持ちいいほどの浮遊感のあとに、確かな感触が靴を通して伝わってくる。決まった。

「いってえ」

 わたしの渾身のドロップキックは、見事にノボルの左側頭部にヒットした。

 


「ばかねえ何やってんのよ。あんな奴ぶん殴ってやればよかったのに」

中庭は人が数えられるほどしかいなかった。季節はもう冬なので、外に出ているほうが珍しいかもしれない。どこかの画家が失敗したかのような、どぎつい赤色をした太陽は、また山に帰ろうとしていた。ベンチの板が冷たい。

「でもこっちが反撃してよけいに殴られるのは嫌じゃないか。それなら相手の気のすむまでやらせてあげたほうがいいよ」

「はあ……。何かさあ悔しくないの? やられっぱなしで」

「うーん。もちろん殴られるのは嫌だけどさ。まあしょうがないかなって」そう言ってなぜか恥ずかしげに笑う。いつも見ていて思うことなのだが、幸一の笑顔は何かが少し足りないように思える。何かが欠けているのだ。こちらの気持ちがやわらかくなるような、とても優しい笑顔だからこそ、その不足はより目立って見える。

「じゃあこれからは逃げたら? あいつらを見たらとにかく逃げ出すのよ」

「それはそれで、なんか嫌だ」また笑う。幸一はどんなことがあってもとりあえず笑う。

「あんたいったいどうしたいのよ。はっきりなさい」

「沙里のように僕は強くないからさ」

「一応あんた年上なんだから」

 年齢からいったら幸一は中学に通っていて、わたしはまだ小学六年生なのだが、いつも気づいたら幸一を説教している。

「沙里、そろそろ夕食に行こうよ」立ち上がりながら幸一が言う。

「……よくそんな状態でお腹空くわね」

「だってもう時間だよ? 行かなきゃ。殴られたらお腹減った」

「何それ」幸一の発言にあきれつつも、わたしもベンチから立ち上がる。ここでは夕食の時間が決まっていて、それに遅れたら夕食抜きになってしまう。行くしかない。

「沙里」

「ん?」

 先に立って前を歩いていた幸一がこちらを振り向いて言った。

「さっきはありがとう。助けてくれて」満面の笑み。だけどどこかにこの笑顔には曇っているところがある。遥か上空に向かってそびえ立つビルの窓のように、離れて見るぶんには目立たないけれども、よーく近づかないと気づかない曇っているところが。わたしにはそれが何か分からない。

 でもここにはぴかぴかな窓ガラスなど一枚もないのだ。

 


「ご飯だぞおー集まれえー」

 建物に入ると艦長が大声で号令をかけていた。

「艦長、今日のご飯は何ですか?」幸一が嬉々とした表情で訊く。

「今日はな、白米の豪快炒めと新鮮野菜の味噌浸しだあ!」

「要するにチャーハンと味噌汁ですね」「へえ」冷静につっこみをするわたしの横で、幸一は素直に感心している。

「おいおいそんな言い方ないだろー」

「大げさなんですよ」

「でもちょっと言い方変えるだけで」そう言って、わたしたちの顔を交互にのぞき込む。「わくわくしないか?」

「しますします!」「もったいぶって言うほどのことでも……」激しくうなずく幸一の横で、わたしはあきれる。

「とにかく早く食堂にゴーだ!」

 これから食事をするというのにテンションが高い。あの人は何でいつもこんなに元気がいいのだろう。

 食堂に入ると食事の配膳がもう始まっていた。美恵先生が列を作っている子供たちによそっている。それぞれ持っている皿から湯気が上がっているのを見るだけで、空腹感がさらに高まってくる。わたし達も列に並んで食事を受け取る。

「お父さん見なかった?」

    美恵先生が皿にチャーハンを盛りながら話しかけてきた。

「あー、見ましたよ。なんか大声で号令かけてました」

「ご飯できたって、みんなに知らせに行ってくれるのは嬉しいんだけど、戻ってくるのが遅いのよねえ」艦長とは似ても似つかないきれいに整った顔をくずして言う。

艦長の暴走を止めれるのはこの人しかいない。以前に艦長がこの施設を作るときに「本物の船のほうがいい」と言い出したときも周りの人は、海上での生活がどんなにつらくて厳しいものかを説明したのだが、聞く耳を持たなかったそうだ。

 しかし美恵先生の対応は違った。ただ無言で艦長を自分のクルーザーに連れていって、いきなり運転させたのだ。もちろん艦長は船の操縦法も知らないどころか乗ったことさえなかったので、とても慌てたらしい。そこで先生はとどめの一言を放った。「これでも本物の船がいい?」艦長は頭を思いっきり左右に、とれそうなほど振ったらしい。当然だと思う。

 結局クルーザーは岩場に激突する一歩前で止まって、一件落着したのだそうだ。でもわたしは美恵先生の行動よりも、なぜクルーザーを持ってて、運転できるのかが気になった。

 この話をたまに笑顔で語っている姿を見てると、恐怖を感じる。本当の艦長は美恵先生だとわたしは確信している。

「何してるんですかね」

「んー、あの人子供たちが遊んでいたら、中断させてご飯に連れてくるんじゃなくて、一緒にやりだしちゃうからね」

「好奇心のほうが勝っちゃうんですね……」

「まあ、遅れたら夕飯抜きにするだけだから」今日は月曜日です、とでも答えるかのようなあっさりとした口調で、言う。やっぱり怖い。

「でも僕は艦長が好きだけどなあ。男って感じで」幸一が、心の底から湧きあがってきたかのような満開の笑顔で意見する。

「男は男だけど、子供よね」

 美恵先生の言葉にわたしは大きくうなずく。まさにその通りだ。

「さあ、もう夕飯にしましょうか」

 かわいそうなことに、艦長は夕飯抜きになってしまった。

「じゃあみんな手を合わせて。いただきます」

 様々な声が混じったいただきまーす、という声が食堂を満たし、食事は始まった。

 ここでは「自分で食べるものは自分で作る」ことがルールだ。今日の味噌汁にも自分たちで作った大根が入っている。今日のは少し大きめに切ってある。

 夢船、というのがこの施設の名前だ。名づけ親は艦長。なんでもこの船は希望という名の星に向かっているからだとか何とか言っていたが、そんなことはどうでもよかった。ばからしすぎる。艦長はこのことを説明するのが好きで、ことあるごとにとてもすごいことであるかのような様子で語ってくれるのだが、これが何とも言いがたい気持ちになるのである。体の全体がかゆくなるというか、閉じているものが全部開いてしまうというか、聞いてるこちらがなぜか恥ずかしくなってしまう。ちなみに艦長の本名は知らない。


2.

 ここにはいろんな子供がいろんな事情でやってくる。といって、それぞれがその事情を知っているというわけではない。誰もそんなことしゃべりたがらないことぐらい、わたしにだって分かる。わたし自身もしゃべりたくない。

 それぞれがここにやってきた深い理由を胸に抱えながら、生きている。不安はないと言ったら嘘になる。でもこの先どうなるのかなんて誰にも分からない。

 ただ一つはっきりしていることと言えば、夢船は希望なんてものには決して向かっていないということだけだ。

 少し落ち気味になっている気分をなんとかおさえようと味噌汁をずずず、と流し込みながら、なんとはなしに幸一を見やる。普段から食べるのは遅いが、今日はいつもより増してペースが遅いような気がする。

「なんでそんな今日はゆっくりなの」

「ん?」もごもご口を動かしながら、幸一がこちらを見る。

「おおふはめば――」

「ちゃんと食べてからしゃべって」

 もめん、とまた意味不明の言葉を発し、少し噛むのを速めてから幸一が言う。

「ちゃんと噛んだほうが消化がよくなるって言ってたから」

「ふーん。誰が言ってたの」

「ためしてガッテンに出てる人が言ってた」

「あんたそんなの見てんの?渋いわね」

「……普通だと思うけど。おもしろいよ。ためになるし」

「あんなの、ばあちゃんしか見ないと思ってた」

 ここにはテレビは一台しかない。そしてそれは食堂に置いてある。だから食事のたびにどの番組を見るかで争いが起こる。子供だから見るものはかたよりそうな気もするのだが、それぞれ見たいものは違うのである。野球を見たい者がいれば、アニメを見たい者もいる。なかには水戸黄門だと声高に叫ぶ強者もいたりする。

  だいたいは子供たちがじゃんけんをするのだが、たまに我慢ができなくなった艦長が参加したりする。

 自然番組がツボらしく、それに船が出たりしてたら、感情の高ぶりは頂点に達する。

「絶対に、勝つ」いつものテンションはどこにいってしまったのか、全く目の色が変わってくるのだ。オーラさえ見えてきそうな気がする。

「この法則がある限り、俺は負けない」

実際に艦長がじゃんけんで負けたところをわたしは見たことがない。そんな艦長がかっこよく見えなくもないのだが、大人気ないといえば、大人気ない。

 勝利した艦長は敗者のねっとりとした視線をよそに、テレビの前でガッツポーズしながら、絶叫する。

「おー自然だ! 船だ! やっぱさあ、これだよなあ」

 テンションマックスの艦長について行けるのは、幸一ぐらいだ。どこか波長が合うのか、幸一は一番なついていて、「すごいですね、自然ですね! 船ですね!」と艦長の感情と同調して興奮してしまうのだ。

「沙里は何か見たい番組とかないの? ドラマとかさ」幸一がゆっくりとした動作でチャーハンを飲みこんでから話しかけてきた。

「ないわね。ドラマとか、あんなうまい話現実では絶対ないと思うし」わたしはもうご飯を食べ終わろうとしていた。最後に口に入れるのをチャーハンにするか、味噌汁にするかで悩む。

「現実では起きないからいいんじゃん」

「途中で見る気失くす」

「現実で起こるようなことで、ドラマ作ったところでおもしろくないんだと思うんだよね。みんな恋愛ドラマとか見ててさ、ベタだなあとか言うけど、それが現実に起きたところを実際に見たことがある? 例えば、角でぶつかったことが縁で男女が付き合ってしまうこととか」

「……ない」

「だよね。だからさ、みんなほんとは、そんなことが現実で起きて欲しいって願っているんじゃないかと思うんだよね」

「願っている?」

「うん。何の変化もないつまらない日常が、ちょっとおもしろくなんないかなあって。意識していなくても気づかないところでそういうの求めててさ、それがドラマとか、アニメとか、小説とかにとにかく表れちゃうんじゃないのかって」

 幸一と話していると、たまにこんなことがある。自分の考えがあって、それを語り続ける。こちらのことなんてお構いなし、ってな感じだ。でもわたしはそれが嫌いではなかった。むしろ、話しているのが気持ちよくなってうっとりとしてくる表情や、熱が入ったジェスチャーを見てると、何か心がほぐされていくのを感じるのだ。

 そんな幸一をうらやましく思う。何であれ一生懸命になれることはすごいことだ。わたしはどんなことであっても、どこか遠くて高いところから物事を見てしまうところがある。自分がどうあがいたところで、意味はないだろうとあきらめてしまう。

「そうだね。そうかもしれない」

「どうかした?」

 幸一が何か察したのか、顔をのぞきこんでくる。

「別になんでもないよ」

 わたしはほんとに、あんたのことがうらやましいんだよ。

「美恵すまん! また遅れてしまった。いやあ、蝉を捕まえててさ――」

  艦長が手に蝉を持って食堂に入ってきた。蝉がミンミン鳴いてうるさい。

「だめ。夕食抜きです。てかこのルール作ったのお父さんじゃない」

 美恵先生がほとほとあきれた様子で言う。

  艦長は納得いかない表情で「いいもん! また蝉探してくる!」と言って食堂を出て行った。

「さ、片付け始めるわよー」何事もなかったかのように、美恵先生はわたしたちに呼びかける。

 食器を重ねながら、思う。やっぱり艦長は子供だ。

 そんな「夢船」なんだけれども、普通の学校と同じように授業はもちろんある。五人いる子供のうち、二人の中学生の年代の子供たちと、残りの三人で二つの教室に別れて、授業を受ける。といっても、艦長たちが黒板を使って教えるわけではない。

 各科目のドリルや参考書を使っての自主勉強なのだ。わたしは勉強が嫌いではなかった。答えが複数あったりする国語はあまり得意ではなかったが、答えが一つしか存在しない算数の答えを誰よりも速く導き出したときの、何とも言えない優越感は悪くはなかった。

 それなのに艦長が「どうだ? 分かるか?」としつこく訊いてくるので、たまったものではない。艦長は基本的には優しいのだが、それが度を越すとわずらわしくなってしまうのだ。

 ちなみに中学の年代の幸一とシュウ君の二人は中学教師の免許を持っている()美恵先生が直接教えている。

 唯一みんなで行う授業が体育だった。しかし体育とは名ばかりで、やることといえば、鬼ごっこかかくれんぼだった。このときばかりは、いつもは肩身の狭い艦長も張り切って参加する。しかもこの人は本気で子供に挑んでくるのだ。

 まず鬼ごっこ。正確な数字は分からないが、無理もできなくなった年齢ではあるに違いないのに、足がめちゃくちゃ速い。あまりに速すぎるので艦長が鬼になっても、すぐに誰かにタッチするし、反対にタッチされることはまずない。

 しかしそれは艦長を孤立させた。強すぎて誰も相手にしなくなったのである。この事態に艦長は必死に考えた結果、鬼は自分で固定してやるということになった。つまり艦長以外の全員がタッチされたら終了というわけである。

 艦長のあまりの気合の入りようにわたしはあきれ、幸一はなぜか興奮した。

 わたしたちを追ってくる艦長は、ほんとに怖かった。なぜか笑いながら走ってくるのである。タッチすることがそんなに楽しいのだろうか。

  あまりの恐怖にわたしは泣いてしまったことがあるぐらいだ。それでも艦長は笑いながらわたしに、はい一人目ー、と言いながらタッチしてきた。最悪だ。

   かくれんぼにいたっては、天才的な才能を発揮した。どこかの国の兵士だったのか、と疑いたくなるぐらいだ。

 何回やっても艦長は最後まで見つけられなかった。あるときは木に登って、またあるときは地中深く穴を掘って、枯葉で見つからないようにカモフラージュしていた。

 あるとき思いついて、隠れる時間に艦長に付いていってみたのだが、近くの森に入ったところで、見失ってしまった。

 本当に艦長は謎だ。

 以前に幸一と、艦長について考えを話し合ったことがある。艦長とはいったい何者か、夢船はどうやって運営しているのか、などなどだ。

大企業の社長だ、宝くじの一等が当たった、いやいや実はどこかの王国の王子だ。様々な案が出たが、どのピースも理想の答えにうまくはまらなかった。

 でもなんかおもしろいからいいや。そのときはそんな結論に達した。

 

 再び艦長の正体を想像しながら、わたしは今日も算数のドリルに取り組んでいる。

「ねえねえサリーちゃん」

「あのねえマーちゃん。わたしは沙里っていうの。さ・り。分かった?」台形の面積を求める公式はなんだったっけなどと考えてたら、マーちゃんが話しかけてきた。今日でもう三回目だ。

「うんうん。わかった。それでねサリーちゃん、このまえパパとママとお兄ちゃんとね、お星さま見にいったの」

 こちらは台形のことで頭がいっぱいなのだ。「だからサリーちゃんじゃなくって、沙里だってば。マーちゃん分かってないじゃん」

「もういいもん。お兄ちゃんのとこにいくから」

 ぷりぷりしながらマーちゃんは教室から出て行った。

 お兄ちゃんというのは、シュウ君のことだ。幸一と一緒に、勉強を別の教室でやっている。夢船にいる子供の中で最年長だ。


3.


 二人は交通事故で両親を亡くしてしまった。

 今でもわたしは二人がやってきたときのことをはっきりと覚えている。ちょうど梅雨に入った頃だった。

 そのときのわたしは毎日続く雨にわたしはうんざりしてする一方で、もしかしたらこの雨で本当にこの夢船が浮くかもしれない、などと期待もしていた。

  二人を初めて見たとき、マーちゃんは泣いていた。シュウ君は泣いていなかったが、こらえているようだった。うつむいて何かを必死に我慢していた。涙が出ないようにそうしていたのだろうが、涙以外の何かも、表に出ないように歯を食いしばっているように見えた。

 来たばっかりの頃のマーちゃんは、いつも泣いていた。

 雨ばっかり降るからと言っては泣き、お腹が空いたと言ったら泣いて、ご飯を食べても、食べ過ぎてお腹が痛いと言って泣いた。

 これがみんなに対してのものだったら、まだ何らかの方法があったのかもしれないけど、その頃のマーちゃんはシュウ君にしか心を開いていなかった。

 当然かもしれないけど、シュウ君は一人でマーちゃんの不定形の感情を、受け止めなくてはいけなかったのだ。

  でもシュウ君は偉かった。マーちゃんを怒るというわけでもなく、そんな行き場のない気持ちを、マーちゃんごとしっかりと抱きしめていた。

 きっとシュウ君も一緒に泣きたかったはずだ。しかしそれはしなかった。そのときシュウ君を支えていたものは、妹は自分がついてなければいけないという、兄としての使命感だった。

 マーちゃんが泣き続けていた理由は、もちろんパパとママが突然いなくなったことだ。

 事故にあった瞬間、マーちゃんとシュウ君は気を失って、病院で意識が戻った頃には、二人の両親はこの世にいなかった。

 中学生になったばかりだったシュウ君は、その現実を受け止めた。いや、あまりの重さに地面にそれごと埋まらないように、今でも懸命にふん張っているのだ。

 たった一人で。

 幼すぎるマーちゃんはパパとママは、どこか遠いところに行ったのだと考えるのが精一杯だった。

 でも両親は戻ってこない。今まで体験したことのないさびしさからくるストレスを、マーちゃんは泣くことでしか発散できなかった。

 そんな妹の姿に見かねて、シュウ君は優しい嘘をついた。マユミが泣くことをやめたらパパとママが戻ってくる、と言ったのだ。

 それで妹が泣くことをやめてくれたら。とにかくシュウ君はマーちゃんに泣かれることがつらかった。

 正しい方法ではないかもしれない。でも誰がシュウ君を責められるというのだろう。わたしはこんなに相手を思いやった嘘ならついていいと思う。

  マーちゃんの変わりようは明らかだった。言われてすぐに泣くことをやめた。そしてことあるごとに「ねえねえお兄ちゃん、いつパパとママはかえってくるの?」と聞いてくるようになった。

 そのたびにシュウ君は、マユミが笑うようになったら、お兄ちゃん以外の人とも話ができるようになったらなどと、優しい嘘を重ねていった。

 最近のマーちゃんは、パパとママのことしか話そうとしない。二人が生きていた頃に家族全員で行ったところ、特に事故にあう前に見た光景を楽しそうにしゃべるものだから、そんな姿を見たらわたしは何とも言えない気持ちになった。

 このままマーちゃんはずっと、帰ってくるはずのないパパとママの帰りを待つことになるのだろうか。

 気がつくと、授業は終わりの時間になっていた。

 その日の夕食は、わたしと幸一とシュウ君とマーちゃんの四人で食べることになった。濃厚で、甘酸っぱい匂いが食べている間もわたしを刺激してくる。艦長が「今日は、艦長風・全力肉固めだ」などと叫んでいるが、要するに今日のメニューは、ケチャップソースがたくさんかかったハンバーグだった。                

  マーちゃんは、最初からペースを落とさずにしゃべり続けている。事故にあう直前の思い出だった。

「そしたらね、目の前にたくさんのお星さまがふってきたの。本当だよ。数えれないくらい。ね、お兄ちゃん」マーちゃんは最初に比べて、本当によく話してくれるようになった。とても大きなくりくりした両目が、きれいに輝いている。しかし、そのせいで料理はほとんど減っていない。

「うん。あれはすごかった」シュウ君は食べる手をやめ、まるで目の前にその光景が広がっているかのような、うっとりとした表情をした。

「それでね、マーちゃんね、お星さまがいっぱいふってるから、お願いごとしたの。おおきなシャケのぬいぐるみがほしいです、って」

「シャケ? 魚の?」何とも珍しいものを、マーちゃんは欲しがったようだった。

「うん」長いお下げの髪の毛が、ご飯の中に入りそうなくらいマーちゃんは大きくうなずいた。

「ほら、シャケをくわえた熊の置き物があるだろ?」シュウ君が全部話す前から、おかしくてたまらないような顔をして、説明を始める。「その置き物のことが、マユミは頭に残っていたんだろうな。ある日、熊の生態を特集している番組をやっていたときに普段はそんなの見ないのに、テレビにくっつくほど近くで必死に見ててさ」

「熊は、産卵をしに戻ってくるシャケを狙うんだよね」幸一が手品の種を明かすように、得意げに話す。

「そうそう。でさ、せっかく卵を産みに頑張ってるときに食べるなんてどういうことだって、すごく怒って」

「くまさんきらい」マーちゃんはほっぺたを大きくふくらませている。怒りがよみがえったようだ。

「反対に、シャケはすごいって。シャケのことが大好きになったんだ」

「へえ。じゃあマーちゃんはシャケ食べれないね」

「いや」

「え?」

「焼かれたシャケと、川を勇敢に上っているシャケは、どうもマユミの頭の中では一致しないみたいで」シュウ君がバツの悪そうな顔をした。「シャケ、マユミの大好物なんだ」

「……なんか、複雑だ」

 思わず出た幸一のつぶやきに、わたしは静かにうなずく。

「そんでね、そのときお兄ちゃんがあんまり上を見すぎたから、後ろにたおれちゃったの。そしたらパパもママもマーちゃんもまねして後ろにたおれて、ずっとお星さまをみてたの。そのあとはね、えっとね……」

 思い出せるはずもない。その帰り道に、マーちゃんたちは事故にあったのだ。

「ほらマユミ、全然食べてないじゃないか。早く食べなさい」シュウ君が話題をそらす。

「やだ。思いだしてから食べる」

 やっかいなことになってしまった。こうなってしまったら、機嫌がなおるまでかなりの時間がいる。

 何回かこんな展開を経験しているシュウ君も、どうしたらいいか困っているようだった。

 しばしの気まずい沈黙があたりを支配する。

「分かった。じゃあすごろくをしよう」

 幸一が突然そんなことを言い出した。何が「分かって」、なぜすごろくをするのかわたしには分からなかった。シュウ君も、あきれた眼差しを幸一に向けている。

 それでいて幸一は、自分がいいアイディアを言ったかのような、とても満足気な表情をしていた。

 わたしは何とかフォローをしようとしたが、その必要はなかった。

「すごろく? やるやるー!」さきほどまでのふくれっ面はどこにいったのか、マーちゃんはテーブルに身を乗り出して、激しく同意している。

「意外と単純なんだな……」

 シュウ君のつぶやきにわたしはゆっくりとうなずいた。


4.


 幸一の言うすごろくとは幸一自身が作ったものだった。およそ一メートル四方の画用紙にスタートからゴールまでのマスがあって、それだけでは物足りないと感じたのか、周りには森や川のなかにいる動物たちが描かれてある。

「題して、サファリすごろくだ!」唐突に幸一が宣言した。

「幸一、最近なんか艦長に似てきてない?」

「そうかな?」

 場所はわたしと幸一が寝ている寝室だった。二つのベッドの間にすごろくの用紙を広げている。

「じゃあ、さっそく始めよう」じゃんけんで順番が最初になったシュウ君がサイコロを振った。ちなみにサイコロも幸一のお手製のようだ。厚紙で作られている。五のマス目が出た。「一、二、……五と。ん? 何か書かれてある」そのマスに顔を近づける。

 わたしも同じようにして見てみたら、そこには「ライオンとたわむれる」とある。

「何これ」

「おっ、いいなあ。いきなりすごいのが出た」

「だから何なのよ」

「何って、見ての通りだよ。ライオンとたわむれるんだ。いいなあ」

 ふざけている様子もなく、笑顔で言う。本当にうらやましそうだ。

「ライオン! ライオン!」

 マーちゃんも状況が分かっているかどうか定かではないが、はしゃいでいる。

 とうのシュウ君は思わぬ展開にとまどっていた。目が明らかに泳いでいる。いつもはしっかりとした、皆のお兄さんのような存在なのでおかしくもあった。

「幸一、これ……」

「本当は僕がそこ狙ってたんだけどなあ。しょうがない、今回はシュウ君にゆずるよ」

 さらに困ったシュウ君は目で助けを求めてくるが、わたしも少しおもしろくなってきたので、この流れに乗ることにする。

「ほら、はやくはやく。ライオンどこかにいっちゃうよ」

 この状況を変えられる唯一の砦を失ったシュウ君は、一瞬わたしをにらみつけ、そのあとは覚悟を決めたのか、よし、と小さくつぶやいて姿勢を正した。

「おー、よしよし……おい、くすぐったいだろ……いてっ、かみつくなって」

 本当にライオンがいるかのようにシュウ君は、両手で何かをなでる仕草をする。

「元気がいいなあ」「シュウ兄ちゃんすごーい」「やっぱ百獣の王は違うわね」

 こんなにくだらないことを、必死でやっているシュウ君がおもしろかった。恥ずかしさのあまり、今は頭を抱えている。

 シュウ君のそんな姿を見れたのはとても貴重な体験だったのだが、はたとわたしは気づいてしまった。こんなことをわたしもやるのだ。すごろくのマスは軽く数えただけでも百以上ある。いくつかの空白もあるが、少なくとも一回は絶対にやらなければならないだろう。

「つぎはマーちゃんがやるー」

 先ほどの機嫌の悪さは微塵も感じさせない元気の良さで、マーちゃんがサイコロを振り、マスを進める。そこには「サバンナの大草原でシマウマと添い寝をする」とある。

 シュウ君が添い寝とは一緒に寝ることだと説明すると、マーちゃんは、ソイネソイネーと言って興奮している。

 さっそくマーちゃんは床に仰向けになった。恥ずかしがっていたシュウ君とは、えらい違いだ。

「さあシマウマさん、いっしょにねんねしましょうね」

 一点の不自然さも感じさせない動作でマーちゃんは、マス目の指示を実行できていた。何の障害物も無い、あの広大な草原が目の前に広がっているようだった。

「いっぱいお星さまが見えますねー」

 つられてわたしも思わず上を向いてしまうが、もちろんそこには木目の天井があるだけだ。サバンナの空にはどんな星空が広がっているのか想像してみる。

「マーちゃん何が見える?」

「うーんとね、お星さま」

 この子は、本当に星が好きなのだろう。彼女の目の中にはきっと幾数もの星が輝いているに違いない。しかし突然、マーちゃんの表情は曇ってしまった。

「シュウ兄ちゃん」

「うん?」

「パパとママは、いつになったら帰ってくるの。わたし泣くのやめたのにぜんぜん来ないじゃん」

「マユミ、いつも兄ちゃんが言っているだろ?マユミが泣かずにいい子にしていたら、必ずパパとママは帰ってくるって」

「じゃあいつ? 何月何日?」

「それは分からないけど……」シュウ君は言いよどんでいる。

 マーちゃんの目には涙がたまっていた。今にも溢れ出てきそうだ。シュウ君今まで頑張ってきたけどもう無理だよ。わたしは心の中でシュウ君につぶやいた。マーちゃんは両親がもう二度と帰ってこないと薄々分かっている。でもまだ、ほんの一ミリでも彼女は帰ってくることを期待しているのだ。

 それでもシュウ君は伝えなくてはいけないのだ。お父さんとお母さんはあの日の事故で死んでしまい、もう戻ってこないことを。

「うそつき! うそつき!」

 マーちゃんはついに泣き出してしまった。泣き声を聞いていると、わたしの気分も落ち込んでくる。

 シュウ君は明らかに動揺していた。その様子が更にマーちゃんの不安を後押しする。

 そのとき緊迫した場面にそぐわない暢気な声が、部屋にとどろいた。

「ドライブ行くぞー!」

声のしたほうを向くと、ドアに柔らかな笑みを顔に浮かべた艦長が立っていた。

 本当にこの人は何を考えているのだろう。ハサミで切れそうなほど、ピンと張り詰めた空気が伝わってこないのだろうか。

「艦長、ドライブはまた今度にしましょうよ」わたしはあきれた感情を隠すことなく、艦長に告げる。

「何でだ?」

「何でって……」だからこの状況が分からないんですか!

「マユミ、星が見たいんだろ?」艦長の声はいつになく優しく、包み込まれるような安心感に満ちていた。「一緒に見に行こう」

 そう言って艦長はマーちゃんを抱きかかえて、すたすたと部屋を出て行ってしまった。

 残されたわたしと幸一とシュウ君は一瞬ぽかんとしたあと、急いで後を追った。

「いったいあの人はどういうつもりなのよ」「さあ。でも艦長は一度言い出したら聞かない人だから」こんなときでも幸一は、出所不明の余裕を身体から放出している。

 玄関を出ると、艦長とマーちゃんはワゴンに乗り込むところだった。

「艦長、待ってください」

「何だ、お前たちも来たかったのなら言えばいいのに」

「いえ、そういうわけじゃないんですけど」艦長だけでは、マーちゃんの身が心配だ。

 そういうわけで、わたしを含めた五人は夜中のドライブに出発することになった。

 目的地へは何度か足を運んだことがあるらしく、艦長のハンドルさばきは軽快だった。気がつくと道路は勾配が多い山道に変わっていった。

 幸一は相変わらずの調子で、ドライブ楽しいね、などとマーちゃんに話しかけている。シュウ君は前方を向いているのだが、どこを見ているのか焦点が定まっていない、虚ろな目をしていた。

 わたしが車の揺れの心地良さにうとうとし始めたときに、それまで言葉を発さなかった艦長が、何気ない口調でシュウ君に話しかけた。「修吾、道はこっちでよかったんだっけ?」

 聞き流そうとしていたわたしの脳は、それを慌てて取り消した。もしや艦長は、シュウ君とマーちゃん家族が以前に訪れた場所に向かおうとしているのだろうか。

 シュウ君の表情は一変していた。目は大きく見開かれ、通り過ぎていく風景に釘付けになっていた。

 きっと、この付近が事故が起こった場所なのだろう。今シュウ君の目にはあの事故のときの映像がフラッシュバックしているに違いない。

「艦長、今すぐ引き返してください。こんなことをしたら――」

「修吾!」

 しゃっくりをした、というのは勘違いでよくよくシュウ君を見てみると、彼は驚くほど甲高い声で嗚咽をもらして泣いていた。

「何でだよ、何で……カーブを曲がっただけなのに……何で気がついたらお父さんとお母さんは……何で」

 シュウ君はこの日のためにためてきたかのように、身体を震わせて涙を流し続けていた。マーちゃんは初めて見る兄の姿にきょとんとした表情をしている。

シュウ君は涙をごしごしと拭ってマーちゃんを膝に乗せ、早くもかれかけた声で言った。「マユミ、嘘ついてごめんな。パパとママはもう戻ってこないんだ。覚えてないよな。星を見て帰る途中で事故にあったときに、パパとママは死んじゃったんだ」

「もういなくなっちゃったの?」

 

「ううん、いるよ。パパとママはお星さまになったんだ」

「お星さまに?」

「そう。知ってるか? 昼にはお星さま見えなくなるけど、太陽の明るさで光が届かないだけで、ちゃんといるんだ。見えないけど、いるんだよ。ずーっと兄ちゃんとマユミを見てる」

 シュウ君はとても晴れ晴れとした表情をしていた。マーちゃんもしっかりと前を見据えている。何にも根拠はないのだけれど、これからどんなことがあっても二人は力を合わせて生きてゆけるだろうとわたしは無責任な確信をした。

 艦長はこうなることを見越していたのだろうか。わたしのそんな疑問なんて露も知らない様子で、艦長は聞いたことのない歌を能天気に口ずさんでいた。

「よーし着いたぞ」

 我先に飛び出した車の外には、手を伸ばせば届きそうなほど無数の星が輝いていた。

「うわあー」

 いきなりマーちゃんが走り出した。わたしもつられて走り出す。とにかくもう走り出したくなるほどの綺麗さというわけだ。

 地面を蹴るたびに、星はどんどんと大きくなっていく。わたしは息をするのももどかしくなるほどに、先を急いだ。

 一足先に小高い丘にたどりついたマーちゃんが、こちらに振り返って叫んだ。

「ねえー! パパとママとのお星さまどれかなあ!」


5.


 うららかな夏の日の午後、わたしは文明の利器の恩恵をこれでもかというほど味わっていた。窓にぶら下がった風鈴は、その機械から出される南極の風に嬉しそうに揺れている。遊び盛りの子供にはあるまじき行為だ。

「クーラー最高……」

 夏になると夢船の子供たちは唯一クーラーがある食堂に集まる。テレビの中ではどこかの誰かさんが、子供たちのために思いっきり遊ばせてあげられる場所を作ろうと熱弁していたが、現実なんてこんなもんだ。はあ、永遠にこの場所にいたい……。

「あなたたち、こんなところでぐうたらしてないで遊んできなさいよ」美恵先生があきれた表情で言う。

「先生、この人はどうなんですか」わたしは豪快ないびきをかいて寝ている艦長を指差して言った。

「またこの人は……。起きたら私のところに来るように言って」そう言うと、美恵先生はため息をついて行ってしまった。

  再びわたしがだらけモードに入ると視界に、窓から遠くを眺めている幸一が入ってきた。最近の幸一は普段と比べてめっきり元気がなくなっていた。わたしはその理由が何となく検討がついていたのだが、自分からそれを聞くのは気が引けた。

 

 一週間ほど前夕飯の最中に、ある理由から離れ離れになってしまった人物と再会させるという内容の番組を見た。

 その日は十年前に蒸発してしまった母親に男性が会うというものだった。

 他人事でないことなので皆は食事もそこそこに、真剣に見ていた。特に幸一はいつもの微笑みはなく、食い入るように画面を見つめていた。そのとき食堂には一言では説明できないような、扱いづらい複雑な感情が渦巻いていた。

 結局、番組のスタッフが懸命の捜索の末見つけ出し、番組はハッピーエンドで終了したのだが誰一人としてそのことに対して言葉を発する者はいなかった。

 食器とスプーンがぶつかる音だけが響く食堂で、幸一は夕飯には一切手をつけず残してしまった。

  それからは、今のような様子の幸一を見ることが多くなった。食事はほとんど残すし、遊んでいてもどこか上の空なのだ。

 そういえば幸一の生い立ちというか、なぜここに預けられることになったのかわたしは幸一から聞いたことがなかった。

「幸一何見てるの」

「うん? いや、いい天気だなあと思って」そう言って笑いかけてくれるのだが、やはりどこか表情が暗い。

 そうだね、とだけわたしは答えて、クッションに顔を沈ませた。

 

 その日の夜、電気を消した後に幸一が話しかけてきた。

「沙里、お願いがあるんだ」

「今度お母さんのところに行くから、一緒についてきて欲しいんだ」

「……は?」

「だから――」

「いやいや、あんた何さらっとすごいことを言ってんのよ。そもそもお金とかはどうするの」

「実はお母さんが毎月お金を振り込んでくれているから、それを使おうかと思う。今度艦長に言ってみるよ」

 暗がりの中で目をこらして幸一の表情をうかがうが、いつもの幸一のそれに戻っているように見えた。幸一は今まで、母親のもとへ行くかどうかで気持ちに迷いがあって、ようやく決心がついたのだろう。

「きっかけはやっぱりこの前の番組なの」

「やっぱり気づかれてたか」

「ばればれよ。あんた目に見えていつもの雰囲気が変わってたもん」

「ごめん」

「謝る必要はないわよ。でもお母さんのところに言って何するの」

「会わなくてもいいんだ。幸せかどうか確認するだけだから」

「そっか。いつ行くの」

 幸一がきょとんとした表情をして言った。「理由は聞かないの?」

「別にいいわよ。何か辛気くさくなるのも嫌だし」

「ありがとう」

「明日から早速作戦練るわよ」

「うん」

 幸一の寝床からは、すぐに寝息が聞こえてきた。

 

 父親のことを考えた。艦長によるとわたしは三才のときに父親から預けられたらしい。だからわたしの父親の記憶は皆無だ。しかしつい先日その父親から、迎えに行く準備ができた、と連絡が来たらしい。

 わたしはどうすればいいか迷っていた。父親と会ったって、どんな顔をしていいか分からないし、わたしの「世界」はこの夢船で父親との新しい生活を想像することなんてできなかった。

 自ら行動を起こし、親に会いに行くという幸一に感心していた。わたしは逃げてばかりだ。

 

 翌日からは幸一と二人で、こそこそと作戦を練った。決行の日時は今から一週間後の夜ということにした。住所は分かっているから心配はないのだが、一番の問題は幸一の母親からの送金を預かっている美恵先生に、どう説明するかだった。いきなりお金が必要だと言っても怪しまれるだけだろう。

「急に旅行したくなったとかは?」

「そんなのだめに決まっているでしょう。第一勝手に子供だけで外出することは禁止なんだから」

「ちょっとお金の感触を楽しみたくなったんです、とかは?」

「だから……。あんた本気で考えてんの?」

「ごめんなさい」

 わたしはまず、幸一の母親のところにきちんといけるかどうかが不安になってきた。

「いい? 幸一の母親のとこまで行けるお金ももらえて、かつ外に出ることを了承されないといけないのよ」

「じゃあ、沙里に何か考えはないの?」

 幸一が目を細めてこちらに非難するような視線を送ってくる。いざ自分で考えるとなると、到底不可能なことにも思えてくる。

 するといつものように、部屋全体に響きわたる大きな艦長の話し声が耳に入ってきた。あの人と内緒話なんて一生できないだろう。

  艦長の言葉を何とはなしに聞いていると突然、わたしの頭にある考えが浮かんだ。一種の賭けだがこの作戦でいくしかないだろう。

「幸一、ちょっと」

 わたしは自分の案を幸一に耳打ちした。

 

「誕生日プレゼント?」美恵先生が眉をひそめて訊き返してきた。それでも綺麗に整った容貌はそこなわれることはない。

「そうです。この前艦長が大声で話しているのを聞いたんです。だからプレゼントを買うための費用をください」わたしは企みがばれないように、とびっきりの笑顔で言った。

「別に幸一のお金だから渡すぶんには問題ないけど、今までそんなことはなかったのに突然どうしたの?」

「いや、それは……」わたしが口ごもっていると幸一が助け舟を出してくれた。

「僕たち、ようやく艦長の素晴らしさに気づいたんです。今までお世話になったんでお礼をしたいんです」

「素晴らしさ、ねえ」美恵先生はあごに手をあて疑惑の視線を送ってくる。「例えば?」

「おにごっこで追いかけるときすごく早いし、あとかくれんぼでは天才的に隠れるのがうまいですいてっ」わたしは急いで幸一の足を踏んで訂正した。

「遊びのことしか言ってないじゃない! ……あの、どんな人にも優しく接する人柄とか、ですかね」

「ふーん」美恵先生はまだ納得していない様子だったが、数日後にお金を用意してくれた。

 

 そして決行の日はやってきた。天気は快晴。すでに汗が衣服を湿らせている。ぎらぎらと照りつける太陽のもと、わたしと幸一は何食わぬ顔で夢船の敷地から外へ出ようとしていた。

「さあプレゼントを買いにいくわよ」

「うん」

  門に手をかけようとしたそのとき、後ろのほうから声をかけられた。

「待てよ」

「ノボル? どうしたの」

「どうしたよじゃねえよ。俺は知ってんだよ。幸一お前母親に会いに行くんだろ」ノボルの声は怒りに満ちていて、幸一を鋭い眼差しでにらんでいた。

「うん。会いに行くよ」幸一に感情の揺らぎはなかった。ひどく落ち着いている。

「何でだよ? ここにいるからには何かしら親に文句の一つもあるだろ?」

「ないよ。ありがとうって言いに行くんだ」

「はあ? 何だそれ。だいたい、いつもへらへらしやがって。気持ち悪いんだよ」そう言って、ノボルはいきなり幸一に殴りかかってきた。

「ちょっと――」

「いいんだ」幸一は地面から起き上がって、砂がついたTシャツを手ではたいた。口が切れて血が出ている。

「ほら、お前も殴ってこいよ」

「僕は殴らない」

「何だと」

「お母さんは毎日殴られていた。僕はそれを毎日見ていたんだ。酔っ払って僕も殴ろうとするあいつから、お母さんは守ってくれた。僕の前では一度も弱音を吐かなかったし、怖がっている僕にいつも唄を歌ってくれたんだ。とても昔のことだけど今でも鮮明に覚えている。そのあとお母さんとあいつは離婚して、再婚した男の人に子供がいたから、僕は夢船に預けられた。でも僕は恨んでなんかいない。お母さんは幸せにならないといけないんだ」わたしは初めて、真剣な表情をしている幸一を見た。幸一の声はよく通っていて、胸に残った。「暴力をふるったら、僕はあいつと同じになってしまう」

 ノボルはしばらくの間黙っていたが、突然大声で泣き出した。

「俺は毎日親父に殴られていた。殴っているときに親父が笑うんだよ。だから人を殴るってことは気持ちいいことなんだろうなって思ってた。でも楽しかったことなんてなかった。今まで本気で楽しかったことなんて一度もなかった。それでいつも笑っているお前を見てたらさ、とてもうらやましくなったんだ。すまん。殴ってほんとにすまん」

「いいよ。帰ったら一緒に遊ぼう。すごろくがあるから」

「すごろく?」

「うん」

「……分かった。楽しみにしているよ」



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