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「―っ!」
 ファヨンはハッと眼を見開いた。ガバとベッドの上に上半身を起こす。五月初めの深夜はまださほど暑くもないはずなのに、全身に汗をかいていた。
「夢だったの?」
 夢と片付けてしまうには、あまりにもリアルすぎる夢。けれど、彼女にはもう判っていた。
 あれは夢などではない。ジュンスが言ったように、彼と出逢ってからファヨンがしばしば見た幻視は夢まぼろしなどではなかった。遠い昔、確かにファヨン自身が―正しくいうなら、ファヨンの前世の姿である明姫が体験した記憶なのだ。
 刹那、すべての記憶が洪水となって一挙に溢れ出した。せき止められていた過去の想い出が押し寄せてくる。
 ファヨンはすべての記憶を思い出した。今、ユンと生きた六年間のすべての日々の記憶が彼女の心に甦った。それはさながら、バラバラになっていた無数のパズルのピースが漸くあるべき場所におさまり、一つの絵が完成されたのにも似ていた。
 そう、和嬪蘇氏の二十一年間の生涯が今、その生まれ変わりであるファヨンにもはっきりと思い出せた。
 ユンの母方の伯父である領議政に両親や幼い弟を無残に殺され、自らも度々生命を狙われた。刺客から逃れるため、母方の伯母崔尚宮を頼って後宮に見習い女官として入ったこと。
 やがて成長して、正式な女官となり、ユンとの桜草の出逢いから、やがて正体を隠したユンが国王だと知って、一旦は身を退いた。やがて迎えにきたユンと共に後宮に戻り、国王の寵愛第一の妃として時めいた日々、正妻である王妃毒殺未遂の疑いをかけられ、廃妃となり、庶人となった。
 ユンと離れて孤独に耐えた観玉寺での日々、やがてユンの御子を身籠もり晴れて後宮への帰還を果たした。側室としては最高位の嬪となり、世子の生母として、およそこの世で考えられる女の栄華はすべて手にしながら、明姫の晩年は淋しいものだった。
 世子となった愛しい我が子は夭折し、引き続いて年子で第二子を授かりつつも、出産の途中で明姫は亡くなった。
 いや、あれはお産で亡くなったのではない。
 私は毒殺されたのだ。
 血を吐いて倒れたのは、見知らぬ若い女官が薬湯を運んできて、それを飲んでからだ。恐らく、私を憎む誰か、大妃さまが私を殺したのだろう。
 けれど、三百年経った今になって、それがどうしたというのだろう。私を殺した大妃さまもはるか昔に亡くなり、私は歴史の中では難産で死んだことになっている。今更、和嬪は大妃に毒殺されたのだと私が叫んだところで、誰も耳も貸さない。
 その時、ファヨンはハッとした。室内はナイトテーブルのスタンドの落とした灯りだけだ。その薄い闇に満たされた中で、枕許に置いた携帯が紅く点滅している。メールの着信があったらしい。
 ファヨンはメタリックレッドの二つ折り携帯を開いた。画面に〝新着メール〟の表示が出ている。クリックすると、メールが二通着ている。一通目はダイレクトメールだったので、すぐに削除した。二通目はジュンスからだった。
―先日の写真を送るよ。
P.S. 申し訳ないが、桂木さんから君のメルアドと電話番号を聞いたよ。渋る彼女から無理に訊き出したのは俺だから、彼女と喧嘩したりしないでくれ。
 短い文面とともに、一枚の画像が添付されていた。画像を表示させ、ファヨンは小さく息を呑んだ。


 それは上杉写真館でジュンスとチマチョゴリを着て撮影したものだった。あのときは何故、彼があんなことをするのかと訝しく思ったけれど、今なら彼の意図が判る。
 彼は明姫の生まれ変わりであるファヨンに明姫としての記憶を取り戻させようとしていたのだ。かつて自分たちは三百年前の朝鮮王朝時代に生きていた。当時、当然のように纏っていた衣装に二人で身を包めば、眠っている明姫の魂を目覚めさせるきっかけとなり得ると考えたのかもしれない。
 ファヨンはベッドから降りると、部屋の片隅の小さな冷蔵庫を開けた。よく冷えたミネラルウォーターを取り出し、ペットボトルからグラスに注ぎ一気のみする。冷えた感触が咽元をすべり落ちてゆくのが気持ち良かった。
 ファヨンは再びベッドの上に飛び乗るように座り、両脚を引き寄せて足首を抱え込んだ。小さなスタンドの灯りしかない室内で、ファヨンの肩を覆う黒っぽい髪が背後の窓から差す月の淡い光に照らされて、光沢を帯びている。
 彼女はもう一度、携帯の画面を覗き込んだ。小さな枠の中で、朝鮮王朝時代のように盛装したジュンスとファヨンが寄り添い合い、微笑んでいた。その今の二人の姿に、ファヨンは確かに三百年前の自分たちを見た。
 突如として無意識の中に、彼女の口から呟きが零れ落ちた。

 何故、あなたは今、ここにはいないのか
 私の心はあなたを求めてさまよい
 私の瞳はあなたを想い こんなにも哀しみの涙を流しているのに
 この張り裂けそうな哀しみと淋しさを癒してくれるあなたはいない
 妻よ、愛する妻よ
 私の心は
 気が遠くなるような時代を経ても、何度でも生まれ変わって
 あなたを求め続け、そして、あなたを探し出すだろう 

 明姫が死んだ後、直宗が詠んだとされる詩である。明姫の死後に作られたものなのに、何故、ファヨンが憶えているのか―。
 互いを想い、ひたすら求め続ける心は時として奇蹟さえ起こすのか。二十一世紀の科学者であれば信じようとはしないであろう奇蹟さえも。 
 けれど。ファヨンはもうジュンスに嫌われてしまった。
―俺じゃない男でも良いから、幸福な結婚をして欲しい。
 悄然として去っていった彼をファヨンは追いかけすらしなかった。
 両手で顔を覆う。取り返しのつかないことをしてしまった。大切な男を失ってしまった。
 何て馬鹿な私。やっと明姫として生きた記憶を取り戻したというのに、肝心のあの男、ユンはもう手の届かないところに行ってしまった。
 溜息をついた瞬間、思い出したように携帯が鳴った。しじまに鋭く響いた音にピクリと身を震わせ、ファヨンは深呼吸した。
 かすかな不安と期待感がない交ぜになった気持ちを追い払うかのように勢いよく首を振る。覚悟を決めたように眼を閉じ、見開いてから電話に出た。
「もしもし」
―今、君の家の前にいる。
 ハッとして立ち上がり、慌てて窓際に駆け寄った。淡いピンクのカーテンを開けると、間違いなくマンションの前の狭い道路脇に人影が見えた。ファヨンの視線を感じたかのように、塀越しに彼が立ってこちらを見上げていた。


 堪らず最上階の二階から階段を駆け下り、外に飛び出した。マンションといってもアパートを多少マシにした程度の代物である。似たような造りの部屋が幾つか並んでいる構造で、二階までしかないのだ。
 高級マンションのようにエントランスホールのような洒落たものがあるわけでもないから、部屋を出て階段を降りれば、すぐに前に出られる。周囲はフェンスで囲まれているので、フェンスについた鉄製の門を開け、ファヨンは道路に飛び出した。
 ジュンスはフェンスに長身を凭せかけるようにして立っていた。
 パジャマに着替えずに着の身着のままで眠り込んでしまったのはかえって幸いだった。
 飛び込んできた彼女を、彼は戸惑いながらも両腕をひろげて受け止めた。
「思い出したの」
 ファヨンは背伸びするようにして彼を見上げた。昔もそうだった、背の高い彼と話をするには、小柄な彼女は少し伸び上がるようにしていた。そして、そんな彼女を彼はいつも少し眼を細めて眩しいものでも見るかのように見つめ返していた。
 今も彼はあの日のように、ファヨンを少し眼を細めて見つめている。
「夢を見たの」
「―夢?」
 ジュンスが眼を瞠った。ファヨンは今夜、見た不思議な夢の話をかいつまんで彼に話した。
 最後の別れのシーン、直宗と明姫の哀しい別離の様子を思い出しながら彼に語った。彼も彼女が〝明姫〟として目覚め、その記憶を語っているのだと即座に理解したようである。
 あの三百年前の哀しい別離の記憶を思い出すのは、二人にとっては辛いことだった。だが、未来を見つめるためには、乗り越えなければならない過去や因縁があることも、二人は正しく理解していた。
 ファヨンの黒い瞳に冴え冴えとした涙の雫が宿った。
「私は何度生まれ変わっても、あなたに恋をするわ、ユン」
―私は何度生まれ変わっても、この広い世の中から、あなたを探し出し、恋をするだろう。たった一人の愛しいあなたにめぐり逢う度に、私は何回でもあなたに恋をするに違いない。
 今のきわにユンに囁いた明姫の遺言が今、明姫が転生したファヨンの口から発せられた。
「お逢いしとうございました、殿下」
 今なら、ファヨン(明姫)は知っている。最愛の妃を失った後、ジュンス(ユン)がとれだけ孤独な日々を過ごしたか。民から慕われる聖君となってと囁いた明姫の最後の願いに応えるべく、彼が王としての茨の道を歩み続け、やがて三百年後の今の世にまで語り継がれるほどの聖君となったのも。
「ご立派に王としての務めを果たされたのですね」
「そなたがいなければ、やはり、私は駄目だ。これからはずっと私の側にいて、私を支えてくれ」
 これは〝直宗〟と〝明姫〟としての会話だ。ジュンスの整った面がやわらかに笑んだ。
「本当に久しぶりだね、明姫」
 彼の手によって指輪がファヨンの指に填められる。今、長い時を経て、王と寵姫の悲恋を象徴したタンザナイトが三百年ぶりに妃の元に戻った。
「これが俺たちの新しい約束の印だ」
 ファヨンもまた願いを込めて、蝶の形をした美しい指輪を見つめた。
―ずっと大好きな男と一緒にいられますように。今度こそ、二人で長い人生を歩いてゆけますように。
 彼女の願いは今度こそ、天に聞き届けられるに違いなかった。


 ごく自然に二人が近づき、唇が重なる。小鳥が啄むように軽いキスから次第に口づけは深く烈しいものになっていった。
 まるで三百年の空白を埋めるかのように。
 彼の彼女を求め続けた恋情を表すかのように。
 舌を絡め合う濃厚な口づけは、かつてユンと明姫として夜毎、後宮の寝所で烈しく身体を重ねた日々を思い起こさせる。
―生涯かけて、そなただけを愛し抜くよ。
 飢えた獣たちのように互いを貪り求め合った濃密な夜、彼に熱く囁かれた科白が一瞬蘇り、ファヨンの身体が熱くなる。
 漸く口づけを解いた彼が薄く笑った。人差指し指でファヨンの唇を拭う。長く狂おしいキスでファヨンのふっくらとした薄紅色の唇は熟れたように腫れ、唾液がしたたり落ちていた。
「凄く色っぽいっていうか、嫌らしいっていうか。今のファヨンはそんな感じ」
 濡れた吐息混じりの声が耳朶をくすぐり、官能の漣がファヨンの身体中を駆け抜けてゆく。まだ性体験のないファヨンにはあまり馴染みのない感覚だ。
「三百年も待たされたんだ。俺、早くファヨンを抱きたい」
 魅惑的な艶っぽい声で囁かれ、ファヨンはカーッと身体中の血が頬に集まるのを感じた。
「なっ、何てことを。あなたが真っ先に考えるのは、それしかないの!」
 ファヨンは真っ赤になり、拳を振り上げた。
「この助平男」
「相変わらず威勢が良いな。じゃじゃ馬なところも変わらないようだ」
 ジュンスが笑いながら、ひょいと身軽に飛んできた拳をよけた。
「俺たちは何度も夜を共にした仲なんだぞ、そなたも憶えているだろう、明姫」
 熱い声で耳打ちされ、ファヨンの顔は更に熟した果実のようになった。皮肉なことに、ファヨンとしては未経験でも、明姫としての魂はユンと過ごした濃密な夜のことをしっかりと記憶しているのだ。
 居たたまれない心地のファヨンをジュンスは笑いながら眺めている。
―ユンって、こんなに性格が悪かったかしら。
 いやいや、昔から、何かあると明姫をからかったり、閨でもわざと恥ずかしい科白を囁いては彼女が羞恥に悶えるのを愉しげに眺めていたものだ。
 ある夜、後宮の寝所で烈しく貪るように求め合った自分たちの姿が突然、映像として浮かぶ。
 あれは第一子のウンを失い、第二子を妊娠中のことだった。もう大きなお腹をしていた明姫をユンは何度も情熱的に求めてきたのだ。
―愛している。
 ユンが極まった刹那、明姫もともに絶頂を迎えた。
 彼の囁きに彼女もすかさず応えた。
―私も心から愛しているわ、ユン。
 素肌を晒して抱き合い、奥深い部分で繋がり合ってるこの瞬間だけは国王と側室ではなく、ただの男と女に戻れる。
 だからこそ、私たちはあの頃、時を惜しむかのように夜中、身体を重ねた。もしかしたら、私も彼も哀しい別離の瞬間が刻一刻と迫りつつあることを、どこかで察知していたのだろうか。
―こんなに好きになるだなんて、あなたに出逢ったときは想像もしなかった。私があなたを大好きなことを、あなたは知っている? きっと、あなたが考えている以上に、私はあなたを愛しているわ、ユン。私だけのあなた。
 私は彼に抱かれて頂点に達しながら、愛しい男の腕の中でこの上なく幸福だった。
 私は誰よりも深く彼を愛した。恐らく彼が私を愛してくれた以上に。


三百年前の切ない恋情が押し寄せ、ファヨンは湧き上がった涙に瞳を潤ませた。 
 と、ジュンスがふと笑いを収め、真顔になった。
「俺たちは過去を乗り越えて、今、ここにいる。もう辛い記憶は忘れて、今、これからの時間を二人で生きていこう。三百年前の直宗と明姫ではなく、ジュンスとファヨンとして」
 ファヨンは頷きながらも、彼を見上げて付け加えることを忘れない。
「それでも、私はこれから先、何度生まれ変わっても、あなたに恋をすると思うわ、ジュンス」
 ジュンスの手が宝物のように愛おしげな手つきでファヨンの髪を撫でた。
「ところで、あの女(ひと)は、どういう関係?」
「あの女って?」
 見上げるファヨンをジュンスが小首を傾げて見つめ返してきた。
「バーで一緒に演奏していた女。凄く美人で色っぽかった」
「バンド仲閒さ」
 ファヨンの不安を知って知らずか、彼は事もなげに言う。ややあって、ジュンスの整った顔に意地悪な笑みが浮かんだ。
「何だ、妬いてるのか?」
 どこまでも嬉しげなジュンスが恨めしく、ファヨンは頬を膨らませて、そっぽを向いた。
「知らない!」
「三百年経って君に妬いて貰えるのは格別に気分が良いよ」
 ファヨンはますますむくれる。
 ジュンスの陽気な笑い声が少しひんやりした五月の夜陰に弾けた。



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