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何度でも、あなたに恋をする

 何度でも、あなたに恋をする

 

******

―く、苦しい。
 ファヨンは薄い胸を大きく喘がせた。ゼエゼエと鳴る呼吸は苦しげで、今にも途絶えてしまいそうだ。
 私、死ぬのかしら。
 次第に薄れてゆく意識の中で考える。
 ファヨンは夢を見ていた。不思議なことに、ファヨン自身にはそれが夢だと判っているのに、リアルな感覚がある。あたかも夢が紛れもない現実であるかのように、五感が自分の周囲のものすべてに対して働いていた。
 夢の中で、ファヨンは苦悶に喘いでいた。
 そういえば、と、ファヨンはゆっくりと思い出す。
 私は薬湯を飲んだのだった。いつも側に居て、姉のようにまめやかに仕えてくれる洪尚宮ことヒャンダンから湯飲みを受け取り、たった今、薬湯を飲んだばかりだ。
 更に苦しい息の下、彼女は記憶の糸を手繰り寄せる。その薬湯を運んできたのは、見たこともない若い女官で―。
 私の出産で殿舎も忙しいから、別の殿舎から応援の女官が寄越されたとしても、おかしくはない。だから、見かけない顔の女官だったとしても、怪しいとは思わなかった。
 けれど。もう少し慎重になるべきだったかもしれない。仮に、あの見かけない女官が運んできた薬湯に毒が紛れ込んでいたとしたら?
 そこで、ファヨンは小さく呻き、また血を吐いた。一面に散る血飛沫は毒々しいほど鮮やかに見える。傍らでヒャンダンが泣きながら叫んでいるのが聞こえた。
―和嬪さま、和嬪さまっ。
 大好きなヒャンダンの顔がぼやけている。もう、眼もちゃんと見えていないのだろうか。
―何ということでしょう、早うに医師を、医師を呼ぶのだ!
 ヒャンダンがまた狂ったように叫んだ。ヒャンダンの腕に抱えられ、私はぐったりと横たわったままだ。身体がだるくて、重くて、身じろぎもできない。
―和嬪さま、和嬪さま。いけません、眼を閉じないで。あなたさまにはまだ、大きなお仕事が残っているのですよ。この国のためにも、国王殿下のためにも、お腹の大切な御子を無事にこの世に送り出すという大任をお持ちなのですから、どうか、お気を確かにお持ちになって。
 私はヒャンダンの顔を力なく見上げた。ヒャンダンは号泣している。そんなに泣かないで。何だか、私がもう死んでしまったようじゃない。
 私、死ぬのかしら。改めて〝死〟というものに対する恐怖が私の中でふつふつと込み上げた。
 嫌だ、まだ死にたくない。私はまだ殿下のお側にいたいのに、私に残された時間はもうあとわずかだというの? 私の生命の焔は最早、燃え尽きるというの―。
 それに、何故、ヒャンダンは私を和嬪と呼ぶのかしら。私の名前はファヨンのはずなのに。
 ほんの少しの小さな違和感が生まれる。だが、私の意識は、ほどなく聞こえてきた愛しい声音で現に引き戻された。
―直に典医が来る。気を確かに持つのだ。
 今、ヒャンダンの代わりに私をしっかりと抱いてくれているのは誰?
 眼をうっすらと開くと、私の最愛の男が気遣わしげに覗き込んでいるのがぼんやりと見えた。
 この顔はどこかで見たような気がする。ジュンスに似ている。でも、この男性は韓流時代劇に出てくる王さまのような立派な衣を着ているし、よく見ればジュンスではない。
 でも、私はこの方を愛しているの。この世で自分の生命と引き替えにしても惜しくはないほど、この方を大切にお思い申し上げているの。
 国王殿下、私がこの世で最もお慕いしている方。ごめんなさい、ユン。私はいつもあなたを苦しめてばかりね。あなたが私を愛してくれたせいで、実の母君の大妃さまとの仲は余計に険悪になってしまったし、一人の女に溺れる好色な王だなんて悪く言われることだってあるもの。
 私はいつも、あなたに申し訳ないと思っていた。でも、私はあなたに出逢わなかった人生なんて、考えられない。きっとこのまま生命尽きたとしても、何度でも生まれ変わって、あなたを探すわ。そして、素敵なあなたに恋をするの。
―殿下、私の生命は既に尽きようとしております。
 弱々しい声を私は振り絞った。みっともなく、声が震えている。


―いいや、そなたは死なぬ、私が死なせるものか。
 ユンの私を抱きしめる腕に力がこもった。まるで、私の生命がこの身体からさ迷いだしていくのを引き止めるかのように、彼が私をギュッと抱きしめる、。
 これだけは殿下にお伝えしておかなければ。私は最後の力を振り絞った。
―数ならぬ身が殿下にお逢いし、こうしてお側近くお仕えすることができ、またとない幸せな生涯でございました。
 自分をたった一人の女だと言い、生涯愛し抜くと言ってくれたユン。そんな男に出逢えた。女として、最高の幸せだ。
 ただ、自分の不注意でこの世の光を見ることなく逝ってしまう胎内の我が子には申し訳ないと思う。自分がもう少し気を付けていれば、大妃の怖ろしさを理解していれば、どこの者とも知れぬ不審な女官の運んできた薬湯などけして口にはしなかっただろう。
 明らかに自分は甘すぎた。他人を信じることは美点であると同時に、敵に隙を見せるという愚かさともなる。自分はしてはならない過ちを犯してしまったのだ。
 私の眼裏に臈長けた美しい女人の貌が浮かぶ。この朝鮮で最も高貴な女性、愛しい男の母である大妃さま。恐らく私は大妃さまに殺されるのだろう。あの方はいつも私を憎しみに満ちた眼でご覧になっていた。
―私はもう、そなたと金輪際逢うつもりはない。そなたとこうして話をするのも最後になろうからの。
 早すぎる陣痛が起こる直前、宮殿の庭園で大妃さまとお話をした時、確かに大妃さまはそう仰った。あの科白の裏には深い意味が隠されていたのだ。
 現に、私はこうして逝こうとしている。
 ファヨンは眼をまたたかせた。見えない、ユンの貌が見えない。絶望が波となって押し寄せ、混乱の気持ちが眼尻に涙となって滲む。
 逝きたくない。その必死の想いで、ファヨンは細い手を差しのべた。すかさず力強い手がその手を握りしめてくれる。
 大好きなユンの手、この手の温もりを私はけして忘れないだろう。彼が幾ら握りしめていてくれても、私の身体は小刻みに震えていた。死ぬのが怖いからではない。きっと飲まされた毒のせいだろう。
 私の手にポトリと温かな滴が落ちた。ユンが泣いている―?
 駄目な私、最後の最後まで、大好きなあなたを泣かせてしまうなんて。
 せめて、これだけはあなたに伝えたい。私は最後の力を振り絞ったけれど、それは囁きほどのか細い声にしかならなかった。
―私の魂はずっとお側にいます、だから、泣かないで。
 私は何度生まれ変わっても、この広い世の中から、あなたを探し出し、恋をするだろう。たった一人の愛しいあなたにめぐり逢う度に、私は何回でもあなたに恋をするに違いない。
 ユンが何度も頷いているのが、たとえ見えなくても私には判った。
 ああ、生命の焔が今、本当に尽きようとしている。
―殿下、私はお先にウンの許に参ります。どうか民から讃えられる聖君におなり下さいますよう。
 それが私からあなたへ伝える最後の言葉だ。
―行くな、行くな―っ。
 ユンが絶叫した。私の意識はそこで完全に途切れた。
******


「―っ!」
 ファヨンはハッと眼を見開いた。ガバとベッドの上に上半身を起こす。五月初めの深夜はまださほど暑くもないはずなのに、全身に汗をかいていた。
「夢だったの?」
 夢と片付けてしまうには、あまりにもリアルすぎる夢。けれど、彼女にはもう判っていた。
 あれは夢などではない。ジュンスが言ったように、彼と出逢ってからファヨンがしばしば見た幻視は夢まぼろしなどではなかった。遠い昔、確かにファヨン自身が―正しくいうなら、ファヨンの前世の姿である明姫が体験した記憶なのだ。
 刹那、すべての記憶が洪水となって一挙に溢れ出した。せき止められていた過去の想い出が押し寄せてくる。
 ファヨンはすべての記憶を思い出した。今、ユンと生きた六年間のすべての日々の記憶が彼女の心に甦った。それはさながら、バラバラになっていた無数のパズルのピースが漸くあるべき場所におさまり、一つの絵が完成されたのにも似ていた。
 そう、和嬪蘇氏の二十一年間の生涯が今、その生まれ変わりであるファヨンにもはっきりと思い出せた。
 ユンの母方の伯父である領議政に両親や幼い弟を無残に殺され、自らも度々生命を狙われた。刺客から逃れるため、母方の伯母崔尚宮を頼って後宮に見習い女官として入ったこと。
 やがて成長して、正式な女官となり、ユンとの桜草の出逢いから、やがて正体を隠したユンが国王だと知って、一旦は身を退いた。やがて迎えにきたユンと共に後宮に戻り、国王の寵愛第一の妃として時めいた日々、正妻である王妃毒殺未遂の疑いをかけられ、廃妃となり、庶人となった。
 ユンと離れて孤独に耐えた観玉寺での日々、やがてユンの御子を身籠もり晴れて後宮への帰還を果たした。側室としては最高位の嬪となり、世子の生母として、およそこの世で考えられる女の栄華はすべて手にしながら、明姫の晩年は淋しいものだった。
 世子となった愛しい我が子は夭折し、引き続いて年子で第二子を授かりつつも、出産の途中で明姫は亡くなった。
 いや、あれはお産で亡くなったのではない。
 私は毒殺されたのだ。
 血を吐いて倒れたのは、見知らぬ若い女官が薬湯を運んできて、それを飲んでからだ。恐らく、私を憎む誰か、大妃さまが私を殺したのだろう。
 けれど、三百年経った今になって、それがどうしたというのだろう。私を殺した大妃さまもはるか昔に亡くなり、私は歴史の中では難産で死んだことになっている。今更、和嬪は大妃に毒殺されたのだと私が叫んだところで、誰も耳も貸さない。
 その時、ファヨンはハッとした。室内はナイトテーブルのスタンドの落とした灯りだけだ。その薄い闇に満たされた中で、枕許に置いた携帯が紅く点滅している。メールの着信があったらしい。
 ファヨンはメタリックレッドの二つ折り携帯を開いた。画面に〝新着メール〟の表示が出ている。クリックすると、メールが二通着ている。一通目はダイレクトメールだったので、すぐに削除した。二通目はジュンスからだった。
―先日の写真を送るよ。
P.S. 申し訳ないが、桂木さんから君のメルアドと電話番号を聞いたよ。渋る彼女から無理に訊き出したのは俺だから、彼女と喧嘩したりしないでくれ。
 短い文面とともに、一枚の画像が添付されていた。画像を表示させ、ファヨンは小さく息を呑んだ。


 それは上杉写真館でジュンスとチマチョゴリを着て撮影したものだった。あのときは何故、彼があんなことをするのかと訝しく思ったけれど、今なら彼の意図が判る。
 彼は明姫の生まれ変わりであるファヨンに明姫としての記憶を取り戻させようとしていたのだ。かつて自分たちは三百年前の朝鮮王朝時代に生きていた。当時、当然のように纏っていた衣装に二人で身を包めば、眠っている明姫の魂を目覚めさせるきっかけとなり得ると考えたのかもしれない。
 ファヨンはベッドから降りると、部屋の片隅の小さな冷蔵庫を開けた。よく冷えたミネラルウォーターを取り出し、ペットボトルからグラスに注ぎ一気のみする。冷えた感触が咽元をすべり落ちてゆくのが気持ち良かった。
 ファヨンは再びベッドの上に飛び乗るように座り、両脚を引き寄せて足首を抱え込んだ。小さなスタンドの灯りしかない室内で、ファヨンの肩を覆う黒っぽい髪が背後の窓から差す月の淡い光に照らされて、光沢を帯びている。
 彼女はもう一度、携帯の画面を覗き込んだ。小さな枠の中で、朝鮮王朝時代のように盛装したジュンスとファヨンが寄り添い合い、微笑んでいた。その今の二人の姿に、ファヨンは確かに三百年前の自分たちを見た。
 突如として無意識の中に、彼女の口から呟きが零れ落ちた。

 何故、あなたは今、ここにはいないのか
 私の心はあなたを求めてさまよい
 私の瞳はあなたを想い こんなにも哀しみの涙を流しているのに
 この張り裂けそうな哀しみと淋しさを癒してくれるあなたはいない
 妻よ、愛する妻よ
 私の心は
 気が遠くなるような時代を経ても、何度でも生まれ変わって
 あなたを求め続け、そして、あなたを探し出すだろう 

 明姫が死んだ後、直宗が詠んだとされる詩である。明姫の死後に作られたものなのに、何故、ファヨンが憶えているのか―。
 互いを想い、ひたすら求め続ける心は時として奇蹟さえ起こすのか。二十一世紀の科学者であれば信じようとはしないであろう奇蹟さえも。 
 けれど。ファヨンはもうジュンスに嫌われてしまった。
―俺じゃない男でも良いから、幸福な結婚をして欲しい。
 悄然として去っていった彼をファヨンは追いかけすらしなかった。
 両手で顔を覆う。取り返しのつかないことをしてしまった。大切な男を失ってしまった。
 何て馬鹿な私。やっと明姫として生きた記憶を取り戻したというのに、肝心のあの男、ユンはもう手の届かないところに行ってしまった。
 溜息をついた瞬間、思い出したように携帯が鳴った。しじまに鋭く響いた音にピクリと身を震わせ、ファヨンは深呼吸した。
 かすかな不安と期待感がない交ぜになった気持ちを追い払うかのように勢いよく首を振る。覚悟を決めたように眼を閉じ、見開いてから電話に出た。
「もしもし」
―今、君の家の前にいる。
 ハッとして立ち上がり、慌てて窓際に駆け寄った。淡いピンクのカーテンを開けると、間違いなくマンションの前の狭い道路脇に人影が見えた。ファヨンの視線を感じたかのように、塀越しに彼が立ってこちらを見上げていた。


 堪らず最上階の二階から階段を駆け下り、外に飛び出した。マンションといってもアパートを多少マシにした程度の代物である。似たような造りの部屋が幾つか並んでいる構造で、二階までしかないのだ。
 高級マンションのようにエントランスホールのような洒落たものがあるわけでもないから、部屋を出て階段を降りれば、すぐに前に出られる。周囲はフェンスで囲まれているので、フェンスについた鉄製の門を開け、ファヨンは道路に飛び出した。
 ジュンスはフェンスに長身を凭せかけるようにして立っていた。
 パジャマに着替えずに着の身着のままで眠り込んでしまったのはかえって幸いだった。
 飛び込んできた彼女を、彼は戸惑いながらも両腕をひろげて受け止めた。
「思い出したの」
 ファヨンは背伸びするようにして彼を見上げた。昔もそうだった、背の高い彼と話をするには、小柄な彼女は少し伸び上がるようにしていた。そして、そんな彼女を彼はいつも少し眼を細めて眩しいものでも見るかのように見つめ返していた。
 今も彼はあの日のように、ファヨンを少し眼を細めて見つめている。
「夢を見たの」
「―夢?」
 ジュンスが眼を瞠った。ファヨンは今夜、見た不思議な夢の話をかいつまんで彼に話した。
 最後の別れのシーン、直宗と明姫の哀しい別離の様子を思い出しながら彼に語った。彼も彼女が〝明姫〟として目覚め、その記憶を語っているのだと即座に理解したようである。
 あの三百年前の哀しい別離の記憶を思い出すのは、二人にとっては辛いことだった。だが、未来を見つめるためには、乗り越えなければならない過去や因縁があることも、二人は正しく理解していた。
 ファヨンの黒い瞳に冴え冴えとした涙の雫が宿った。
「私は何度生まれ変わっても、あなたに恋をするわ、ユン」
―私は何度生まれ変わっても、この広い世の中から、あなたを探し出し、恋をするだろう。たった一人の愛しいあなたにめぐり逢う度に、私は何回でもあなたに恋をするに違いない。
 今のきわにユンに囁いた明姫の遺言が今、明姫が転生したファヨンの口から発せられた。
「お逢いしとうございました、殿下」
 今なら、ファヨン(明姫)は知っている。最愛の妃を失った後、ジュンス(ユン)がとれだけ孤独な日々を過ごしたか。民から慕われる聖君となってと囁いた明姫の最後の願いに応えるべく、彼が王としての茨の道を歩み続け、やがて三百年後の今の世にまで語り継がれるほどの聖君となったのも。
「ご立派に王としての務めを果たされたのですね」
「そなたがいなければ、やはり、私は駄目だ。これからはずっと私の側にいて、私を支えてくれ」
 これは〝直宗〟と〝明姫〟としての会話だ。ジュンスの整った面がやわらかに笑んだ。
「本当に久しぶりだね、明姫」
 彼の手によって指輪がファヨンの指に填められる。今、長い時を経て、王と寵姫の悲恋を象徴したタンザナイトが三百年ぶりに妃の元に戻った。
「これが俺たちの新しい約束の印だ」
 ファヨンもまた願いを込めて、蝶の形をした美しい指輪を見つめた。
―ずっと大好きな男と一緒にいられますように。今度こそ、二人で長い人生を歩いてゆけますように。
 彼女の願いは今度こそ、天に聞き届けられるに違いなかった。



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