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三七歳

 運動会全体練習とやらの土曜日登校。午前中で終わるから小学校まで迎えに来いと甘えたことを言うから来てやった。俺は大いに後悔している。                          

 本来、保護者であることを示す札を首から提げて行くべきだったが、運動不足の身体に鞭を打つべくマラソンでもしながら行こうと愚考したところ、その思い付きに酔いしれ、札のことなどすっかり忘れていた。

 ジャージ姿で階段を駆け下り、マンションの前でなんとなく気恥ずかしい思いを抱えながら我流のストレッチで関節を解した。続いて、住宅街から逃げるように駆けていくと、気持ちのいい緑道が伸びる。俺は思いの外軽い身体に気を良くし、少々加速した。小学校の脇の道に差し掛かれば、なるほど赤白帽子を被った児童等がなにやら校庭で戯れている。そいつを横目に一旦通り過ぎ、例年より短い夏の冷たい空気を裂きながら、緑道をさらに駆け抜けていった。

 折り返し地点に辿り着き、少し歩こうかと減速すると、途端に疲労感に襲われた。何じゃこりゃ。嗚呼もう限界。脚が鉛のように重くなり、間違えて鉄下駄でも履いてきたかしらとを何度も足下を確かめた。  

 何であれ、おまえとの約束の時間にだけは間に合わせなければなるまい。俺はメロスにでもなった気分で重い足を引きずった。走れ走れと頭の中で己を鼓舞する。なんかそんな芝居があったよな。小学校で演ったよ。メロスではなかった。体育館の両脇に立つその他大勢の声を浴びながらメロスではない主人公の彼奴が駆け回るの。走れ走れ。俺は彼奴になった気分でその他大勢が発する声を浴びながら足を引きずる。走れ走れ。迫真の演技で苦悶の表情を浮かべる。走れ走れ。なんだか少しいい気分だ。

 足を引きずりダラダラと小学校の門までたどり着くと、結果的に下校の時刻までには随分と余裕があった。俺と同じく何らかの事情で子を待つママさんも幾らかいらっしゃった。そこで俺だけ札を提げていないことも気づく。ゼエゼエと息を切らせて、苦悶の表情を浮かべながら現れた俺は、どうしたって不審な点が多い。せめてあの札さえあれば、ママさん方に「ごきげんよう」なんて声をかけることができたのに。しかし、俺には札がない。みすぼらしい格好で汗を垂らすおっさんである。

 そう。いつの間にやらおっさんなのだ。その存在だけで罪を背負う運命にある哀れなおっさん。これは過剰な自意識だけの問題ではない。社会が悪い。カルチャーが悪い。一握りの悪いおっさんが生み出す負のスパイラルが善良なるおっさんを追い込む。

 俺にだって、この門が開けば醜く突き出た腹に食い込んでくる愛息がいるのだ。札なんぞ提げなくたって門前で仁王立ちしてやろうぞ。俺は背筋を伸ばして息を整える。そして、腕を組んで肩幅程度に足を広げた。

 いったいどれほどそうしていたろうか。目の前の門は堅く閉ざされ、時の流れは阿呆が算盤で刻んでいるかのように遅い。俺の脳味噌は次第に緊張に堪えきれなくなり、要らぬ思考が回りし始めた。

 俺は確かに世間から煙たがられるおっさんという部類に属している。それでも、中程度の生活を維持し、時には嫁から感謝され、愛息の笑顔は絶えない。こんなおっさんには実にすばらしい日々なのだろう。それなのに、嫁に喜ばれても、誰に持ち上げられても、そこには違和感以外に感じ取れるものがない。きっと光の当たらない少年~青年期を過ごしてきたからなのだろう。こんな俺をよくもまあ持ち上げてくれるものだ。俺の実態はとても臆病でまるで冴えない己を隠し続けることに必死な卑劣間なのだ。

 要らぬ思考は俺を追い込み、仁王立ちする両足が震えはじた。今にもその場に倒れてしまいそうだ。横倒れになって、手足を硬直させたまま陸に上がった魚のようにのた打ち回ってみせようか。「てんかんの発作が生じた」などと、ママさん方に同情を乞うてみせようか。

 それがいい。所詮は世間から煙たがられるおっさんなのだ。そうしようとママさん方の立ち位置を確認すべく、ちらりと背後を伺えば、さっきまでは見かけなかった老人が、後ろ手に組んで閉ざされた門を一点に見つめていた。

 そのいまいち掴み所のない表情を浮かべた老人を、思わず不躾に眺めていると、俺はあることに気づいた。

 この老人、札を提げていない。

 にもかかわらず、この自然な佇まいはどういうことであろう。どこから見ても孫の帰りを迎えに来た老人、それ以外の何者にも例えようがない。そして、どこから見ても無害だ。

 俺はここに光を見た。おっさんは皆やがて老人になるのだ。それは、ただひたすらに生き延びればいいだけのことであり、長い道のりの先にまだ微かではあるが確かに光を見た。


天国からたらい

 彼女は好んで自分が死んだらなんて話をした。月に数度は口にしていたから、好んでいたと言っても間違いないだろう。しみったれた話ばかり聞かされているこっちの身にもなれ。俺は嫌気がさして前後の脈絡にまるで関係のない話を持ち出した。

「犬ってのは、鼻が犬なんだよ」

「なによそれ?」

 話の主導権を奪い取ったかと思われたが、彼女も慣れたもんだ。

「こっちは真面目な話をしているの」

 俺だって別に不真面目な話をしようというわけではない。それでも犬の鼻の話題はいとも簡単に封じられた。

「私が死んだら」の中でも、彼女の銀行口座に関しては、毎月のように話題に上がった。

「暗証番号変えたからちゃんと覚えてね。私が死んでから暗証番号が分からなかったら、たとえ家族だってお金が引き出せないんだから。銀行に全部没収されるの」

 没収とは響きが悪い。俺への忠告というより、銀行に奪い取られることが気に入らないのだろう。

 しかし、本当だろうか。死んだ妻の金を銀行が没収する?その上、ATMに映し出される銀行員は、毎月のように暗証番号を変えろと言ってくるではないか。

 そのため俺は定期的に「私が死んだら」を聞かされる羽目になる。その都度、俺はちょっとイラっとする切り口で、しみったれた話にカウンターを放つ。

 先月なんてひどいもんだ。

「暗証番号変えたわ」

 俺はすかさずカウンターを放ち、話題を変えようと試みる。

「会社で臭橙もらったよ」

 実際にもらったのだ。俺は会社鞄から無造作に三粒の臭橙を取り出した。すると、彼女は見事カウンターを跳ね返した。

「ちゃんとありがとう言ったの?」

 俺は目を丸くして絶句、間もなくうなだれた。俺はおまえの駄目息子か?彼女はとても楽しそうに口をつぐんで笑いを押し殺した。

 そして、先月に続き、今月も新たな暗証番号が発表された。

「ハッピーバースデイ♪ミスタープレジデント♪」

 彼女は肩を揺らして口を窄めて、マリリンモンロー気取り。俺は首を傾げてから、それが暗証番号のことだと気付く。

「ケネディの誕生日?」

 彼女は頷いた。

「いつだか知らんし、教えてもらったところで覚えられるか?」

「じゃあ、たまには考えてよ」

「いいにく」

「前に使った」

「よろしく」

「危険危険」

 結局、俺はケネディの誕生日を覚える羽目になる。何度も復唱してみせれば、彼女は気をよくして「ハッピブースデイ♪」と歌った。

「私が死んでもしっかりやるのよ。じゃないと、天国からたらい落とすからね」

 勘弁してくれ。

 犬ってのは、鼻が犬なんだよ。俺が話したかったのは、犬の共通項に関することなんだ。

 ちょっとした障害で犬猫の区別がつかない人がいるんだって。俺ならチワワもセントバーナードも犬として認識できるが、それがどうしてなのかうまい説明ができない。自閉症気味で細部ばかりに目がいってしまう子は、たびたび曖昧で大まかな認識が苦手なんだそうだ。そこで、その子は気付いた。

 犬の共通項は鼻の形だ。

「ちょっと興味深い話だろう」

 俺は仏壇の前でりんを打つ。結局話すことのなかった他愛ない話題がたくさんある。俺は一つ思い出す度りんを打つ。

 彼女の口座の暗証番号は、ケネディの誕生日から幾度か変わり、本当に覚えなくてはならない四桁が決定してしまった。しかし、どうしても通帳に手が伸びない。

 「おい、番号何だっけ?」

 フレームの中で笑顔の耐えない彼女に問いかける。いつか本当に忘れてしまったら、空からたらいが降ってくるのだろうか。

 

 そいつを楽しみにしているが、彼女の努力の甲斐あって、俺はその四桁の数字を忘れられそうにない。


でかした

 パンと手を打つとかすかな手応え。ゆっくりと手を開けば、ちいさな虫螻が血の海でその糸屑のような脚を痙攣させていた。

 俺はそいつを眺めながら溜め息を漏らす。そして、脹脛に爪を立てると、不意に先生の声が聞こえたような気がした。

「でかした」

 思わず口元が綻んだ。

 出張の度にクラスの児童たちに飴玉を買ってきた、かつての女教師。駄菓子屋でも売っているような口の中でシュワっとする「あわだま」だった時は当たりだ。しかし、気を利かせたつもりか、ご当地品を無理やり加工したような飴玉を買ってくることがあった。そいつが配られた時には、皆、肩を落としながら口に放り込んだものだ。

 当時の教室は夏場であっても冷房器具などないのが当たり前、開け放たれた窓からよく蚊が舞い込んできた。そいつが先生の耳元を横切ると授業は中断し、彼女は目を凝らす。それは戦闘開始の合図。誰もが肩を怒らせて目を凝らした。そして、一人が手を打つと、堰を切ったように次々と手を打つ音が響いた。やはりどの道にもそれに秀でた輩がいるもので、多くの場合は蚊取君が虫螻を仕留めた。

 すると、先生は一言蚊取君を労う。

「でかした」

 何であれ分かりやすい特徴があるというのは大したもので、時折配られる飴玉と「でかした」の一声で、先生の存在はしっかり俺の記憶に焼き付いている。

 飴玉効果も手伝って児童の間ではそこそこ人気の先生だったが、どうも保護者の間ではあまり評価が良くなかったようだ。

 理由を聞かされた気もするが覚えていない。子供にしてみれば先生よりも親の言い分が正しい。あんたが駄目というなら駄目な人だったのだろう。

 虫螻は未だ血の海で頼りない足を震わせている。俺は真っ赤なプールでシンクロナイズドスイミングさながら脚を突き上げる、そんな自分を思い描いた。

 脚を突き出す度、心無い声が聞こえる。

「でかした」

 鼻を摘まんで頭を出すと、飴玉で頬を膨らませた女教師が、やはり心無い声で言う。

「でかした」

 それは確かに駄目な様子だ。

 しばらく遊んでから、俺は虫螻を指で弾き飛ばした。


莫迦にしたわけじゃないけど

「莫迦にしたわけじゃないけど」

 そんなことを言われても、こっちはまるでそんな気はしていなかった。

 あれは莫迦にされたと捕らえるべき内容だったろうか。俺が鈍感すぎるのか。彼女がやたらと気にし過ぎる質なのか。酷く気難しい男と過ごしていた過去があるとかさ。何を言っても「莫迦にしてんのか」って、聞いてくる面倒な男なの。

「今日、夕飯どうする?」

「莫迦にしてんのか」

「私、酔っちゃったみたい」

「莫迦にしてんのか」

「おまえのカーチャン出臍」

「莫迦にしてんのか」

 その男と過ごすようになって以来、文末に「莫迦にしたわけじゃないけど」を付けないと安心して喋れなくなったのだ。

「今日、夕飯どうする?莫迦にしたわけじゃないけど」

「私、酔っちゃったみたい。莫迦にしたわけじゃないけど」

「おまえのカーチャン出臍。莫迦にしたわけじゃないけど」

 ふと、不安になる。俺はもしかして莫迦にされているのではないか。こっちが鈍感なだけではなかろうか。酷く気難しい男のほうが正しい反応なのではないかとすら思えてくる。

「今日、夕飯どうする?莫迦にしたわけじゃないけど」

「莫迦にしてんのか」

「私、酔っちゃったみたい。莫迦にしたわけじゃないけど」

「莫迦にしてんのか」

「おまえのカーチャン出臍。莫迦にしたわけじゃないけど」

「莫迦にしてんのか」

 卵が先か、鶏が先か。彼女のそのいつでもニコニコしているところとかさ。睫毛がやたらとカールしているところとかさ。その辺も問題かも知れないよ。やたらと血色のいい頬紅とかさ。なんとなく酷く気難しい男の気持ちが分からんこともない。

 君の形がなんだかヒトを莫迦にしているよね。

 一通りの物思いを終えた後、俺はハンマーを振り上げる。

「煙草の一箱くらい給料日まで待ってよ」

 そう彼女は俺に言ったのだ。

「莫迦にしたわけじゃないけど」

 出来の悪い作り話に、俺は自分の頭にハンマーを振り下ろして舌を出した。


奥付



Puzzzle文集7


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著者 : puzzzle
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