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 うっとりと語る美絵の言葉をファヨンは最後までは聞いてはいなかった。美絵の話があまりにも衝撃的だったからだ。
「だからね。ふと転生なんてあり得ない話を思い出したわけ。それとも、彼があなたに一目惚れしたから、適当な話をでっちあげたのかしら。その方が現実的ではあるけど、本当に彼はそんな人じゃないんだけどねえ」
 イケメンコンテストで入賞してからというもの、彼には公式ファンクラブができたという。この店の常連でジュンスのファンクラブにも入っているという美絵は、彼の人となりをよく知っているようである。
 それでも、ファヨンはまだ過去世だとか転生だとか、小説かドラマの中でしか起こりえない出来事を自分の身に当てはめてみる気にはなれなかった。
 むろん、この世の中には、どれほど文明科学が進もうと、それだけでは解き明かせない超常現象は存在する。それを否定するつもりはないが、かといって、超常現象が再々起こるものでもないことも知っている。
 ましてや、その滅多に起こりえない出来事が自分に降りかかるなんて、到底受け容れがたいことだ。
 ややあって、二人の注文した飲み物が運ばれてきた。それを運んだのはジュンスではなく、別の若いウエイターだった。小柄ではあるが、これはこれで可愛らしい雰囲気の女性の保護本能をかきたてるようなタイプだ。
 やはり韓流イケメンカフェとして名が通っているだけに、それなりのイケメンを揃えているのだろう。
「可愛い」
 思わず歓声を上げたファヨンを見て、美絵がにっこりとした。
「なかなかでしょ、味の方もいけるわよ」
 二人の前に置かれたのは、エスプレッソだが、そんじょそこらのものとは違う。可愛らしいマグカップに満々と注がれたエスプレッソの表面にはそれぞれ、クマとウサギの可愛らしい絵がミルクで描き出されていた。
「これも全部あのイケメンさんたちがやるの?」
 思わず訊ねると、美絵は我が事のように誇らしげに言った。
「そうよ、ここは簡単な料理も出してくれるけど、それも全部、彼らが作るのよ。たいしたもんでしょ」
 しばらく二人して表面の愛らしいイラストを眺めた後、ゆっくりとエスプレッソを飲んだ。あまりに可愛らしいので、このままにしておきたいような気もした。コーヒーの方もコクがあって良い味だ。
 飲み終わってしばらくまた美絵の例の彼氏自慢を聞いてから、席を立った。店内はさほど広くはなく、テーブル席が数個ほどあるだけだ。入り口にレジがあり、美絵が二人分を代表で支払った。
 レジのところにいたのはジュンスだった。
「君、ちょっと待っててくれないかな」
 いきなり声をかけられ、ファヨンは愕いて彼を見返す。
「何で私が―」
 あなたを待たなければならないのか? と言いかけたその時、脇から美絵が割って入った。
「じゃ、私はこれで失礼するわ。ジュンス君、この子、私の親友でファヨンっていうの。よろしくね」
 と、何故か自分で名乗るより先に美絵がファヨンの紹介をしてしまった。
「ちょっ、美絵、困るわ」
 言いかけても、美絵はウインクして〝頑張ってね〟と囁き出ていってしまった。
「あの、こういうのは困ります」
 ファヨンが言うと、ジュンスは早口で言った。
「もう今日は上がりだから、ほんの少し待ってて」


 そう言われて帰るわけにもゆかず、ファヨンは結局、彼を待つことになった。
「ごめん、待たせたね」
 五分後、彼は息を切らして店の前に現れた。五月半ばのこととて、ファヨンは半袖のアイボリーのコットンワンピースを着ていた。髪はいつものようにカチューシャだけ。彼の方はウエイターのお仕着せから、赤と蒼のチェックのシャツとジーパンに着替えている。ラフな服装でも、イケメンは決まる。ファヨンなんて、どれだけ精一杯めかしこんでも、たかが知れている。世の中、美男美女は特だ。
「そういう現代的な格好も良いね」
 と、少し意味不明なことを彼は笑顔で言い、二人は何となく並んで歩き出した。
「さっきのオリジナルカフェはどうだった?」
 いきなり話題をふられ、ファヨンは彼を見つめた。ジュンスはさっと赤面し、わざとらしく咳払いをした。
「どうも久しぶりなんで、君に見つめられるのにも照れくさくて仕方ない。あのエスプレッソは俺が作ったんだ。でも、君が俺を嫌っているのは知ってるから、仲閒に頼んで運んで貰った」
 ファヨンは言葉に窮した。
「別にあなたを嫌っているわけではないわ。でも、あなた―ジュンスさんが変なことばかり言うものだから、つい」
「君にとって、今の俺は君を苦しめるだけの存在なんだ」
 辛そうに言われると、迷惑を蒙っているはずの自分が何故か申し訳ないような気になってしまう。
「あ、でも、エスプレッソは素晴らしかったわ。表面のイラストも可愛かったし、味も美味しかった」
「そう?」
 まるで、やっと親に褒めて貰えた子どものように彼の顔がパッと輝いた。その屈託ない笑顔にまた胸が高鳴るものの、ファヨンは無理にその気持ちを抑え込んだ。
―これはきっと彼が韓流俳優ばりのイケメンだから、胸がドキドキするんだわ。
 と。
 「ところで」と、彼が切り出した。
「君はファヨンっていうの? ファヨンという名前は日本人には珍しいね」
 ファヨンは彼の方は見ないで応えた。
「私は在日なの。三世よ。祖母の代に韓国から日本に来て、私の両親は今も韓国料理店をやってるわ。だから、ファヨンというのは韓国名、日本名だって、ちゃんとあるけど、私がファヨンという名前の方が好きだから」
「そうだったんだ」
 ジュンスは愕きも露わな表情で頷いた。
「それで納得がいったよ。俺は産まれも育ちも韓国、生粋の韓国人なんだ」
 ファヨンは笑った。
「あなたのことは美絵から聞いたわ。お店の公式ホームページに乗ってる情報だって」
「そうなんだ。でも、全部本当だよ」
 これには興味があったので、訊いてみる。
「何でも朝鮮王朝時代の王室の末裔だとか」
 ジュンスは少しおどけた様子で肩を竦めた。
「まあ、それも本当だけど、一体、何代前まで遡れば良いのかは知らないくらい昔の話だよ。それをいえば、今の韓国に王はいないけど、わずかに王室の血を引く人たちはそれなりにいるからね。俺もそういうその他大勢の一人にすぎない。その程度だよ」
「そうなの、それでも凄いことよね。私は在日なのに、韓国の歴史も王室にも疎いのよ。何も知らない」
「それは仕方ないだろ。生まれも育ちも君は日本なんだから」
 何故かジュンスに言われると、本当にそれが些細なことに思えてくる。よく生粋の韓国の人からは言われるのだ。


―韓国人の癖に、韓国語もろくに喋れないし、歴史も知らない不届きな人たちだ。
 だが、ジュンスの言うように日本で生まれ育ったファヨンは最早、日本人と変わらないどころか、日本人そのものだ。それを今更非難されても、変えようがない。
「ジュンスさんは日本語が上手なのね」
 お世辞ではない。ジュンスの日本語には訛りは殆どなかった、ほぼ完璧といって良いレベルだ。
「ふふ、君に褒めて貰うと嬉しいな。これでも来日するまでは、全然喋れなかったんだよ。そんなんで日本に語学留学するだなんて宣言したから、両親は猛反対したけど」
 何でもないように笑う。優しそうに見えるが、芯は強い人なのだろう。
「それじゃ、君―」
 ここで少し言い淀み、照れたように笑った。
 名前を呼ぶのも照れるなと、独りごちた。
「ファヨンはチマチョゴリとかは着たことはある?」
「そうね、親戚の結婚式とか、お葬式とかでは着たことはあるけど」
「じゃ、抵抗はあんまりないかな」
 その言葉の意味が判らないままに、いつしか二人は古びた写真館の前に立っていた。見た目は小さなコンクリートの町のどこにでもあるような昔ながらの写真館である。
 〝上杉写真館〟と小さな看板が立っている。
「こんなところに来て、どうするの?」
 物問いたげな視線で見上げると、彼は言った。
「付き合って欲しいところがある」
「何を付き合えば良いの?」
 だが、彼は無言だった。
「やっぱり、私、帰るわ」
 ファヨンは、この男が頭がおかしいかもしれないということを漸く思い出していた。このまま頭のおかしな男の言うなりになる必要はないのだ。だが、ジュンスの懸命な声が彼女を止めた。
「お願いだから。ファヨンを傷つけたりしないと絶対に約束する」
 懇願するような響きに、ファヨンの脚はその場に縫い止められたようになった。
 ジュンスがファヨンを連れて入ったのは、その上杉写真館だった。ここはファヨンも何度かは利用したことがあった。確か祖母が還暦を迎えた時、祖母、両親、ファヨンの家族全員で家族写真を撮影したことがある。
 それとファヨンの七五三のときもここで晴れ着を纏って撮影した。ファヨンが来たのはチョゴリではなく、日本の子ども用の着物だった。
 本当に自分たちはもう日本人と化してしまっている。ファヨン自身は韓国の昔ながらの伝統行事もしきたりも知らない。ましてや、ファヨンの父親は日本人なのだ。この身体には日本人の血も流れている。
 ここの写真館を経営しているのは子どものいない老夫婦である。老夫婦といっても、共にまだ六十代前半くらいだ。在日が多いこの界隈では珍しく日本人である。
「おじさん、こんにちは」
 入り口の自動ドアを開けると、すぐそこが控え室兼スタジオになっている。ジュンスは気軽に声をかけると、すぐに奥から目がねをかけたオーナーが出てきた。
「おお、ジュンスか」
 オーナーの方も顔を綻ばせている。ジュンスが言った。
「仕事や学校に必要な証明写真を撮るときには、いつもここでお世話になるから」
 顔見知りということなのだろう。
「今日はどうしたね?」
 オーナーにジュンスは耳打ちをした。自分には聞かせられない話なのだろうか。またもやファヨンはよく知りもしない男の口車に乗って、のこのこと付いてきた自分を馬鹿だと思った。今からでも遅くないと踵を返そうとした時、更に奥からオーナーの奥さんまで現れた。


 奥さんもオーナーと同様、雰囲気のやわからなシルバーグレーの髪が上品な老婦人である。その奥さんに
「さ、どうぞ」
 と、背中を押され、ファヨンは戸惑った。
「奥の衣装部屋へご案内しますよ」
 何故、ここで衣装部屋なのかと疑問を呈する暇さえない。奥の衣装室には、ゆうに十数着はあるだろうチマチョゴリが掛けてあった。
「うちは在日の方も多く利用して下さるので、チマチョゴリも常備してるんですよ」
 祖母の還暦のときは確か、ここのチマチョゴリをレンタルした記憶があるので、それは知っている。眼にも鮮やかな色とりどりのチマチョゴリを眺め、ファヨンは溜息をついた。
 成長してからチマチョゴリを纏ったことはない。こんな美しい衣装を着てみたいという純粋な娘心はあった。
「さ、どれでも好きなものを選んで」
 言われるままに若草色の上衣と牡丹色のチマの組み合わせを選んだ。開いた花のようにふんわりとひろがる牡丹色のチマには裾に金糸銀糸で細やかな刺繍が施されている。よく見ると、花に戯れかける蝶の柄だった。
 今度は着替え室に移動し、大きな鏡のある仕切りの中で着替えた。ここは基本、メークや着付けは自前だ。頼めば外から美容師が来てくれるが、別料金になる。なので、ファヨンは今回は自分でチマチョゴリを着た。
 幾ら韓国の伝統や風習に疎くても、チマチョゴリくらいは自分で着付けられる。奥さんの薦めで、長い髪は一つに結わえて後ろでくくった。
「まあ、チョゴリがよく似合う。綺麗だわ」
 奥さんのお世辞を笑顔で聞き流し、ファヨンが撮影スタジオの方に戻ると、既にジュンスがオーナーと待っていた。愕いたことに、彼自身もパジを着ている。それも現代風に改良された簡易なパジではなく、昔ながらの伝統衣装である。
 ご丁寧に帽子まで被っているので、まるで時代劇から抜け出してきたイケメン俳優のようだ。その時、また一つの光景が瞼に浮かび上がった。

 


******
―頼みがある。
 あの男は躊躇いがちに言った。
―なあに? 私でできることなら。
 私は彼に微笑んで応えた。
―膝枕を頼めるだろうか。
 少しだけ恥ずかしげに言った彼。
――。
 私は咄嗟に言葉を失ってしまった。
 見かけは真面目そうなのに、やはり、とんでもない女タラシなのかもしれない。よく知りもしない女にいきなり膝枕を頼むだなんて。こういうのは普通は親密な関係にある―俗にいう深間にある恋人たちが行うものではないか。
 私の心が伝わったのか、彼が酷く残念そうに言った。
―やはり、駄目だよな。済まない。埒もないことを口にした。
 そのときのあの男の表情があまりに淋しげで、私は自分でも愕くべき言葉を返していた。
―ほんのしばらくなら、良いわ。
―本当か?
 彼は本当に嬉しそう見えた。
 私が横座りになると、彼はそっと頭を膝に乗せてくる。
―重くないか?
―大丈夫よ、心配しないで。頭だけなんだから。
 私を気遣ってくれる彼に、私は明るく言った。
―膝枕なんてして貰ったのは生まれて初めてだ。
 そのときのあの男の心底嬉しそうな声と表情ったら! 最初に膝枕を頼まれたときは断らなかったことを後悔したけれど、やはり、してあげて良かったと思った。
 あの時、私は彼に頼まれて戸惑いながらも、彼に膝を貸して膝枕をしてあげた―。
******



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