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いま、火星に行きます

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 夜空を見上げて、一番輝く星を探す。今になって思い返してみても、俺がはじめて好きになった女の子はやっぱりヨモギだった。
 ヨモギは火星語で大きな瞳を意味する。

 

 ヨモギは小学校二年の一学期を終えると転校していった。学校に馴染めなかったことが問題だったのではないかと思う。幼稚園は一緒でなかった。卒園アルバムを見返しても、軟体動物のような形をしたヨモギの姿は見あたらない。小学校の卒業アルバムにしたってヨモギの姿は残っていなかった。
 三〇歳を迎えた年、小学校の同窓会が行われるという通知が届いた。幹事を務める差出人の顔を思い浮かべると少し嫌な気分になったが、返信用ハガキの「出席」ばかりに目が行く。俺はひとまず辛うじて年賀状でつながっている旧友に連絡をとることにした。
「久しぶり。なんか案内来なかった?」
「ああ来た来た。久しぶりに携帯におまえの名前が出てきたから、金貸せとか言われるのかと思ったよ」
「おまえだけには借りん」
 その後、当時流行った漫画やシールの話題だけで三〇分も電話を続け、お互い同窓会に参加することになった。
 そこで、俺は恐る恐る切り出す。
「ヨモギ来るかなぁ?」
「誰だそれ?」
 そして、慌てて言葉を探す。
「れ?中学ん時のヤツだったかな?」
「そうか」
「きっとそうだ。じゃぁ今度な」
 電話を切った後、あいつとは中学校も同じだったことに気付く。
 ヨモギは日本語を話さなかった。というより、そもそも声を持たない。見た目はやはり頭足類に近く、いくつも延びた触手の一本を駆使してコミュニケーションをとった。
 俺がはじめてヨモギとのコミュニケーションを試みた時、それは校庭脇の体育倉庫の中、はじめにその滑らかで冷たい触手を耳に入れてみた。ガサゴソとくすぐったい音がして、俺はいくらか幸せな気分になったが、ヨモギの気持ちは何も伝わってこなかった。
 続いて、口に含んでみた。ヨモギの表皮は少し酸っぱい味がして、俺は顔をしかめた。それでもヨモギは喉の奥へと触手を延ばす。俺は咳き込んでそれを吐き出した。
 結果的に鼻の穴がよかった。
 ヨモギは触手の一本を細く伸ばして鼻の奥へと差し込んでいく。鼻腔の嗅上皮に密着した触手が嗅覚受容神経に信号をつたえる。様々な香りとともにヨモギの思いが伝わってきた時、その喜びは何にも代え難いものだった。
 薄暗い倉庫の中、跳び箱に腰を下ろして目を閉じた俺の顔を触手が這い回る。耳、口、鼻とコミュニケーション手段を探していたその時から、すでに俺とヨモギの心はつながっていたのだと思う。
 そして、嗅覚受容神経を通して俺は知る。
 ヨモギは火星語で大きな瞳を意味する。
 目を開けば、大きな頭の真ん中でたった一つの大きな瞳が涙で滲んでいた。俺は鼻に触手を入れたまま優しく微笑んだ。

 結局、同窓会にヨモギは現れなかった。それでも、懐かしい面々と再会し、随分と綺麗になった女子や、すっかり中年太りの男子らと、あのころの話をするのは楽しい時間だった。
 そして、声と声が干渉してざわめく会場の中、俺は一つの声を拾い上げた。
「そう言えば、うちのクラスに変なタコみたいなヌイグルミが置いてなかった?」
 俺はその声の主を探して辺りを見回すが、誰もがせわしなく口を動かしていた。
 続いて、マイクのハウリング音とともに初老の教師が上座に立った。ビンタマンと呼ばれていた馬面の教師だ。宴も闌、そろそろ一言講釈を垂れたいようだ。あいつの被害を被った児童は少なくない。それでも、多少の暴力は教育の手段として赦される時代だった。一時の痛みなどすぐに消え、ビンタマンは恐れられる対象ではあったが、嫌われることはなかった。
 そんな、ビンタマンも今となってはビンタ校長だ。やりにくい時代に苦労していることだろう。
 校長の講釈が終わり、すっかり酒の回った幹事の男が目を閉じて、ビンタを要求した。校長は困惑顔で男の頬を優しく打った。大げさに倒れる男には苦笑いが浮かぶが、それでも同窓会を締めるには十分なイベントだった。
 宴が終わり、俺は一人、夜空を見上げながら静かな方へと歩いていった。そして、一番輝く星を探す。
 その時、どこ懐かしい感触が俺の頬に触れた。
「ヨモギ」
 俺は呟いた。そして、勢いよく振り返れば、目の前には大きな瞳。頬に触れた触手はその先端が細く伸び、俺の鼻の中へ差し込まれた。嗅覚受容神経を通して信号が入り、俺はヨモギのメッセージを受信する。そして、目を見開いた。
 はじめはヨモギの申し出に躊躇した。それでも、少し考えれば他に回答が見あたらないことに思い至る。そして、俺は微笑みながら小さく頷いた。
 途端、上空から光が射し、俺の身体は軽くなる。そして、空に浮かぶ円盤状の飛行物体に吸い込まれていった。

 


チロリアンハット

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 君はグリーンのフェルト地に可愛らしい飾り紐の付いたチロリアンハットを被っていた。俺は、それが風に飛ばされた拍子にこっちに振り向かないだろうか、なんて都合のいいことを考えていた。
 人差し指を一度口に含んでから天を指さす。風向きを確認してから、君を軸に時計回りで一〇分進む。風向きと言ったって地下空調によるものだ。コンクリートに囲まれた中で、帽子を吹き飛ばすほどの突風は望めない。
 すると、都合良く通過列車が帽子を吹き飛ばした。それを追いかけるようにして君が振り返る。途端、俺は不躾にもカメレオンを連想した。舌を伸ばして帽子を見事にキャッチ。なんてことが起こったわけではない。
 君の顔は俺が今まで見たどんな子よりも目が離れていたのだ。
 帽子は二、三度舞い上がり、列車が通り過ぎるとそのまま線路に落ちた。
 おそらく帽子は駅員が拾ってくれたのだと思う。「線路に物を落とされた方は駅係員にお申し付け下さい」なんて案内が柱に貼ってあるだろう。俺が駅員を呼びに言ったのだろうか。まさか線路に飛び降りたわけではあるまい。
 最後に彼女は帽子を被ってから「ありがとう」と言って、離れた目を細めた。
 あれから一〇年近い時が流れ、偶然にも大学に入ってから再会することとなる。
 それは学生会の歓迎コンパでのことだった。
「もつ煮が好きな男の人って多いよね」
 学生会などというものに所属する予定はなかった。たまたま入学式で隣だった男に声をかけたところ、高校の三年間を生徒会に属していたなんて奴だった。
 呑み会の喧騒の中で俺がその声を拾い上げることができたのは、あの時の一言を記憶していたからだろうか。俺は熱心に先輩の話に耳を傾ける男の隣を離れ、彼女のもとへ歩み寄った。そして、俺は瓶ビールを差し出し、グラスを要求する。
 彼女は条件反射的にグラスを握り、俺を見上げる。そこで俺は目を瞬いた。彼女の目は記憶していたほど離れていない。グリーンのチロリアンハットも被っていなかった。彼女はグラスを差し出したまま首を傾げる。そして、俺はその場しのぎの声を発した。
「もつ煮は昔から大好物だ」
 お陰で俺のあだ名はモツヲに確定した。
 翌朝、俺の隣で彼女は目を覚ました。
「モツヲ」と呟いて、彼女は微笑む。俺は口元を歪めて「なんじゃらほい」と応える。続いて、俺は昔話をはじめた。
「ねぇ、覚えている?グリーンのチロリアン」
 彼女はしばらく間を置いてから応えた。
「なんのこと?」
 どうやら俺の勘違いのようだった。彼女は誰が見ても美人の類だ。誰だってカメレオンと見紛うことはない。そして、俺が思うに、この顔にはグリーンのチロリアンハットは似合わない。
 それでも彼女との付き合いはしばらく続いた。そして、彼女は俺のアパートの小さなキッチンで実に美味いもつ煮を作った。時には学生会の連中を呼んでもつ煮パーティーを開いた。
「男ってもつ煮が好きよね」
 彼女は微笑んだ。俺はモツヲとして誰よりも多くのもつ煮を掻き込んだ。

 夏が一気にやってくると、俺たちはバイト代を握って夏物を漁りに出かけた。一通りの買い物を終えると、デパートの洋菓子売場のテーブルで向き合い、一つのクリームあんみつをつついた。
「ねぇ、はじめて一緒に過ごした日のこと覚えてる?モツヲは朝になってから何か聞いたじゃない」
 俺は背筋が伸びる。
「なんだっけ?」
「グリーンのチロリアン」
「チロ リロリン」
 面倒なことをよく覚えている女だ。
「誤魔化さないでいいの。でもね、普通チロリアンって聞いて帽子を思い浮かべるヒトはいないわよ」
 彼女はそう言って、千鳥屋の店舗を指差した。そこには「高原銘菓チロリアン」と書かれたパネルが置かれている。そのパネルには色とりどりのクリームが詰まったロールクッキーが並んでいた。その一つは抹茶味だろうか、グリーンのチロリアンもあるではないか。
 そこで俺は気づく。つまり、彼女には通じていたのだ。
 彼女は微笑みを蓄えたまま黙って俺を見つめている。俺はその顔を眺めながら、自分の目を寄せていった。
「変わったでしょ」
 俺は二、三度頷いた。
「私がやったのは目頭切開法って言うらしいわ」
「目頭?切開?」
「そう。そのまんま。そんな大げさに考えないでよ。切開する角度とか、長さとか、ラインなんかを決めたら、手術なんて二、三〇分で終わるのよ。一週間後に抜糸もするけどね。高校出て、春休みのうちにできちゃうわけ。大学決まってんだから親も文句ないでしょ」
 それから彼女は帽子を被る必要も無くなったのだという。
 俺はうまく言葉が選べない。でもね、あの時確かに思ったんだ。彼女は誰が見ても美人の類だ。誰だってカメレオンと見紛うことはない。
 だからそう言うことにした。
「もう誰だってカメレオンと見紛うことはない」
 平手が飛んだ。
 それでも彼女との付き合いはしばらく続いた。相変わらず、彼女は俺のアパートの小さなキッチンで実に美味いもつ煮を作った。そして、彼女がはじめてもつ煮を作ったのがこのキッチンだと知ったとき、涙が溢れそうになった。
「男って大抵もつ煮与えとけば満足なのよ」
 彼女は照れ隠しのように言い放った。
 そんなことはないだろうよ。
 彼女は誰が見ても美人の類だ。そして、彼女と体を重ねる度、離れ目は遺伝するのだろうかと考えてしまう。いつか娘を授かるようなことがあれば、グリーンのチロリアンを手に入れたい。


あおぞら

 この肉を脱いで空を飛ぶ。
 おまえはあおぞらを見上げてタイミングを見計らっている。腹の周りの肉を掴んでは、時折、ため息をもらす。
 こいつさえなければ空を飛べる。見えない階段を登って行くように空を飛ぶ。飛ぶというよりはあおぞらを歩くイメージ。今更、両手を突き上げてシュワッチはないだろう。大体あんまり派手なことはしたくないんだよ。
 おまえは大きく鼻から息を吸いあげると、口を尖らせてゆっくりとそいつを吐き出す。分子レベルで肉が消費された。何度も繰り返した挙げ句、ようやく無駄な足掻きだと気づく。
 肉を脱ぐイメージは、ムキムキマッチョが力を込めるとボタンが弾け飛んで服がビリビリに破けるみたいな、あんな風でありたい。ここは派手にいきたいのだ。
 肉を脱ぐなんて、その行為自体が異常なのだから、優雅にやりようがないだろう。でもきっと、汗でべとついたシャツを体を揺らしながら脱ぎ捨てる感じ。ブルブル肉が震える感じ。
「おい」おまえは俺に問いかける。「今、笑ったろ?」
 俺はおまえに目を向けて、もう一度口角を持ち上げる。
「ずいぶん出来の悪い作り笑いだな。明らかな作り笑いじゃないか」
 俺は作り笑いを崩さず、首を一回転させた。
「おまえが何を考えているか、当ててやろうか」おまえは言った。「何故こんな天気のいい日に、こんなつまらない奴と過ごさなきゃならない」
 残念だが、おまえはひどい勘違いをしている。
「俺はおまえになってあおぞらを見上げていたんだ」
 おまえは肉厚の眉間に皺を寄せた。皺というより、もはや溝だ。その溝がますます落ち込んで動脈を絶つ。俺は眉間から血を噴き上げるおまえを思い浮かべた。
「この肉を脱いで空を飛ぶ。肉さえなければ空を飛ぶ。見えない階段を登って行くように空を飛ぶ。飛ぶというよりはあおぞらを歩くイメージだ。今更、両手を突き上げてシュワッチはないだろう」
 おまえは眉間から血を噴き上げることなく、あまりに平凡な応答を示した。
「なに言ってんだ?」
 俺はため息をつく。そして、続けた。
「肉を脱ぐイメージは、ムキムキマッチョが力を込めるとボタンが弾け飛んで服がビリビリに破けるみたいな、あんな風でありたい。ここは派手にいきたい」
 おまえは顎を揺らしながら、二、三頷いた。
「おまえは俺になってそんなことを考えていたということか」
「そうだ」
「そうか」
 それでもおまえはたった一つの心配を抱えている。
「だから、心配はいらない」
 俺は精一杯出来の悪い作り笑いを浮かべて言った。
「残念だが、おまえはひどい勘違いをしている」
 俺は呆気にとられた。
「おまえも俺と同じ思いをしているものと思っていたよ」
 そして、思いがけず涙した。


凡人のパンク愛

 なんにも覚えられない。
 まるで頭に入らない。
 なんにも興味が持てない。
 すぐに飽きてしまう。
 幼少の頃には、まだ発達ショーガイなどというジャンルがなかったから、単に出来の悪い餓鬼で済まされていた。でも、そのジャンルを知ってから、ぼてっと腑に落ちた。希望が見えてきた。
「そんなこと無ぇよ」
 あるっすよ。この出来の悪さはビョーキなんだって、ショーガイなんだって、そう言っておくれよ。
「そんなこと無いっすよ」
 あるって言えよ。絶対どこかおかしいんだって。ちょっと見れば分かるだろう。立派な名の付くショーガイなんだって。
 頭おかしいんじゃねえのか?
 遠慮なくそう言ってくれ。おまえらは他人を愚弄することが大好きだったはずだろう。それなのに、誰も何も言ってくれやしない。表現系が地味だから駄目なのか。胸板にナイフで you make me...なんて彫らないと、家畜の臓物を撒き散らしながら街を闊歩しないと、そこまでしなければ認めてくれないのか。
 出来損ないの頭を必死に隠して、懸命に社会へしがみついている。至極凡庸なアティチュードをアイデンティティと言い張る。そんな風に社会と関わっている輩はいくらもいる。本当は傷だらけの胸板を曝してしていたいのに。たまには臓物を散らしながら狂乱したいのに。
 それは勇気の話しだろうか。決断力が意図しない方向へ働く。保身をはかる。嗚呼。保身をはかる。
 そして、一握り、ひょいと乗り越える聖痴愚がいる。凡人は週末、各種メディアでそれに触れてカタルシス。おまえより先に目に付けていたのだと意気揚々。正義に満ちた息苦しい社会に戻るため、英気を養う。
 なんにも覚えられない。
 まるで頭に入らない。
 なんにも興味が持てない。
 すぐに飽きてしまう。
 それでも、再び訪れる週末に向けて、出来損ないの脳味噌をいくらか回す。


痴れ者のパンク愛

 会社帰り、マーケットに立ち寄り、サラダ油と鳥の臓物、そして、果物ナイフを購入した。

 マーケットを出たら側道を抜けて河原に降り立つ。そして、遠くに輝く街の明かりを頼りに、枯れ枝やエロ雑誌をかき集めた。

 休日の大半は部屋に籠もっている。まるで集中できない文庫本とスマホを行ったり来たりしながら過ごしている。アウトドアの趣味などまるでないが、幼い頃の刷り込みというものは大したもので、一度、二度経験した飯盒炊爨によって、なんとなく効率のいい火の熾し方は身についていた。

 腰掛けるに具合のいい丸石を見つけると、上着とネクタイをある程度丈のある枝に引っ掛けて地面に突き立てた。丸石に腰を下ろし、ライターを捻って、エロ雑誌に目を通す。そして、グラビアページを千切ってはクシャクシャに丸めて地面に放っていった。続いて、そいつを寄せ集めると、細い小枝を放射状に重ねた。再びライターを捻り半裸の女に火をつける。燃え移る炎を眺めながら、少し太い枝をさらに重ねた。いまいち火の移りが悪い女たちに眉をひそめ、サラダ油を注ぐ。赤い炎が立ち上がり、少々仰け反った。

  火が落ち着いたところで、発泡トレーに入った臓物を果物ナイフで適度に刻む。続いて、その先に突き刺した臓物を焚き火にかざした。

「あ、塩忘れた」

 ハツを食えば鉄臭い。レバーを食えば妙ちくりんな風味が広がる。いつまでも食い千切れないテッチャンと格闘しながら、「これって大腸だよな」と、ちょっと嫌な気分になった。

 多少腹が満たされ、大いに胸がムカついたところで本題へ移る。

 眉間に力を込めてナイフを胸元へと持ち上げる。自傷パフォーマンスにはシャツを脱いだほうがいいか。スラックスからYシャツの裾を引きずり出し、プチプチとボタンを外していく。本番にはYシャツはふさわしくないと知り、上着と一緒に枝に掛けた。改めて眉間に力を込め、右手にナイフを握り、左手には臓物の入った発泡トレーを載せた。

 ここでTシャツを破り捨てて声でもあげたいところだが、両手が塞がっていてはそうもいかない。本番は上半身裸で挑むべきか。ステージ上の先人達も、確かにその多くが半裸であった。俺は丸石の上に臓物のトレーを置いて、ナイフを口にくわえたままTシャツを脱ぎ捨てた。

 改めて両手に臓物とナイフ。

「元気ですかぁ」と、一声あげてみる。

 どうも心と言葉が調和せず、続いて、定番の四文字英単語を叫んでみた。それもなんだかしっくりこない。思いつくまま喚き散らした挙げ句、ようやく巡り逢えた言葉。

「ゲバルトっ」

 それは大学時代に、第二外国語の授業で学んだ。アインス、ツヴァイ、ドライに続いて教えられた単語だった。

 独語教師は、学生活動家をねじ伏せた昔話を誇らしげに語り続ける学生会に、常々難癖を付けていた。

 右にも左にも傾けないが、その響きのよさに、もう一度声にした。胸板に添えたナイフは、焚き火の炎に煌めきながら肉の油をギラギラさせている。

 俺は躊躇い、ナイフを焚き火にかざした。

「炙るか」

 チリチリと音を立てながら油脂が焦げて散り去る。十分に炙ったところで、ナイフを振り回す。そして、適度に冷めたところで、貧弱な胸板の前でゆっくりとナイフを引きながら臓物を焚き火に投げ込んだ。

「ゲ~バ~ル~ト~っ」

 準備すべきものは理解し、大体のイメージはできた。そして、明日こそ乗り越えるのだ。

 くしゃみを一つ放ってから、鳥肌の立ってきた肌にシャツを羽織った。ベルトを弛めてシャツの裾を押し込んでいると、健康診断の申し込み期限が近いことを思い出した。



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