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★執着を捨てると神理が見えてくる

「魂の教科書」その2 です。

今まで書いてきたものを加筆編集しました。

私のこれまでの人生体験の中で学んできたスピリチュアルです。

それは、執着を捨てること、です。

こだわりなく、気にしないで、流れに任せて生きることです。

しかし、捨てすぎてしまって、価値のない人間になっていることも事実ですね。

地位も名誉も財産も何も無く、家族も疎遠、友達も無く、その日暮らしの毎日になっています。

正に、ゼロになる生き方です。

後は死ぬだけの人間が、電子書籍をつくる必要もないのですが。。。

 

生きるのも死ぬのも、自分独りです。

それが現世の倣いです。他人に頼ろうと思うと利用されます。

現世の人生はマラソンのようなものです。

応援してくれる人間は居ますが、直接手を貸すことはできません。

失格になりますよね。神霊は、コーチのようなものです。

的確なアドバイスをして、ゴールまでフォローします。

魂に光があれば、神霊のメッセージに気が付くことができます。

それは執着を捨てて、神霊の光に素直になることです。

と、判ってはいますが、独りぼっちの現世はつまらないですね、本音。。。

早く、精霊や類魂の仲間がいる霊界に帰りたいです。

 

   ↑ 日立市のお岩神社の姥神様 令和の母の指導霊 似てる?


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最終更新日 : 2019-04-11 19:16:38

★魂が阻害される現世での暮らし

「幸せとは何か?」という問いかけがありますよね。人それぞれに答えがあります。

 

例えばこんな感じ、

  「家族みんなが恙無く暮らせることが何よりの幸せ」

  「平穏無事ないつもの毎日が一番」

  「とにかく仕事が在れば何とかなる」

  「とりあえず、宝くじを当てたい」

この回答をよく考えると、幸せって、自分が置かれている状態や環境に対して言っていることなのでしょうか?自分の欲求が満足されていて、無事に暮らせる状態を幸せというのでしょうか?

 

こんな例はどうでしょう、

 三十過ぎの青年A君、彼は親に言われるままに良い大学を出て、上場企業に入ったのですが、何故か突然退職してしまい、そのままニートをやっています。初めは早く次の就職先を探そうと頑張っていましたが、ふと気がついたのです、いのままでも良いのかも知れないと。親が何でもしてくれるので、無職でも良いわけです。

 

今仕事をしなければならないという必然性が無いのです。 

A君は、親の機嫌を取りながらしばらくブラブラ暮らすことになりました。 

 

彼に「貴方は幸せなの?」とたずねたら

 

「少しも幸せではない、こんな自分になったのは親の責任。だから親は俺の面倒をみて当然なんだ」何と勝手な言い分でしょう。 でも実際にA君みたいな人物が居たのです。

 

A君は、親と暮らしている限り幸せでは無い、と思っていますが、ニートの身分を止めるつもりはありません。楽な暮らしですからね。A君は、働かなくても親の資産で老後も暮らせます。派手に遊ばない限りは平穏に人生を送れます。でも本人は幸せだとは思っていません。 彼は、自分の居場所が無い、と感じているのです。職場にも、家庭にも自分を必要としてくれる人は居ない、「自分は居ても居なくても良い存在だ」という考えがいつも頭の中にあり、その強迫観念のような想念が、A君の周りに取り巻居ていました。 どうしてそんな気持ちになるのでしょうか?彼が鬱だから? 鬱と言ってしまえばそれまでですが、Aくんの発言は、震災で大変な体験をしている皆さんにはまったくナンセンスで、話になりませんよね。

 Aくんは、家族も生きているし、住む家もあるし、食べるのにも困らない。 被災して何もかも失った人々から見ると、贅沢やわがままとしか映りません。 実は、それはAくんも分かっているのです。でもどうしても仕事をする気持ちに成りません。前向きな自分になれないのです。


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最終更新日 : 2014-09-04 01:02:52

それは、幸せが無いからです。

被災した人々よりまったく恵まれた暮らしをしていますが、Aくんにとっては幸せではないのです。つまり、幸せは、物質的な環境に在るものでは無いと言うことですね。では幸せって何処にあるのでしょうか?

 

 私は、一年間ほど歩けなくなったことがあります。外はもちろん室内の移動も大変で、やっとトイレに行けるという状態でした。座ることも出来ないので、和室の動作は苦労しました。その時はアパートに住んでいて洋室は無かったので、畳に座らないと暮らせません。 そこで時間があれば、膝を曲げて正座をする練習をしました。もう一つ困ったことは、靴下を履いたり足の爪切が出来ないことです。健常者なら何でも無いことですが、トイレに行ったり、座ったり靴下を履いたり、日常の普通のことが、誰かに助けてもらわないと出来ません。 しかし、当時は夫とは家庭内別居の状態で、実家も遠く、頼れる人が居ないので、早く足を治そうと決意し、それから私は、毎日自分なりのリハビリをしました。(整形外科のリハビリ室に務めていたことがあり治療法は熟知していました)

 

 膝関節の周りを丹念にマッサージして柔らかくしながら曲げて行きます。 痛いのを我慢して曲げ伸ばしを繰り返しました。一年くらい続けて、少しずつ足の状態が良くなってきました。一番感激したのは、あまり時間を掛けないでスッとトイレに行ける様になったことと、靴下を履けるようになったときです。それまでは、靴下を履き替えるために身体を曲げると、大変な痛みだったので、同じ靴下を何日も履いていました。(それから20年たち、結局靴下を履くのがキツイのと、杖が必用になりました)

 昔から「失ってみてそのものの大切さが分かる」といわれていますが、正にそれを実感したのです。トイレに行くのも、靴下を履くのも、正座をするのも、日常のありふれた行為ですが、それが出来なくなって、身体が五体満足であることのありがたみが分かったのです。 つまり、普通に暮らすことの幸せですかね。しかし、実はもっと深い意味があったのです。 

 

 「失ったから大切さが分かった」のでは無いのです。 執着がなくなったから、小さな幸せを感じることが出来るようになったのです。もし執着があったなら、トイレに行けたくらいではうれしくないでしょう。

 以前のような元気な身体にもどりたいと焦り、神や世間を恨んでしまいます。 自殺願望があり、神を恨んでいる人は社会に対して執着していることが多いものです。しかし、執着していないなら、自殺願望で悩まない。何時死んでも良いけれど、自殺願望が原因でウツにはならないのです。社会から自立しているので社会を恨まない。

 それに気が付いたのは、3月11日の震災があって、自分自身も被災地区に住んで直接体験し、熟考する機会が与えられたからです。


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最終更新日 : 2014-09-04 01:03:36

 何かを失う、例えば破産して財産を失う、病気や怪我で身体の機能を失う、大きな災害で家族を失う、など、元には戻せない大きな損失があり、心に傷を負っても時間は流れていくものです。

 

 動機はどうであれ、時間の流れが人間を前進させます。前向きでは無いにせよ「このままではダメだ、とにかく生活しなければ」と言う気持ちに成ります。私は、離婚して一人になったら、お金は生活保護をお願いするとして、日常の動作を一人で出来るようになりたい、その一心でリハビリに励みました。意地っ張りもありますが、今思うと、その時点で家族や仕事、健康な身体に対する執着が無くなっていたのです。

 

 「元の自分と同じにならなくてもいいから、取り合えず生活できるようになりたい 」一端、現世的執着から離れて、どうやって生きていくか考え直し、リハビリしかないと思ったのです。つまり障害者になることで、執着が無くなったのです。ここで私が言いたいのは、執着心が幸せを感じる心のチャンネルを閉ざしているという真実です。

 

 心のチャンネルが閉じているというのは、霊的には大変重大な状態です。 人の心は、神の光と物質界の波動が交じり合い、万物を浄化する場なのです。その浄化の場を閉ざすというのはどういうことなのでしょうか? 人間という存在が何故尊いのでしょうか?それは、人間の魂と身体の中で、神の救済が行われているからです。人は、神の力の媒体です。人間は神の力を、物質の世界に導く役目があり、それこそが人間の存在意義なのです。

 

執着心によって心が閉ざされると、その役目を果たせなくなります。

 

自殺願望があり「早く死にたいのに、生かし続ける神を恨む」と言う人が多いですが、その自殺願望に耐えて行き続ける事で、自殺霊を浄化しているのです。つまり、いくら神に恨み言を言っても、生き続ける以上は、神のお役に立ってしまうわけです。 逆に言うと、生きて行くこと自体が生きる意味なのです。

 

自分の生きる意味に疑問を持つ必要は無いのです。 「霊性を高めなさい」「魂を浄化しなさい」と言いますが、正にこの仕組みを指していて、人が自身において、神の光を物質界に放射し、この現世を明るく照らすことを言うのです。神の光を媒介する人間は、隣人に対して、導きの灯台にならなければならないのです。


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最終更新日 : 2014-09-04 00:06:04

それは、このような事です、

 

生活するためにはお金が必要ですが、執着すると、お金のためにお金を欲しがります。 「もっと欲しい」と思うようになります。或いは、人よりも見栄を張りたくてお金が欲しくなります。

 

しかし、お金を稼ぐ本来の目的は生活をする為だったはずで、その生活は何のたか?というと、社会に役立ち人のためになるため、何かの役に立つために生きているという事ですよね。

 

その何かの役に立ちたいという気持ちも、心のチャンネルを開く切っ掛けになります。人のために何かしたい思いやりの気持ちは、執着から離れて素直な気持ちになれるからです。

 

でも、執着を離すだけなら、瞑想や精神統一などの行で案外と上手く行きます。 

無になるということですが、それだけでは「幸せ」とは違うようです。

 

無になると、心は穏やかになりますが、より「幸せ」というわけでは無い。

人間は執着を無くすだけでは「幸せ」ではありません。

 

 

★執着を無くすと学びがある

 

 それを理解したのは、本格的にスピリチュアルカウンセリングを始めて、様々な霊と交流するようになってからです。真面目にスピリチュアルに取り組んでいる努力家には、僧侶の霊が付いていることが多いのですが、本人も僧侶霊も霊格は高いのに、何故かあまり幸せじゃないのです。

 

 僧侶霊は他界して二、三百年経つのに「まだ修行中です」と言います。無欲で修行に励む。 それ自体は悪いことではありませんが、何か違うな、と感じました。僧侶や行者の霊は、生前は一生懸命修行して、そのままの意識で他界し、霊界でも同じように修行しているようです。彼らの目的は「世俗を離れ、欲を無くす」事ですが、それなら障害者に生まれ変わると良いのです。 障害者になれば、俗世の殆どのことをあきらめなければならなくなります。

 地位も名誉もお金も無意味になり、セックスも出来なくなるので、出家する必要がなくなります、と、ある僧侶霊に話すと「カタワ者は未熟な人間なのだ」と言ってきたバカな霊が居ました。この僧侶霊は、単純に修行すると業が無くなり徳を積めると思っているようです。

 


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最終更新日 : 2014-09-04 00:11:15


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