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 それでも、明姫は現れない。ついにジュンスはこのまま韓国にとどまり、いつまでも逢えない恋人を待つのが嫌になった。それで十八歳の時、韓国を飛び出した。語学留学などと格好の良いことを言っているのは建前で、その実、韓国で明姫を待ち続けるのに疲れてしまったのだ。
 彼が日本に行きたいと言った時、両親は反対したが、母は内心はホッとしているようだった。我が子であって我が子ではない遠い存在、しかも、どこか薄気味悪いもののように遠巻きに見ていた息子がいなくなって、安心したように見え、彼は傷ついた。
 だが。逃げるように韓国を後にして、海を渡った遠い日本に来て、まさかこの地で探し求めていた明姫に逢えるとは想像だにしていなかった。今から思えば、自分が韓国を出て日本に来たのも、宿命或いは輪廻に導かれてのものだったのだろう。
 彼は明姫と再会するために、日本に来たのだ。もちろん、そのことをまだファヨンは完全に理解できているはずもない。
 長い話を終えて、ジュンスは何かから―恐らくは彼を縛り続けてきたものから解き放たれたような雰囲気だった。長い旅を終えたとでもいえば良いのだろうか。
 彼は特に精神異常者というわけではなかったのだ。確かに根本から信じ切れる話ではないけれど、少なくとも彼なりの理由はあるのだとファヨンには理解はできた。
「ファヨン」
 突如として彼に強い意思を感じさせる声で名を呼ばれ、ファヨンは眼を見開いた。
「直宗には明姫という寵姫がいた」
 また、スマホの画面を見せられる。
 そういえば、幻の中で直宗王は自分を明姫と呼んでいたけれど―。妖しい予感に胸がさざ波立つ。
 ファヨンは頷いた。
「それがどうかしたの?」
「俺は君と過ごした日々を、幼いときから何度も記憶に甦らせていたよ。大学の講義室で初めて君を見た日も、桜草を腕一杯に抱えた君を見たときも、ああ、似たような想い出がかつて三百年前の俺たちにもあったと昔を思い出した」
「何のことを言ってるの? あなたに三百年前の前世の記憶があるというのは信じるけれど、その話と私が何故、関係あるの?」
 ファヨンは心底判らないといった風に首を振る。繰り返し見る幻はジュンスの話がまったくの偽りではないのかもしれないと彼女に告げていたが、さりとて、容易に認められる話でもない。
「君と俺は三百年前に出逢い、恋に落ちた」
 ファヨンは信じられなくて、烈しく首を振った。
「馬鹿げてる。あなたの話は信じても良いわ。でも、それに私まで巻き込むのは止めて」
「判らないのか? 君が俺と出逢ってから時々、幻想を見るのは、そのせいだ。いや、君が幻想だと思っているのは、実は幻想なんかじゃない。君の中で眠り続けていた過去世の記憶が今、俺と出会ったことで目覚め始めているんだよ。君は確かに三百年前にかつて君自身が体験したことを思い出し、記憶の中で追体験している」
 その時、一陣の風が二人の側を駆け抜けた。
 オレンジ色の夕陽に照らされた桜並木が一斉にざわめき、花水木の花弁がひらひらと雪のように中空に舞った。
 その花びらが数枚、ファヨンの漆黒の長い髪に降りかかる。ジュンスは手を伸ばし、彼女の肩と髪についた可憐な薄紅色と純白の花びらを指で掬い上げた。
 何かを希(こいねが)うかのような瞳をこれ以上、見ていられない。


「あなた、やっぱり、頭がおかしいのよ」
 ファヨンは叫び、立ち上がった。折しも黄昏れ時に差し掛かり、オープンカフェは殆ど満席だ。大声を出したファヨンを周囲の客たちが好奇心も露わに見つめている。
 今の自分たちは他人にはどう見えているのだろう。痴話喧嘩をしている恋人? そう考えて、彼女はカッと身体が熱くなった。
「夜はバーでバイトしてる。S駅近くの雑居ビルの二階、〝アンダンテ〟という店だよ」
 彼がふいに言った。物問いたげなまなざしに、彼が薄く笑う。
「昼間はガソリンスタンド、回転寿司の店員、イケメンカフェのウェイター、夜はアンダンテのバーテン。貧乏学生は色々と忙しくてね」
 やや自嘲気味に笑う彼の顔はとても淋しげで。やはり、遠い昔にこんな表情をする男を見たような気がして、ファヨンは狼狽えた。
 いけない、このままでは、この男のおかしな話に自分まで引きずり込まれてしまう。ファヨンにとっては自分が三百年前に生きた国王の妃の生まれ変わりだなんて、絶対に認めたくない話だ。
 だが、このままジュンスといたら、何故か彼の調子に乗ってしまいそうな気がして怖かった。
「俺はそこでドラムをやってるから、良かったら、見にきて」
 その言葉を背に受け、ファヨンはその場から去ろうとした。まさに彼女が歩き出そうとするのと、彼が振り絞るように言ったのはほぼ時を同じくしていた。
「お願いだ、思い出して、明姫」
 振り向くつもりもなかったのに、最後の〝明姫〟という呼びかけに対して、ファヨンはごく自然に振り向いていた。意図したわけでもなく、ただ、聞き慣れた愛しい男の呼びかけに応えるかのように、彼女の魂が敏感に反応したのだ。
 ジュンスの瞳は哀しみに揺れていた。切なげなまなざしに心まで絡め取られそうで、居たたまれない。ファヨンは逃げるようにその場から走り去った。


恋しくて~宿命の二人~

 恋しくて~宿命の二人~

 

 その夜、ファヨンはS駅前のビルに行った。エレベーターを使って二階で降り、幾つか並んだドアの前を素通りする。目当ての店はすぐに見つかった。
 安っぽいブラウンのドアには格子模様が彫り込まれている。そのドアにこれもいかにも安っぽそうなプラスチックのプレートに〝アンダンテ〟と印字されていた。
 自分が何故、あの男に言われるがままにここに来たのか、ファヨンは自分の心を測りかねていた。ただ、夕方の別れ際、彼の切なげで哀しげな瞳が忘れられず、思い出す度に心が針で刺されるように痛んだ。
 木製のドアを開けると同時に、音楽がファヨンの耳に飛び込んできた。やわらかで、ムーディな音楽がさして広くはない室内にゆったりと流れている。
 店内は入って真っすぐ先の中央に小さなステージがあり、右手にカウンターとスツール、左手にボックス席、その狭間に一定の間隔を開けて、椅子が置かれている。客たちは今、思い思いの場所に陣取っているが、大半は真ん中の自由に動かせる椅子に座っていた。
 舞台の奥には立派なグランドピアノが設置されている。身の丈のある妖艶な美女が静かな旋律を奏でている。年の頃は二十歳代後半くらいだろうか、デコルテを出した黒のドレスは胸許が深く開いて、乳房のきわどい部分ぎりぎりのところまで露出している。
 裾部分はロングのタイトなマーメイドラインだが、スリットが太腿上部まで入りこんでおり、少し脚を動かす度に、魅惑的な白い脚がこれもきわどく見える。
 ウエーブのかかった長い髪は豊かにうねり、腰まで流れている。顔は照明が暗めなので定かではないけれど、濃い化粧の下からも、くっきりとした目鼻立ちが窺える。
 彼女のすぐ傍らではサックスを抱えたダンディな中年男性が熟成したワインのような深い音色を奏でている。
 ジュンスは彼らとは少し離れた片隅で控えめにドラムを叩いていた。ミラーボールが回り、ジュンスの端正に陰影を刻んでいる。
 時々、照明がいっそう暗くなり、小さな瞬きが静かに演奏を奏でるバンドのバッグを彩った。まるで、夏の夜に漆黒の闇夜を舞う蛍の光のようだ。
 けして烈しい曲ではないのに、何故がじっと耳を傾けていると、心の奥が妖しくさざめいてくるような不思議な感じがする。
 サックスがふいに鳴り止み、後はジュンスと女性のピアノだけになった。二つの音色が絡み合う。ジュンスと彼女は時々、視線を合わせ、彼らだけにしかわかり得ないコンタクトを取り合っているように見える。
 ふとファヨンは胸苦しい想いに駆られた。
―彼とあの色香溢れる女性は、どんな関係なのかしら。
 ジュンスとはまだ知り合ってまもないのに、そんなことを考えてしまう自分が情けない。ファヨンはふらふらとカウンターの方に行き、高いスツールに腰掛けた。
 カウンター席は丁度ステージには背を向けた格好になる。逆にジュンスの方からは見ようと思えば、ファヨンはよく見えるだろう。
「いらっしゃい、初めてかな?」
 ふいに声をかけられ、うつむいたファヨンは顔を上げた。二十代半ばほどの男が微笑んでいる。白服に蝶ネクタイといういでたちを見ると、バーテンダーなのだろう。
「こんばんは」
 と、こんな大人の店に来たことのないファヨンは狼狽えて無難な挨拶を返す。
「歳は幾つ? お酒は飲めるよね」
 愛想良く話しかけてくるので、応えないわけにはいかない。


「十八歳です」
「何だ、未成年か。大人っぽいから、二十歳くらいかと思った」
 そう言いつつ、彼はカウンターにさりげなくスリムな逆三角形型のカクテルグラスを置いた。蒼い海のような爽やかな色合いが涼しげなカクテルだ。紅いチェリーが添えられていた。
「魅惑的なお嬢さんに僕からのブレゼント。ソルティドッグっていうカクテル。ほんの少しアルコール入ってるけど、大丈夫だよね」
 なかなかイケメンのお兄さんである。エグザイルにでもいそうなワイルド系の美男だ。
「どうぞ、喉越しも良いし、すんなりと飲めると思うよ」
 優しく勧めてくれるのに、無下に断れない。ファヨンは勧められるままに、グラスを手にして、ひと口カクテルを飲んだ。確かに飲みやすい。ひと口、また、ひと口と飲んでいく中にアルコールだということを忘れて、ジュースを飲んでいる感覚になっていた。
 バーテンダーはファヨンの咽をカクテルが通りすぎてゆく様を眺めている。その視線が獲物を狙う蛇のように粘着質な光を帯びているのには気づいていない。
「名前、何ていうの?」
「ファヨン」
「可愛い名前だね、君にぴったり」
 どうやら、向こうは本名だとは思っていないらしい。どうでも良いことだと、ファヨンはどこか投げやりな気持ちで考えていた。その一方で先刻見たばかりのステージの様子がまざまざと甦る。ピアニストの妖艶な女性と親密な様子でしきりに視線を交わし合っていたジュンス。
 まさか、あの二人は―。一瞬、ダブルベッドで全裸で絡み合う二人の姿を想像し、ファヨンは頬を上気させた。
 私ったら、何を馬鹿なことを考えてるの? 思わず両手で頬を包み込む。頬が熱い、いや頬だけでなく、身体全体が燃えるように熱い。初めて飲んだアルコールのせいだろうか。
「そのニットのワンピース、大人っぽいね。でも、身体のラインが丸見えだ。折角の綺麗な身体だから、見せても良いかもしれないけど、僕が君の彼氏だったら、僕以外の男には見せたくないかも。胸も大きそうだね」
 と、最早、不躾な視線を隠そうもせず、ファヨンの胸許にあからさまに注いでくる。が、すっかり酔いが回っている彼女は男の淫らな視線にもまるで気づかなかった。
 ファヨンの瞼の向こうでは、微笑み交わすピアニストの女性とジュンスの姿が何度もフラッシュバックしている。やがて、その映像はミラーボールのようにぐるぐると回り始め―。
 ファヨンは目眩を憶えて、片手のひらで額を押さえた。
 ぐるぐる、ぐるぐる、ジュンスと微笑み交わす美女が頭の中で回る。
 刹那、ファヨンは悟った。
―私はジュンスを好きなんだわ。
 彼が他の女性と愉しげに微笑み交わしているだけで、心が醜い嫉妬で染まってしまうほどに。それはファヨンがジュンスへの恋心をはっきりと自覚した瞬間であった。
「どうしたの? 具合が悪い?」
 バーテンダーがすかさず訊ね、顔をいっそう近寄せて囁いた。
「具合が悪いなら、どこか二人きりになれる静かなところに行こうか。そのワンピースも脱いで、身体を楽にした方が良い」
 ファヨンは半ば意識が朦朧としたまま頷き、立ち上がろうとした。だが、ふらふらと平衡感覚がなくなってしまったようで、足許が覚束無い。
 その時、断固とした声が割って入った。
「豪史(たけし)さん、そこまでですよ。この子は俺の彼女なんだから、手出しはしないで下さいね?」


 ジュンスがファヨンの傍らに立っていた。いつのまに来たのだろう、ファヨンはぼんやりと彼を見上げた。ジュンスは何故か怒っているような表情で、彼女を見ようともしない。
「なになに、この可愛い子、ジュンスの女?」
 バーテンダーが大仰に愕いたジェスチャーをして見せた。
「豪史さん、弱いカクテルだって嘘言って、強いお酒を女の子に飲ませてますよね。その後、酔った女の子をホテルに連れ込むんだ。その手管でもう何人の子を泣かせたんですか? 今にそんなことやってたら、下手すりゃ犯罪ものですよ」
 誰かを泣かせたら、その報いは必ず自分に返ってくるんです。
 最後の科白はやや凄みをきかせた声で言い、ジュンスは豪史という男を睨んだ。一瞬、優しい顔立ちのジュンスに圧倒的な存在感が漂い、抜き身の刃のような剣呑なオーラを放つ。
 豪史は気圧されたように蒼褪めた。
「判った、判ったよ。ジュンスの女には今後、一切手を出さないから。そんな怖い顔するなよ。普段怒らないヤツを怒らせたら、怖ぇな」
 彼は鼻白んだ様子で言い、顎をしゃくった。
「さっさと連れて帰れよ。そんなぐでんぐてんに酔っぱらって店にいられちゃ迷惑だ。それに、そんなに大切な女なら、こんな店に連れてくんな」 
 ジュンスがきついまなざしを豪史にくれた。
「誰がこんなになるまで酔わせたんだ!」
 豪史は鼻を鳴らし、そっぽを向いた。その時、ドアが開いて、また新しい客が入ってきた。若い女の子二人連れなのを見て、豪史はまた別人のような愛想の良い声で応対している。
「いらっしゃい。君たち、可愛いねー」
 ジュンスは呆れたように首を振り、ファヨンの背中をそっと押した。
 と、来たばかりの女の子二人組がジュンスを見て歓声を上げた。
「あ、韓流イケメン喫茶のジュンス君だ!」
「本物だよ~、夜はここにいるってラインの書き込みを読んだことがあるけど、本当だったんだねー」
 やたらと語尾を伸ばした舌っ足らずな話し方が癇に障る。
「ジュンス君、一緒に写メ撮って」
「サインしてえー」
 口々に言い寄ってくるのに、ジュンスは笑顔でしれっと応えた。
「ごめん、俺、日本語がよく判らなくて」
 後ろで豪史がまた鼻を鳴らした。
「嘘つきはどっちだ」
 イケメンコンテストで入賞した彼は顔写真も結構ネットで出回っている。そんな彼を目当てに彼がバイトする店々を訪ねてくる女性ファンはとにかく多い。いちいち相手をしていてはキリがないので、面倒を避けるためにジュンスは日本語が判らない振りをすることもあった。
「何だー」
「残念」
 いかにも不満そうな女性二人を後に、ジュンスはファヨンの耳許で囁いた。
「とにかくここを出よう」
 ファヨンの肩を抱くようにして、店の外に出た。
 ドアが閉まり、二人はエレベーターで階下まで降りた。
 店の前は路地で、そこを抜けると駅前通りに出る。ファヨンは一歩踏み出そうとして、目が回って、よろけた。
 石畳の狭い道に、月光が濡れたような光を注いでいた。紫紺の夜空に幻想的な半月が危うげに掛かっている。まるでオーラクオーツのように神秘的な光を放っていた。
 この暗さではビルの前に無造作に積み重ねてある店のゴミや廃棄物もよく見えず、月の光に淡く照らされた石畳の道はどこか中世のヨーロッパ辺りの街角の風景を彷彿とさせた。



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