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―どうしたんだ! 泣いているのか。
 あの男が慌てたように訊いてくる。
 私は泣きじゃくりながら言った。
―ユンが可哀想で。私、ユンがそんなことまで考えてたって、全然知らなくて。
 あれは確か、彼が私のお祖母さまに結婚の挨拶に来たときのことだ。宮殿の庭園で知り合った私たちは相思相愛になり、結婚の約束まで交わした。その日は彼が私の実家に挨拶に来ると言ったのだ。後宮女官だった私は休みを貰っていた。
 私には既に両親はなく、実家には祖母がいるだけだった。お喋りで吝嗇なお祖母さまの存在が恥ずかしいと言った私に、彼が言った。
 いつでも待ってくれている家と家族がいるるだけ、そなたは幸せだと。そして、彼のお母さんに振り向いて貰いたかった彼の子どもの頃の話を聞いたのだ。
 それで、彼の孤独な子ども時代を思うと哀しくて泣けてきたのだった。
 私はあの時、泣きながら続けた。
―なのに、ユンはそんなに優しい眼をしてる。淋しかったはずなのに、いつも誰にでも優しい。私、ユンの夢を応援するから。あなたがさっき話してくれた―誰もが幸せに暮らせる身分差のない国を作るっていう夢を応援する。ずっと、あなたの側にいて、私にできることがあれば手伝わせて。
―明姫。
 あの男が泣いている私を抱き寄せた。
―私は今、幸せだよ。こうして、生涯にただ一人の想い人にめぐり逢えた。そなたはいつもただ私の側にいて、笑っていてくれれば良い。
******


 ファヨンはきつく唇を噛みしめ、両手で顔を覆った。耳鳴りが遠のくにつれて、瞼の奥の光景も薄れて消えていった。
「ファヨン、大丈夫か!?」
 ジュンスが幾度も呼んでいるのも気づかず、ファヨンは緩慢な動作で彼を見上げた。
「あなたと出逢ってから、幻影ばかり見るのよ。つい今もまた私には訳の判らない幻の光景が浮かんできて、そこで私はユンという名前の男の人と話していた」
 ジュンスが身を乗り出した。
「ユン、君はそこまで思い出したんだな。それで、幻の中のそのユンという男はどんな顔をしていた?」
 ファヨンは力なく首を振った。
「判らないわ。幻の中で、ユンと話しているのは自分だっていうのは判るけど、肝心の相手の顔ははっきりと見えないの。周囲の景色は鮮明なのに、ユンの顔だけは朧で」
 ジュンスは明らかに落胆したような表情だ。彼は黙ってまたスマホを見せ、ある部分を指し示した。
 そこには〝直宗 名前は李胤〟と書かれていた。またしても読めないはずなのに、言葉が口を突いて出る。
「イ・ユン。直宗の名前ね。じゃあ、私が幻で話しているのはその直宗という王さまなの?」
 ジュンスは小さな溜息をついた。
「俺は物心つくかつかない頃から、妙な子どもだって言われてきたんだ」
 彼の子ども時代と三百年前に実在した王さまがどう繋がるのだろうと訝しげに彼を見た。が、彼は最早、ファヨンのことなど眼中にないようだ。彼女に語って聞かせるというよりは、何かにせき立てられるかのような口調で語り続けた。
「到底、他人からは信じられない、理解しがたいようなことばかり喋って、周囲を困惑させていた」
 それは今、まさにファヨンがジュンスに対して時折、感じる不安だ。ファヨンは知らず彼の問わず語りに耳を傾けていた。
「俺が三百年前の記憶を語り出したときには、母は泣き出し、父は絶望に青ざめたんだよ。実の両親すら、手を焼いて色々とクリニックに連れていったけど、何度検査しても、俺は知能的にも精神的にも、どこにも異常はないと言われた」
 そんな時、親戚の伯父、母の兄が母にポツリと語ったという。
―世の中には前世記憶を語る子どもがたまにいるというから、ジュンスもそれじゃないのか?
 伯父はソウルの大学で心理学を教えている学者であり教授だった。前世記憶、つまり転生した者が前世の記憶をそっくりそのまま持って生まれ変わったという説だ。
 俄には信じがたい話ではあったけれど、その説を信じれば、ジュンスの特異性も理解はできる。もっとも、両親はそのときはまだ、伯父の話を百パーセント本気にしたわけではなかった。
 成長するにつれて、ジュンスは黙っている方が無難にやり過ごせることを憶えた。たとえ彼には当然のことであったとしても、彼以外の人間―両親さえもが―は彼の言葉を単なる気違いの妄想としか受け取らない。
 だから、三百年前の記憶も他人にはけして話さないようにした。そうすれば、少なくとも彼はごく普通の人間として周囲に受け容れられたからだ。
 十二歳の時、彼はソウルではかなり名の知られた占い師のところに両親に連れていかれた。その時、あろうことか、五十ほどの女占い師はいきなりジュンスに向かって恭しく古式にのっとった拝礼を始め、その場にひれ伏し頭を垂れた。


 狼狽する両親を尻目に、占い師はそのままの体勢で怖ろしいことを告げた。
―我らが国の偉大なる王よ、こうして拝謁できたことを私めは光栄に存じます。御身の魂は三百年の時を経てもなお、安らぐことなく天に還ることなく、この現世を彷徨っておられる、何とお労しいことでしょう。されど、ご案じなされますな、まもなく、長らく続いた果てのない輪廻も当代で漸く終わり、御身も今度こそご寿命を終えられたその暁には天へとお帰りになることができましょうぞ。御身が長らく探し求めておられたお方も今、やっとこの現世に転生されておわします。
 女占い師は両親にはっきりと断じた。
―このお子は類い希なる貴人の相を持っておられます。このお子の上に見えるのは美しい鳳凰、夜明けの都の空を翼ひろげて悠々と舞う鳳凰です。だが、その鳳凰は血の涙を流している。これは待ち人がいまだ現れないことを示しているのです。
 つまりは、ジュンスは三百年前に生きた貴人の生まれ変わりであり、前世の記憶を完全に持っている、と。
―貴人とは、一体―。
 あまりの展開に言葉もない両親が声を震わせて問うと、占い師は眼を瞑った。
―この上なく、やんごとなき御身。
―それは、もしや王―。
 父が言いかけ、占い師が頷くや、母はショックのあまり卒倒した。
 そのときから、母はどこかジュンスに対しても隔てを置くようになった。笑顔で接してくれていても、弟妹たちのように抱きしめて頬ずりしてくれることはなくなった。
 父の方はいまだに半信半疑といったところらしい。いずれにせよ、ジュンスはそのときから、自分がかつて何者であり、何のために飽きもせず転生を繰り返しているのかを知った。
 中学生になった彼は図書館で様々な歴史書を読み漁り、自分の記憶が三百年前に存在した実在の国王直宗のものであることを確認した。
 占い師によれば、幾度転生しようとも、ジュンスに残っているのは三百年前の最初の生を生きたときの記憶だけ。後の人生は生まれ変わる度に消えているはずだとも。
 確かに指摘されたとおりだった。ジュンスが今、ありありと思い出させるのは三百年前、彼が偉大なる直宗王と呼ばれた朝鮮国王だった最初の生だけだ。
 要するに、それ以降の幾とおりの人生も彼にとっては意味のあまりないものなのだ、ということらしい。そして、何故、転生を繰り返すほどにこの世に執着を残しているかといえば、待ち人にいまだ逢えないからというのが理由だという。
 その待ち人というのが、三百年前に直宗だった彼が生涯でただ一人愛した女性和嬪こと蘇明姫なのである。それほどまでに愛した女性と何故、何度も転生を繰り返しているのに、再会できないのだろうか。
 しかも、自分たちは相思相愛だった。明姫は二十一歳の若さで儚くなったが、今のきわに彼の手を握りしめて約束したのだ。
―何度生まれ変わっても、必ず殿下をお探し致します。
 にも拘わらず、この三百年の間、明姫は一度として彼の前に現れなかった。明姫に逢えば、彼は必ず判るという自覚があった。魂が同一のものだからといって、姿形までかつての想い人と同じなのかは判らない。彼自身、今の自分の外見がかつての自分と同じなのか判断つきかねるからだ。
 似ているといえば似ているし、似ていないといえば似ていないようにも思える。元々男だから、女性のように容貌に拘ったことがないせいもあるだろう。
 しかし、どれだけ仮に外見が明姫と異なっていたとしても、彼(ユン)は明姫の魂を持つ人物に逢えば必ず判る。たとえ、それが男性だったとしてもだ。明姫の魂を持つ者が必ずしも女性だという保証は何らなかった。もし男性として転生していた場合、どうするのか?
 ジュンスには同性愛の趣味はまったくないのだ。しかし相手が明姫の魂を持つ者なら、男性だったとしても、心がどう動くかは自分でも予測はつかなかった。
 裏腹に、かつて自分が繰り返した転生の中ではもしかしたら、女性として生きたこともあったのかもしれない。しかしながら、生まれ変わる度に記憶が消えているのでは、それを確かめるすべはない。
 できるならば、今度こそ誰はばかることなく愛し合える女性であって欲しいと彼は願い続けた。だが、占い師の預言にも拘わらず、一向に再会できない日々が続く中に、たとえ男として転生していても良いから、明姫に逢いたいと焦がれるほどに思うようになった。


 それでも、明姫は現れない。ついにジュンスはこのまま韓国にとどまり、いつまでも逢えない恋人を待つのが嫌になった。それで十八歳の時、韓国を飛び出した。語学留学などと格好の良いことを言っているのは建前で、その実、韓国で明姫を待ち続けるのに疲れてしまったのだ。
 彼が日本に行きたいと言った時、両親は反対したが、母は内心はホッとしているようだった。我が子であって我が子ではない遠い存在、しかも、どこか薄気味悪いもののように遠巻きに見ていた息子がいなくなって、安心したように見え、彼は傷ついた。
 だが。逃げるように韓国を後にして、海を渡った遠い日本に来て、まさかこの地で探し求めていた明姫に逢えるとは想像だにしていなかった。今から思えば、自分が韓国を出て日本に来たのも、宿命或いは輪廻に導かれてのものだったのだろう。
 彼は明姫と再会するために、日本に来たのだ。もちろん、そのことをまだファヨンは完全に理解できているはずもない。
 長い話を終えて、ジュンスは何かから―恐らくは彼を縛り続けてきたものから解き放たれたような雰囲気だった。長い旅を終えたとでもいえば良いのだろうか。
 彼は特に精神異常者というわけではなかったのだ。確かに根本から信じ切れる話ではないけれど、少なくとも彼なりの理由はあるのだとファヨンには理解はできた。
「ファヨン」
 突如として彼に強い意思を感じさせる声で名を呼ばれ、ファヨンは眼を見開いた。
「直宗には明姫という寵姫がいた」
 また、スマホの画面を見せられる。
 そういえば、幻の中で直宗王は自分を明姫と呼んでいたけれど―。妖しい予感に胸がさざ波立つ。
 ファヨンは頷いた。
「それがどうかしたの?」
「俺は君と過ごした日々を、幼いときから何度も記憶に甦らせていたよ。大学の講義室で初めて君を見た日も、桜草を腕一杯に抱えた君を見たときも、ああ、似たような想い出がかつて三百年前の俺たちにもあったと昔を思い出した」
「何のことを言ってるの? あなたに三百年前の前世の記憶があるというのは信じるけれど、その話と私が何故、関係あるの?」
 ファヨンは心底判らないといった風に首を振る。繰り返し見る幻はジュンスの話がまったくの偽りではないのかもしれないと彼女に告げていたが、さりとて、容易に認められる話でもない。
「君と俺は三百年前に出逢い、恋に落ちた」
 ファヨンは信じられなくて、烈しく首を振った。
「馬鹿げてる。あなたの話は信じても良いわ。でも、それに私まで巻き込むのは止めて」
「判らないのか? 君が俺と出逢ってから時々、幻想を見るのは、そのせいだ。いや、君が幻想だと思っているのは、実は幻想なんかじゃない。君の中で眠り続けていた過去世の記憶が今、俺と出会ったことで目覚め始めているんだよ。君は確かに三百年前にかつて君自身が体験したことを思い出し、記憶の中で追体験している」
 その時、一陣の風が二人の側を駆け抜けた。
 オレンジ色の夕陽に照らされた桜並木が一斉にざわめき、花水木の花弁がひらひらと雪のように中空に舞った。
 その花びらが数枚、ファヨンの漆黒の長い髪に降りかかる。ジュンスは手を伸ばし、彼女の肩と髪についた可憐な薄紅色と純白の花びらを指で掬い上げた。
 何かを希(こいねが)うかのような瞳をこれ以上、見ていられない。


「あなた、やっぱり、頭がおかしいのよ」
 ファヨンは叫び、立ち上がった。折しも黄昏れ時に差し掛かり、オープンカフェは殆ど満席だ。大声を出したファヨンを周囲の客たちが好奇心も露わに見つめている。
 今の自分たちは他人にはどう見えているのだろう。痴話喧嘩をしている恋人? そう考えて、彼女はカッと身体が熱くなった。
「夜はバーでバイトしてる。S駅近くの雑居ビルの二階、〝アンダンテ〟という店だよ」
 彼がふいに言った。物問いたげなまなざしに、彼が薄く笑う。
「昼間はガソリンスタンド、回転寿司の店員、イケメンカフェのウェイター、夜はアンダンテのバーテン。貧乏学生は色々と忙しくてね」
 やや自嘲気味に笑う彼の顔はとても淋しげで。やはり、遠い昔にこんな表情をする男を見たような気がして、ファヨンは狼狽えた。
 いけない、このままでは、この男のおかしな話に自分まで引きずり込まれてしまう。ファヨンにとっては自分が三百年前に生きた国王の妃の生まれ変わりだなんて、絶対に認めたくない話だ。
 だが、このままジュンスといたら、何故か彼の調子に乗ってしまいそうな気がして怖かった。
「俺はそこでドラムをやってるから、良かったら、見にきて」
 その言葉を背に受け、ファヨンはその場から去ろうとした。まさに彼女が歩き出そうとするのと、彼が振り絞るように言ったのはほぼ時を同じくしていた。
「お願いだ、思い出して、明姫」
 振り向くつもりもなかったのに、最後の〝明姫〟という呼びかけに対して、ファヨンはごく自然に振り向いていた。意図したわけでもなく、ただ、聞き慣れた愛しい男の呼びかけに応えるかのように、彼女の魂が敏感に反応したのだ。
 ジュンスの瞳は哀しみに揺れていた。切なげなまなざしに心まで絡め取られそうで、居たたまれない。ファヨンは逃げるようにその場から走り去った。



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