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―頼みがある。
 あの男は躊躇いがちに言った。
―なあに? 私でできることなら。
 私は彼に微笑んで応えた。
―膝枕を頼めるだろうか。
 少しだけ恥ずかしげに言った彼。
――。
 私は咄嗟に言葉を失ってしまった。
 見かけは真面目そうなのに、やはり、とんでもない女タラシなのかもしれない。よく知りもしない女にいきなり膝枕を頼むだなんて。こういうのは普通は親密な関係にある―俗にいう深間にある恋人たちが行うものではないか。
 私の心が伝わったのか、彼が酷く残念そうに言った。
―やはり、駄目だよな。済まない。埒もないことを口にした。
 そのときのあの男の表情があまりに淋しげで、私は自分でも愕くべき言葉を返していた。
―ほんのしばらくなら、良いわ。
―本当か?
 彼は本当に嬉しそう見えた。
 私が横座りになると、彼はそっと頭を膝に乗せてくる。
―重くないか?
―大丈夫よ、心配しないで。頭だけなんだから。
 私を気遣ってくれる彼に、私は明るく言った。
―膝枕なんてして貰ったのは生まれて初めてだ。
 そのときのあの男の心底嬉しそうな声と表情ったら! 最初に膝枕を頼まれたときは断らなかったことを後悔したけれど、やはり、してあげて良かったと思った。
 あの時、私は彼に頼まれて戸惑いながらも、彼に膝を貸して膝枕をしてあげた―。
******


 軽い目眩が襲う。また、あの不快な耳鳴りがしそうで、ファヨンはきつく眼を瞑った。
「ファヨン?」
 その声で、ファヨンは現に引き戻された。眼を開けると、パジを纏ったジュンスが心配そうにこちらを見ている。
「大丈夫」
 ファヨンは彼を安心させるように微笑みかけた。これから何をするのかと思っていると、オーナーに呼ばれた二人は何とスタジオに仲良く並んで写真撮影をすることになった。
 ポーズを変えて何カットずつか撮影して写真館を出た。写真は後日渡して貰うことになったが、ジュンスはオーナーに無理を言ってい一枚だけ携帯に画像を送って貰っていた。

 写真館を出た後、二人は少し歩いて並木通りと呼ばれている大通り沿いのカフェに入った。その通りは文字通り、桜並木に囲まれている道路が長く伸びている。
 五月の今は眼にも鮮やかなエメラルドグリーンの葉桜だ。中には花水木も植わっていて、そちらはまだ薄紅色や白の花を咲かせている。
 ジュンスは室内ではなく、外に幾つか置いてある丸テーブルと椅子の方に座った。店のすぐ側はオープンカフェになっている。オシャレな丸テーブルと椅子がそれぞれセットになっていた。
 二人がけなので、必然的に向かい合って座ることになる。
 ジュンスは注文を取りにきた若い女の子にコーヒーを頼んだ。ファヨンはメニューを見て、ミックスジュースを頼んだ。
「ケーキとかは欲しくない? 良かったら、頼むけど」
 ジュンスが言ってくれたけれど、ファヨンは首を振った。ケーキはあまり好きではない。
 と、メニューにあるものを見つけた。
「あ」
 声を上げた彼女をジュンスとウエイトレスが一斉に見る。ファヨンは恥ずかしくなり、小さな声で言った。
「揚げパンがあるのね?」
 オシャレなパリのオープンカフェを彷彿とさせる店に揚げパンとはちょっと想像がつかないが、ケーキ類と一緒にメニューに載っているところを見れば、スイーツと認識されているのだろう。
 結局、ファヨンは揚げパンを三個注文した。運ばれてきた揚げパンをファヨンはさも美味しそうに頬張る。別にジュンスと付き合いたいとか、彼に良く思われたいとかの下心もないので、彼の視線も頓着しない。
 ジュンスは何故か嬉しげに揚げパンを次々と平らげるファヨンを眺めている。
「君はやっぱり、いつの時代でも揚げパンが好きなんだ?」
「え?」
 ファヨンは彼の言葉の意味を理解できず、茫然と彼を眺めた。その様子に、ジュンスは微笑んで首を振る。
「いや、またこんな風にさも美味しそうに揚げパンを食べる君を見られて、幸せだなと思って」
 これもよく判らないので、ファヨンはもう気にせずに揚げパンを食べた。
 ジュンスはといえば、頼んだアメリカンをブラックでゆっくりと飲んでいる。純白のカップには縁にぐるりと金で繊細な蔦模様が描かれていた。
 少しうつむき加減なので、長い睫が影を落としている。秀でた額から整った鼻梁と、本当に造作が美しい男だ。
―なんて綺麗な男。
 つい惚けたように見とれていて、彼と眼が合った。不躾に見つめていたことを彼にずっと知られていたかのように思え、ファヨンは慌てて視線を逸らした。またしても頬が燃えるようだ。


 そんなファヨンをジュンスは幸せそうな表情で見つめていた。しかも、この上なく優しげな瞳で。
「物凄く綺麗だった、ファヨンのチマチョゴリ姿」
 ジュンスは感に堪えたように言い、付け加えた。
「写真ができたら、また君にもあげるよ」
 要らないとは何故か言えず、ファヨンはずっと気になっていたことを口にした。
「何で、こんなことをしたの?」
「こんなこと?」
 物問いたげな彼に、ファヨンはひと息に言った。
「あんな格好をして写真を撮ったりなんか―」 彼はジーンズのポケットからスマホを取り出した。何やら操作しているかと思いきや、いきなりそれをファヨンの前に指し示した。
「これを見て」
 やはり、彼の行動は謎だらけだ。ファヨンは言われるままに、スマホの画面を覗いた。
 〝直宗 朝鮮王朝第○○代国王 一七○○~一七○○〟、画面の冒頭に記載されている。
「直宗?」
 朝鮮王朝時代中期の国王であろうことはファヨンにも理解できるが、何故、このことと写真撮影が結びつくのか?
「直宗は朝鮮王朝中期に生きた王だ。即位したのは十五歳だった。息子である世子(セジヤ)が二十歳になるまで、実に四十三年にも渡って在位したんだ。よくドラマにもなってる時代だよ」
 後世に生きる人たちは勝手に歴史を自分たちの都合の良いように解釈して、事実無根のドラマを作る。彼は何度も転生し、かつての自分をまったく別の人間が演ずるのを見てきたが、どれも事実とはかけ離れていた。
 現実には慎み深かった最初の妻である王妃がドラマでは嫉妬深く、王の寵愛する側室を事あるごとにいびり、心優しい彼の想い人和嬪(明姫)は王を色香で誑かす稀代の妖婦になっている。
 本当の王妃も明姫も違う、そんな女ではないと幾度思ったことだろう。だが、失われた歴史の向こうにいる自分たちは最早、何の発言権もなく、今、この世に生きている者たちが作る物語こそが〝歴史〟になるのだ。そして、やがて、何度も転生を繰り返し、幾度もドラマの中のかつての自分〝直宗〟を見る度に悟った。
 〝歴史〟はそういう風に塗り替えられ、作り替えられてゆくものだと。
「そんな王さまがいたのね。私は先ほども言ったけど、三世といっても、名前だけの韓国人なの。朝鮮王朝時代の歴史も何も判らない。中身は日本人だわ」
 ファヨンは言いながら、なおもスマホの画面を眼で追った。そこには朝鮮王朝中興の祖と讃えられ、後世に至るまで民に慕われた聖君としての直宗の生涯が簡潔に示されている。
 その中で、ふと一文が眼についた。
―直宗が生涯に渡って熱愛した和嬪蘇氏は、惜しくも二十一歳で亡くなった。亡くなった当時、和嬪は王の第二子を懐妊していた。死因は難産のためと記録には残っているが、最近になって毒殺説も出ている。
 更に眼で追っていくと、
―直宗後宮 王妃 仁順王后・仁元王后 側室 和嬪蘇氏 温嬪曺氏 賢嬪尹氏 ○○ 
 と、その後にもずらりと側室の名が並んでいる。
「たくさんの奥さんがいたのね」
 呆れたように言うと、ジュンスが眉をつり上げた。
「何だ、その言い方だと王さまがまるで好色漢だったようじゃないか!」
「違うの? 奥さんが二人、それから側室が何て読むのかしら、これは」
 読み方が判らず困惑しているはずなのに、いきなり口からぽろりと言葉が転がり落ちた。
「和嬪蘇氏(ファビンそし)」
 ジュンスがハッとしたようにファヨンを見た。
「ファヨン、君は何かを思い出して―」
 と、またキーンと耳障りな音が耳奥で鳴り響いた。
 瞼に向こうに懐かしい光景が現れた。 

 


******
―どうしたんだ! 泣いているのか。
 あの男が慌てたように訊いてくる。
 私は泣きじゃくりながら言った。
―ユンが可哀想で。私、ユンがそんなことまで考えてたって、全然知らなくて。
 あれは確か、彼が私のお祖母さまに結婚の挨拶に来たときのことだ。宮殿の庭園で知り合った私たちは相思相愛になり、結婚の約束まで交わした。その日は彼が私の実家に挨拶に来ると言ったのだ。後宮女官だった私は休みを貰っていた。
 私には既に両親はなく、実家には祖母がいるだけだった。お喋りで吝嗇なお祖母さまの存在が恥ずかしいと言った私に、彼が言った。
 いつでも待ってくれている家と家族がいるるだけ、そなたは幸せだと。そして、彼のお母さんに振り向いて貰いたかった彼の子どもの頃の話を聞いたのだ。
 それで、彼の孤独な子ども時代を思うと哀しくて泣けてきたのだった。
 私はあの時、泣きながら続けた。
―なのに、ユンはそんなに優しい眼をしてる。淋しかったはずなのに、いつも誰にでも優しい。私、ユンの夢を応援するから。あなたがさっき話してくれた―誰もが幸せに暮らせる身分差のない国を作るっていう夢を応援する。ずっと、あなたの側にいて、私にできることがあれば手伝わせて。
―明姫。
 あの男が泣いている私を抱き寄せた。
―私は今、幸せだよ。こうして、生涯にただ一人の想い人にめぐり逢えた。そなたはいつもただ私の側にいて、笑っていてくれれば良い。
******


 ファヨンはきつく唇を噛みしめ、両手で顔を覆った。耳鳴りが遠のくにつれて、瞼の奥の光景も薄れて消えていった。
「ファヨン、大丈夫か!?」
 ジュンスが幾度も呼んでいるのも気づかず、ファヨンは緩慢な動作で彼を見上げた。
「あなたと出逢ってから、幻影ばかり見るのよ。つい今もまた私には訳の判らない幻の光景が浮かんできて、そこで私はユンという名前の男の人と話していた」
 ジュンスが身を乗り出した。
「ユン、君はそこまで思い出したんだな。それで、幻の中のそのユンという男はどんな顔をしていた?」
 ファヨンは力なく首を振った。
「判らないわ。幻の中で、ユンと話しているのは自分だっていうのは判るけど、肝心の相手の顔ははっきりと見えないの。周囲の景色は鮮明なのに、ユンの顔だけは朧で」
 ジュンスは明らかに落胆したような表情だ。彼は黙ってまたスマホを見せ、ある部分を指し示した。
 そこには〝直宗 名前は李胤〟と書かれていた。またしても読めないはずなのに、言葉が口を突いて出る。
「イ・ユン。直宗の名前ね。じゃあ、私が幻で話しているのはその直宗という王さまなの?」
 ジュンスは小さな溜息をついた。
「俺は物心つくかつかない頃から、妙な子どもだって言われてきたんだ」
 彼の子ども時代と三百年前に実在した王さまがどう繋がるのだろうと訝しげに彼を見た。が、彼は最早、ファヨンのことなど眼中にないようだ。彼女に語って聞かせるというよりは、何かにせき立てられるかのような口調で語り続けた。
「到底、他人からは信じられない、理解しがたいようなことばかり喋って、周囲を困惑させていた」
 それは今、まさにファヨンがジュンスに対して時折、感じる不安だ。ファヨンは知らず彼の問わず語りに耳を傾けていた。
「俺が三百年前の記憶を語り出したときには、母は泣き出し、父は絶望に青ざめたんだよ。実の両親すら、手を焼いて色々とクリニックに連れていったけど、何度検査しても、俺は知能的にも精神的にも、どこにも異常はないと言われた」
 そんな時、親戚の伯父、母の兄が母にポツリと語ったという。
―世の中には前世記憶を語る子どもがたまにいるというから、ジュンスもそれじゃないのか?
 伯父はソウルの大学で心理学を教えている学者であり教授だった。前世記憶、つまり転生した者が前世の記憶をそっくりそのまま持って生まれ変わったという説だ。
 俄には信じがたい話ではあったけれど、その説を信じれば、ジュンスの特異性も理解はできる。もっとも、両親はそのときはまだ、伯父の話を百パーセント本気にしたわけではなかった。
 成長するにつれて、ジュンスは黙っている方が無難にやり過ごせることを憶えた。たとえ彼には当然のことであったとしても、彼以外の人間―両親さえもが―は彼の言葉を単なる気違いの妄想としか受け取らない。
 だから、三百年前の記憶も他人にはけして話さないようにした。そうすれば、少なくとも彼はごく普通の人間として周囲に受け容れられたからだ。
 十二歳の時、彼はソウルではかなり名の知られた占い師のところに両親に連れていかれた。その時、あろうことか、五十ほどの女占い師はいきなりジュンスに向かって恭しく古式にのっとった拝礼を始め、その場にひれ伏し頭を垂れた。



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