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「危ないッ」
 彼が咄嗟に抱き止めてくれなければ、ファヨンはそのまま石畳に激突していたに違いない。
「離して」
 ファヨンはジュンスの手を払いのけ、礼も言わずにそのまま行こうとした。
「待てよ」
 ジュンスがすかさずファヨンの右手を掴む。
「なに?」
 ファヨンは彼をキッと見た。ジュンスは小さく息を吐き、ファヨンの手を放した。
「何で、こんなに酔っぱらうまで飲んだんだ?」
 彼の方もファヨンに負けないくらいに怒っているようだ。
「知らない」
 プイとそっぽを向くと、ジュンスがファヨンの両頬に手を添えて、無理に自分の方に向かせた。
「良いか、もっと自分を大切にしろ。そんな男を悩殺するようなワンピースで夜に外出なんかするんじゃない、易々と男の下心も見抜けず誘いに乗るんじゃない」
 言い聞かせるように言う彼に、ファヨンは鼻で嗤った。
「何がおかしい?」
「私はあなたの彼女でも何でもないわ。束縛するのは止めて」
「それなら、君はあのまま俺が止めない方が良かったのか? あの男は気に入った女の子が来れば、強い酒を飲ませて、しこたま酔わせてホテルに連れ込む常習犯なんだぞ。ホテルに着いて二人きりになって、泣いて帰らせてくれって頼んで帰らせて貰えるとでも?」
「ちゃんと断るもの」
「嘘言え、君はあいつと一緒に出ていこうとしてただろ、俺が止めなきゃ、今頃はもう君はホテルであいつに抱かれてたさ」
「―もう、良い」
 ファヨンは彼を無視して大通りに向かおうとした。
「自分を大切にしろというのは、何も君が明姫だからじゃない。一人の女性としてもっと自分を大切にするんだ、ファヨン」
 ファヨンは振り向いた。
「あなたはまだ、そんなことを言ってるの? 私は明姫じゃないって何度言ったら判るの」
 ふいにジュンスが何かを呟き出した。
「何故、あなたは今、ここにはいないのか。私の心はあなたを求めてさまよい、私の瞳はあなたを想い、こんなにも哀しみの涙を流しているのに、この張り裂けそうな哀しみと淋しさを癒してくれるあなたはいない」
 彼のまなざしが一瞬、揺れた。
「妻よ、愛する妻よ、私の心はたとえどれだけ気が遠くような時代を経ても、何度でも生まれ変わって、あなたを求め続け、そして、あなたを探すだろう」
 あまりにも深い哀しみが込められた詩だ。その言葉一つ一つに込められた最愛の妻を失った男の悲哀が胸に迫ってくるようだ。
 ファヨンはつい訊かずにはいられなかった。
「その詩は―」
 ジュンスが哀しげに微笑んだ。
「直宗王が和嬪の死後、詠んだとされる詩だよ。題名は〝一片丹心(イルピョンダンシム)〟。亡くなった妃をずっと恋い慕い続けた孤独な王の心がよく表されているタイトルだといわれている。いつの頃、詠まれたのか年代は定かではないらしいが」
 その後でフッと笑う。何という儚い微笑みだろう。ファヨンは胸をつかれた。
「でも、俺はちゃんと知ってるよ。孤独な老いた王は亡くなる二年前に宮殿の庭で月を見上げながら、この詩を作ったんだ」
 ファヨンは彼の言葉に、ハッとした。奇しくも〝丹心〟というのはファヨンの両親が経営する店の名前と同じだ。


 ジュンスが懐から小さな箱を取り出した。深紅のビロード張りの小箱を開き、何かを取り出す。その取り出したものを大きな手のひらに乗せ、ファヨンに見せた。
「これが何か判るかい?」
 蝶を象った指輪は羽根の部分にキラキラと光る石がはめ込まれている。
「これは指輪でしょう」
 煌めく石は夜明けの空のような、露草の花の色を閉じ込めた美しい青紫色だ。
「この紫の石が何か知ってる?」
「―」
 ファヨンは首を振った。
 刹那、彼女の唇からまた無意識に言葉が洩れた。
「―タンザナイト」
「そう、タンザナイトだ。三百年前、俺が君に贈った約束の石」
「約束の石?」
「そう、三百年前のあの時、君には言わなかったが、俺は君との出逢いに運命のようなものを感じていた。探し求めていた女とやってめぐり逢えたと思ったんだ。これを贈って歓ぶ君の笑顔を見ながら、この女を生涯かけて守っていければ良いと思った、この笑顔をずっと側に居て見ていたいと思ったんだ」
 彼の声が次第に遠くなり、瞼にまた一つの光景が立ち現れる。


******
 そう、あれは確か、あの男と二度目に漢陽の下町で出逢ったときのことだ。彼と二人で漢陽の町を歩いた。
 私は思い出せる。あの露店が立ち並んだ下町の姿や、物を作り売る人々の活気溢れる呼び声。野菜を売る女の生きの良い声が響き渡り、店を隣り合わせた小間物売りたちの諍いの声に、逃げ出した売り物の鶏のかしましい啼き声が混じる。
 私の大好きな揚げパンを揚げる匂いもどこかの露店から流れてきて―。そこで、また別の光景が浮かぶ。
 彼と一緒に美味しそうに揚げパンを頬張る自分の姿が見えた。だが、と、首を振る。今の、思い出そうとしているのは、彼と揚げパンを食べたときじゃない。
 再び、最初の映像がまた浮かんだ。そう、彼と二度目に漢陽の下町で出逢った時。彼―ユンが私に露店でタンザナイトのノリゲと簪を買ってくれた。あれは後々ずっと、私の宝物になったのだ。
 あの時、私は一旦は彼にそんなものを買って貰うことはできないと断った。だが、ユンは私にこう言ったのだ。
―それに、そなたと私は見ず知らずの間柄ではないだろう?
―え?
 眼を見開いた私にユンは愉快そうに言った。
―宮殿の庭で一度、今日はこれで二度目になる。最早、見ず知らずとは言えまい。
 少し話を強引に持って行きすぎだが、確かにユンと出逢うのはこれが初めてではなかった。
 私は手にした簪とノリゲを見つめた。小さな花を象った銀細工の簪は、花の部分が透明な青紫色の玉でできている。小さな花は可憐で、桜草に形が似ている。
 ノリゲはまるでお揃いで拵えたように、小さな花が何個か集まっていて、その下に白と淡い蒼をグラデ―ションに染めた長い房がついている。花の部分は店の主人たちが言っていた灰簾石(タンザナイト)という玉なのだろう。
 ユンは隣り合わせた二つの小間物屋から、それぞれ簪とノリゲを買った。二つの店の主たちを仲違いさせないためだった。
―素敵。
 思わず呟いた本音に、ユンは屈託ない笑みを浮かべて歓んだ。
―そうか? 気に入ってくれたか?
―この花の色と形をひとめ見て、そなたにぴったりだと思ったのだ。まるでこの国の夜明けの空を思わせるような、清々しい明けの色が潔くて凜とした、そなたの印象にぴったりだと。
 微笑む彼と眼と眼がぶつかり、私はあの時、慌てて視線を逸らしたのだ。何故か、初めて出逢ったときから、彼に見つめられると、落ち着かなくなる。
******


 ファヨンは唇を戦慄かせた。もう、あの不愉快な耳鳴りも頭痛もしなかった。
 ファヨンは今でも―三百年経た今でさえ、も思い出すことができる。ユンが彼女(明姫)に贈ったタンザナイトの簪とノリゲがどんな形をしていたか、どれほど美しい色をしていたかを。
 ファヨンが見上げた先にはジュンスがいた。私は今でも彼に恋をしている。気の遠くなるような長い時代を経ても、あの最初に出逢った日のように、彼に見つめられると、落ち着かなくなる。
「この指輪を貰ってくれる? 実は本気で三百年前とそっくりそのままの形をしたノリゲと簪を特注で作って貰おうかとも考えたんだが、今は簪もノリゲも民族衣装を着たときくらいしか身につけない。それなら、いっそのこと指輪の方がいつも身につけていて貰えると思ってね」
 それからと、彼はズボンのポケットから細長い箱も取り出した。ほらと、まるでマジシャンのようにお揃いのビロードの箱から今度はネックレスを出す。
「綺麗」
 今度はリングと対になった同じく蝶のネックレスだ。やはり同様に羽根の部分には煌めくタンザナイトがはめ込まれている。
「俺はずっと君が最後の約束で言ってくれたように、俺を捜し出してくれるのを待っていた。待って待って待ち続けて、三百年の間に何度も生まれ変わりながら、俺も君を捜した。たとえ何度生まれ変わっても、俺には君しかいない。これを受け取ってくれるね?」
 直截な彼の言葉が嬉しいはずだ。生まれ変わり云々はともかく、自分はジュンスを好きなのだから。
 けれど、ファヨンはまだ自信がなかった。徐々に三百年前の記憶の断片らしきものは思い出してはきてはいるけれど、それだけで自分が国王の妃だったなんて信じても良いのだろうか。大体、西暦二千年の時代に、三百年前の記憶を持った人間が存在するということ自体がかなり怪しい話なのだ。
 ファヨンはゆるゆると首を振った。
「ごめんなさい。私は指輪もネックレスも貰うことはできないわ。どうしても、三百年前の記憶だとか、転生だとかは信じられない話なの。あなただけならともかく、それが私まで及ぶとしたら、尚更安易には信じられない」
「君はまだ、そんなことを言っているのか!」
 ジュンスが烈しい眼でファヨンを見た。
「俺はずっと君を待ち続けてきた。幼い頃、俺を見た占い師は言った。君と出逢えない限り、俺は永遠に輪廻の輪から抜け出すことができないだろうと。焦がれた女を捜し求めるまで、哀れな三百年前の王の魂は永遠に転生を続けるしかないんだよ」
「そんなの、私は知らない」
 ファヨンは夢中で首を振り続けた。
「それは、あなたの言い分や都合でしょう」
 ジュンスが近づいてきた。ファヨンの細腕を掴み、グイと力任せに引き寄せる。
「真実から眼を背けるな、たとえ逃れようとしても、宿命からは逃れられない。俺たちは三百年前にも出逢い、今こうして現代でも出逢った」
「知らない!」
 ファヨンが叫んだ途端、唇が熱いもので塞がれた。
「―止め―」
 軽く触れ合わせるだけかと思ったら、すぐにまた塞がれる。角度を変えたキスは延々と続き、ファヨンは息苦しさに酸欠の金魚みたいに口を開けて喘いだ。
「苦しい、止めて」
 必死にジュンスの身体を押し返そうとするけれど、大人の男の力で抵抗はあっさりと封じ込められた。
 しかも口を開いた刹那、ぬめりとした彼の舌が入り込んできて、逃げ惑う舌を絡め取り烈しく吸い上げてくる。生まれて初めての口づけなのに、あまりに強引で乱暴で嫌らしすぎた。


「俺は三百年もの間、待ち続けたんだ。もう待てない」
 彼の手がそろりと伸び、ファヨンの胸のふくらみを包み込む。黒いニットのワンピース越しにやわらかく何度か揉まれ、つんと立った先端を指で押された。
「いやっ」
 ファヨンは渾身の力でジュンスを突き飛ばした。
「あなたは最初から私に自分の気持ちを押しつけてばかりだわ。あなたが一度でも、私の心を考えてくれたことがあったというの?
過去世だとか輪廻転生だとか、たとえそれが真実であったとしても、私は三百年前のことを何一つ憶えていないのよ。なのに、いきなり現れて運命なんだから、受け容れろなんて言われて、受け容れられるはずがない。今は、あなたが生きていた三百年前とは違うの。韓国にも王さまはいないし、今のあなたは国王じゃない。私に命令したり、強引に気持ちを押しつけることはできないのよ」
 ジュンスが力なく言った。
「強引にキスしたことは謝る。けど、そうなのか? 本当にファヨンはそう思っているのか? 俺だけが一方的に君に気持ちを押しつけていると。教えてくれ、君はもう俺のことを何とも思っていないのか?」
 名前は言わなかったけれど、最後の問いかけは、恐らく〝直宗〟が〝明姫〟に発した問いだったのだろう。
 ファヨンは黙り込んだ。〝ファヨン〟は〝ジュンス〟を間違いなく好きだ。だけど、自分が〝明姫〟として〝直宗〟を好きなのかと問われても、明姫としての記憶をいまだ取り戻し切れていないファヨンは応えるすべを持たない。
 ジュンスが何かに耐えるような表情で拳を握りしめた。その拳が小刻みに震えている。
「ごめん、確かに君の言うとおりだ。俺は君に自分の気持ちだけを押しつけすぎた。俺は今でも君を好きだ。何度転生しても、君以外の女性は考えられない。だが、転生してきた君が俺を必ずしも選んでくれるわけではないとは正直、考えたこともなかった。俺は君を捜し出して苦しめようと思ったわけじゃない。生まれ変わった君の側にいるべき男が俺じゃないというのなら、身を退くくらいの分別はまだ残ってる」
 そこで言葉を句切り、彼はファヨンを切なげな眼で見つめた。
「長くして苦しい三百年だったが、待った甲斐はあったよ。こうして今の時代に君と再び出逢えて、また君に恋をした。元気な君の笑顔をこうして見られただけで、俺は幸せだ。これからも自分が転生を続けなければならないのかは判らないけれど、もう、そんなことはどうでも良い。三百年前の時代で、君は二十一歳の若さで毒殺されて死んだ。今度は今の世で幸せになって、長生きしてくれ。俺じゃない男でも良いから、幸福な結婚をして欲しい。今度はちゃんと元気な子どもが生まれるだろうから」
 今度はちゃんと元気な子どもが生まれるだろうから。その言葉の意味を訊ねる暇も与えず、彼は微笑むと背を向けた。
 最後の科白は紛れもなく〝ユン〟が〝明姫〟に語った言葉だった。三百年、ずっと明姫を捜し続けてきたユンの魂がどうしても明姫に伝えたかった科白だったのだ。
 ファヨンは茫然として、次第に遠ざかってゆくジュンスの広い背中を見つめるしかなかった。 



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