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愛はズボン

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 お、「I was born」。

 ブックオフで購入した一冊にあんたが引用されていた。俺の頭にこびりついて離れないウスバカゲロウの下りはあんたの一節だったんだ。

 ウスバカゲロウには口がない。正確に言えば、全く退化して食物を摂るに適しない。それを知ったのは理科室の顕微鏡ではなく、国語の教科書だった。何も食わない。ただ連鎖を絶やさぬために成虫になる。

 だって、それが生命じゃん。

 その潔さは受け入れがたい。気味が悪い。「I was born」をはじめて読み聞かされたのは小学生だった。体の中に沢山の卵を抱えながら飲まず食わず。非道いよ。トラウマだよ。

 散文詩に呑み込まれた俺は薄馬鹿下郎に変態する。

 坊主頭を寄せ合う二人の大きな目玉が拡大鏡に映し出された。卵だけは腹の中にぎっしり充満していてほっそりした胸の方にまで及んでいる。内から外から俺を襲う圧迫感。全く退化して機能しない口をモゴモゴ動かし不満をたれる。ゆっくりと呼吸する。エネルギーの消費は極力抑えたい。

 息をつく。グルコースが代謝され、アデノシン三リン酸が放出される。成虫になってからこれまで絶食を続けてきたのだ。糖質なんかはすぐに枯渇した。すでに筋肉の分解がはじまっている。糖新生からエネルギーを得なければ活きていられない。俺は痩せ細る。活きる為に痩せ細る。息する度に痩せ細る。

 天上からは飽きもせず俺を見下ろす巨大な目玉。涙で潤んだそれは白黒のコントラストが美しいじゃない。幼虫だった頃を思い返し、勇ましい顎を突き上げる。小僧の目玉くらい一突きにしてえぐり出してやれるのに。

 新鮮な目玉をエネルギーに変えて羽を広げる。そんな想像には及ばず、俺の腹には無数の目玉。小僧の黒目が動くに合わせて腹の中の目玉たちがぐるりと回った。

「淋しい光りの粒々だったね。」

 小僧の声が響く。俺は全く退化して機能しない口をモゴモゴ動かす。全て俺であれと願う。俺の腹を引き裂いて飛び出す無数の俺。俺の殻を破って生まれる俺地獄。高床式の社殿の床下なんかに穴を掘って顎を突き出す俺地獄。足を滑らせた俺を捕らえてエネルギーを蓄える。ついに変態した俺は再び顕微鏡の上。目まぐるしく繰り返される俺の生き死に。

「せつなげだね」

 全く退化して機能しないこの口で、最大限の欠伸でもしてみせようか。

 

 

「I was born」吉野弘より


キッズ嗚呼オーライ

「親父死ぬかも」

 親父が癌になった。直径一ミリの塊を内視鏡で摘めば治るんだって。それなのに俺は言ったんだ。だって、キムチが得意げに言うからさ。

「俺の親父さぁ、三メートルくらいのとこから落っこちて、骨やっちゃったんだよ」

 両手で頭を庇ったら手首の骨がバラバラになったんだって。頭蓋骨にもひびが入ったんだって。

「知ってるか?骨折したらプレートを腕に差し込んでネジで止めるんだってよ。なんか手術後もスゲェ痛いらしいよ。くっついたら抜き取るらしいんだけど、それも痛いらしいよ」

 なんだよそれ。プレートを突っ込んでネジで止めるなんて、そんなのありかよ。俺は顔をしかめながらキムチの顔をのぞき込む。それでも、あいつは口をへの字に結んでスマホの画面にせわしなく指を滑らせる。

「よっしゃ、七コンボっ」

 公園のベンチで背中を丸めながら小さな画面に目を向ける。自分の親父の災難を何でもないように話しやがる。その姿がなんだか得意げに見えたんだ。

「親父死ぬかも」

 キムチは途端に手を止めて、俺に振り返る。一〇秒もすればスマホの画面は真っ暗になった。それでもキムチは口を半開きにしながら目を泳がせている。

「ごめん」

 俺は沈黙に耐えかね口を割った。

「ごめん」

 キムチは繰り返す。下手な冗談かと思って歯を見せると、キムチは眉間にしわを寄せた。

「ごめん」

 俺は下唇を噛む。

「いいんだ。ただ、なんて言っていいんだか」

 キムチは上唇を器用に噛んだ。すると、いいタイミングでマメが駆けてきた。滑り台を滑り降りてチョワーとか言いながら。

「マメちゃんは知ってるの?」

 俺は大きく頭を振って、突進してくるマメを受け止める。

「お腹空いた?」

 そう尋ねれば、答えは決まっている。マメは大きく首を垂れた。

「そろそろ帰ろうか」

「バイバイ」

 マメがキムチに小さな手を振る。俺は誰に目を合わせることもなく、マメの手を引いた。

 だって、キムチが悪いだろう。あんな平気な顔で自分の親の不幸自慢をしておいて。なんで、俺の親父の話であんな顔するんだよ。なんで、急にいいいヤツみたいな顔しやがって。なんで、公園でゲームばっかりしているヤツが。なんでだよ。

「兄兄、痛い痛い」

 手をピンと伸ばしたまま俺に引きずられているマメが情けない声を上げた。

「ごめん」

 俺は歩みを緩めマメの手を離す。その小さな手は直ぐに俺の手を握り返してきた。俺はその手を振り払い。親指を突き立てて握り直す。そして、俺は親指でマメの親指を押さえ込んだ。

「イチニサンシゴロクナナハシキュジュッ」

「急にズルいぃ」

 頬を赤くしたマメから笑みがこぼれた。自然と俺も笑顔になる。小さな親指は笑顔の発射ボタン。

「今度は競走だよ」

 俺の返答を待たずして、マメは駆け出す。俺は大きく頭を振るって三つ数えてからその背中を追いかけた。


同期会

 初めてここにやって来た時、俺たち同期組は男女四人四人の八人だった。でも、女たちは一人消え、二人消え、ついに残ったのは男四人。

 最後に同期で席を囲んだのは、四人目の女が消える直前だった。薄ぼんやりと輝く女は、世界に不満を撒き散らしながら消えていった。こういうことがあるととても残念だよ。目が眩むくらいの満面の笑みで世界を見切ったように飛び出して欲しいと願う。でも、そんなヤツは滅多にいない。女四人は皆何かしらの不満や苦しみを抱えて消えていった。

 そんなことが続いてから、俺は能面を被ったようになって、笑うことも怒りを露わにすることも極力控えるようになった。

 そんな俺が心の底から笑えたよ。

「未来はガタガタゴーじゃねぇだろう。なんかシュイーンみたいなことにならんの?」

 久しぶりに同期会をしようなんてことになったきっかけは、偶然ホヘトと出くわしたことだった。

 その日、俺は希少種の一二番を連れてラボに向かっていた。俺たちはもう絶滅が決定しているわけだが、やたらとY遺伝子が強いようで、増えはしないが絶滅が危惧される立場にはなかった。

 カロリーメイトをかじりながらメトロに乗り込むと、ウィダーインを啜るあいつが運転席に座っていた。それを見つけたのは一二番だった。運転席を指さして彼女は言った。

「イロハニの同期の方じゃないですか?」

「本当だ。よく分かったね」

 なんて言ってはみたものの、分からないはずがない。活発なプロリフェレーションとアポトーシスを繰り返す俺たちの細胞は常に入れ替わっている。全身からフツフツと音を立て、表皮は波を打ったように蠢いている。動的平衡が保たれた、こんな種族は俺たちくらいしかいない。俺はこの惨めな運命に苦笑いを浮かべた。

「イロハニも笑うんですね」

「笑った訳じゃない」

 俺が眉を顰めると、一二番は目を細めた。随分と綺麗な笑みを浮かべる娘だ。続いて、一二番は運転席に目を向け、断りもなく指先で空気に波を立てた。その波動は真っ直ぐに運転席へ届き、窓ガラスを打った。運転席と言ってもメトロは自動運転だ。ホヘトは正常に動作しているかどうか見守るだけ。長生き以外に特長ない俺たちには碌な仕事が割り振られなかった。

 ホヘトが振り返る。俺は微笑みもせず軽く手を挙げた。あいつは少しばかり目を見開いて俺たちを手招いた。ぼんやり立ち尽くしていると、一二番は再び波を起こす。俺の背中に衝撃が走り、滑るように運転席へ飛んでいった。

 ホヘトは窓を開けて肘をかける。

「久しぶりじゃないか、イロハニ。なんだよそのシュイーンな動き」

「あいつのせいだ」

 蠢くホヘトの顔から目を背けて顎を一二番に向けると、一二番は得意げに微笑みながら指先を突き上げていた。

 アンマリチカラヲツカイスギルナヨ

 声にはせず口だけを動かす。いつも言っていることだ。一二番は舌を出して指先を引っ込めた。

「しっかし、もう二一世紀だって言うのにこの列車はないよな。未だにガタガタゴーだ」

 考えてみればイロハニと会うのは二〇世紀以来だ。

「二一世紀って言えば、タイヤのない車がシュイーンのはずだったよな」

「今みたいな力を使えばいいんだろうが」

「希少種の力をあてにしても、直ぐに絶えるだけだ」

「悲しいねぇ」

 長生きしか能力のない俺たちとどっちが悲しいか。言いかけた言葉を呑み込む。最近、湿った言葉を選びがちだ。

 不意に視線を落とせば、すぐ側で一二番が見上げていた。

「私、一二番」

 そう言ってホヘトに手を伸ばす。あいつは口元を歪めて意地悪く答えた。

「今度は俺を吹っ飛ばす気か?」

「まさか」

 綺麗に笑う一二番の手を、ホヘトがキツく握った。蠢く手から一二番に高い熱を伝える。

「ねぇ、イロハニ。あなたとてもいい顔してるわ。たまには同期で集まったらいいじゃない」

 すぐさまホヘトが答える。

「いいね。同期会か」

 それからの展開は早かった。すぐに一二番が店を予約して、俺たち同期にシグナルを送ったのだ。

「便利なもんだ」

 だから、すぐに絶えるんだよ。

 希少種をラボに届け、僅かな賃金を得ると、俺は一二番指定の居酒屋へ向かった。暖簾を割ると、既にホヘトが忙しなく箸を動かしながら杯を傾けていた。

「よう早いな」

「腹が減って死にそうだったんでな」

「死ぬ前に喰ってくれ」

 つならない冗談ではない。活発な動的平衡を保つ俺たちは喰い続けなくてはならない。つまらない現実だ。

 間もなく、チリヌルとオワカが現れた。恐る恐る店内をのぞき込む二人は、俺たちを見つけるなり直ぐに肩を落とした。

「なんだよ。お前等か」

「なんだよってのはなんだよ。不満か?」

「随分可愛らしい声で信号が届いたもんだからな」

 俺が鼻を鳴らすと、ホヘトは言った。

「一二番って可愛くねぇか?」

「なんだい。おまえ外人が好きなのか」

「こいつ希少種のボディーガードしてるんだよ」

「そんなことしてるのか。大したもんだ」

「大したことはない。さぁ、頼むぞ。呑んで喰って活きるぞ」

「現実的なこというなぁ」

「今日は呑むよ」

「宵越しの金は持たないってか」

「死ぬぞ」

 乾いた笑いが響く。

「ホヘトは何してんのよ?」

「メトロの運転士だよ」

「ガタガタゴーの見張りだろ」

「未来はガタガタゴーじゃねぇだろう。なんかシュイーンみたいなことにならんの?」

 繰り返される日中と同じ話題。俺は堪えきれず声を上げて笑った。ホヘトは肩を持ち上げ、チリヌルとオワカは目を見合わせて首を傾げる。

「よし呑むぞぉ」

 俺は声を荒らげた。そして、宵越しの金は持たぬと決めた。

 


メーデー

 水飲まないと死ぬよ。
 茶ではいけない。沸かした湯も駄目。焼酎を継ぎ足そうなんて以ての外。フィルターで濾過した水道水が一番。
 でなきゃ死ぬよ。
 そんな話、ほかから聞いたことがない。それでも、酷く喉が渇いて、左脳の側頭葉あたりが奇妙に疼くと不安が襲う。ペッコペコのペットボトルに詰まった水を五〇〇ミリリットル一気に飲み干す。それでも側頭葉は変わらず疼いている。
 そして、俺は女房の言葉を思い返す。
 水飲まないと死ぬよ。
 やはり水道水をフィルターで濾過したやつでなければならないか。
 今日はメーデーだっていうのに午後から顧客との面会があった。無理に呼び出されたわけではない。こちらが受話器越しに頭を下げながら頼み込んだアポイントだった。
 会社が買収されてから三年が経つ。事務所が変わるわけでも、上司が変わるわけでもない。その中で、わずかな変化の一つがこのメーデーの導入だった。年に一度のことだ。長年メーデーなんてものに縁の無かった俺に、そいつを定着させるのは、まだ時間がかかるようだ。そして、カレンダーが黒字だったということで、確度の低い商談を予定してしまったのだ。
 もちろん会社には寄らず、家から直接、朝遅い電車に揺られて行った。近年の企業誘致の中では比較的成功したと言われている産業都市。ついには地下鉄が伸びて、町が生まれた。
 俺は改札を抜けると、地上には上がらず、そのまま真っ直ぐデパ地下へと突き進む。ひとまずフードコートに落ち着き、遅い朝食をとる。朝昼兼用のブランチというやつか。すっかり全国を席巻した讃岐うどんを啜る。そして、レンコンの天ぷらを勢いよく咀嚼し、その歯ごたえを堪能する。
 腹を八分に満たしたところで、女房の顔を思い返しながら紙コップ一杯の水を飲み干した。袖をめくって腕時計を覗けば、約束の時間にはまだ十分に余裕がある。
 俺は立ち上がり、フードコートを後にする。そして、仕事鞄をゆらゆら揺すりながら食品売場を歩いた。赤飯、烏賊飯、筑前煮を通り過ぎると、油を通した肉の臭いが俺を魅了する。レンコンだけでは物足りなかったか。羽つき餃子も悪くはないが、いくつになっても男子を魅了して止まない肉料理の王道はやはり鶏の唐揚げだ。中でもマラカスのような形をした手羽元。それにしても、大皿に積み上げられたそれは一体何羽分に相当するのか。俺はひたすらに鶏を部位ごとに解体する屈強な男について考えてしまう。
 タンパク質も摂らなければいけないよ。
 女房はそんなことも言っていた。
 でなきゃ死ぬよ。
 否。それは死ぬほどの問題ではなかった。
 タンパク質はそれほど大層な問題でない。とはいえ、これから休日を返上してまで獲得した商談を控えているのだ。具合を悪くしている場合ではない。
 唐揚げの試食は許されないようで、俺は視線を辺りに泳がせる。そして、楊枝の刺さった焼豚を見つけた。そいつを摘んで、申しわけなさそうに口に運ぶ。美味。商談が成立した暁には、一本買って帰ることにしよう。
 腹は八分に満たされた。水は飲んだ。多少のタンパク質も採った。準備は万端と、食品売場を出ようとしたところで、俺を呼び止めるものがあった。甘さは控えめ、ほのかな塩味、目から入る情報だけで、唾液腺から溢れ出るものがある。
 嗚呼、豆大福。
 しかし、こんなスウィーツに頬を緩めている場合ではない。日々は酒に向かって進んでいるのだ。目を覚ませば日暮れまでに一〇時間以上もあることにうんざりする。最低な気分から一日がはじまり、適度に仕事をこなし、多少の暇を持て余す。それでもなんとかやっていけるのは、酒が俺を待っているから。日が暮れれば家に帰る。少年の頃から同じことの繰り返しだ。しかし、今では温かいシチューが待っていることはなく、そこには塩辛い肴と冷えた酒。俺は豆大福の誘惑を振り払い、勇んで客先へ向かった。

 そして、土壇場でキャンセル。
 結果、焼豚を買うことはなく、帰路につく。
 憂鬱な気持ちを引き連れて、我が家の最寄り駅まで戻ってきた。ロータリーの向こうにはイオン系のマーケットがある。そして、こんな冴えない日を彩るに相応しいトップヴァリューの新ジャンルビールを手に取った。レジに運べば、表示価格よりも大幅な額を請求された。安物買いほど八%の威力に驚かされる。
 ダラダラと重い足を我が家へ運ぶ。そのまま帰っても良かったが、まだ日暮れまでには時間があった。随分早かったじゃない。なんて、これから展開される会話を思うと億劫になる。途中、公園に目をやれば誰もいない。まだ小学校も終わっていないのか。俺はその隅にあるベンチに腰を下ろしてプルタブを鳴らす。そして、呟いた。
「メーデー」
 喉仏を揺らしながら空を見上げる。うっすら雲のかかったソーダ色の空。心地よい風。随分と清々しい陽気であることに気付く。誰もいないのをいいことに、天を仰いだまま大きなゲップを響かせる。そして、両腕を突き上げて、背もたれに背筋を反らせた。
「あんたなにしてんの?」
 聞き慣れた声に、俺の身体は条件反射的に応答する。そして、張りつめた筋繊維の反動で俺は勢いよく上体を起こした。女房は俺の大きなリアクションにほくそ笑みながら、俺の手に握られた三五〇ミリ缶を見つける。文句の一つでも言われるかと思えば、手に提げた鞄からペットボトルを取り出し、それを突き出した。
 ラベルの剥がされたペットボトルの中で透明な液体が揺れている。

「水飲まないと死ぬよ」
 俺はそれを受け取り、代わりに飲みかけの缶を渡す。すると、女は勢いよく喉を鳴らしながらそいつを飲み干した。そして、小さく舌を出して唇を舐める。俺はその一部始終を見届けてからペットボトルに口を付けた。
「ねぇ?」
 これから展開される会話を思うと億劫になる。
 そして、もう一度呟いた。
「メーデー」


ワイルドサイド

 俺が生まれた家は、落下式、くみ取り式とも言われる、所謂ボットン便所だった。あの頃の排便といえば、慎重に足を延ばして便器に跨がり、カマドウマめがけて垂れ流すものであった。
 そして、便所を出れば、煙に燻された台所。
「夕飯、塩焼き?」
「そうよ」
 俺が大好きな鰺の塩焼き。塩を吹いて黒焦げになった皮をめくれば、うっすらと血管の走る真っ白な身が湯気をたてる。
 俺はうれしくなって鼻歌を奏でる。Doo doo doo...
 はじめて一人で暮らすようになったアパートは、便所と風呂が同居するユニットバスだった。どうしてそんなことが許されるのか、まったく理解ができなかった。排便後の風呂は、自分の産物とは言え、臭い立って耐え難い。かといって、風呂後の排便では何のための風呂だったか知れない。
 そして、己に一八時以降の排便を禁じる掟を下した。
 はじめての女はフロリダ州マイアミからやってきた。ヒッチハイクで合州国を横断しながら。西海岸からはおそらく筏で流れ着いたと思われた。隆々とした筋骨が物語る。
 合衆国横断の最中、眉毛を引っこ抜き、足を脱毛して「彼」から「彼女」になったという。米国式のジョークだと思うことにしたが、結局、真実を確かめる機会はなかった。
 そして、彼女の鼻歌はいつだってバスバリトン。Doo doo doo...
 ついに便所は尻の穴まで洗うようになった。尻で蓋をして用を足した後、尻を洗って流水で全てを洗い流す。便器を覗いたところで跡形もない。俺の尻からは一体何が出た?
「二一世紀」
 そう呟くと、なんとなくため息がこぼれた。便所を出る俯き加減の俺を見て、女は言う。
「便秘?」
 俺は首を振る。
「野菜食べてる?」
 俺は首を振る。
「運動してる?」
 俺は首を振る。
「だからよ」
「だから、便秘じゃねぇって」
 そして、女に跨がれば俺は落下式便所を思い出してしまう。カマドウマを思い出してしまう。
 俺は、そいつを振り払うように鼻歌を奏でる。Doo doo doo...
 可愛らしく乳を吸って、真っ白な便を垂らしていたおまえも、気が付けば、草を食い、肉を食い、酷い臭いを放つようになる。二〇世紀が帰ってきた。そんな感覚に包まれ、便所のカマドウマ、燻された台所が蘇る。
 湿った布団の上で眠るおまえに添い寝して、汗ばんだ額をそっと撫でる。
「可愛い?」
 女は俺を見下ろして微笑んだ。汗をかきながら不服そうな寝息を立てるおまえ。小さく動いた口が糸を引いた。額に接吻してから俺は応える。
「勿の論」
 女は眉を奇妙に歪めて呟く。
「オヤジ」
 大半のオヤジはオヤジを演じている。あえてね。そして、俺は仰向けに転がり、腹筋をはじめる。
 女は布団に膝をついて、おまえの髪を指でとく。
「変なパパね」
 そして、女は子守唄にとても相応しい声で、喉を振るわせはじめた。Doo doo doo...

 おまえはどこまでも暴走していた。一日限りのジェームス・ディーンを気取って。大量のヴァリウムを呑んで、そして、当然クラッシュした。
 連絡を受けた女は、声を振るわせながらも、電話の向こうの声を完璧に反復した。俺は真っ赤な肉塊になり果てたおまえを想像する。その周りにはカマドウマが跳ねていた。
 実際のところ、おまえは真っ白で清潔なベッドに縛り付けられていた。俺はおまえの横に腰をおろし、汗ばんだ額をそっと撫でる。うっすらと髭の生えた鼻の下を眺めていると、作り話でもしてやりたい気分になってきた。
「はじめての女はフロリダ州マイアミからやってきた」
「なんだそりゃ」
「ヒッチハイクで合州国を横断してさ。西海岸から筏で浦賀に流れ着いた」
「マシュー・ペリ子かよ」
「ペリ雄かもしれん」
「女だろう」
「合衆国横断の最中、眉毛を引っこ抜き、足を脱毛して「彼」から「彼女」になったんだ」
「ペリーがか?」
「ペリーがさ」
 おまえは実にいい顔で、痛いから笑わせるなと言いながら、声を漏らした。Doo doo doo...
 女が逝くすぐ前におまえが死んだ。焼かれたおまえの骨は、空洞だらけのスポンジだった。そして、残された俺は締まりの悪い体に悩まされている。見知らぬ女にオムツを交換されて、いい気分がするはずもない。自分の産物に鼻をつまみながら、このままベッドで干からびていく己が不憫になる。
 どうせ干物になるなら、太平洋の真ん中、筏の上でありたい。
 まっさらなオムツに幾らか気分がよくなった。礼の一つでもしてやろうかと顔を見れば、真っ黒な顔した女介護士。
「ペリ子」
 そんなはずがない。
「ナンデスカ、ソレハ?」
 そして、彼女の鼻歌は心地よく響くバスバリトン。Doo doo doo...



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