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でかした

 パンと手を打つとかすかな手応え。ゆっくりと手を開けば、ちいさな虫螻が血の海でその糸屑のような脚を痙攣させていた。

 俺はそいつを眺めながら溜め息を漏らす。そして、脹脛に爪を立てると、不意に先生の声が聞こえたような気がした。

「でかした」

 思わず口元が綻んだ。

 出張の度にクラスの児童たちに飴玉を買ってきた、かつての女教師。駄菓子屋でも売っているような口の中でシュワっとする「あわだま」だった時は当たりだ。しかし、気を利かせたつもりか、ご当地品を無理やり加工したような飴玉を買ってくることがあった。そいつが配られた時には、皆、肩を落としながら口に放り込んだものだ。

 当時の教室は夏場であっても冷房器具などないのが当たり前、開け放たれた窓からよく蚊が舞い込んできた。そいつが先生の耳元を横切ると授業は中断し、彼女は目を凝らす。それは戦闘開始の合図。誰もが肩を怒らせて目を凝らした。そして、一人が手を打つと、堰を切ったように次々と手を打つ音が響いた。やはりどの道にもそれに秀でた輩がいるもので、多くの場合は蚊取君が虫螻を仕留めた。

 すると、先生は一言蚊取君を労う。

「でかした」

 何であれ分かりやすい特徴があるというのは大したもので、時折配られる飴玉と「でかした」の一声で、先生の存在はしっかり俺の記憶に焼き付いている。

 飴玉効果も手伝って児童の間ではそこそこ人気の先生だったが、どうも保護者の間ではあまり評価が良くなかったようだ。

 理由を聞かされた気もするが覚えていない。子供にしてみれば先生よりも親の言い分が正しい。あんたが駄目というなら駄目な人だったのだろう。

 虫螻は未だ血の海で頼りない足を震わせている。俺は真っ赤なプールでシンクロナイズドスイミングさながら脚を突き上げる、そんな自分を思い描いた。

 脚を突き出す度、心無い声が聞こえる。

「でかした」

 鼻を摘まんで頭を出すと、飴玉で頬を膨らませた女教師が、やはり心無い声で言う。

「でかした」

 それは確かに駄目な様子だ。

 しばらく遊んでから、俺は虫螻を指で弾き飛ばした。


莫迦にしたわけじゃないけど

「莫迦にしたわけじゃないけど」

 そんなことを言われても、こっちはまるでそんな気はしていなかった。

 あれは莫迦にされたと捕らえるべき内容だったろうか。俺が鈍感すぎるのか。彼女がやたらと気にし過ぎる質なのか。酷く気難しい男と過ごしていた過去があるとかさ。何を言っても「莫迦にしてんのか」って、聞いてくる面倒な男なの。

「今日、夕飯どうする?」

「莫迦にしてんのか」

「私、酔っちゃったみたい」

「莫迦にしてんのか」

「おまえのカーチャン出臍」

「莫迦にしてんのか」

 その男と過ごすようになって以来、文末に「莫迦にしたわけじゃないけど」を付けないと安心して喋れなくなったのだ。

「今日、夕飯どうする?莫迦にしたわけじゃないけど」

「私、酔っちゃったみたい。莫迦にしたわけじゃないけど」

「おまえのカーチャン出臍。莫迦にしたわけじゃないけど」

 ふと、不安になる。俺はもしかして莫迦にされているのではないか。こっちが鈍感なだけではなかろうか。酷く気難しい男のほうが正しい反応なのではないかとすら思えてくる。

「今日、夕飯どうする?莫迦にしたわけじゃないけど」

「莫迦にしてんのか」

「私、酔っちゃったみたい。莫迦にしたわけじゃないけど」

「莫迦にしてんのか」

「おまえのカーチャン出臍。莫迦にしたわけじゃないけど」

「莫迦にしてんのか」

 卵が先か、鶏が先か。彼女のそのいつでもニコニコしているところとかさ。睫毛がやたらとカールしているところとかさ。その辺も問題かも知れないよ。やたらと血色のいい頬紅とかさ。なんとなく酷く気難しい男の気持ちが分からんこともない。

 君の形がなんだかヒトを莫迦にしているよね。

 一通りの物思いを終えた後、俺はハンマーを振り上げる。

「煙草の一箱くらい給料日まで待ってよ」

 そう彼女は俺に言ったのだ。

「莫迦にしたわけじゃないけど」

 出来の悪い作り話に、俺は自分の頭にハンマーを振り下ろして舌を出した。


奥付



Puzzzle文集7


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著者 : puzzzle
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