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 そう、あれは確か、あの男と二度目に漢陽の下町で出逢ったときのことだ。彼と二人で漢陽の町を歩いた。
 私は思い出せる。あの露店が立ち並んだ下町の姿や、物を作り売る人々の活気溢れる呼び声。野菜を売る女の生きの良い声が響き渡り、店を隣り合わせた小間物売りたちの諍いの声に、逃げ出した売り物の鶏のかしましい啼き声が混じる。
 私の大好きな揚げパンを揚げる匂いもどこかの露店から流れてきて―。そこで、また別の光景が浮かぶ。
 彼と一緒に美味しそうに揚げパンを頬張る自分の姿が見えた。だが、と、首を振る。今の、思い出そうとしているのは、彼と揚げパンを食べたときじゃない。
 再び、最初の映像がまた浮かんだ。そう、彼と二度目に漢陽の下町で出逢った時。彼―ユンが私に露店でタンザナイトのノリゲと簪を買ってくれた。あれは後々ずっと、私の宝物になったのだ。
 あの時、私は一旦は彼にそんなものを買って貰うことはできないと断った。だが、ユンは私にこう言ったのだ。
―それに、そなたと私は見ず知らずの間柄ではないだろう?
―え?
 眼を見開いた私にユンは愉快そうに言った。
―宮殿の庭で一度、今日はこれで二度目になる。最早、見ず知らずとは言えまい。
 少し話を強引に持って行きすぎだが、確かにユンと出逢うのはこれが初めてではなかった。
 私は手にした簪とノリゲを見つめた。小さな花を象った銀細工の簪は、花の部分が透明な青紫色の玉でできている。小さな花は可憐で、桜草に形が似ている。
 ノリゲはまるでお揃いで拵えたように、小さな花が何個か集まっていて、その下に白と淡い蒼をグラデ―ションに染めた長い房がついている。花の部分は店の主人たちが言っていた灰簾石(タンザナイト)という玉なのだろう。
 ユンは隣り合わせた二つの小間物屋から、それぞれ簪とノリゲを買った。二つの店の主たちを仲違いさせないためだった。
―素敵。
 思わず呟いた本音に、ユンは屈託ない笑みを浮かべて歓んだ。
―そうか? 気に入ってくれたか?
―この花の色と形をひとめ見て、そなたにぴったりだと思ったのだ。まるでこの国の夜明けの空を思わせるような、清々しい明けの色が潔くて凜とした、そなたの印象にぴったりだと。
 微笑む彼と眼と眼がぶつかり、私はあの時、慌てて視線を逸らしたのだ。何故か、初めて出逢ったときから、彼に見つめられると、落ち着かなくなる。
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 ファヨンは唇を戦慄かせた。もう、あの不愉快な耳鳴りも頭痛もしなかった。
 ファヨンは今でも―三百年経た今でさえ、も思い出すことができる。ユンが彼女(明姫)に贈ったタンザナイトの簪とノリゲがどんな形をしていたか、どれほど美しい色をしていたかを。
 ファヨンが見上げた先にはジュンスがいた。私は今でも彼に恋をしている。気の遠くなるような長い時代を経ても、あの最初に出逢った日のように、彼に見つめられると、落ち着かなくなる。
「この指輪を貰ってくれる? 実は本気で三百年前とそっくりそのままの形をしたノリゲと簪を特注で作って貰おうかとも考えたんだが、今は簪もノリゲも民族衣装を着たときくらいしか身につけない。それなら、いっそのこと指輪の方がいつも身につけていて貰えると思ってね」
 それからと、彼はズボンのポケットから細長い箱も取り出した。ほらと、まるでマジシャンのようにお揃いのビロードの箱から今度はネックレスを出す。
「綺麗」
 今度はリングと対になった同じく蝶のネックレスだ。やはり同様に羽根の部分には煌めくタンザナイトがはめ込まれている。
「俺はずっと君が最後の約束で言ってくれたように、俺を捜し出してくれるのを待っていた。待って待って待ち続けて、三百年の間に何度も生まれ変わりながら、俺も君を捜した。たとえ何度生まれ変わっても、俺には君しかいない。これを受け取ってくれるね?」
 直截な彼の言葉が嬉しいはずだ。生まれ変わり云々はともかく、自分はジュンスを好きなのだから。
 けれど、ファヨンはまだ自信がなかった。徐々に三百年前の記憶の断片らしきものは思い出してはきてはいるけれど、それだけで自分が国王の妃だったなんて信じても良いのだろうか。大体、西暦二千年の時代に、三百年前の記憶を持った人間が存在するということ自体がかなり怪しい話なのだ。
 ファヨンはゆるゆると首を振った。
「ごめんなさい。私は指輪もネックレスも貰うことはできないわ。どうしても、三百年前の記憶だとか、転生だとかは信じられない話なの。あなただけならともかく、それが私まで及ぶとしたら、尚更安易には信じられない」
「君はまだ、そんなことを言っているのか!」
 ジュンスが烈しい眼でファヨンを見た。
「俺はずっと君を待ち続けてきた。幼い頃、俺を見た占い師は言った。君と出逢えない限り、俺は永遠に輪廻の輪から抜け出すことができないだろうと。焦がれた女を捜し求めるまで、哀れな三百年前の王の魂は永遠に転生を続けるしかないんだよ」
「そんなの、私は知らない」
 ファヨンは夢中で首を振り続けた。
「それは、あなたの言い分や都合でしょう」
 ジュンスが近づいてきた。ファヨンの細腕を掴み、グイと力任せに引き寄せる。
「真実から眼を背けるな、たとえ逃れようとしても、宿命からは逃れられない。俺たちは三百年前にも出逢い、今こうして現代でも出逢った」
「知らない!」
 ファヨンが叫んだ途端、唇が熱いもので塞がれた。
「―止め―」
 軽く触れ合わせるだけかと思ったら、すぐにまた塞がれる。角度を変えたキスは延々と続き、ファヨンは息苦しさに酸欠の金魚みたいに口を開けて喘いだ。
「苦しい、止めて」
 必死にジュンスの身体を押し返そうとするけれど、大人の男の力で抵抗はあっさりと封じ込められた。
 しかも口を開いた刹那、ぬめりとした彼の舌が入り込んできて、逃げ惑う舌を絡め取り烈しく吸い上げてくる。生まれて初めての口づけなのに、あまりに強引で乱暴で嫌らしすぎた。


「俺は三百年もの間、待ち続けたんだ。もう待てない」
 彼の手がそろりと伸び、ファヨンの胸のふくらみを包み込む。黒いニットのワンピース越しにやわらかく何度か揉まれ、つんと立った先端を指で押された。
「いやっ」
 ファヨンは渾身の力でジュンスを突き飛ばした。
「あなたは最初から私に自分の気持ちを押しつけてばかりだわ。あなたが一度でも、私の心を考えてくれたことがあったというの?
過去世だとか輪廻転生だとか、たとえそれが真実であったとしても、私は三百年前のことを何一つ憶えていないのよ。なのに、いきなり現れて運命なんだから、受け容れろなんて言われて、受け容れられるはずがない。今は、あなたが生きていた三百年前とは違うの。韓国にも王さまはいないし、今のあなたは国王じゃない。私に命令したり、強引に気持ちを押しつけることはできないのよ」
 ジュンスが力なく言った。
「強引にキスしたことは謝る。けど、そうなのか? 本当にファヨンはそう思っているのか? 俺だけが一方的に君に気持ちを押しつけていると。教えてくれ、君はもう俺のことを何とも思っていないのか?」
 名前は言わなかったけれど、最後の問いかけは、恐らく〝直宗〟が〝明姫〟に発した問いだったのだろう。
 ファヨンは黙り込んだ。〝ファヨン〟は〝ジュンス〟を間違いなく好きだ。だけど、自分が〝明姫〟として〝直宗〟を好きなのかと問われても、明姫としての記憶をいまだ取り戻し切れていないファヨンは応えるすべを持たない。
 ジュンスが何かに耐えるような表情で拳を握りしめた。その拳が小刻みに震えている。
「ごめん、確かに君の言うとおりだ。俺は君に自分の気持ちだけを押しつけすぎた。俺は今でも君を好きだ。何度転生しても、君以外の女性は考えられない。だが、転生してきた君が俺を必ずしも選んでくれるわけではないとは正直、考えたこともなかった。俺は君を捜し出して苦しめようと思ったわけじゃない。生まれ変わった君の側にいるべき男が俺じゃないというのなら、身を退くくらいの分別はまだ残ってる」
 そこで言葉を句切り、彼はファヨンを切なげな眼で見つめた。
「長くして苦しい三百年だったが、待った甲斐はあったよ。こうして今の時代に君と再び出逢えて、また君に恋をした。元気な君の笑顔をこうして見られただけで、俺は幸せだ。これからも自分が転生を続けなければならないのかは判らないけれど、もう、そんなことはどうでも良い。三百年前の時代で、君は二十一歳の若さで毒殺されて死んだ。今度は今の世で幸せになって、長生きしてくれ。俺じゃない男でも良いから、幸福な結婚をして欲しい。今度はちゃんと元気な子どもが生まれるだろうから」
 今度はちゃんと元気な子どもが生まれるだろうから。その言葉の意味を訊ねる暇も与えず、彼は微笑むと背を向けた。
 最後の科白は紛れもなく〝ユン〟が〝明姫〟に語った言葉だった。三百年、ずっと明姫を捜し続けてきたユンの魂がどうしても明姫に伝えたかった科白だったのだ。
 ファヨンは茫然として、次第に遠ざかってゆくジュンスの広い背中を見つめるしかなかった。 


何度でも、あなたに恋をする

 何度でも、あなたに恋をする

 

******

―く、苦しい。
 ファヨンは薄い胸を大きく喘がせた。ゼエゼエと鳴る呼吸は苦しげで、今にも途絶えてしまいそうだ。
 私、死ぬのかしら。
 次第に薄れてゆく意識の中で考える。
 ファヨンは夢を見ていた。不思議なことに、ファヨン自身にはそれが夢だと判っているのに、リアルな感覚がある。あたかも夢が紛れもない現実であるかのように、五感が自分の周囲のものすべてに対して働いていた。
 夢の中で、ファヨンは苦悶に喘いでいた。
 そういえば、と、ファヨンはゆっくりと思い出す。
 私は薬湯を飲んだのだった。いつも側に居て、姉のようにまめやかに仕えてくれる洪尚宮ことヒャンダンから湯飲みを受け取り、たった今、薬湯を飲んだばかりだ。
 更に苦しい息の下、彼女は記憶の糸を手繰り寄せる。その薬湯を運んできたのは、見たこともない若い女官で―。
 私の出産で殿舎も忙しいから、別の殿舎から応援の女官が寄越されたとしても、おかしくはない。だから、見かけない顔の女官だったとしても、怪しいとは思わなかった。
 けれど。もう少し慎重になるべきだったかもしれない。仮に、あの見かけない女官が運んできた薬湯に毒が紛れ込んでいたとしたら?
 そこで、ファヨンは小さく呻き、また血を吐いた。一面に散る血飛沫は毒々しいほど鮮やかに見える。傍らでヒャンダンが泣きながら叫んでいるのが聞こえた。
―和嬪さま、和嬪さまっ。
 大好きなヒャンダンの顔がぼやけている。もう、眼もちゃんと見えていないのだろうか。
―何ということでしょう、早うに医師を、医師を呼ぶのだ!
 ヒャンダンがまた狂ったように叫んだ。ヒャンダンの腕に抱えられ、私はぐったりと横たわったままだ。身体がだるくて、重くて、身じろぎもできない。
―和嬪さま、和嬪さま。いけません、眼を閉じないで。あなたさまにはまだ、大きなお仕事が残っているのですよ。この国のためにも、国王殿下のためにも、お腹の大切な御子を無事にこの世に送り出すという大任をお持ちなのですから、どうか、お気を確かにお持ちになって。
 私はヒャンダンの顔を力なく見上げた。ヒャンダンは号泣している。そんなに泣かないで。何だか、私がもう死んでしまったようじゃない。
 私、死ぬのかしら。改めて〝死〟というものに対する恐怖が私の中でふつふつと込み上げた。
 嫌だ、まだ死にたくない。私はまだ殿下のお側にいたいのに、私に残された時間はもうあとわずかだというの? 私の生命の焔は最早、燃え尽きるというの―。
 それに、何故、ヒャンダンは私を和嬪と呼ぶのかしら。私の名前はファヨンのはずなのに。
 ほんの少しの小さな違和感が生まれる。だが、私の意識は、ほどなく聞こえてきた愛しい声音で現に引き戻された。
―直に典医が来る。気を確かに持つのだ。
 今、ヒャンダンの代わりに私をしっかりと抱いてくれているのは誰?
 眼をうっすらと開くと、私の最愛の男が気遣わしげに覗き込んでいるのがぼんやりと見えた。
 この顔はどこかで見たような気がする。ジュンスに似ている。でも、この男性は韓流時代劇に出てくる王さまのような立派な衣を着ているし、よく見ればジュンスではない。
 でも、私はこの方を愛しているの。この世で自分の生命と引き替えにしても惜しくはないほど、この方を大切にお思い申し上げているの。
 国王殿下、私がこの世で最もお慕いしている方。ごめんなさい、ユン。私はいつもあなたを苦しめてばかりね。あなたが私を愛してくれたせいで、実の母君の大妃さまとの仲は余計に険悪になってしまったし、一人の女に溺れる好色な王だなんて悪く言われることだってあるもの。
 私はいつも、あなたに申し訳ないと思っていた。でも、私はあなたに出逢わなかった人生なんて、考えられない。きっとこのまま生命尽きたとしても、何度でも生まれ変わって、あなたを探すわ。そして、素敵なあなたに恋をするの。
―殿下、私の生命は既に尽きようとしております。
 弱々しい声を私は振り絞った。みっともなく、声が震えている。


―いいや、そなたは死なぬ、私が死なせるものか。
 ユンの私を抱きしめる腕に力がこもった。まるで、私の生命がこの身体からさ迷いだしていくのを引き止めるかのように、彼が私をギュッと抱きしめる、。
 これだけは殿下にお伝えしておかなければ。私は最後の力を振り絞った。
―数ならぬ身が殿下にお逢いし、こうしてお側近くお仕えすることができ、またとない幸せな生涯でございました。
 自分をたった一人の女だと言い、生涯愛し抜くと言ってくれたユン。そんな男に出逢えた。女として、最高の幸せだ。
 ただ、自分の不注意でこの世の光を見ることなく逝ってしまう胎内の我が子には申し訳ないと思う。自分がもう少し気を付けていれば、大妃の怖ろしさを理解していれば、どこの者とも知れぬ不審な女官の運んできた薬湯などけして口にはしなかっただろう。
 明らかに自分は甘すぎた。他人を信じることは美点であると同時に、敵に隙を見せるという愚かさともなる。自分はしてはならない過ちを犯してしまったのだ。
 私の眼裏に臈長けた美しい女人の貌が浮かぶ。この朝鮮で最も高貴な女性、愛しい男の母である大妃さま。恐らく私は大妃さまに殺されるのだろう。あの方はいつも私を憎しみに満ちた眼でご覧になっていた。
―私はもう、そなたと金輪際逢うつもりはない。そなたとこうして話をするのも最後になろうからの。
 早すぎる陣痛が起こる直前、宮殿の庭園で大妃さまとお話をした時、確かに大妃さまはそう仰った。あの科白の裏には深い意味が隠されていたのだ。
 現に、私はこうして逝こうとしている。
 ファヨンは眼をまたたかせた。見えない、ユンの貌が見えない。絶望が波となって押し寄せ、混乱の気持ちが眼尻に涙となって滲む。
 逝きたくない。その必死の想いで、ファヨンは細い手を差しのべた。すかさず力強い手がその手を握りしめてくれる。
 大好きなユンの手、この手の温もりを私はけして忘れないだろう。彼が幾ら握りしめていてくれても、私の身体は小刻みに震えていた。死ぬのが怖いからではない。きっと飲まされた毒のせいだろう。
 私の手にポトリと温かな滴が落ちた。ユンが泣いている―?
 駄目な私、最後の最後まで、大好きなあなたを泣かせてしまうなんて。
 せめて、これだけはあなたに伝えたい。私は最後の力を振り絞ったけれど、それは囁きほどのか細い声にしかならなかった。
―私の魂はずっとお側にいます、だから、泣かないで。
 私は何度生まれ変わっても、この広い世の中から、あなたを探し出し、恋をするだろう。たった一人の愛しいあなたにめぐり逢う度に、私は何回でもあなたに恋をするに違いない。
 ユンが何度も頷いているのが、たとえ見えなくても私には判った。
 ああ、生命の焔が今、本当に尽きようとしている。
―殿下、私はお先にウンの許に参ります。どうか民から讃えられる聖君におなり下さいますよう。
 それが私からあなたへ伝える最後の言葉だ。
―行くな、行くな―っ。
 ユンが絶叫した。私の意識はそこで完全に途切れた。
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