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合衆国に挑んだトム・シンの80万ドル戦争

  アメリカ合衆国カリフォルニア州モントレー市は、現在人口約3万の古い港町である。歴史的建造物が多く、観光地としても人気がある。映画『エデンの東』の舞台になったことでも知られている。ちなみに、石川県七尾市とは姉妹都市である。

 そもそもスペインの植民地として開拓されたカリフォルニアは、メキシコの独立と同時にメキシコ領となり、その後米墨戦争によってアメリカに併合された。

 この米墨戦争の開戦から2か月半後の1846年7月7日、アメリカの太平洋艦隊は、州都であったモントレーに上陸し、ここで星条旗を掲げて、カリフォルニアの併合を宣言した。

 当時モントレーは北カリフォルニア最大の都市だったが、1848年に始まったゴールドラッシュ以後州の中心はサンフランシスコに移り、州都も別の町に移された。そして、サンフランシスコからの鉄道が開通してからは、避暑地として発展した。

 

 1875年、太平洋艦隊の上陸から29年後のこと――

 このモントレーの町は、ふたたび艦隊の来襲を受けることになった。

 さわやかに晴れわたった10月のある日の朝、太平洋の方向から湾内に、全長30メートルの勇壮な木造帆船が七隻一列に連なって乗りこんできたのである。

 その船は、アメリカのものでも、メキシコのものでもなかった。当時2000人に満たないモントレーの市民の誰にとっても、初めて見る船だった。

 船上には高さ20メートルほどのマストが3本立てられ、それぞれにこうもりの翼を連想させるような形状の目にも鮮やかな黄色い帆が張られていた。どのマストも、金色に輝く幸運のお守りで飾り立てられていた。そして、マストのてっぺんには、清国海軍の軍旗がへんぽんとひるがえっていた。

 この7隻の戎克船(ジャンク)には、高く突きでた船首の両側に、古式にのっとって巨大魚の目をかたどったどうもうそうな両眼が彫刻されていた。未知の海に棲む魔物を射すくめるために赤と黄色に彩色されたその目は、いま敵意をこめてモントレーの町をにらみすえていた。

 旗艦の甲板に立つ雄々しきその姿は、誰あろう、海軍きっての闘将、タウ提督である。タウ提督は、西太后(せいたいごう)の命を受け、麾下の艦隊を率いて、はるばる太平洋を越えてやってきたのだ。歴史に名高い暴君、西太后の絶対命令は、有無を言わせぬものだった。

「そなたは美国(アメリカ)へ侵攻し、蒙特雷(モントレー)の町を占領せよ。そして、わが臣民トム・シンを助けて、在米の清国臣民が奪われた黄金を取りもどすべく尽力いたせ。もし取りもどせぬ場合には、美国政府からその賠償を取りたてよ」

 こうして、天津より出帆した清国の艦隊は、何か月もの長い航海をへて、ようやくアメリカにたどり着いた。そして、いまタウ提督は、兵員260名、大砲50門、大小の刀剣数百ふりという戦力を擁して、モントレー湾へと侵入した。モントレーの町まで500メートルのところまできたとき、提督は砲撃を命じた。

 


合衆国に挑んだトム・シンの80万ドル戦争

 旗艦の船首にすえられた10ポンド砲の導火線に、たいまつで火がつけられた。ズドン!と号砲一発。丸い砲弾が、ヒュウウウと風を切って宙を飛び、カスタムハウスから数メートル離れた静かな海面に落下して、水柱を上げた。

 この日、モントレーのカスタムハウスには、常連の商店主や漁師や牧童たちがたむろしていた。

「おい、保安官!」

 と、誰かが愉快そうに叫んだ。

「やつら、礼砲を撃っておれたちにあいさつしているぜ!」

 連邦保安官補のハーラン・ウェンツェルは、用心深い性格の男だった。ウェンツェルは、砲弾が落ちた海面に広がる波紋をじっと見つめていた。

「そうかな」

 と、ウェンツェルは思案顔で言った。

「あれは、こっちをねらって大砲をぶっぱなしているんじゃないのか」

「ありゃ爆竹だよ、保安官」

 と、飼料店の店主ジム・ローランが笑いながら言った。

「シスコにいる中国人たちが、正月にパンパン鳴らしてるのがあるじゃないか。あれだよ。やつらは、無事到着できたのを祝ってるのさ」

 ウェンツェルは、白髪が混じりはじめた頭を不安そうに引っかいた。彼は、南北戦争に従軍した経験から、砲撃の音を聞きわけることができた。

 モントレーの住人のなかで、いま何が起きているのか、本当の事情を知っている者が、ただひとりいた。それは、港に集まった大勢の見物人にまじって成り行きをじっと見守っている小柄な中国人、トム・シンだった。この44歳になる猫背の中国人は、サム・トマシノの食堂で働いているコックだった。

 

 そもそもシンは、ユニオン・パシフィック鉄道に雇われた何百人という中国人契約労働者のひとりとして、アメリカへ渡ってきた。そして、鉄道建設作業団のコックとして、ユニオン・パシフィック鉄道のロサンゼルスからソルトレークシティーまでの区間や、コロラド・ニューメキシコ鉄道のラスアニマス西部からプエブロまでの区間で働いた。

 ユニオン・パシフィック鉄道がオマハから西へ向かって鉄道敷設工事を開始したのが、1863年12月のことである。しかし、南北戦争中のために労働者が集まらず、工事がたびたび中断したため、当時サンフランシスコにいた中国人移民を大量に採用し、さらには中国本土でも人手を募集した。その結果、会社の労働者の90パーセントを中国人が占めるようになった。


合衆国に挑んだトム・シンの80万ドル戦争

  シンや仲間の中国人たちは、いつも弁髪の手入れを怠らなかった。弁髪がないと、国に帰っても、再入国が認められないからだった。そして彼らは、弁髪の手入れと同じように苦心して、こつこつと給料を貯め込んでいた。こうして貯めた金を持っていつか晴れて祖国に帰ることが、彼らの願いだった。

 中国人たちは、給料を新品の金貨で払ってほしいと鉄道会社に要求した。彼らは、給料を受けとるたびに、その金貨を小さな袋に入れて、根気よく何時間もふりつづけた。すると、この気の遠くなるような作業のすえに、袋の底にごく少量の金の粉末がたまるのである。この金粉でつましい生活必需品を買い、金貨は使わずにそっくり貯めておくのだった。

 中国人たちはみな、自分の金貨をそれぞれの隠し場所に埋めておき、建設作業団が別の地域へ移動するか、自分の契約期限が切れて帰国するその日まで、そこに隠しておいた。

 しかし、このやり方には重大な欠陥があった。やがて、アメリカ人の鉄道労働者や近隣のラバ追いやわな猟師、カウボーイ、付近の駐留軍の兵士などが、中国人の金を探しはじめたのだ。あちこちで何百というささやかな隠し財産が見つかり、多くの中国人がせっかくためた金をそっくり盗まれてしまった。

 トム・シンもそのひとりだった。金を盗まれたあと、シンは、これではもう祖国へ帰ってもしかたがないと、悲痛な気持ちで決心した。こうなった以上、また一から貯金をやりなおさなければならないし、故郷へ持って帰るだけの金を貯めるには、これから先また何年もかかるだろう。

 帰国をあきらめたシンは、思い切って西海岸へ行ってみることにした。そして、モントレーの町の南のはずれにある安食堂で、コックの仕事にありついた。店のオーナーのサム・トマシノは、りっぱな人格者で、トム・シンを気に入ってくれた。そこでシンは、きちんと給料をもらったうえに、店の裏の小さな丸太小屋に住むことも許された。

 トム・シンは、もう二度と金を地面の下に埋めたりしないと、かたく心に誓っていた。かといって、銀行も信用できなかった。シンは、最初の何回分かの給料で、中古だが、がんじょうな鉄製の金庫を買い、自分の小屋に置いた。その金庫はずいぶん大きなしろもので、シンが一生コックをして給料を貯めても、その片隅を埋めるのが精一杯だったろう。でも、15ドルで買える金庫は、それしかなかったのだ。

 そこで、トム・シンの頭に名案が浮かんだ。金庫にはあり余るほどの余裕があるのだから、ほかの中国人の金を預かってはどうだろうか。鉄道建設現場で働く中国人労働者が給料の金貨を地面の下に埋めなくてもいいように、わずかな料金をもらって彼らの金を金庫に保管するのだ。そうすれば、仲間の中国人たちは金を取られる心配から解放されるだろう。

 シンは、鉄道建設作業団のキャンプに給料を輸送しているカリフォルニア駅馬車会社の地元支社におもむいた。そこでシンが得た回答は、駅馬車会社としては、キャンプまで運んだ作業員の給料をふたたびモントレーまで積んで帰ることはやぶさかではない、というものだった。


合衆国に挑んだトム・シンの80万ドル戦争

 このアイデアは大当たりだった。トム・シンは、謹厳実直な人間だという評判を得た。このうわさはたちまち広まり、鉄道建設のキャンプばかりでなく、中国人労働者が働いている鉱山の町にも伝わった。次々と新しい預金者が、シンのもとに金を送ってきた。シンは、サム・トマシノの店でコックとして働きながら、銀行も兼業することになった。シンは、それぞれの預金者からわずかな料金しか取らなかったが、利息は1セントも払わなかった。それでも、5年のあいだに、80万ドル近い金貨がトム・シンの大きな金庫に貯め込まれていった。

 やがてトム・シンの一風変わった「銀行」のうわさはサンフランシスコにまで広まった。その結果、よからぬ者たちの関心を招くことになった。よからぬ者たちとは、悪名高い三人組の銀行強盗、ポール・ダウンズとルーク・シェリダンとレイモー・ルストである。

 リーダー格のダウンズが、下見のためにサンフランシスコからモントレーまで出むいた。そして、客を装ってトマシノの食堂で何度か食事をし、現場の間取りを確認した。

「ちょろいもんだぜ」

 サンフランシスコに戻ったダウンズは、ふたりの仲間にそう説明した。

「お宝のある小屋には、ちびの中国人のコックがひとりいるだけだ」

 ポール・ダウンズの読み通り、仕事は実に簡単だった。1874年2月5日の午前2時ごろ、シェリダンがトム・シンが住む小屋の外に二頭立ての荷馬車を停めて待機し、ダウンズとルストが拳銃を片手に小屋に押し入った。トム・シンは、ぐっすり眠っているところをたたき起こされ、さるぐつわをかまされて、縛り上げられた。

 ダウンズとルストは、その重い金庫を小屋の戸口までコロで運んだ。そして、戸口と馬車の荷台のあいだにじょうぶな厚板を渡した。それから、滑車を使って金庫を荷台に引っぱり上げた。

 このあと強盗たちは、数キロ南にあるカーメルまで行き、そこから東へ向きを変えて、サリナス川へと向かった。

 三人組がサリナス川にたどり着いたころには、もう辺りはかなり明るくなってきた。そこは、ほぼ10キロ離れて位置するふたつの小さな町チャアラーとガンザレスのほぼ中間地点だった。

 三人は、川の土手から数百メートル離れた松林の中に馬車を止めると、金庫を荷台から下ろし、ダイナマイトを使って金庫の扉を吹きとばす準備に取りかかった。強盗たちは、金貨を運ぶための南京袋や、その袋を埋めるための道具もたずさえていた。

 仕事はここまでは順調に運んでいた。そして、三人がダイナマイトをしかけていたそのとき、遠く上流のほうから牛の鳴き声が聞こえてきた。見ると、数人のカウボーイが牛に水を飲ませていた。

 カウボーイたちは、なかなか立ち去ろうとしなかった。三人は、林のなかでじっと息を殺して、待たなければならなかった。牛の群れが動き出すまでには、ずいぶん長い時間がかかった。

 そして、三人がふたたび金庫の爆破準備をはじめたとき、またしてもじゃまが入った。今度は、サリナスの町の祭に遊びに行く四人組のメキシコ人だった。彼らは、川岸で足をとめると、馬に水を飲ませはじめた。


合衆国に挑んだトム・シンの80万ドル戦争

 ダウンズは仲間のほうを振り返って言った。

「このあとまた誰が通りかかるか、わかったもんじゃねえ。とにかく、それが誰だろうと、そいつはきっと爆発の音を聞きつけて、何があったのかと辺りを探しまわるだろう」

 三人は相談の結果、計画を変更して、ひとまず金庫を中身の入ったままその場に埋め、いずれ時機を見計らって取りにくることにした。ダウンズとシェリダンが松林の中に穴を掘って金庫を埋め、そのあいだに、ルストがからの荷馬車に乗ってチャアラーの町へ行き、そこで馬車を乗り捨て、代わりに乗用馬を3頭買ってくることになった。

 ルストがチャアラーの町から戻ってきたのは、夕方になってからだった。ダウンズとシェリダンも、もうとっくに自分たちの仕事を終えていた。ルストは、見るからにみごとな馬にまたがり、同じくらいりっぱな馬を2頭つれていた。ダウンズは感心して、思わずため息をついた。

「こりゃ、ずいぶんいい馬じゃねえか。いったい、いくらしたんだ」

「たださ」

 そう言うと、ルストはにやりと笑った。

「家畜小屋の裏の柵の中に、馬がわんさといたんでな。そこからいちばんいいのを3頭見つくろって、いただいてきたってわけさ」

「つまり、盗んだ、ってことか」

 ダウンズは、この底抜けのばかさ加減に背筋が凍る思いがした。

「おまえはとんでもない大ばか野郎だ!」

 しかし、やってしまったことは元には戻らない。いまとなっては、もう逃げるほか手はなかった。怒り狂ったチャアラーの男たちは、そのころすでに捜索隊をつくって、馬泥棒を追跡する準備に取りかかっていた。いま三人にできるのは、逃げることだけだった。

 三人は南に向かって全速力で突っ走り、ガンザレスの町をノンストップで一気に駆けぬけた。彼らは、しだいに疲れを見せる馬に拍車をかけ、地理のわからない見知らぬ土地を突っ切って、ひたすら走りつづけた。そして、コール山脈の荒野をめざして進むうちに、入りくんだ峡谷の中に迷い込んでしまった。

 チャアラーの捜索隊は、途中のガンザレスで馬泥棒の足取りを確認したのち、翌日ついにその峡谷で三人を追いつめた。たちまち銃撃戦となったが、ほどなく、ダウンズたちは降伏した。彼らは、馬泥棒としてその場で縛り首になった。

 

 さて、被害者のトム・シンのほうは、あのあとどうなっただろうか。強盗が押し入った当日の午前6時30分、いつもなら、調理用のコンロに火を入れているころだったが、その日シンはまだ調理場に姿を現さなかった。



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