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3.


 二人は交通事故で両親を亡くしてしまった。

 今でもわたしは二人がやってきたときのことをはっきりと覚えている。ちょうど梅雨に入った頃だった。

 そのときのわたしは毎日続く雨にわたしはうんざりしてする一方で、もしかしたらこの雨で本当にこの夢船が浮くかもしれない、などと期待もしていた。

  二人を初めて見たとき、マーちゃんは泣いていた。シュウ君は泣いていなかったが、こらえているようだった。うつむいて何かを必死に我慢していた。涙が出ないようにそうしていたのだろうが、涙以外の何かも、表に出ないように歯を食いしばっているように見えた。

 来たばっかりの頃のマーちゃんは、いつも泣いていた。

 雨ばっかり降るからと言っては泣き、お腹が空いたと言ったら泣いて、ご飯を食べても、食べ過ぎてお腹が痛いと言って泣いた。

 これがみんなに対してのものだったら、まだ何らかの方法があったのかもしれないけど、その頃のマーちゃんはシュウ君にしか心を開いていなかった。

 当然かもしれないけど、シュウ君は一人でマーちゃんの不定形の感情を、受け止めなくてはいけなかったのだ。

  でもシュウ君は偉かった。マーちゃんを怒るというわけでもなく、そんな行き場のない気持ちを、マーちゃんごとしっかりと抱きしめていた。

 きっとシュウ君も一緒に泣きたかったはずだ。しかしそれはしなかった。そのときシュウ君を支えていたものは、妹は自分がついてなければいけないという、兄としての使命感だった。

 マーちゃんが泣き続けていた理由は、もちろんパパとママが突然いなくなったことだ。

 事故にあった瞬間、マーちゃんとシュウ君は気を失って、病院で意識が戻った頃には、二人の両親はこの世にいなかった。

 中学生になったばかりだったシュウ君は、その現実を受け止めた。いや、あまりの重さに地面にそれごと埋まらないように、今でも懸命にふん張っているのだ。

 たった一人で。

 幼すぎるマーちゃんはパパとママは、どこか遠いところに行ったのだと考えるのが精一杯だった。

 でも両親は戻ってこない。今まで体験したことのないさびしさからくるストレスを、マーちゃんは泣くことでしか発散できなかった。

 そんな妹の姿に見かねて、シュウ君は優しい嘘をついた。マユミが泣くことをやめたらパパとママが戻ってくる、と言ったのだ。

 それで妹が泣くことをやめてくれたら。とにかくシュウ君はマーちゃんに泣かれることがつらかった。

 正しい方法ではないかもしれない。でも誰がシュウ君を責められるというのだろう。わたしはこんなに相手を思いやった嘘ならついていいと思う。

  マーちゃんの変わりようは明らかだった。言われてすぐに泣くことをやめた。そしてことあるごとに「ねえねえお兄ちゃん、いつパパとママはかえってくるの?」と聞いてくるようになった。

 そのたびにシュウ君は、マユミが笑うようになったら、お兄ちゃん以外の人とも話ができるようになったらなどと、優しい嘘を重ねていった。

 最近のマーちゃんは、パパとママのことしか話そうとしない。二人が生きていた頃に家族全員で行ったところ、特に事故にあう前に見た光景を楽しそうにしゃべるものだから、そんな姿を見たらわたしは何とも言えない気持ちになった。

 このままマーちゃんはずっと、帰ってくるはずのないパパとママの帰りを待つことになるのだろうか。

 気がつくと、授業は終わりの時間になっていた。

 その日の夕食は、わたしと幸一とシュウ君とマーちゃんの四人で食べることになった。濃厚で、甘酸っぱい匂いが食べている間もわたしを刺激してくる。艦長が「今日は、艦長風・全力肉固めだ」などと叫んでいるが、要するに今日のメニューは、ケチャップソースがたくさんかかったハンバーグだった。                

  マーちゃんは、最初からペースを落とさずにしゃべり続けている。事故にあう直前の思い出だった。

「そしたらね、目の前にたくさんのお星さまがふってきたの。本当だよ。数えれないくらい。ね、お兄ちゃん」マーちゃんは最初に比べて、本当によく話してくれるようになった。とても大きなくりくりした両目が、きれいに輝いている。しかし、そのせいで料理はほとんど減っていない。

「うん。あれはすごかった」シュウ君は食べる手をやめ、まるで目の前にその光景が広がっているかのような、うっとりとした表情をした。

「それでね、マーちゃんね、お星さまがいっぱいふってるから、お願いごとしたの。おおきなシャケのぬいぐるみがほしいです、って」

「シャケ? 魚の?」何とも珍しいものを、マーちゃんは欲しがったようだった。

「うん」長いお下げの髪の毛が、ご飯の中に入りそうなくらいマーちゃんは大きくうなずいた。

「ほら、シャケをくわえた熊の置き物があるだろ?」シュウ君が全部話す前から、おかしくてたまらないような顔をして、説明を始める。「その置き物のことが、マユミは頭に残っていたんだろうな。ある日、熊の生態を特集している番組をやっていたときに普段はそんなの見ないのに、テレビにくっつくほど近くで必死に見ててさ」

「熊は、産卵をしに戻ってくるシャケを狙うんだよね」幸一が手品の種を明かすように、得意げに話す。

「そうそう。でさ、せっかく卵を産みに頑張ってるときに食べるなんてどういうことだって、すごく怒って」

「くまさんきらい」マーちゃんはほっぺたを大きくふくらませている。怒りがよみがえったようだ。

「反対に、シャケはすごいって。シャケのことが大好きになったんだ」

「へえ。じゃあマーちゃんはシャケ食べれないね」

「いや」

「え?」

「焼かれたシャケと、川を勇敢に上っているシャケは、どうもマユミの頭の中では一致しないみたいで」シュウ君がバツの悪そうな顔をした。「シャケ、マユミの大好物なんだ」

「……なんか、複雑だ」

 思わず出た幸一のつぶやきに、わたしは静かにうなずく。

「そんでね、そのときお兄ちゃんがあんまり上を見すぎたから、後ろにたおれちゃったの。そしたらパパもママもマーちゃんもまねして後ろにたおれて、ずっとお星さまをみてたの。そのあとはね、えっとね……」

 思い出せるはずもない。その帰り道に、マーちゃんたちは事故にあったのだ。

「ほらマユミ、全然食べてないじゃないか。早く食べなさい」シュウ君が話題をそらす。

「やだ。思いだしてから食べる」

 やっかいなことになってしまった。こうなってしまったら、機嫌がなおるまでかなりの時間がいる。

 何回かこんな展開を経験しているシュウ君も、どうしたらいいか困っているようだった。

 しばしの気まずい沈黙があたりを支配する。

「分かった。じゃあすごろくをしよう」

 幸一が突然そんなことを言い出した。何が「分かって」、なぜすごろくをするのかわたしには分からなかった。シュウ君も、あきれた眼差しを幸一に向けている。

 それでいて幸一は、自分がいいアイディアを言ったかのような、とても満足気な表情をしていた。

 わたしは何とかフォローをしようとしたが、その必要はなかった。

「すごろく? やるやるー!」さきほどまでのふくれっ面はどこにいったのか、マーちゃんはテーブルに身を乗り出して、激しく同意している。

「意外と単純なんだな……」

 シュウ君のつぶやきにわたしはゆっくりとうなずいた。


4.


 幸一の言うすごろくとは幸一自身が作ったものだった。およそ一メートル四方の画用紙にスタートからゴールまでのマスがあって、それだけでは物足りないと感じたのか、周りには森や川のなかにいる動物たちが描かれてある。

「題して、サファリすごろくだ!」唐突に幸一が宣言した。

「幸一、最近なんか艦長に似てきてない?」

「そうかな?」

 場所はわたしと幸一が寝ている寝室だった。二つのベッドの間にすごろくの用紙を広げている。

「じゃあ、さっそく始めよう」じゃんけんで順番が最初になったシュウ君がサイコロを振った。ちなみにサイコロも幸一のお手製のようだ。厚紙で作られている。五のマス目が出た。「一、二、……五と。ん? 何か書かれてある」そのマスに顔を近づける。

 わたしも同じようにして見てみたら、そこには「ライオンとたわむれる」とある。

「何これ」

「おっ、いいなあ。いきなりすごいのが出た」

「だから何なのよ」

「何って、見ての通りだよ。ライオンとたわむれるんだ。いいなあ」

 ふざけている様子もなく、笑顔で言う。本当にうらやましそうだ。

「ライオン! ライオン!」

 マーちゃんも状況が分かっているかどうか定かではないが、はしゃいでいる。

 とうのシュウ君は思わぬ展開にとまどっていた。目が明らかに泳いでいる。いつもはしっかりとした、皆のお兄さんのような存在なのでおかしくもあった。

「幸一、これ……」

「本当は僕がそこ狙ってたんだけどなあ。しょうがない、今回はシュウ君にゆずるよ」

 さらに困ったシュウ君は目で助けを求めてくるが、わたしも少しおもしろくなってきたので、この流れに乗ることにする。

「ほら、はやくはやく。ライオンどこかにいっちゃうよ」

 この状況を変えられる唯一の砦を失ったシュウ君は、一瞬わたしをにらみつけ、そのあとは覚悟を決めたのか、よし、と小さくつぶやいて姿勢を正した。

「おー、よしよし……おい、くすぐったいだろ……いてっ、かみつくなって」

 本当にライオンがいるかのようにシュウ君は、両手で何かをなでる仕草をする。

「元気がいいなあ」「シュウ兄ちゃんすごーい」「やっぱ百獣の王は違うわね」

 こんなにくだらないことを、必死でやっているシュウ君がおもしろかった。恥ずかしさのあまり、今は頭を抱えている。

 シュウ君のそんな姿を見れたのはとても貴重な体験だったのだが、はたとわたしは気づいてしまった。こんなことをわたしもやるのだ。すごろくのマスは軽く数えただけでも百以上ある。いくつかの空白もあるが、少なくとも一回は絶対にやらなければならないだろう。

「つぎはマーちゃんがやるー」

 先ほどの機嫌の悪さは微塵も感じさせない元気の良さで、マーちゃんがサイコロを振り、マスを進める。そこには「サバンナの大草原でシマウマと添い寝をする」とある。

 シュウ君が添い寝とは一緒に寝ることだと説明すると、マーちゃんは、ソイネソイネーと言って興奮している。

 さっそくマーちゃんは床に仰向けになった。恥ずかしがっていたシュウ君とは、えらい違いだ。

「さあシマウマさん、いっしょにねんねしましょうね」

 一点の不自然さも感じさせない動作でマーちゃんは、マス目の指示を実行できていた。何の障害物も無い、あの広大な草原が目の前に広がっているようだった。

「いっぱいお星さまが見えますねー」

 つられてわたしも思わず上を向いてしまうが、もちろんそこには木目の天井があるだけだ。サバンナの空にはどんな星空が広がっているのか想像してみる。

「マーちゃん何が見える?」

「うーんとね、お星さま」

 この子は、本当に星が好きなのだろう。彼女の目の中にはきっと幾数もの星が輝いているに違いない。しかし突然、マーちゃんの表情は曇ってしまった。

「シュウ兄ちゃん」

「うん?」

「パパとママは、いつになったら帰ってくるの。わたし泣くのやめたのにぜんぜん来ないじゃん」

「マユミ、いつも兄ちゃんが言っているだろ?マユミが泣かずにいい子にしていたら、必ずパパとママは帰ってくるって」

「じゃあいつ? 何月何日?」

「それは分からないけど……」シュウ君は言いよどんでいる。

 マーちゃんの目には涙がたまっていた。今にも溢れ出てきそうだ。シュウ君今まで頑張ってきたけどもう無理だよ。わたしは心の中でシュウ君につぶやいた。マーちゃんは両親がもう二度と帰ってこないと薄々分かっている。でもまだ、ほんの一ミリでも彼女は帰ってくることを期待しているのだ。

 それでもシュウ君は伝えなくてはいけないのだ。お父さんとお母さんはあの日の事故で死んでしまい、もう戻ってこないことを。

「うそつき! うそつき!」

 マーちゃんはついに泣き出してしまった。泣き声を聞いていると、わたしの気分も落ち込んでくる。

 シュウ君は明らかに動揺していた。その様子が更にマーちゃんの不安を後押しする。

 そのとき緊迫した場面にそぐわない暢気な声が、部屋にとどろいた。

「ドライブ行くぞー!」

声のしたほうを向くと、ドアに柔らかな笑みを顔に浮かべた艦長が立っていた。

 本当にこの人は何を考えているのだろう。ハサミで切れそうなほど、ピンと張り詰めた空気が伝わってこないのだろうか。

「艦長、ドライブはまた今度にしましょうよ」わたしはあきれた感情を隠すことなく、艦長に告げる。

「何でだ?」

「何でって……」だからこの状況が分からないんですか!

「マユミ、星が見たいんだろ?」艦長の声はいつになく優しく、包み込まれるような安心感に満ちていた。「一緒に見に行こう」

 そう言って艦長はマーちゃんを抱きかかえて、すたすたと部屋を出て行ってしまった。

 残されたわたしと幸一とシュウ君は一瞬ぽかんとしたあと、急いで後を追った。

「いったいあの人はどういうつもりなのよ」「さあ。でも艦長は一度言い出したら聞かない人だから」こんなときでも幸一は、出所不明の余裕を身体から放出している。

 玄関を出ると、艦長とマーちゃんはワゴンに乗り込むところだった。

「艦長、待ってください」

「何だ、お前たちも来たかったのなら言えばいいのに」

「いえ、そういうわけじゃないんですけど」艦長だけでは、マーちゃんの身が心配だ。

 そういうわけで、わたしを含めた五人は夜中のドライブに出発することになった。

 目的地へは何度か足を運んだことがあるらしく、艦長のハンドルさばきは軽快だった。気がつくと道路は勾配が多い山道に変わっていった。

 幸一は相変わらずの調子で、ドライブ楽しいね、などとマーちゃんに話しかけている。シュウ君は前方を向いているのだが、どこを見ているのか焦点が定まっていない、虚ろな目をしていた。

 わたしが車の揺れの心地良さにうとうとし始めたときに、それまで言葉を発さなかった艦長が、何気ない口調でシュウ君に話しかけた。「修吾、道はこっちでよかったんだっけ?」

 聞き流そうとしていたわたしの脳は、それを慌てて取り消した。もしや艦長は、シュウ君とマーちゃん家族が以前に訪れた場所に向かおうとしているのだろうか。

 シュウ君の表情は一変していた。目は大きく見開かれ、通り過ぎていく風景に釘付けになっていた。

 きっと、この付近が事故が起こった場所なのだろう。今シュウ君の目にはあの事故のときの映像がフラッシュバックしているに違いない。

「艦長、今すぐ引き返してください。こんなことをしたら――」

「修吾!」

 しゃっくりをした、というのは勘違いでよくよくシュウ君を見てみると、彼は驚くほど甲高い声で嗚咽をもらして泣いていた。

「何でだよ、何で……カーブを曲がっただけなのに……何で気がついたらお父さんとお母さんは……何で」

 シュウ君はこの日のためにためてきたかのように、身体を震わせて涙を流し続けていた。マーちゃんは初めて見る兄の姿にきょとんとした表情をしている。

シュウ君は涙をごしごしと拭ってマーちゃんを膝に乗せ、早くもかれかけた声で言った。「マユミ、嘘ついてごめんな。パパとママはもう戻ってこないんだ。覚えてないよな。星を見て帰る途中で事故にあったときに、パパとママは死んじゃったんだ」

「もういなくなっちゃったの?」

 

「ううん、いるよ。パパとママはお星さまになったんだ」

「お星さまに?」

「そう。知ってるか? 昼にはお星さま見えなくなるけど、太陽の明るさで光が届かないだけで、ちゃんといるんだ。見えないけど、いるんだよ。ずーっと兄ちゃんとマユミを見てる」

 シュウ君はとても晴れ晴れとした表情をしていた。マーちゃんもしっかりと前を見据えている。何にも根拠はないのだけれど、これからどんなことがあっても二人は力を合わせて生きてゆけるだろうとわたしは無責任な確信をした。

 艦長はこうなることを見越していたのだろうか。わたしのそんな疑問なんて露も知らない様子で、艦長は聞いたことのない歌を能天気に口ずさんでいた。

「よーし着いたぞ」

 我先に飛び出した車の外には、手を伸ばせば届きそうなほど無数の星が輝いていた。

「うわあー」

 いきなりマーちゃんが走り出した。わたしもつられて走り出す。とにかくもう走り出したくなるほどの綺麗さというわけだ。

 地面を蹴るたびに、星はどんどんと大きくなっていく。わたしは息をするのももどかしくなるほどに、先を急いだ。

 一足先に小高い丘にたどりついたマーちゃんが、こちらに振り返って叫んだ。

「ねえー! パパとママとのお星さまどれかなあ!」


5.


 うららかな夏の日の午後、わたしは文明の利器の恩恵をこれでもかというほど味わっていた。窓にぶら下がった風鈴は、その機械から出される南極の風に嬉しそうに揺れている。遊び盛りの子供にはあるまじき行為だ。

「クーラー最高……」

 夏になると夢船の子供たちは唯一クーラーがある食堂に集まる。テレビの中ではどこかの誰かさんが、子供たちのために思いっきり遊ばせてあげられる場所を作ろうと熱弁していたが、現実なんてこんなもんだ。はあ、永遠にこの場所にいたい……。

「あなたたち、こんなところでぐうたらしてないで遊んできなさいよ」美恵先生があきれた表情で言う。

「先生、この人はどうなんですか」わたしは豪快ないびきをかいて寝ている艦長を指差して言った。

「またこの人は……。起きたら私のところに来るように言って」そう言うと、美恵先生はため息をついて行ってしまった。

  再びわたしがだらけモードに入ると視界に、窓から遠くを眺めている幸一が入ってきた。最近の幸一は普段と比べてめっきり元気がなくなっていた。わたしはその理由が何となく検討がついていたのだが、自分からそれを聞くのは気が引けた。

 

 一週間ほど前夕飯の最中に、ある理由から離れ離れになってしまった人物と再会させるという内容の番組を見た。

 その日は十年前に蒸発してしまった母親に男性が会うというものだった。

 他人事でないことなので皆は食事もそこそこに、真剣に見ていた。特に幸一はいつもの微笑みはなく、食い入るように画面を見つめていた。そのとき食堂には一言では説明できないような、扱いづらい複雑な感情が渦巻いていた。

 結局、番組のスタッフが懸命の捜索の末見つけ出し、番組はハッピーエンドで終了したのだが誰一人としてそのことに対して言葉を発する者はいなかった。

 食器とスプーンがぶつかる音だけが響く食堂で、幸一は夕飯には一切手をつけず残してしまった。

  それからは、今のような様子の幸一を見ることが多くなった。食事はほとんど残すし、遊んでいてもどこか上の空なのだ。

 そういえば幸一の生い立ちというか、なぜここに預けられることになったのかわたしは幸一から聞いたことがなかった。

「幸一何見てるの」

「うん? いや、いい天気だなあと思って」そう言って笑いかけてくれるのだが、やはりどこか表情が暗い。

 そうだね、とだけわたしは答えて、クッションに顔を沈ませた。

 

 その日の夜、電気を消した後に幸一が話しかけてきた。

「沙里、お願いがあるんだ」

「今度お母さんのところに行くから、一緒についてきて欲しいんだ」

「……は?」

「だから――」

「いやいや、あんた何さらっとすごいことを言ってんのよ。そもそもお金とかはどうするの」

「実はお母さんが毎月お金を振り込んでくれているから、それを使おうかと思う。今度艦長に言ってみるよ」

 暗がりの中で目をこらして幸一の表情をうかがうが、いつもの幸一のそれに戻っているように見えた。幸一は今まで、母親のもとへ行くかどうかで気持ちに迷いがあって、ようやく決心がついたのだろう。

「きっかけはやっぱりこの前の番組なの」

「やっぱり気づかれてたか」

「ばればれよ。あんた目に見えていつもの雰囲気が変わってたもん」

「ごめん」

「謝る必要はないわよ。でもお母さんのところに言って何するの」

「会わなくてもいいんだ。幸せかどうか確認するだけだから」

「そっか。いつ行くの」

 幸一がきょとんとした表情をして言った。「理由は聞かないの?」

「別にいいわよ。何か辛気くさくなるのも嫌だし」

「ありがとう」

「明日から早速作戦練るわよ」

「うん」

 幸一の寝床からは、すぐに寝息が聞こえてきた。

 

 父親のことを考えた。艦長によるとわたしは三才のときに父親から預けられたらしい。だからわたしの父親の記憶は皆無だ。しかしつい先日その父親から、迎えに行く準備ができた、と連絡が来たらしい。

 わたしはどうすればいいか迷っていた。父親と会ったって、どんな顔をしていいか分からないし、わたしの「世界」はこの夢船で父親との新しい生活を想像することなんてできなかった。

 自ら行動を起こし、親に会いに行くという幸一に感心していた。わたしは逃げてばかりだ。

 

 翌日からは幸一と二人で、こそこそと作戦を練った。決行の日時は今から一週間後の夜ということにした。住所は分かっているから心配はないのだが、一番の問題は幸一の母親からの送金を預かっている美恵先生に、どう説明するかだった。いきなりお金が必要だと言っても怪しまれるだけだろう。

「急に旅行したくなったとかは?」

「そんなのだめに決まっているでしょう。第一勝手に子供だけで外出することは禁止なんだから」

「ちょっとお金の感触を楽しみたくなったんです、とかは?」

「だから……。あんた本気で考えてんの?」

「ごめんなさい」

 わたしはまず、幸一の母親のところにきちんといけるかどうかが不安になってきた。

「いい? 幸一の母親のとこまで行けるお金ももらえて、かつ外に出ることを了承されないといけないのよ」

「じゃあ、沙里に何か考えはないの?」

 幸一が目を細めてこちらに非難するような視線を送ってくる。いざ自分で考えるとなると、到底不可能なことにも思えてくる。

 するといつものように、部屋全体に響きわたる大きな艦長の話し声が耳に入ってきた。あの人と内緒話なんて一生できないだろう。

  艦長の言葉を何とはなしに聞いていると突然、わたしの頭にある考えが浮かんだ。一種の賭けだがこの作戦でいくしかないだろう。

「幸一、ちょっと」

 わたしは自分の案を幸一に耳打ちした。

 

「誕生日プレゼント?」美恵先生が眉をひそめて訊き返してきた。それでも綺麗に整った容貌はそこなわれることはない。

「そうです。この前艦長が大声で話しているのを聞いたんです。だからプレゼントを買うための費用をください」わたしは企みがばれないように、とびっきりの笑顔で言った。

「別に幸一のお金だから渡すぶんには問題ないけど、今までそんなことはなかったのに突然どうしたの?」

「いや、それは……」わたしが口ごもっていると幸一が助け舟を出してくれた。

「僕たち、ようやく艦長の素晴らしさに気づいたんです。今までお世話になったんでお礼をしたいんです」

「素晴らしさ、ねえ」美恵先生はあごに手をあて疑惑の視線を送ってくる。「例えば?」

「おにごっこで追いかけるときすごく早いし、あとかくれんぼでは天才的に隠れるのがうまいですいてっ」わたしは急いで幸一の足を踏んで訂正した。

「遊びのことしか言ってないじゃない! ……あの、どんな人にも優しく接する人柄とか、ですかね」

「ふーん」美恵先生はまだ納得していない様子だったが、数日後にお金を用意してくれた。

 

 そして決行の日はやってきた。天気は快晴。すでに汗が衣服を湿らせている。ぎらぎらと照りつける太陽のもと、わたしと幸一は何食わぬ顔で夢船の敷地から外へ出ようとしていた。

「さあプレゼントを買いにいくわよ」

「うん」

  門に手をかけようとしたそのとき、後ろのほうから声をかけられた。

「待てよ」

「ノボル? どうしたの」

「どうしたよじゃねえよ。俺は知ってんだよ。幸一お前母親に会いに行くんだろ」ノボルの声は怒りに満ちていて、幸一を鋭い眼差しでにらんでいた。

「うん。会いに行くよ」幸一に感情の揺らぎはなかった。ひどく落ち着いている。

「何でだよ? ここにいるからには何かしら親に文句の一つもあるだろ?」

「ないよ。ありがとうって言いに行くんだ」

「はあ? 何だそれ。だいたい、いつもへらへらしやがって。気持ち悪いんだよ」そう言って、ノボルはいきなり幸一に殴りかかってきた。

「ちょっと――」

「いいんだ」幸一は地面から起き上がって、砂がついたTシャツを手ではたいた。口が切れて血が出ている。

「ほら、お前も殴ってこいよ」

「僕は殴らない」

「何だと」

「お母さんは毎日殴られていた。僕はそれを毎日見ていたんだ。酔っ払って僕も殴ろうとするあいつから、お母さんは守ってくれた。僕の前では一度も弱音を吐かなかったし、怖がっている僕にいつも唄を歌ってくれたんだ。とても昔のことだけど今でも鮮明に覚えている。そのあとお母さんとあいつは離婚して、再婚した男の人に子供がいたから、僕は夢船に預けられた。でも僕は恨んでなんかいない。お母さんは幸せにならないといけないんだ」わたしは初めて、真剣な表情をしている幸一を見た。幸一の声はよく通っていて、胸に残った。「暴力をふるったら、僕はあいつと同じになってしまう」

 ノボルはしばらくの間黙っていたが、突然大声で泣き出した。

「俺は毎日親父に殴られていた。殴っているときに親父が笑うんだよ。だから人を殴るってことは気持ちいいことなんだろうなって思ってた。でも楽しかったことなんてなかった。今まで本気で楽しかったことなんて一度もなかった。それでいつも笑っているお前を見てたらさ、とてもうらやましくなったんだ。すまん。殴ってほんとにすまん」

「いいよ。帰ったら一緒に遊ぼう。すごろくがあるから」

「すごろく?」

「うん」

「……分かった。楽しみにしているよ」


6.


 幸一の母親の居場所へは、電車を乗り継いで二時間ほどかかった。移動の最中幸一はよくしゃべった。最近おもしろかったテレビや、艦長の話などわたしも内容は知っているのに、よく笑った。緊張しているのだと思う。当然だ。

 目的の駅に到着すると幸一は、四つ折りにされた一枚の紙をポケットから取り出した。手書きで簡単な地図が描かれてあるそれは、くしゃくしゃになっていた。何度も行こうとして、途中であきらめて折りたたんだあとなのだろう。

 地図を手に、わたしたちは歩き始めた。ビルや店舗は少なく住宅が主で、住みやすそうな街に思えた。

 幸一がある家の前で止まった。ここが幸一の母親と再婚した男性とその子供が住んでいる家なのだろう。

 ごく普通の住宅だった。二階建てで、小さな門がついている。背伸びすると犬小屋も見えた。

「うん。いい家だ」そう言って、幸一は歩き出した。

 わたしは肩すかしをくらった思いで訊いた。「ちょっと、入んないの?」

「会うのは違うような気がするんだ。もうお母さんには新しい家庭がある。あとで電話をするよ」

「あんたはどこまでいい子ちゃんなのよ? 会いたくないの?」わたしが心底呆れた口調で言ったのだが、幸一は微笑むだけだった。しょうがなく立ち去ろうとすると、ドアから人が出てきた。わたしたちは急いでその場を離れて様子をうかがった。

 四、五才ぐらいの男の子が元気に走っていく。すぐにその子の背中は見えなくなった。

「待ちなさい。マサル!」

 後を追って、女性が出てきた。この人が幸一の母親なのだろう。

 格好は淡い紫色のノースリーブに白のスカートというとても夏らしい出で立ちだった。買い物に出かけるのだろうか、手に財布らしき入れ物を持ってこちらに背を向け、さっそうと歩いていく。

「幸一!」わたしは指を差して追いかけようとしたのだが、幸一は口に人差し指を当て首を横に振った。

 やがてその女性もわたしの視界から消えた。

 

 夕暮れ時、わたしたちは公園にいた。二人でブランコに乗り、ただ黙々とこいでいた。

 電話をする、と言ってから、幸一はそれをすぐに行うことはしなかった。疑問を覚えたわたしはすぐにその理由を思いついた。

 話をするのは最初で最後になるからだ。新しい生活を始めた母親と何度も関わりを持つことはできない。幸一は今日の電話で母親と決別しようとしているのだ。

 ブランコだけでは退屈だと幸一が言ったので、靴飛ばしをすることにした。五戦目にしてようやく幸一の靴が、わたしの靴より遠くに飛んだところで幸一が言った。

「電話するよ」

 時間はもう夜で、他に遊んでいた子供たちはとっくに家に帰っていた。わたしたちは公園を出て公衆電話を探し、幸一が一人電話ボックスの中に入った。

 中に入って、幸一はしばらくじっとしていたが意を決した様子でお金を電話機に投入して、電話をかけた。そして二言、三言話したあとわたしに向かってくしゃくしゃの笑顔でピースをしてきた。その笑顔には、もう不足など感じられなかった。幸一の笑顔に足りないものが、何となく分かったような気がした。幸一の笑みは今までは人を安心させるためのものだった。だが、今回は自分の喜びを表すために、ようやく本来の笑みができるようになったのだ。幸一は心の底から母親の幸せを喜んでいた。

 ボックスの中から幸一が出てきたあと、わたしは訊いた。「何を話したの」

「学校の宿題で調査をしていますって言ってさ、今あなたは幸せですかって質問した。そしたら、はい、って言ってくれたんだ。そのあとありがとうございましたって言って切った」

「そっか」

「夜遅くなっちゃったね。帰ろうか」

「うん」

 強いな、と単純にそう思った。幸一は自分の置かれた状況に屈しようとはせずに、立ち向かっていった。そして打ち勝ったのだ。自分で道を切り開いた。

「普通の家族を作るんだ」帰り道に幸一は言った。「僕がいて、奥さんがいて子供がいる。普通でいいんだ」

 

 夢船に戻ると、いきなり美恵先生に頬をぶたれた。

「どこまで行ってたのよ?こんな夜遅くに帰ってきて」

「すみません」

「お父さんに口止めされていたけど、言うわ。今回のこと私も艦長も知ってたんだからね」

「え」わたしの企みは皆にばればれだったのか。

「分からないわけないじゃない。何かこそこそしていたし。いきなりお金が必要だって言うし。でもお父さんがそっとしておけって言うから」

「本当にすみませんでした」

「謝るなら私よりもお父さんに謝って。あの人が一番心配していただろうから」

 外にいた艦長に声をかけると「蛍見たいか」と訊かれた。

「あ、いや」わたしと幸一は直立して同時に「ごめんなさい」と言った。

「プレゼント買ってきたか?」わたしが何と応えていいか戸惑っていると、来年は絶対にくれよ、と笑ってくれた。

「あ」幸一が見ている方向に目を向けると、黄色い光がゆっくりと点滅を繰り返していた。

「蛍。初めて見たかも」

「たまに現れるんだよ。ラッキーだったな」

 数匹の蛍はそのあともゆらゆらと移動しながら輝きを放ち、目を楽しませた。

「お帰りなさい、だな」艦長がぽつりと呟いた。

 

「げ」ノボルはそう言ったまま、固まってしまった。

 暑さがさらに勢いを増す午後に、わたしと幸一とノボルとシュウ君とマーちゃんは再びサファリすごろくを楽しんでいた。

「ほらノボル、『サイとたわむれる』と書かれてあるわよ」

「わ、分かってるよ」そう言いながらも、かなりノボルは動揺していた。

 窓から外を見ると、入道雲が青く抜けるような空に、堂々と居座っていた。どこまでも上空のほうに身体を伸ばしたその姿は、どこか誇らしげだ。

「お父さんと会ってみます」朝、わたしは艦長にそう告げた。「とにかく一度会ってみて、それからどうするか自分で考えてみようと思います」

「そうか。沙里の思うようにしたらいい」艦長はいつもの調子でそう言ってくれた。

 気持ちの変化を強く自覚していた。世の中は頑張ってもうまくいかないことのほうが多いかもしれない。でもわたしはこれからはとにかく動いてみようと思う。先が見えないのなら、自分の足でしっかりと地面を踏みしめて歩いて確かめればいいのだ。

 ふと、わたしはあることを思いついた。あの入道雲なら、この夢船を乗せてくれるかもしれない、と。雲に乗ってどこまで行けるか分からないが、きっと見晴らしは最高だろう。        

わたしはそっと心の中で、浮け、と念じてみる。

奥付



あの入道雲なら


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著者 : 鬼風神GO
著者プロフィール:http://p.booklog.jp/users/monument/profile


発行所 : ブクログのパブー(http://p.booklog.jp/
運営会社:株式会社paperboy&co.


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