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―韓国人の癖に、韓国語もろくに喋れないし、歴史も知らない不届きな人たちだ。
 だが、ジュンスの言うように日本で生まれ育ったファヨンは最早、日本人と変わらないどころか、日本人そのものだ。それを今更非難されても、変えようがない。
「ジュンスさんは日本語が上手なのね」
 お世辞ではない。ジュンスの日本語には訛りは殆どなかった、ほぼ完璧といって良いレベルだ。
「ふふ、君に褒めて貰うと嬉しいな。これでも来日するまでは、全然喋れなかったんだよ。そんなんで日本に語学留学するだなんて宣言したから、両親は猛反対したけど」
 何でもないように笑う。優しそうに見えるが、芯は強い人なのだろう。
「それじゃ、君―」
 ここで少し言い淀み、照れたように笑った。
 名前を呼ぶのも照れるなと、独りごちた。
「ファヨンはチマチョゴリとかは着たことはある?」
「そうね、親戚の結婚式とか、お葬式とかでは着たことはあるけど」
「じゃ、抵抗はあんまりないかな」
 その言葉の意味が判らないままに、いつしか二人は古びた写真館の前に立っていた。見た目は小さなコンクリートの町のどこにでもあるような昔ながらの写真館である。
 〝上杉写真館〟と小さな看板が立っている。
「こんなところに来て、どうするの?」
 物問いたげな視線で見上げると、彼は言った。
「付き合って欲しいところがある」
「何を付き合えば良いの?」
 だが、彼は無言だった。
「やっぱり、私、帰るわ」
 ファヨンは、この男が頭がおかしいかもしれないということを漸く思い出していた。このまま頭のおかしな男の言うなりになる必要はないのだ。だが、ジュンスの懸命な声が彼女を止めた。
「お願いだから。ファヨンを傷つけたりしないと絶対に約束する」
 懇願するような響きに、ファヨンの脚はその場に縫い止められたようになった。
 ジュンスがファヨンを連れて入ったのは、その上杉写真館だった。ここはファヨンも何度かは利用したことがあった。確か祖母が還暦を迎えた時、祖母、両親、ファヨンの家族全員で家族写真を撮影したことがある。
 それとファヨンの七五三のときもここで晴れ着を纏って撮影した。ファヨンが来たのはチョゴリではなく、日本の子ども用の着物だった。
 本当に自分たちはもう日本人と化してしまっている。ファヨン自身は韓国の昔ながらの伝統行事もしきたりも知らない。ましてや、ファヨンの父親は日本人なのだ。この身体には日本人の血も流れている。
 ここの写真館を経営しているのは子どものいない老夫婦である。老夫婦といっても、共にまだ六十代前半くらいだ。在日が多いこの界隈では珍しく日本人である。
「おじさん、こんにちは」
 入り口の自動ドアを開けると、すぐそこが控え室兼スタジオになっている。ジュンスは気軽に声をかけると、すぐに奥から目がねをかけたオーナーが出てきた。
「おお、ジュンスか」
 オーナーの方も顔を綻ばせている。ジュンスが言った。
「仕事や学校に必要な証明写真を撮るときには、いつもここでお世話になるから」
 顔見知りということなのだろう。
「今日はどうしたね?」
 オーナーにジュンスは耳打ちをした。自分には聞かせられない話なのだろうか。またもやファヨンはよく知りもしない男の口車に乗って、のこのこと付いてきた自分を馬鹿だと思った。今からでも遅くないと踵を返そうとした時、更に奥からオーナーの奥さんまで現れた。


 奥さんもオーナーと同様、雰囲気のやわからなシルバーグレーの髪が上品な老婦人である。その奥さんに
「さ、どうぞ」
 と、背中を押され、ファヨンは戸惑った。
「奥の衣装部屋へご案内しますよ」
 何故、ここで衣装部屋なのかと疑問を呈する暇さえない。奥の衣装室には、ゆうに十数着はあるだろうチマチョゴリが掛けてあった。
「うちは在日の方も多く利用して下さるので、チマチョゴリも常備してるんですよ」
 祖母の還暦のときは確か、ここのチマチョゴリをレンタルした記憶があるので、それは知っている。眼にも鮮やかな色とりどりのチマチョゴリを眺め、ファヨンは溜息をついた。
 成長してからチマチョゴリを纏ったことはない。こんな美しい衣装を着てみたいという純粋な娘心はあった。
「さ、どれでも好きなものを選んで」
 言われるままに若草色の上衣と牡丹色のチマの組み合わせを選んだ。開いた花のようにふんわりとひろがる牡丹色のチマには裾に金糸銀糸で細やかな刺繍が施されている。よく見ると、花に戯れかける蝶の柄だった。
 今度は着替え室に移動し、大きな鏡のある仕切りの中で着替えた。ここは基本、メークや着付けは自前だ。頼めば外から美容師が来てくれるが、別料金になる。なので、ファヨンは今回は自分でチマチョゴリを着た。
 幾ら韓国の伝統や風習に疎くても、チマチョゴリくらいは自分で着付けられる。奥さんの薦めで、長い髪は一つに結わえて後ろでくくった。
「まあ、チョゴリがよく似合う。綺麗だわ」
 奥さんのお世辞を笑顔で聞き流し、ファヨンが撮影スタジオの方に戻ると、既にジュンスがオーナーと待っていた。愕いたことに、彼自身もパジを着ている。それも現代風に改良された簡易なパジではなく、昔ながらの伝統衣装である。
 ご丁寧に帽子まで被っているので、まるで時代劇から抜け出してきたイケメン俳優のようだ。その時、また一つの光景が瞼に浮かび上がった。

 


******
―頼みがある。
 あの男は躊躇いがちに言った。
―なあに? 私でできることなら。
 私は彼に微笑んで応えた。
―膝枕を頼めるだろうか。
 少しだけ恥ずかしげに言った彼。
――。
 私は咄嗟に言葉を失ってしまった。
 見かけは真面目そうなのに、やはり、とんでもない女タラシなのかもしれない。よく知りもしない女にいきなり膝枕を頼むだなんて。こういうのは普通は親密な関係にある―俗にいう深間にある恋人たちが行うものではないか。
 私の心が伝わったのか、彼が酷く残念そうに言った。
―やはり、駄目だよな。済まない。埒もないことを口にした。
 そのときのあの男の表情があまりに淋しげで、私は自分でも愕くべき言葉を返していた。
―ほんのしばらくなら、良いわ。
―本当か?
 彼は本当に嬉しそう見えた。
 私が横座りになると、彼はそっと頭を膝に乗せてくる。
―重くないか?
―大丈夫よ、心配しないで。頭だけなんだから。
 私を気遣ってくれる彼に、私は明るく言った。
―膝枕なんてして貰ったのは生まれて初めてだ。
 そのときのあの男の心底嬉しそうな声と表情ったら! 最初に膝枕を頼まれたときは断らなかったことを後悔したけれど、やはり、してあげて良かったと思った。
 あの時、私は彼に頼まれて戸惑いながらも、彼に膝を貸して膝枕をしてあげた―。
******


 軽い目眩が襲う。また、あの不快な耳鳴りがしそうで、ファヨンはきつく眼を瞑った。
「ファヨン?」
 その声で、ファヨンは現に引き戻された。眼を開けると、パジを纏ったジュンスが心配そうにこちらを見ている。
「大丈夫」
 ファヨンは彼を安心させるように微笑みかけた。これから何をするのかと思っていると、オーナーに呼ばれた二人は何とスタジオに仲良く並んで写真撮影をすることになった。
 ポーズを変えて何カットずつか撮影して写真館を出た。写真は後日渡して貰うことになったが、ジュンスはオーナーに無理を言ってい一枚だけ携帯に画像を送って貰っていた。

 写真館を出た後、二人は少し歩いて並木通りと呼ばれている大通り沿いのカフェに入った。その通りは文字通り、桜並木に囲まれている道路が長く伸びている。
 五月の今は眼にも鮮やかなエメラルドグリーンの葉桜だ。中には花水木も植わっていて、そちらはまだ薄紅色や白の花を咲かせている。
 ジュンスは室内ではなく、外に幾つか置いてある丸テーブルと椅子の方に座った。店のすぐ側はオープンカフェになっている。オシャレな丸テーブルと椅子がそれぞれセットになっていた。
 二人がけなので、必然的に向かい合って座ることになる。
 ジュンスは注文を取りにきた若い女の子にコーヒーを頼んだ。ファヨンはメニューを見て、ミックスジュースを頼んだ。
「ケーキとかは欲しくない? 良かったら、頼むけど」
 ジュンスが言ってくれたけれど、ファヨンは首を振った。ケーキはあまり好きではない。
 と、メニューにあるものを見つけた。
「あ」
 声を上げた彼女をジュンスとウエイトレスが一斉に見る。ファヨンは恥ずかしくなり、小さな声で言った。
「揚げパンがあるのね?」
 オシャレなパリのオープンカフェを彷彿とさせる店に揚げパンとはちょっと想像がつかないが、ケーキ類と一緒にメニューに載っているところを見れば、スイーツと認識されているのだろう。
 結局、ファヨンは揚げパンを三個注文した。運ばれてきた揚げパンをファヨンはさも美味しそうに頬張る。別にジュンスと付き合いたいとか、彼に良く思われたいとかの下心もないので、彼の視線も頓着しない。
 ジュンスは何故か嬉しげに揚げパンを次々と平らげるファヨンを眺めている。
「君はやっぱり、いつの時代でも揚げパンが好きなんだ?」
「え?」
 ファヨンは彼の言葉の意味を理解できず、茫然と彼を眺めた。その様子に、ジュンスは微笑んで首を振る。
「いや、またこんな風にさも美味しそうに揚げパンを食べる君を見られて、幸せだなと思って」
 これもよく判らないので、ファヨンはもう気にせずに揚げパンを食べた。
 ジュンスはといえば、頼んだアメリカンをブラックでゆっくりと飲んでいる。純白のカップには縁にぐるりと金で繊細な蔦模様が描かれていた。
 少しうつむき加減なので、長い睫が影を落としている。秀でた額から整った鼻梁と、本当に造作が美しい男だ。
―なんて綺麗な男。
 つい惚けたように見とれていて、彼と眼が合った。不躾に見つめていたことを彼にずっと知られていたかのように思え、ファヨンは慌てて視線を逸らした。またしても頬が燃えるようだ。


 そんなファヨンをジュンスは幸せそうな表情で見つめていた。しかも、この上なく優しげな瞳で。
「物凄く綺麗だった、ファヨンのチマチョゴリ姿」
 ジュンスは感に堪えたように言い、付け加えた。
「写真ができたら、また君にもあげるよ」
 要らないとは何故か言えず、ファヨンはずっと気になっていたことを口にした。
「何で、こんなことをしたの?」
「こんなこと?」
 物問いたげな彼に、ファヨンはひと息に言った。
「あんな格好をして写真を撮ったりなんか―」 彼はジーンズのポケットからスマホを取り出した。何やら操作しているかと思いきや、いきなりそれをファヨンの前に指し示した。
「これを見て」
 やはり、彼の行動は謎だらけだ。ファヨンは言われるままに、スマホの画面を覗いた。
 〝直宗 朝鮮王朝第○○代国王 一七○○~一七○○〟、画面の冒頭に記載されている。
「直宗?」
 朝鮮王朝時代中期の国王であろうことはファヨンにも理解できるが、何故、このことと写真撮影が結びつくのか?
「直宗は朝鮮王朝中期に生きた王だ。即位したのは十五歳だった。息子である世子(セジヤ)が二十歳になるまで、実に四十三年にも渡って在位したんだ。よくドラマにもなってる時代だよ」
 後世に生きる人たちは勝手に歴史を自分たちの都合の良いように解釈して、事実無根のドラマを作る。彼は何度も転生し、かつての自分をまったく別の人間が演ずるのを見てきたが、どれも事実とはかけ離れていた。
 現実には慎み深かった最初の妻である王妃がドラマでは嫉妬深く、王の寵愛する側室を事あるごとにいびり、心優しい彼の想い人和嬪(明姫)は王を色香で誑かす稀代の妖婦になっている。
 本当の王妃も明姫も違う、そんな女ではないと幾度思ったことだろう。だが、失われた歴史の向こうにいる自分たちは最早、何の発言権もなく、今、この世に生きている者たちが作る物語こそが〝歴史〟になるのだ。そして、やがて、何度も転生を繰り返し、幾度もドラマの中のかつての自分〝直宗〟を見る度に悟った。
 〝歴史〟はそういう風に塗り替えられ、作り替えられてゆくものだと。
「そんな王さまがいたのね。私は先ほども言ったけど、三世といっても、名前だけの韓国人なの。朝鮮王朝時代の歴史も何も判らない。中身は日本人だわ」
 ファヨンは言いながら、なおもスマホの画面を眼で追った。そこには朝鮮王朝中興の祖と讃えられ、後世に至るまで民に慕われた聖君としての直宗の生涯が簡潔に示されている。
 その中で、ふと一文が眼についた。
―直宗が生涯に渡って熱愛した和嬪蘇氏は、惜しくも二十一歳で亡くなった。亡くなった当時、和嬪は王の第二子を懐妊していた。死因は難産のためと記録には残っているが、最近になって毒殺説も出ている。
 更に眼で追っていくと、
―直宗後宮 王妃 仁順王后・仁元王后 側室 和嬪蘇氏 温嬪曺氏 賢嬪尹氏 ○○ 
 と、その後にもずらりと側室の名が並んでいる。
「たくさんの奥さんがいたのね」
 呆れたように言うと、ジュンスが眉をつり上げた。
「何だ、その言い方だと王さまがまるで好色漢だったようじゃないか!」
「違うの? 奥さんが二人、それから側室が何て読むのかしら、これは」
 読み方が判らず困惑しているはずなのに、いきなり口からぽろりと言葉が転がり落ちた。
「和嬪蘇氏(ファビンそし)」
 ジュンスがハッとしたようにファヨンを見た。
「ファヨン、君は何かを思い出して―」
 と、またキーンと耳障りな音が耳奥で鳴り響いた。
 瞼に向こうに懐かしい光景が現れた。 

 



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