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「十八歳です」
「何だ、未成年か。大人っぽいから、二十歳くらいかと思った」
 そう言いつつ、彼はカウンターにさりげなくスリムな逆三角形型のカクテルグラスを置いた。蒼い海のような爽やかな色合いが涼しげなカクテルだ。紅いチェリーが添えられていた。
「魅惑的なお嬢さんに僕からのブレゼント。ソルティドッグっていうカクテル。ほんの少しアルコール入ってるけど、大丈夫だよね」
 なかなかイケメンのお兄さんである。エグザイルにでもいそうなワイルド系の美男だ。
「どうぞ、喉越しも良いし、すんなりと飲めると思うよ」
 優しく勧めてくれるのに、無下に断れない。ファヨンは勧められるままに、グラスを手にして、ひと口カクテルを飲んだ。確かに飲みやすい。ひと口、また、ひと口と飲んでいく中にアルコールだということを忘れて、ジュースを飲んでいる感覚になっていた。
 バーテンダーはファヨンの咽をカクテルが通りすぎてゆく様を眺めている。その視線が獲物を狙う蛇のように粘着質な光を帯びているのには気づいていない。
「名前、何ていうの?」
「ファヨン」
「可愛い名前だね、君にぴったり」
 どうやら、向こうは本名だとは思っていないらしい。どうでも良いことだと、ファヨンはどこか投げやりな気持ちで考えていた。その一方で先刻見たばかりのステージの様子がまざまざと甦る。ピアニストの妖艶な女性と親密な様子でしきりに視線を交わし合っていたジュンス。
 まさか、あの二人は―。一瞬、ダブルベッドで全裸で絡み合う二人の姿を想像し、ファヨンは頬を上気させた。
 私ったら、何を馬鹿なことを考えてるの? 思わず両手で頬を包み込む。頬が熱い、いや頬だけでなく、身体全体が燃えるように熱い。初めて飲んだアルコールのせいだろうか。
「そのニットのワンピース、大人っぽいね。でも、身体のラインが丸見えだ。折角の綺麗な身体だから、見せても良いかもしれないけど、僕が君の彼氏だったら、僕以外の男には見せたくないかも。胸も大きそうだね」
 と、最早、不躾な視線を隠そうもせず、ファヨンの胸許にあからさまに注いでくる。が、すっかり酔いが回っている彼女は男の淫らな視線にもまるで気づかなかった。
 ファヨンの瞼の向こうでは、微笑み交わすピアニストの女性とジュンスの姿が何度もフラッシュバックしている。やがて、その映像はミラーボールのようにぐるぐると回り始め―。
 ファヨンは目眩を憶えて、片手のひらで額を押さえた。
 ぐるぐる、ぐるぐる、ジュンスと微笑み交わす美女が頭の中で回る。
 刹那、ファヨンは悟った。
―私はジュンスを好きなんだわ。
 彼が他の女性と愉しげに微笑み交わしているだけで、心が醜い嫉妬で染まってしまうほどに。それはファヨンがジュンスへの恋心をはっきりと自覚した瞬間であった。
「どうしたの? 具合が悪い?」
 バーテンダーがすかさず訊ね、顔をいっそう近寄せて囁いた。
「具合が悪いなら、どこか二人きりになれる静かなところに行こうか。そのワンピースも脱いで、身体を楽にした方が良い」
 ファヨンは半ば意識が朦朧としたまま頷き、立ち上がろうとした。だが、ふらふらと平衡感覚がなくなってしまったようで、足許が覚束無い。
 その時、断固とした声が割って入った。
「豪史(たけし)さん、そこまでですよ。この子は俺の彼女なんだから、手出しはしないで下さいね?」


 ジュンスがファヨンの傍らに立っていた。いつのまに来たのだろう、ファヨンはぼんやりと彼を見上げた。ジュンスは何故か怒っているような表情で、彼女を見ようともしない。
「なになに、この可愛い子、ジュンスの女?」
 バーテンダーが大仰に愕いたジェスチャーをして見せた。
「豪史さん、弱いカクテルだって嘘言って、強いお酒を女の子に飲ませてますよね。その後、酔った女の子をホテルに連れ込むんだ。その手管でもう何人の子を泣かせたんですか? 今にそんなことやってたら、下手すりゃ犯罪ものですよ」
 誰かを泣かせたら、その報いは必ず自分に返ってくるんです。
 最後の科白はやや凄みをきかせた声で言い、ジュンスは豪史という男を睨んだ。一瞬、優しい顔立ちのジュンスに圧倒的な存在感が漂い、抜き身の刃のような剣呑なオーラを放つ。
 豪史は気圧されたように蒼褪めた。
「判った、判ったよ。ジュンスの女には今後、一切手を出さないから。そんな怖い顔するなよ。普段怒らないヤツを怒らせたら、怖ぇな」
 彼は鼻白んだ様子で言い、顎をしゃくった。
「さっさと連れて帰れよ。そんなぐでんぐてんに酔っぱらって店にいられちゃ迷惑だ。それに、そんなに大切な女なら、こんな店に連れてくんな」 
 ジュンスがきついまなざしを豪史にくれた。
「誰がこんなになるまで酔わせたんだ!」
 豪史は鼻を鳴らし、そっぽを向いた。その時、ドアが開いて、また新しい客が入ってきた。若い女の子二人連れなのを見て、豪史はまた別人のような愛想の良い声で応対している。
「いらっしゃい。君たち、可愛いねー」
 ジュンスは呆れたように首を振り、ファヨンの背中をそっと押した。
 と、来たばかりの女の子二人組がジュンスを見て歓声を上げた。
「あ、韓流イケメン喫茶のジュンス君だ!」
「本物だよ~、夜はここにいるってラインの書き込みを読んだことがあるけど、本当だったんだねー」
 やたらと語尾を伸ばした舌っ足らずな話し方が癇に障る。
「ジュンス君、一緒に写メ撮って」
「サインしてえー」
 口々に言い寄ってくるのに、ジュンスは笑顔でしれっと応えた。
「ごめん、俺、日本語がよく判らなくて」
 後ろで豪史がまた鼻を鳴らした。
「嘘つきはどっちだ」
 イケメンコンテストで入賞した彼は顔写真も結構ネットで出回っている。そんな彼を目当てに彼がバイトする店々を訪ねてくる女性ファンはとにかく多い。いちいち相手をしていてはキリがないので、面倒を避けるためにジュンスは日本語が判らない振りをすることもあった。
「何だー」
「残念」
 いかにも不満そうな女性二人を後に、ジュンスはファヨンの耳許で囁いた。
「とにかくここを出よう」
 ファヨンの肩を抱くようにして、店の外に出た。
 ドアが閉まり、二人はエレベーターで階下まで降りた。
 店の前は路地で、そこを抜けると駅前通りに出る。ファヨンは一歩踏み出そうとして、目が回って、よろけた。
 石畳の狭い道に、月光が濡れたような光を注いでいた。紫紺の夜空に幻想的な半月が危うげに掛かっている。まるでオーラクオーツのように神秘的な光を放っていた。
 この暗さではビルの前に無造作に積み重ねてある店のゴミや廃棄物もよく見えず、月の光に淡く照らされた石畳の道はどこか中世のヨーロッパ辺りの街角の風景を彷彿とさせた。


「危ないッ」
 彼が咄嗟に抱き止めてくれなければ、ファヨンはそのまま石畳に激突していたに違いない。
「離して」
 ファヨンはジュンスの手を払いのけ、礼も言わずにそのまま行こうとした。
「待てよ」
 ジュンスがすかさずファヨンの右手を掴む。
「なに?」
 ファヨンは彼をキッと見た。ジュンスは小さく息を吐き、ファヨンの手を放した。
「何で、こんなに酔っぱらうまで飲んだんだ?」
 彼の方もファヨンに負けないくらいに怒っているようだ。
「知らない」
 プイとそっぽを向くと、ジュンスがファヨンの両頬に手を添えて、無理に自分の方に向かせた。
「良いか、もっと自分を大切にしろ。そんな男を悩殺するようなワンピースで夜に外出なんかするんじゃない、易々と男の下心も見抜けず誘いに乗るんじゃない」
 言い聞かせるように言う彼に、ファヨンは鼻で嗤った。
「何がおかしい?」
「私はあなたの彼女でも何でもないわ。束縛するのは止めて」
「それなら、君はあのまま俺が止めない方が良かったのか? あの男は気に入った女の子が来れば、強い酒を飲ませて、しこたま酔わせてホテルに連れ込む常習犯なんだぞ。ホテルに着いて二人きりになって、泣いて帰らせてくれって頼んで帰らせて貰えるとでも?」
「ちゃんと断るもの」
「嘘言え、君はあいつと一緒に出ていこうとしてただろ、俺が止めなきゃ、今頃はもう君はホテルであいつに抱かれてたさ」
「―もう、良い」
 ファヨンは彼を無視して大通りに向かおうとした。
「自分を大切にしろというのは、何も君が明姫だからじゃない。一人の女性としてもっと自分を大切にするんだ、ファヨン」
 ファヨンは振り向いた。
「あなたはまだ、そんなことを言ってるの? 私は明姫じゃないって何度言ったら判るの」
 ふいにジュンスが何かを呟き出した。
「何故、あなたは今、ここにはいないのか。私の心はあなたを求めてさまよい、私の瞳はあなたを想い、こんなにも哀しみの涙を流しているのに、この張り裂けそうな哀しみと淋しさを癒してくれるあなたはいない」
 彼のまなざしが一瞬、揺れた。
「妻よ、愛する妻よ、私の心はたとえどれだけ気が遠くような時代を経ても、何度でも生まれ変わって、あなたを求め続け、そして、あなたを探すだろう」
 あまりにも深い哀しみが込められた詩だ。その言葉一つ一つに込められた最愛の妻を失った男の悲哀が胸に迫ってくるようだ。
 ファヨンはつい訊かずにはいられなかった。
「その詩は―」
 ジュンスが哀しげに微笑んだ。
「直宗王が和嬪の死後、詠んだとされる詩だよ。題名は〝一片丹心(イルピョンダンシム)〟。亡くなった妃をずっと恋い慕い続けた孤独な王の心がよく表されているタイトルだといわれている。いつの頃、詠まれたのか年代は定かではないらしいが」
 その後でフッと笑う。何という儚い微笑みだろう。ファヨンは胸をつかれた。
「でも、俺はちゃんと知ってるよ。孤独な老いた王は亡くなる二年前に宮殿の庭で月を見上げながら、この詩を作ったんだ」
 ファヨンは彼の言葉に、ハッとした。奇しくも〝丹心〟というのはファヨンの両親が経営する店の名前と同じだ。


 ジュンスが懐から小さな箱を取り出した。深紅のビロード張りの小箱を開き、何かを取り出す。その取り出したものを大きな手のひらに乗せ、ファヨンに見せた。
「これが何か判るかい?」
 蝶を象った指輪は羽根の部分にキラキラと光る石がはめ込まれている。
「これは指輪でしょう」
 煌めく石は夜明けの空のような、露草の花の色を閉じ込めた美しい青紫色だ。
「この紫の石が何か知ってる?」
「―」
 ファヨンは首を振った。
 刹那、彼女の唇からまた無意識に言葉が洩れた。
「―タンザナイト」
「そう、タンザナイトだ。三百年前、俺が君に贈った約束の石」
「約束の石?」
「そう、三百年前のあの時、君には言わなかったが、俺は君との出逢いに運命のようなものを感じていた。探し求めていた女とやってめぐり逢えたと思ったんだ。これを贈って歓ぶ君の笑顔を見ながら、この女を生涯かけて守っていければ良いと思った、この笑顔をずっと側に居て見ていたいと思ったんだ」
 彼の声が次第に遠くなり、瞼にまた一つの光景が立ち現れる。


******
 そう、あれは確か、あの男と二度目に漢陽の下町で出逢ったときのことだ。彼と二人で漢陽の町を歩いた。
 私は思い出せる。あの露店が立ち並んだ下町の姿や、物を作り売る人々の活気溢れる呼び声。野菜を売る女の生きの良い声が響き渡り、店を隣り合わせた小間物売りたちの諍いの声に、逃げ出した売り物の鶏のかしましい啼き声が混じる。
 私の大好きな揚げパンを揚げる匂いもどこかの露店から流れてきて―。そこで、また別の光景が浮かぶ。
 彼と一緒に美味しそうに揚げパンを頬張る自分の姿が見えた。だが、と、首を振る。今の、思い出そうとしているのは、彼と揚げパンを食べたときじゃない。
 再び、最初の映像がまた浮かんだ。そう、彼と二度目に漢陽の下町で出逢った時。彼―ユンが私に露店でタンザナイトのノリゲと簪を買ってくれた。あれは後々ずっと、私の宝物になったのだ。
 あの時、私は一旦は彼にそんなものを買って貰うことはできないと断った。だが、ユンは私にこう言ったのだ。
―それに、そなたと私は見ず知らずの間柄ではないだろう?
―え?
 眼を見開いた私にユンは愉快そうに言った。
―宮殿の庭で一度、今日はこれで二度目になる。最早、見ず知らずとは言えまい。
 少し話を強引に持って行きすぎだが、確かにユンと出逢うのはこれが初めてではなかった。
 私は手にした簪とノリゲを見つめた。小さな花を象った銀細工の簪は、花の部分が透明な青紫色の玉でできている。小さな花は可憐で、桜草に形が似ている。
 ノリゲはまるでお揃いで拵えたように、小さな花が何個か集まっていて、その下に白と淡い蒼をグラデ―ションに染めた長い房がついている。花の部分は店の主人たちが言っていた灰簾石(タンザナイト)という玉なのだろう。
 ユンは隣り合わせた二つの小間物屋から、それぞれ簪とノリゲを買った。二つの店の主たちを仲違いさせないためだった。
―素敵。
 思わず呟いた本音に、ユンは屈託ない笑みを浮かべて歓んだ。
―そうか? 気に入ってくれたか?
―この花の色と形をひとめ見て、そなたにぴったりだと思ったのだ。まるでこの国の夜明けの空を思わせるような、清々しい明けの色が潔くて凜とした、そなたの印象にぴったりだと。
 微笑む彼と眼と眼がぶつかり、私はあの時、慌てて視線を逸らしたのだ。何故か、初めて出逢ったときから、彼に見つめられると、落ち着かなくなる。
******



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