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わかんない

 それはなんだかとてもいい匂いがした。見た目は少しおどろおどろしいのに、とても具合のいい匂いだ。腹が減った時に鼻を寄せれば、肉の焼けた匂いがした。眠気に襲われた時には、うっすらと女の洗い髪のような香りが漂った。しかし、残念なことに見た目がよくない。だから、俺はきつく目を閉じる。柔らかな髪を伸ばしていたあの娘を思い浮かべる。お陰でよく眠れた。
 翌朝、目を覚ませば、小豆を甘く煮たような匂いが立ち込めていた。そして、俺は思い立ち、湯を沸かして苦い茶を入れはじめた。湯飲みに沸いた湯を注ぎ、七、八〇度に冷めたところで急須に移す。一〇分だけ早く起きれば美味い茶を啜ることができる。
 すると、目覚ましをセットした時間より一〇分ほど早く目を覚ますようになった。ふっくら旨味のある小豆を炊いたような匂いが部屋を包みはじめる。そして、少しだけ時間をかけて茶を入れた。安月給の俺でもできる、ささやかな贅沢だ。お陰で職場へ向かう足取りも幾分軽くなった。
 ある日、昨日とどこか様相の違うそれに気付いた。はじめは気のせいだと思ったが、特徴的に尖った部分を記憶しておいたところ、翌朝には少し丸み帯びたことを確認した。
 俺の状況に合わせて、具合のいい匂いを放つのだから、多少見た目が変わったところで不思議はない。
 ところで、それは預かりものである。
「それはなに?」
「わからない」
「わからない?」
「そうだよ」
 旅に出る間だけ預かって欲しいと言うから、少し見た目は悪いが引き受けることにした。素敵なお土産でも持ってきてくれるのではないか。そんな邪な気持ちがなかったわけではない。
 君が旅立ち、床の間にそれを飾ってみたところ、自分の気持ちが見透かされているようで、しばらく居心地の悪い思いをした。その時から、ただの静物ではないことにはなんとなく気づいていた。
 一緒に過ごす時間が経つにつれ、その見た目の悪さも、なかなか具合がいいと思うようになった。少し怖いと思わせる様相も絶妙な匙加減だ。
 猫の類は、見た目で言えばかなり洗練されている。しかし、犬の類は、正直言ってそうでもないものがいる。中には爬虫類を愛でる輩もいる。不細工さが故の愛らしさというものがあるのだろう。きっと同じような感覚だ。
 それには目のようなものがいくつもあった。何がなんだか分からないものに見られているような気がする。恐怖心をかき立てる一つの理由だろう。そして、尖ったものがある。一番上には乗り物のようなものもある。
「頭の上のやつ、UFOみたいだな」
 応答はない。

 話しかけたり、触れてみたりしたところで、何の反応もなかった。しかし、いつだって期待以上に具合のいい匂いを漂わせている。不格好なりにも少しずつ形を変え、それが愛らしいものと感じさせる。
 ある日、夢を見た。
 それは大きく膨れ上がり、異臭を放つ。俺は鼻をつまみ巨大なそれを顰めっ面で見上げていた。夢の中の出来事だから、どんな臭いだったかハッキリはしない。それでも俺は熟れ過ぎた南国の果実を思う。たくさんのウナギのように大きく滑らかな芋虫が、それから顔を覗かせ蠢いている。実際にウナギだったかもしれない。ウツボだったかもしれない。
 酷い夢を見たのは、それが愛らしいものとも思いはじめた矢先のことだった。俺は目を覚ましてからしばらく呆然とした。そんな時でも、それは相変わらず具合のいい匂いを放っていた。俺は昨日とはまた少し様相の違うそれを眺めながら、思いがけず涙した。直向きな姿勢がなんともいじらしいじゃないか。それにもかかわらず、未だ俺はそれに怯えている。いつか豹変して俺に危害を加えるのではないかと疑っている。そんな自分の弱さ、貧弱な想像力に苛立ちを覚えた。

 幾夜も同じ夢を見るようになった。そして、明くる朝には涙を流した。俺は何度も「ごめん」と呟き、次第に飯が喉を通らなくなった。それでも腹は鳴る。すると、それは焼いた肉のような臭いを放ち、俺をさらに惨めにさせた。
 それのことをもっと理解したい。
 苦悩し続けたある日、晴れやかな顔で君が旅から帰ってきた。
「お土産を買ってきたよ」
 俺は横目にそれを伺いながら、言葉を切り出すタイミングを測っている。
「どうかしたの?ちょっとやつれたようにも見えるが」
 俺は大きく息を吸って、それを譲ってくれないかと言いかけた。刹那、それは微かに腐った南国の果実のような臭いを放つ。そこで俺ははたと気づいた。ここ連夜の悪夢は、別れが近いことを知ったそれが見せているのではないか。
 君は大きな鞄を下ろして、その中を探りはじめた。
「気に入ってくれるといいのだけど」
 そう言って取り出したものは、手のひらに乗る程度の小さなそれだった。俺は目を丸くしながらそれを受け取った。そして、手の上で小さく動いたようなそれを見ながら、高鳴る鼓動を感じていた。


みどりのおじさん

 そのおじさんは黄色のベストを羽織って黄色の旗を振っている。それでも「みどりのおじさん」と呼ばれていた。随分といい加減に旗を振ってはボクたちを横断歩道に渡す。大人に見張られているだけで安全に渡ろうという意識が芽生えるから、ある程度の効果はあるのだろう。
「へぇ、珍しいわね」
 ママは様々な小瓶が並んだ鏡台に向かったまま、それ以上の言葉はなかった。
 確かに言われてみれば珍しい。みどりのおじさん以外に旗を振っているおじさんを見たことがない。そして、みどりのおじさんは毎日同じ交差点に立っていた。
 ある日、ボクはおじさんに尋ねた。なんで毎日同じところで旗を振っているのか。おじさんは辺りを見回して、誰もいないことを確認すると、ボクの耳に顔を寄せた。そして、自分の息子がここで車にひかれて死んだのだと告げた。
「へぇ、そんな話し聞いたことないわね」
 ママは鏡台に向き合ったまま、妙な小道具で睫毛をつまんだ。言われてみれば聞いたことがない。
 商店街で万引きする児童が多発して問題になった時、校長先生は全校集会で涙を流しながら大声を張り上げた。交通事故で児童が死んだなんてことになったら、校長先生は気絶してしまうだろう。
 ママはいつだって正しい。そして、一言でボクが次にすべきことを示してくれた。
 交差点に差し掛かると、みどりのおじさんはボクを見るなり頭を掻いて苦笑いを浮かべた。そして、こっちから尋ねるまでもなく白状した。
「昨日の話、ウソな」
「だよね。ボクの学校で万引きが流行ったとき、校長先生は全校集会で泣いてたよ。交通事故で誰かが死んだなんてことになったら校長先生は気絶しちゃうね」
「そうか。万引きはいかんな。そんなことより、おまえ、ちょっと時間あるか?」
「ないよ。今すぐ駆け出したいところだ」
 みどりのおじさんが言うには、いつだってボクが一番最後にここを通るそうだ。そして、ちょっと偉そうに、あと五分だけ早く家を出るようにと言った。
「じゃぁ、そうしなさい」
 ママは鏡越しにちらりとボクを見てから口紅を捻り出した。
「そうするよ」
 いつだってママの言うことは正しい。言うとおりにしていれば間違いない。我が儘言わなければ、いつまでもボクのママ。パパがいなくなった時がそうだった。ボクの我が儘を許したママと許さなかったパパが喧嘩した。
「我が儘はいけないよ」
「どんなこと言ったんだ?」
 いつもより早く横断歩道にさしかると、ボクは随分と余計なお喋りをしてしまった。何となく気付いていた。みどりのおじさんはボクに説教がしたくて五分早く家を出ろと言った訳じゃない。ボクともっとお喋りがしたかったんだ。
「弟が欲しいって言ったんだ」
「そいつは厄介だな」
 みどりのおじさんは少し困った表情をしながら、後ろからやってきた集団を横断歩道へと誘導した。ボクもなんだか気まずくなって、その集団と一緒に横断歩道を渡っていった。

 翌朝、ボクはいつもの癖で化粧をするママの姿を見るけれど、何も話しかけることがなかった。そんなボクを察知したママは鉛筆で眉毛を書き足しながら、鏡越しに問いかけた。
「五分早く家出るのやめたの?」 
「五分はちょっと早すぎるんだよ」
 みどりのおじさんとのお喋りは二分程度がちょうどいい。そろそろかなと壁掛けの時計を見上げれば、針がグルグル回っていた。ウチの電波時計はあまり機能していない。時間を知りたい時には決まってグルグル回りながら調整をしている。いつまで経っても、時計のグルグルは止まらない。本当に時間が早回しになってたりして。そんなことを思うと、ボクは不安になって家を飛び出した。
 通りに出ると、ランドセル姿が見あたらない。ボクは急いで歩き出す。そして、交差点に差し掛かると、みどりのおじさんが立ちはだかった。
「通してよ。車なんていないだろう」
「五分早く家出るのやめたの?」
 こういうのなんて言うんだっけ?
 デジャブって言葉を探していると、みどりのおじさんは思いもしないことを口にした。
「俺が弟になってやろうか」
「え?」
 何かの聞き違いかと思ったよ。
「欲しいんだろう?」
「昔のことだよ」
「昔ね」
 みどりのおじさんは薄ら笑いを浮かべながら、横断歩道と平行に黄色い旗を伸ばした。
 グルグル回る電波時計ってやつは、意識して見ると回っていない。学校で話題になっているあのテレビコマーシャルだって、見たいと思ったときには見られない。そして、気を緩めたときに急に流れるもんだ。
 なんだってそう。思いもしない時にやってくる。
「弟ができるかもね」
 ママはいつもより忙しなく顔を叩きながら、鏡越しに俺を見た。
「え?」
 何かの聞き違いかと思ったよ。
「欲しかったのよね?」
 昔のことだよ。
 そう言い掛けて口をつぐむ。
 不意にみどりのおじさんの顔が浮かび、ボクは頭を振るう。続いて、無人になった横断歩道を思う。
 壁掛け時計を見上げれば、針がグルグル回っていた。


ぼっきらぶう

 仕事帰りの疲れた身体をテーブルに落ち着かせる。すると、なんだか機嫌の悪い妻が音を立てながら皿を差し出した。思い当たる節はないが、珍しいことではない。なにかとややこしい世の中だから仕方がない。なんて勝手な理解で自分を納得させる。
 杓文字をカンカン鳴らしながらご飯をよそうその背中に向かって小さく呟いた。
「ぼっきらぶうだなぁ」
 妻の動作がピタリと止み、ゆっくり首だけを回して俺を見る。眼球を揺らし口元をひきつらせながら目一杯に腕を伸ばす。少しでも俺に近づきたくないというような素振りで茶碗を差し出した。
「先に寝るわ」
 そして、寝室に消えた。
 翌朝、俺は関西営業所に向かうべく、眠ったままの妻を残して、未明のうちに家を出た。
 俺の願いは当たり前のように叶わず、いつもの風景に足を踏み出す。都心の機能は正常に作動し、残念ながら時間通りの新幹線に俺を運んだ。
 前々から予約しておいた窓際A席の最後尾に腰を下ろし、背もたれをいっぱいに倒す。続いて、携帯電話のアラームをバイブレーションに設定して胸ポケットに差し込んだ。眠る準備は万端。シートにもたれて目を閉じると、途端、妻の姿が浮かんだ。口元をひきつらせながら目一杯に腕を伸ばしたあの姿。
「なんだよ。ありゃ」
 呟くと同時に携帯電話が震え出し、咄嗟に胸ポケットを掴む。
 俺の携帯が鳴るのには大凡いくつかのパターンがある。アラームが鳴る時、電源が残り僅かである時、そして、妻からのメールが届いた時。
 この時間帯を考えれば、答えは一つしかない。多少の緊張感とともに携帯電話を取り出す。画面に目を落とすと、俺は小さく首を傾げた。そこにはどこか見覚えのある鳥のマーク。イトーヨーカドーからダイレクトメールでも届いたかしら。しかし、セブンアンドアイになってからマークが変わったような。ヨークマートなんてイタリアカラーのヤツもあったよな。なんて思いを巡らせているうちにふと気付く。
「あぁあ」
 思わず大きな声が漏れ、三人掛けのB席を挟んでC席の女が怪訝な顔で俺を見た。つるんとした白い顔の眉間に皺が刻まれ、俺は反射的に頭を下げる。俺には女を怪訝な顔にさせる才能があるのかもしれない。
 そのマークは、かつてアカウントを取得したまま放置していたTwitterのそれだ。大きな災害があった時にこの手のコミュニケーション手段があったほうがいいと聞いて、妻と一緒にアカウントをとったのだった。
 どうやら俺宛にメッセージが届いたようだ。時折、得体の知れない相手からフォローされることがあったが、メッセージが届くは初めてだった。不慣れな手つきでなんとか本文に辿り着く。
 そこにはたった一言だけ記されていた。俺はそれをなぞるように呟く。
「ぶっきらぼうでしょ」
 俺は首を傾げる。一拍おいてそれに応答する。
「ぼっきらぶうだろ」
 口にすると何か違和感を覚え、唇を巻き込んで強く口を閉じる。チラリC席の女を眺めると、眉間の皺は消え、健やかな寝息を立てていた。途端、俺も眠気に襲われる。目尻に女を捕らえたまま視界がぼやけていった。
 携帯電話が震え、咄嗟に胸ポケットを掴む。
 寝起きで迎えた関西会議は、その大半を聞き漏らす。午後には、想像力を発揮しながら、メールで送られた議事録を必死に理解する。それでも、何とかやっていけることは経験的に分かっていた。
 隣の席では目をつり上げた所長秘書が、ものすごい勢いでキーボードを叩いている。そのリズムはハチャトゥリアンの『剣の舞』。
「なんすか、その限定的には容認するってのはっ」
 声のでかい同僚はオフィスで議論を続けている。議論というより一方的に文句を垂れていると言った方が正しい。
「どっちとでも取れるようなこと言って、現場で血を見るのはこっちなんすよっ」

 パソコンの陰からその様子を窺えば、気の弱い所長が腕組みしながら困り顔を浮かべていた。
 再びパソコンに目を落とせば、所長は小さな声を漏らした。
「そんな、ぶっきらぼうに言うなよ」
 俺は反射的に視線を戻した。所長の脳天まで及ぶ額には皺が浮かび『うんざり』と描かれている。俺は首を傾げてから隣の彼女に首を伸ばした。
「ぼっきらぶうだよな?」
 途端、『剣の舞』が止み、彼女は大きな音を立てながら椅子を引いて立ち上がった。所長は好都合とばかりにこちらに首を伸ばす。
「なんだ?なんだ?」
 彼女は後ずさり、背後のキャビネットにもたれて、片手で口元を押さえながら俺を指さす。俺は状況が飲み込めず、チャックでも開いていたのかと股間に視線を落とす。特に問題はない。彼女はその場にしゃがみ込んでしまい、胸を押さえながら呼吸を整えた。
「どうした?どうした?」
 声のデカい同僚が彼女の元に駆け寄り、肩に手をかける。
「おまえ、何をしたんだ?」
 所長は椅子に挟まったまま身動きがとれないのか、その場で首を伸ばして俺に問いかけた。
「いや、何も。ちょっと彼女に聞いただけッスけど」
「何を?」
 すると、所長秘書の声がオフィス中に響きわたった。
「駄目、駄目、駄目、駄目、駄目ぇぇえっ」
 尻の重い所長もついに立ち上がり、のそのそと全速力で駆け寄った。
「一体、何したんだよ」
 そして、同僚は声のデカい男としての調子を取り戻す。
「彼女に何をしたぁぁあっ」
 いわれなき非難に動揺していると、胸ポケットの携帯電話が震えた。俺は驚いて背筋を伸ばす。そして、またメッセージが届いたこと察知する。
「あのぉ」
「なんだ」
「なんだぁぁあっ」
 いちいち声のデカい同僚に嫌気がさし、俺は鼻からゆっくり息を吸いあげる。そして、力強く吐き出した。
「ぼっきらぶうぅぇぁあっ」 
 途端、所長の顔がみるみる赤くなる。続いて、白目をむきながら額ともとれる脳天から湯気が立ち上がる。そして、笑い声ともとれる咆哮を轟かせた。

 


いま、火星に行きます

しおりをつける

 夜空を見上げて、一番輝く星を探す。今になって思い返してみても、俺がはじめて好きになった女の子はやっぱりヨモギだった。
 ヨモギは火星語で大きな瞳を意味する。

 

 ヨモギは小学校二年の一学期を終えると転校していった。学校に馴染めなかったことが問題だったのではないかと思う。幼稚園は一緒でなかった。卒園アルバムを見返しても、軟体動物のような形をしたヨモギの姿は見あたらない。小学校の卒業アルバムにしたってヨモギの姿は残っていなかった。
 三〇歳を迎えた年、小学校の同窓会が行われるという通知が届いた。幹事を務める差出人の顔を思い浮かべると少し嫌な気分になったが、返信用ハガキの「出席」ばかりに目が行く。俺はひとまず辛うじて年賀状でつながっている旧友に連絡をとることにした。
「久しぶり。なんか案内来なかった?」
「ああ来た来た。久しぶりに携帯におまえの名前が出てきたから、金貸せとか言われるのかと思ったよ」
「おまえだけには借りん」
 その後、当時流行った漫画やシールの話題だけで三〇分も電話を続け、お互い同窓会に参加することになった。
 そこで、俺は恐る恐る切り出す。
「ヨモギ来るかなぁ?」
「誰だそれ?」
 そして、慌てて言葉を探す。
「れ?中学ん時のヤツだったかな?」
「そうか」
「きっとそうだ。じゃぁ今度な」
 電話を切った後、あいつとは中学校も同じだったことに気付く。
 ヨモギは日本語を話さなかった。というより、そもそも声を持たない。見た目はやはり頭足類に近く、いくつも延びた触手の一本を駆使してコミュニケーションをとった。
 俺がはじめてヨモギとのコミュニケーションを試みた時、それは校庭脇の体育倉庫の中、はじめにその滑らかで冷たい触手を耳に入れてみた。ガサゴソとくすぐったい音がして、俺はいくらか幸せな気分になったが、ヨモギの気持ちは何も伝わってこなかった。
 続いて、口に含んでみた。ヨモギの表皮は少し酸っぱい味がして、俺は顔をしかめた。それでもヨモギは喉の奥へと触手を延ばす。俺は咳き込んでそれを吐き出した。
 結果的に鼻の穴がよかった。
 ヨモギは触手の一本を細く伸ばして鼻の奥へと差し込んでいく。鼻腔の嗅上皮に密着した触手が嗅覚受容神経に信号をつたえる。様々な香りとともにヨモギの思いが伝わってきた時、その喜びは何にも代え難いものだった。
 薄暗い倉庫の中、跳び箱に腰を下ろして目を閉じた俺の顔を触手が這い回る。耳、口、鼻とコミュニケーション手段を探していたその時から、すでに俺とヨモギの心はつながっていたのだと思う。
 そして、嗅覚受容神経を通して俺は知る。
 ヨモギは火星語で大きな瞳を意味する。
 目を開けば、大きな頭の真ん中でたった一つの大きな瞳が涙で滲んでいた。俺は鼻に触手を入れたまま優しく微笑んだ。

 結局、同窓会にヨモギは現れなかった。それでも、懐かしい面々と再会し、随分と綺麗になった女子や、すっかり中年太りの男子らと、あのころの話をするのは楽しい時間だった。
 そして、声と声が干渉してざわめく会場の中、俺は一つの声を拾い上げた。
「そう言えば、うちのクラスに変なタコみたいなヌイグルミが置いてなかった?」
 俺はその声の主を探して辺りを見回すが、誰もがせわしなく口を動かしていた。
 続いて、マイクのハウリング音とともに初老の教師が上座に立った。ビンタマンと呼ばれていた馬面の教師だ。宴も闌、そろそろ一言講釈を垂れたいようだ。あいつの被害を被った児童は少なくない。それでも、多少の暴力は教育の手段として赦される時代だった。一時の痛みなどすぐに消え、ビンタマンは恐れられる対象ではあったが、嫌われることはなかった。
 そんな、ビンタマンも今となってはビンタ校長だ。やりにくい時代に苦労していることだろう。
 校長の講釈が終わり、すっかり酒の回った幹事の男が目を閉じて、ビンタを要求した。校長は困惑顔で男の頬を優しく打った。大げさに倒れる男には苦笑いが浮かぶが、それでも同窓会を締めるには十分なイベントだった。
 宴が終わり、俺は一人、夜空を見上げながら静かな方へと歩いていった。そして、一番輝く星を探す。
 その時、どこ懐かしい感触が俺の頬に触れた。
「ヨモギ」
 俺は呟いた。そして、勢いよく振り返れば、目の前には大きな瞳。頬に触れた触手はその先端が細く伸び、俺の鼻の中へ差し込まれた。嗅覚受容神経を通して信号が入り、俺はヨモギのメッセージを受信する。そして、目を見開いた。
 はじめはヨモギの申し出に躊躇した。それでも、少し考えれば他に回答が見あたらないことに思い至る。そして、俺は微笑みながら小さく頷いた。
 途端、上空から光が射し、俺の身体は軽くなる。そして、空に浮かぶ円盤状の飛行物体に吸い込まれていった。

 


チロリアンハット

しおりをつける

 君はグリーンのフェルト地に可愛らしい飾り紐の付いたチロリアンハットを被っていた。俺は、それが風に飛ばされた拍子にこっちに振り向かないだろうか、なんて都合のいいことを考えていた。
 人差し指を一度口に含んでから天を指さす。風向きを確認してから、君を軸に時計回りで一〇分進む。風向きと言ったって地下空調によるものだ。コンクリートに囲まれた中で、帽子を吹き飛ばすほどの突風は望めない。
 すると、都合良く通過列車が帽子を吹き飛ばした。それを追いかけるようにして君が振り返る。途端、俺は不躾にもカメレオンを連想した。舌を伸ばして帽子を見事にキャッチ。なんてことが起こったわけではない。
 君の顔は俺が今まで見たどんな子よりも目が離れていたのだ。
 帽子は二、三度舞い上がり、列車が通り過ぎるとそのまま線路に落ちた。
 おそらく帽子は駅員が拾ってくれたのだと思う。「線路に物を落とされた方は駅係員にお申し付け下さい」なんて案内が柱に貼ってあるだろう。俺が駅員を呼びに言ったのだろうか。まさか線路に飛び降りたわけではあるまい。
 最後に彼女は帽子を被ってから「ありがとう」と言って、離れた目を細めた。
 あれから一〇年近い時が流れ、偶然にも大学に入ってから再会することとなる。
 それは学生会の歓迎コンパでのことだった。
「もつ煮が好きな男の人って多いよね」
 学生会などというものに所属する予定はなかった。たまたま入学式で隣だった男に声をかけたところ、高校の三年間を生徒会に属していたなんて奴だった。
 呑み会の喧騒の中で俺がその声を拾い上げることができたのは、あの時の一言を記憶していたからだろうか。俺は熱心に先輩の話に耳を傾ける男の隣を離れ、彼女のもとへ歩み寄った。そして、俺は瓶ビールを差し出し、グラスを要求する。
 彼女は条件反射的にグラスを握り、俺を見上げる。そこで俺は目を瞬いた。彼女の目は記憶していたほど離れていない。グリーンのチロリアンハットも被っていなかった。彼女はグラスを差し出したまま首を傾げる。そして、俺はその場しのぎの声を発した。
「もつ煮は昔から大好物だ」
 お陰で俺のあだ名はモツヲに確定した。
 翌朝、俺の隣で彼女は目を覚ました。
「モツヲ」と呟いて、彼女は微笑む。俺は口元を歪めて「なんじゃらほい」と応える。続いて、俺は昔話をはじめた。
「ねぇ、覚えている?グリーンのチロリアン」
 彼女はしばらく間を置いてから応えた。
「なんのこと?」
 どうやら俺の勘違いのようだった。彼女は誰が見ても美人の類だ。誰だってカメレオンと見紛うことはない。そして、俺が思うに、この顔にはグリーンのチロリアンハットは似合わない。
 それでも彼女との付き合いはしばらく続いた。そして、彼女は俺のアパートの小さなキッチンで実に美味いもつ煮を作った。時には学生会の連中を呼んでもつ煮パーティーを開いた。
「男ってもつ煮が好きよね」
 彼女は微笑んだ。俺はモツヲとして誰よりも多くのもつ煮を掻き込んだ。

 夏が一気にやってくると、俺たちはバイト代を握って夏物を漁りに出かけた。一通りの買い物を終えると、デパートの洋菓子売場のテーブルで向き合い、一つのクリームあんみつをつついた。
「ねぇ、はじめて一緒に過ごした日のこと覚えてる?モツヲは朝になってから何か聞いたじゃない」
 俺は背筋が伸びる。
「なんだっけ?」
「グリーンのチロリアン」
「チロ リロリン」
 面倒なことをよく覚えている女だ。
「誤魔化さないでいいの。でもね、普通チロリアンって聞いて帽子を思い浮かべるヒトはいないわよ」
 彼女はそう言って、千鳥屋の店舗を指差した。そこには「高原銘菓チロリアン」と書かれたパネルが置かれている。そのパネルには色とりどりのクリームが詰まったロールクッキーが並んでいた。その一つは抹茶味だろうか、グリーンのチロリアンもあるではないか。
 そこで俺は気づく。つまり、彼女には通じていたのだ。
 彼女は微笑みを蓄えたまま黙って俺を見つめている。俺はその顔を眺めながら、自分の目を寄せていった。
「変わったでしょ」
 俺は二、三度頷いた。
「私がやったのは目頭切開法って言うらしいわ」
「目頭?切開?」
「そう。そのまんま。そんな大げさに考えないでよ。切開する角度とか、長さとか、ラインなんかを決めたら、手術なんて二、三〇分で終わるのよ。一週間後に抜糸もするけどね。高校出て、春休みのうちにできちゃうわけ。大学決まってんだから親も文句ないでしょ」
 それから彼女は帽子を被る必要も無くなったのだという。
 俺はうまく言葉が選べない。でもね、あの時確かに思ったんだ。彼女は誰が見ても美人の類だ。誰だってカメレオンと見紛うことはない。
 だからそう言うことにした。
「もう誰だってカメレオンと見紛うことはない」
 平手が飛んだ。
 それでも彼女との付き合いはしばらく続いた。相変わらず、彼女は俺のアパートの小さなキッチンで実に美味いもつ煮を作った。そして、彼女がはじめてもつ煮を作ったのがこのキッチンだと知ったとき、涙が溢れそうになった。
「男って大抵もつ煮与えとけば満足なのよ」
 彼女は照れ隠しのように言い放った。
 そんなことはないだろうよ。
 彼女は誰が見ても美人の類だ。そして、彼女と体を重ねる度、離れ目は遺伝するのだろうかと考えてしまう。いつか娘を授かるようなことがあれば、グリーンのチロリアンを手に入れたい。



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