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目次

 

たなひま、這い上がる為に模索中


http://p.booklog.jp/book/90065
 
1.ネガティブな自分でいるのか、抜け出したいのか決める
2.無理やり奪うより、自分のやることに集中する
3.自分の為に大切な時間を作ってくれる人に心から感謝
4.知らなくていい情報は必要ない
5.あえて、愛を忘れてみる
6.誰に反対されようと、心の奥底にある気持ちをねじ曲げることはない
7.思い癖に気がつけば、暗い現実から抜け出せる
8.一人で大丈夫だと思ったけれど、やっぱり人と触れ合っていたい
9.習慣になるまでは疲れる
10.去るものは追う
11.常識は流動的

12.今ある幸せ。不登校を通じて思う事

13.何かに心の糸を弾いてもらう

14.これ以上辛い思いをしたら心が壊れる

15.NOの合図

16.死ぬまでがチャンス

17. 自分を愛するってどうしたらいいの?

18.抱いた感情を見つめることで見えてくるもの

19.好きな人、家族、友達。その人達が生きていてくれるという奇跡


著者 : たなかひまわり
著者プロフィール:http://p.booklog.jp/users/tanahima2327/profile
 
日々のブログ
作家たなかひまわりの野望


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1.ネガティブな自分でいるのか、抜け出したいのか決める

私は最強のネガティブ人間だ。自分が手に入れたいと思っていたものを他者が容易く(ではないだろうが)手に入れたところを目の当たりにするともう大変。妬みや僻みの嵐。仲のいい友達であっても、心から喜んであげることができない。表面では穏やかにしているので、きっと良い人だと思われている。実はブラック満載なのだ。

 

過去、いろいろな場面で他者を妬む状況に遭遇してきた。心をざっくりやられ、ネガティブな状態を何日も引きずる。胃薬のお世話になる。何かの拍子に上向いても、またすぐに落ち込む。上がっては下がり、下がっては上がる。その繰り返し。私は人一倍この傾向がある。いつも何かしら悩んでいる。すっきり爽やかな日の方が少ない。

 

ある日、はたと思った。ネガティブでいると苦しいだけでちっとも楽しくない。自分を追い込むだけで何もいいことがない。気力も体力も水蒸気の如く蒸発していく。脱力し、起き上がれないこともしばしば。これは自分の望む状態ではない。後ろ向きダメダメ人間。執筆に集中し、出版する夢を叶え、キラキラと輝いていた私はどこに行った? そう思った。

 

もちろん、ネガティブになってしまうのも有りだとは思っている。そもそもネガティブが悪だなんてことはない。ポジティブが善だということもない。個々が意味づけているだけのことだ。ネガティブなのが自分らしさだと思えばそこに留まればいい。心地悪いと思ったならば、やはりそこから抜け出した方がいい。私は抜け出したいと思った。

 

そこでスピ系、心理系の文献を読み漁り、ネガティブから抜け出す方法を模索した。まずは今まで押し殺し続けてきた負の感情を味わいなさいと書いてあった。感情は味わい切ると消えるのだという。

 

心の中で「さみしー!」「ゆるせねー!」「いやぁ!!!」と、ひたすら叫びまくる。どうしてそう思うのかと分析しない。誰かにぶつけると大変な事になるので、あくまでも心の中だけにする。何十回、何百回と叫ぶ。私は夜布団に入ってから、眠りにつくまで毎晩一つずつ叫び続けた。すると、翌朝には「何が許せなかったんだっけ?」と、どうでもいいかという境地に陥る。とにかく、心の中のブラック思考をすべて吐き切ってしまう。吐き切れたら次の段階に進む。

 

ネガティブになるのは自分の中に不足を感じていて、無いものばかりに目が向いている時だ。ということは、有るものに目を向けて自分を満たせばネガティブが解消できる。

 

自分を満たせと言われても、何をしていいかわからない。やりたかったこと、食べたかったもの、見たかったものを実行すればいいらしいが、ネガティブでいるとそれすら思い浮かばない。

 

とりあえず、いつも我慢している高価なデザート(250円くらいのコンビニスイーツ♪)を買って食べることにした。ちょっと満足。アルコールも毎日飲むのは贅沢だと思っていたので、思い切ってしゅわっとプルトップを開ける。ちょっと満足。連絡するのを躊躇していた知人にメールをする。ちょっと満足。とにかく、日頃ブレーキを掛けていることを片っ端からやっていくのだ。すると、ちょっと満足が溜まっていく。少しずつ満たされていく。

 

もう一つ、「身の周りの幸せに意識を向ける」ということもしてみた。今ある幸せ。どんな小さなことでもいい。日頃見落としがちな事で、例えば雨風がしのげる家に住めている、毎日食べることに困らない、テレビを見て笑うことが出来る、こうして元気に原稿を書くことが出来る等々。いつもさらりと流してしまっている幸せに目を向けてみる。

 

幸せを見つけたらノートに書き、目に見える形で残しておく。それを繰り返すと「幸せ」は徐々に溜まっていく。私はスケジュール帳の週間予定表の欄に箇条書きにしている。あの日にあんなことがあったと、後で再び幸せに浸ることも出来る。

 

とにかく「書く」という作業をするのだ。私のような落ち込むタイプの人間は、頭の中で悩みをぐるぐると考えてしまい、堂々巡りしていることが多いので、「書く」という行動を起こすことにより、考えるだけの状態から一歩抜け出すことが出来る。

 

悩みでどろどろに疲れて動けないと思っても、何か一つだけでいいから書く。「字が書ける」、それでもいい。行動を起こす力を一瞬だけ出す。一日一瞬活動。一つ進むことが出来ると、二つ目もすんなり進めることが多い。何でもそうだが、最初の一歩が大変なのだ。

 

ゲーム感覚で「あること探し」をしていると、たくさんの面白い事、楽しい事が目につくようになる。今朝も車に乗っている時に横断歩道で立ち止まっている小さな男の子がいたので先に渡るように合図をすると、逆に交通整理をするように男の子に先に行きなさいと指示された。そのしぐさが微笑ましくて思わず笑ってしまった。

 

そんな小さな積み重ねにより、ネガティブの要因になったことは徐々に薄れてくる。ネガティブになりかけてもすぐに気持ちを立て直せるようになる。特別なことがなくても明るい気持ちでいられるだけで体が軽くなる。体が軽いと更に幸せを見つけやすくなる。

 

自分の幸せは他者の言動に左右されない。一瞬にして、自分が自分を幸せに出来るのだ。逆に言えば、他者の言動が主体の幸せは、瞬間的に高揚感をもたらすが短時間で消えてしまう。この高揚感は癖になる快感を伴うので、もっともっと欲しくなる。だが、他者が絡むのでなかなか思い通りにはいかない。他者が動かない限り掴めない幸せほど苦悩を伴うものはないのだ。やはり、自分のことは自分で幸せにするに限る。その上で、他者と幸せを分かち合えたら最高だ。

 

例外で作家としてだけいえば、ネガティブな感情を始めとする様々な想いを体験することはかなりの財産になる。それがあったから私は小説を書き続けることができた。だから、これからもネガティブな想いを味わいつつ、すぐに切り替えて健康な精神を保とうと目論んでいる。


2.無理やり奪うより、自分のやることに集中する

 欲しいものが見つかった時、手に入れるまで絶対にロックオン状態を外さないのが私の得意技だ。執念深いともいう。それが「物」であるならば、お金を出せば大概のものは手に入る。高額のものでも、何年も貯金をしたり節約したりしながら、自分の力でどうにでもなる。

 

 どうにでもならないでしょ。そんな声が聞こえてきそうだが、手に入れられないでいるのは、お金を出すことと物を手に入れることを天秤に掛け、物を手に入れる気持ちが少々負けているからだ。

 

私は過去、自費出版をしたことがある。100万もの大金などなかった時に、どうしても出版したい気持ちが大きくなった。迷うことなどこれっぽっちもない。周囲は反対しているが関係ない。生きている間に自分の書いた原稿を形にしたかった。ひと月2万ずつ返済するローンを組む。5年後完済。この通り、手に入れる気持ちが強ければどうにでもなる。

 

だが、対象が「人」や「状態」だったりすると大変だ。他人が絡むことは、そうそうコントロールが出来ない。あの手この手を使って、どう手中に収めようかと悪戦苦闘する。初めは気力体力ともに充実しているから猪突猛進できるが、思ったほどの結果が出ない時など徐々に焦りが生じ、息切れし始め、途中で挫折する。

 

 ある程度手に入れられたとしても、動いた分だけのものしか手に入らないことが多く、強引だったがためにそれほどの達成感、幸福感が味わえない。

 

 達成感がないので、もう少しなんとかなるはずと無理して動く。ほんの少し手に入る。停滞または後退する。焦って再び動く。ほんの少し手に入る。停滞する……この繰り返し。やり方が下手なだけかもしれないが、さんざん無理をするのでアップアップ状態になる。燃え尽き症候群。辛いだけ。苦しいだけである。

 

 それはそれで良しとすればいいのだが、やはり何となく気持ちのいいものではない。

 

 そこで、望みは望みで横に置いておき、少々立ち止まるということをやってみた。欲しい気持ちはそのままに、強引に物事を動かそうということを止めるのだ。

 

同時に、本当にそれが欲しいのか、欲しいものは別にあるのではないかということも考えた。すると、単に手に入らないことへの執着が膨れ上がっていただけで、本当に欲しかったものから大幅に逸れていたことに気づく。

 

  例えば、閲覧数。一年前に開設した小説ブログの閲覧数が一定の数字から全く上がらずに悩んでいた。一日に数回アップしたり、アップする時間をいろいろ変えてみたりしてみたが、あまり効果が上がらない。過去に書いたものを転写する作業なので楽しくもない。あげく、惰性でやっていたことなので飽き飽きしてきた。

 

 そこで、待てよ、となる。私は作品を創作することが楽しかったのではないか。一度書き上げては最初に戻り、読み直しながら細かく直していく。それを何度も何度も繰り返して自分の納得のいく文章を創り上げることが楽しかったのではないか。

 

時に主人公に憑依しながら感情の赴くままにキーを叩き、周囲の雑音と景色が消えるほどに物語の場面に身を投じる。私が欲しかった「状態」というのは書くことを楽しんでいる自分と、それにより作品を形にする事だ。読んでもらうのは、それが成り立った上での話なのだ。

 

作家として収入を得るということが大きな目標としてあるが、まずは思い入れのある作品、愛情の持てる作品を書き上げることが先決だ。出版、映像化という夢は天に委ね、自分が出来ることに集中することが先なのだ。(今の時代、商業的にそんな簡単な事ではないということは別として。)

 

これが自然とできていた数年前、著書の「もういちど伝えたい」が誕生した。世界で一番泣きたい小説グランプリを受賞したのだ。

 

小説に関わらず、自分が楽しんで書いている人の文章は面白い。文中「楽しむ」という言葉を何度も使ったが、私が言いたい「楽しむ」は、「やりたいことをやる」楽しさだ。その中には生みの苦しみ、前進できないもどかしさもあるかもしれない。いろいろな要素が混じり合った上で「やりたいことをやる」状態を「楽しい」と表現した。

 

 それを実践している人の真似しながら、または過去の自分を思い出しながら、書くことを自分の中心に置けるよう心掛けていこうと思っている。そうしている時に、向こうから転がり込んできてくれるものは思いがけないご褒美となり、素直に感じられる嬉しさとなる。


3.自分の為に大切な時間を作ってくれる人に心から感謝

 苦い思い出がある。7、8年前になるだろうか。精神的にキツイ時期があって、一から説明しなくてもわかってくれると思っていた知人に話を聞いてもらった。

 

 この時の私は自分の苦しみから逃れたい一心で、その知人の状況を全く考えることをしなかった。数日間に渡ってグチグチとしたメールを送り、親身になってくれるのをいいことに電話も掛けた。

 

 迷惑だったのだろう。私に苦情を言えなかった知人は、当の本人に私のことを相談した。私は本人から「人の貴重な時間を奪っていること、わかってる?」と言われた。

 

 ひねくれていた私は、忠告よりも本人に話を漏らした知人の行為が許せなかった。私は知人を裏切り者と称した。その時からその知人との付き合いを絶った。

 

 以来、誰に対してもあからさまに心を開けなくなった。自分の中で気持ちを押し殺すようになった。ずっと他者依存によって心の安定を保っていた私は、心に闇を抱えた時期を長く過ごすことになる。

 

 何度も同じ壁にぶつかっては前に進めず彷徨っていた。精神的にも不安定になり、時折薬を飲むようになった。

 

 だが、堕ち続けると最後には底らしきものに辿り着くようだ。諦めと同時に、自分の気持ちは自分で切り替えようと決める日が来た。

 

 初めはどう切り替えたらいいのかわからなかった。が、探すとあるものである。嫌な気分になりかけたら、好きなこと楽しいことへと気を逸らす方法だ。

 

 嫌な気分になるきっかけは他人から与えられたかもしれないが、他人が嫌な気分に留まらせている訳ではない。自分が好んで留まっているのだ。そんなことを好んでなどいないと思っても、嫌な気分を続けているという事は好んでいることになる。

 

 楽しい気分に切り替えることを選んだら、ぷらっと散歩に出掛け、昨日とは違った今日の景色を眺めてみる。聴くと必ずテンションがあがる曲をヘッドホンでガンガン聴く。笑えるマンガを読み、大笑いする。泣ける映画を観て号泣する。少し元気が出てきたら、実行するかどうかは別として、旅行の計画を具体的に立ててみるのもウキウキ気分になる。

 

 また、自分に禁止していることがあると心を圧迫する原因になったりもするので、その一つ一つに許可を与えてみる。以下に書く言葉は上記の在り方と矛盾するようにみえるが、私がやってみて即効性のあったものだ。

 

 例えば、「他人を幸せの願わなくてはダメだ」と義務的に思っていると苦しくなるので、「他人の幸せを願わなくてもいい」と唱えてみる。他人の幸せを願わなくていいなどと、なんて横柄なと思われそうだが、強制されないことで呪縛がなくなり、結果的に「やっぱり、皆幸せの方がいいよね!」と、軽やかに考えられるようになる。

 

 完璧でなければダメだ、思い遣らなくてはダメだ、子どもの手本にならなければだめだ、仕事を休んではダメだ、約束を絶対に守らなくてはダメだ、NOと言ってはダメだ……。書きだしてみると、自分に禁止していることが山ほど出てくる。

 

 それらを、「完璧でなくてもいい」「思い遣らなくてもいい」「子どもの手本にならなくてもいい」「仕事を休んでもいい」「約束を守らなくてもいい」「NOと言ってもいい」に変換してみる。自分の心がどう変化するか、試してみると面白い。

 

 誰かが常識と決めつけたことを振りかざしてきても、それはその人の基準でしかないので、共感できなければ言いなりになる必要はない。反論する必要もない。「あなたはそう思うのね」と受け止めるだけでいい。(もちろん、受け止めなくてもいい。)

 

 ただ、幼い頃に負った心の傷が原因でトラウマを持っている場合、特定の出来事に対して心を乱してしまうことがある。その場合には、インナーチャイルド(傷ついた子どもの心)を癒さないとなかなか抜け出せないらしいので、専門家を頼るといいと思う。

 

 今思えば私はとんでもない迷惑野郎だった。が、この出来事を通じて自分の気持ちは自分で整理するしかないということを学んだ。成長するきっかけを与えてもらえたことに今では感謝している。ガツンと物凄い衝撃を与えないとわからないだろうという、見えない力の差し金だったのかもしれないが。

 

 かなり話が遠回りしたが、自分の為に時間を割いてくれた人に心から感謝したい。

 

 自分にも限られた時間があるように、相手にも限られた時間、様々な事情がある。実際に会うとなったら、その時間までに仕事をこなし、家事をこなして準備を整えてから待ち合わせに向かう。簡単に出掛けてきている訳ではないと思い出すことが出来れば、相手に対してちょっとしたことで不満を抱くこともなくなるだろう。私はそう思っている。

 

 とってつけたように言うのも何ですが、この文章を最後まで読む時間を作っていただいたこと、心から感謝しています。ありがとうございます。

(『たなひま、這い上がる為に模索中』はまだまだ続きます!)


4.知らなくていい情報は必要ない

 まだFacebookが日本に浸透していない頃のことだ。あるSNSに登録し、ネット・リアル共に幅広い年齢層とやり取りをしていた。

 

当時、OGとして出入りしていた高校の現役高校生とも仲良くなり、フォローしあって交流を持ったり、昔、大好きだった芸能人をフォローすることで、オフ会でツーショット写真を撮るなどという、信じられないことが起きたりもした。また、共通の趣味を持った人が集まるページでは、余ったチケットを買ってもらってライブ会場で知り合いになり、今でも繋がりを持ち続けるという嬉しいこともあった。

 

このように最初は楽しめていた。だが、徐々に辛くなってきた。知らなくてもいい情報が次々と目に入ってくるようになったからだ。精神不安定だったこともあり、他人の言動が必要以上に引っ掛かってしまう。嫌なことをされるとかではない。自分に自信がないことが、他人の日記を読む事によって露呈されるのが辛かったのだ。

 

 そう感じるようになってから、端から日記を読みに行くのをやめた。読みたい人の日記や気になった記事のみを読む。こんな簡単な事がこれまで出来なかった。

 

 そうして少し楽になったのも束の間、このSNStwitterのような機能を持つサービスを開始した。サイトにログインすると、TOPページにそれが出てくる。否応なくフォローした人達の呟きが飛び込んできた。

 

出来れば避けて通りたかった私に無関係のやり取りを強制的に読まされる。他の機能は利用したいため、しばらくは我慢して続けていたが、辛さは日に日に膨れ上がる。限界はとうに達していた。動悸が治まらなくなり、仕事を早退するあり様だ。

 

ある日、潮時なのだと思い、ログインすることを止めた。サイトを通して届くメッセージや仲のいい友達の動向が気になったが、それよりも心を乱されるSNSにログインする怖さの方が大きかった。

 

実は今でも少し引きずっている。何かを検索し、辿った先がこのSNSだった時につい身構えてしまう。そのくらい恐怖だった。

 

 このSNSを利用しなくても、仲のいい友達とはメールが出来るし、日記を書きたければ以前から続けているブログがある。

 

SNSでは読みに来る人の名前が記録されるので、その人達を意識し過ぎた記事になっていた。自分でも嫌になるくらい、良い人の仮面を被った文章になる。自分で書いておきながら自分の言葉じゃないと思った。

 

ブログには訪問者の名前が出ない。たまに、「読んでるよ!」と言われるので、誰が訪問しているのかわからなくもないのだが、どの記事まで読んだのかまではわからない。その分、気持ちが自由になって、書きたい事を書ける。

 

習慣になったSNSをやめたのでしばらくは落ち着かなかったが、慣れてしまえばどうということはない。縛られていたものから解き放たれて、気持ちは徐々に軽くなった。

 

せっかく繋がった縁を断ち切ったことになるが、数年後、ひょんなところで再会した人もいた。これからも、本当に縁のある人とは必ず再会できると信じている。

 

 このSNSの一件で、知らなくていいものは知らなくていいと心から思うようになった。それまで、皆が注目しているものを知らなくては損だというような感覚があったのだが、直接耳に入って来た情報だけで十分だった。

 

また、テレビの番組を選んでみるようになった。テレビっ子だった私は、起きている時間は常にテレビをつけているタイプだったのだが、それだと不快な情報も入ってくる。

 

音がないと気分が上がらず、付けてしまうこともあるが、手元の作業に集中し始めたら電源を切る。切り損ねていても、自分の心を乱す情報が聞こえてきたら即切る。楽しむためのテレビで、わざわざ不快になることはない。

 

その上で起きる出来事は、自分に必要なものとしてやってきたのだろうから、一見不快な事でも受け止める。じっくりと向かい合い、どうにかして対処する。このSNSでの経験も、今思えば必要なことだったと思う。何でもかんでも知ろうとすると、自分の首を絞めるということを学べたからだ。

 

 毎日を穏やかに過ごしたいのだ。穏やかさを保った上で人と接したり、物事に関わったりしたいのだ。

 

 私が何の不安もなく過ごせるようになったら、毎日執筆に集中して過ごしている。青い空と白い雲を見上げてほわんとしている。子どもとお喋りして笑っている。美味しいものを美味しいねと言いながら食べている。

 

 やはり、知らなくていい情報は必要ない。

 



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