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 そう、覚悟はしていたはずだった。彼女がすべての記憶を、二人が辿った日々の記憶を失っていることも。
 こうして途方もない時を経て再びめぐり逢えただけでも、奇跡的なことなのだから。けれど、それは哀しすぎる。互いに夜通し、苦しいほどに幾度も求め合ったあの夜を、共に過ごした日々の幸せな記憶を彼女がすべて忘れ去っていることが、現実にはこんなにも辛くやるせないことだとは。
 やっと君を見つけられたのに、君は俺のことをまるで犯罪者かストーカーでも見るような怯えた眼で見るんだね。何度生まれ変わっても、君は俺を探し出して愛してくれると言った。俺も君のその言葉を信じて、ずっと待ち続けたんだ。過去の記憶をすべて持ちながら、まったく別人として新しい人生を生きるのはやり切れなかった。
 けれど、今の世に生まれ変わった意味を考えて、今後こそ君にめぐり逢えるのではないかと期待していても、いつも無駄に終わった。君は俺が何度も生まれ変わって何通りの人生を送っても、眼の前には現れなかった。
 不思議なことに、俺は何度生まれ変わっても、いちばん最初の人生しか憶えていないんだ。三百年もの間、転生を続けて何度となく様々な人生を生きたけれど、その間のことは生まれ変わる度に綺麗になくなっている。なのに、君と過ごした最初の人生の記憶だけは残っているんだ。
 教えてくれ、俺は何のために気の遠くなるようなこの時間、幾つもの時代、転生を繰り返したんだ? 俺はずっと君を待っていたのに、君は一度として姿を現さず、空しく三百年が経った。俺たちが共に生きた祖国から遠く離れたこの異国に君は現れた。
 なのに、三百年ぶりに再会した君は俺を欠片ほども憶えていない。君の最後に残した言葉はすべて偽りだったというのかい?
 俺だけが何度生まれ変わっても、君に恋をする―そういう結末だったのか? 俺たちの恋は片想いで終わると?
 最初の人生で君が居なくなった後のことを嫌が上にも思い出さずにはいられない。君がいなくなって、俺は五十年余りもの時間を無為に費やしたんだよ。
 辛くて、やり切れなくて、いっそのこと君のいる天に自分も行けたならと大の男がみっともなくも毎夜、月を見ては泣いた。けれど、自分が果たすべき役割を果たすまでは死ねないと、恐らくは君も俺が王としての務めを果たすことを望むだろうと生命が尽きるまでは生きなければならないと自分に言い聞かせた。
 それでも、俺は俺たちを引き合わせた運命に感謝こそすれ、恨めしく思ったことなどなかった。最後まで君が俺を想っていてくれたと信じられたから。
 でも、三百年の時を隔ててやっとめぐり逢えた君の瞳に、俺は映っていても、その意味はないんだ。今の君はもう俺がよく知っている君じゃない。 
 何度生まれ変わっても、俺を愛してくれるといったあの言葉はもう意味のないものになってしまったのか、明姫―。
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過去世の記憶

 過去世の記憶

 

 それから一週間が流れた。ファヨンは親友の美絵に誘われ、S駅前通りのこじんまりとした喫茶店にいた。ここは流行りの韓流イケメンカフェだという。新大久保や鶴橋のようなコリアタウンには及ばないが、このS駅周辺もそれなりに韓流系の店が集まっている。
 というのも、この辺りは在日韓国人が数多く居住しているからだ。もちろん、ファヨンの両親が営む韓国料理店〝丹心〟もその一角にある。丹心とは韓国語の〝一片丹心(イルピョンダンシム)〟から取った。これは始終、一貫して相手を愛する真心、一途さを意味する。
 ファヨン自身は見たことはないが、美絵が繰り返し見たという韓流ドラマ〝コーヒー・プリンス一号店〟に出てくる舞台のカフェに似せて作った店だという。
 美絵はこの店の常連で、週に一度は来るらしい。つくづく美絵も好きだなと思いつつ、ファヨンはさして周囲に気を払うこともなく、メニューをひろげた。特に韓流ファンというわけでもないファヨンしてみれば、何故、美絵がこうも熱心にこの店について泡を飛ばさんばかりに語るのか理解できない。
 もちろん、幾ら長年の親友とはいえ、そんな失礼なことはしなかったが。人にはそれぞれ好き好きがある。美絵がここの店に来て愉しければ、それで良い。
 かといって、ファヨン自身は今日は初めてで美絵に熱心に口説かれてここに来たけれど、次回からは来るつもりはない。気乗りもしない中にぼんやりとメニューを眺めていると、ふいに頭上から声が降ってきた。
「いらっしゃい。当店のお薦めはオリジナル・カフェドリンクですよ」
 聞き憶えのある声に、ファヨンは弾かれたように顔を上げる。見れば、例の少しばかり頭のネジの緩んだ男が立っていた。ファヨンを明姫と呼び、知り合いだと勝手に決めつけた失礼なヤツだ。
 この一週間、この男のことを忘れようとしても、何故か忘れようとすればするほど、ますます鮮烈に面影が甦り、どっかりと心に住み着いてしまった感がある。忌々しいことだ。
 彼はにこやかに立っていて、先日の気まずい別れ方などなかったかのようだ。今日は私服姿ではなく、白いシャツに黒いズボンである。他の数人の店員も皆、同じ格好をしているから、大方は制服なのだろう。
 このウエイターぶりがまた憎らしいことに、サマになっている。それこそ、本当に韓流ドラマに出てくる俳優といっても通りそうだ。 
「―」
 ファヨンは熱くなる頬を意識しながら、彼を完全に無視した。彼はそんなファヨンに気を悪くする風もなく、水の入ったグラスを二つ、ガラステーブルに置いて離れていった。
 すかさず、美絵が勢い込んだ。
「なにー、俊秀(ジユンス)君を知ってるの!」
「ジュンス?」
 ファヨンは聞き慣れない言葉を初めて聞くように眼をまたたかせた。美絵が幾度も頷く。
「そうよ、イ・ジュンス君。この店の看板なのよ、彼」
 そこで初めて〝彼〟の名前だと気づく。ファヨンはこれは良い機会だと身を乗り出した。頭のおかしい男について詳しく知りたいと思うわけではなく、これはあくまでも自分につきまとおうとする変な男について少しは知っておいた方が良いだろうと自分に言い訳しながら。


「ジュンスっていうの、あの男」
 美絵はファヨンをまじまじと見た。
「ファヨンはもしかして、彼と知り合いなの?」
「知り合いなんかじゃないわ。あの男、少しここがおかしいのよ」
 と、ファヨンは一週間前の講義中の出逢いから、その翌日にぶつかったことまですべてを話した。だが、美絵にも彼と二度目に逢ったときに感じた既視感のことは話さなかった。そんなことを話したら、自分まで頭がおかしいと言っているようなものだ。
 が、美絵は難しい顔で考え込んでいる。
「ねえ、ファヨンは輪廻転生って信じる?」
「輪廻転生?」
 いきなりな話題に、ファヨンは戸惑いを隠せない。美絵は大真面目に頷いて見せた。
「仏教の考え方なんだけどね、人は何度でも生まれ変わることができるというのよ」
「肉体が滅んでも、心は残るっていう話?」
 美絵は曖昧に頷いた。
「まあ、それに近いけど、違うともいえるわね。転生というのは同じ人が何度も生まれ変わるってこと。人の生き死には絶えることなく続いていて輪のようだってことから、そう呼ぶのよ。その考え方でいけば、ある人はずっと生き死にを繰り返していることになる」
「何か都市伝説みたいな話になってきたわね」
 美絵は口を尖らせた。
「茶化さないで、私は真剣に話してるのよ」
「ごめん」
 ファヨンは肩を竦めて謝った。
「大抵の人は何度転生を繰り返したとしても、過去の記憶を持って転生はしないのよ。前の人生の記憶はすべて忘れて生まれてくるの」
「そうじゃないと、気が狂っちゃうでしょ。自分がかつて経験した人生であっても、生まれ変われば別人よ。その別人の記憶をすべて憶えていたら、身が保たないよ」
「それがね。稀に過去世の記憶をまるごと持ったまま転生する人がいるんですって」
 短い沈黙が流れた。カランと温んだグラスの水の中で氷が溶けて音を立てる。その音がやけにしじまに響き、ファヨンは思わずピクリと身を震わせた。
「美絵、何が言いたいの?」
 親友を見つめると、美絵は溜息をついた。
「まあ、あくまでも仮にだけど、ジュンス君がそういう記憶を持っていたとしたら、彼があなたに言った言葉だって別におかしくはないでしょう」
「やだ、何かオカルトみたい。じゃあ、美絵は私も彼も転生してまた現代に生まれ変わってきたというの? 彼と私は過去世で知り合いだったから、彼がそんなことを言うとでも?」
 美絵が笑った。
「まあ、滅多にある話じゃないことは確かだけどね。けど、そういう風に考えれば、彼の話はつじしまが合うわ。ファヨン、私がこんなあり得ないことを考えたのも、ジュンス君が眼に付く女の子にやたらと声をかけるような軽薄な男じゃないからよ。彼は立派よ。五年前に韓国からたった一人で日本に留学してきて、こうやって働きながら大学に通ってるのよ」
「彼は何歳なの?」
「お店のホームページのスタッフ紹介では二十三歳になってるわ。十八歳で韓国の高校を卒業してから日本に来たの。二十歳までは働いて学資を貯めて、それから日本語学校に三年間通って今年、H大に入学したの。何でも実家は韓国でも有名な資産家で、元を正せば朝鮮王朝の王室の末裔の血を引くとか。御曹司なのに、日本に来てから実家の援助は一切受けてないって聞いたわよ。新大久保で催されたのかしら、三年前には韓流イケメンコンテストにも出て入賞したのよ」


 うっとりと語る美絵の言葉をファヨンは最後までは聞いてはいなかった。美絵の話があまりにも衝撃的だったからだ。
「だからね。ふと転生なんてあり得ない話を思い出したわけ。それとも、彼があなたに一目惚れしたから、適当な話をでっちあげたのかしら。その方が現実的ではあるけど、本当に彼はそんな人じゃないんだけどねえ」
 イケメンコンテストで入賞してからというもの、彼には公式ファンクラブができたという。この店の常連でジュンスのファンクラブにも入っているという美絵は、彼の人となりをよく知っているようである。
 それでも、ファヨンはまだ過去世だとか転生だとか、小説かドラマの中でしか起こりえない出来事を自分の身に当てはめてみる気にはなれなかった。
 むろん、この世の中には、どれほど文明科学が進もうと、それだけでは解き明かせない超常現象は存在する。それを否定するつもりはないが、かといって、超常現象が再々起こるものでもないことも知っている。
 ましてや、その滅多に起こりえない出来事が自分に降りかかるなんて、到底受け容れがたいことだ。
 ややあって、二人の注文した飲み物が運ばれてきた。それを運んだのはジュンスではなく、別の若いウエイターだった。小柄ではあるが、これはこれで可愛らしい雰囲気の女性の保護本能をかきたてるようなタイプだ。
 やはり韓流イケメンカフェとして名が通っているだけに、それなりのイケメンを揃えているのだろう。
「可愛い」
 思わず歓声を上げたファヨンを見て、美絵がにっこりとした。
「なかなかでしょ、味の方もいけるわよ」
 二人の前に置かれたのは、エスプレッソだが、そんじょそこらのものとは違う。可愛らしいマグカップに満々と注がれたエスプレッソの表面にはそれぞれ、クマとウサギの可愛らしい絵がミルクで描き出されていた。
「これも全部あのイケメンさんたちがやるの?」
 思わず訊ねると、美絵は我が事のように誇らしげに言った。
「そうよ、ここは簡単な料理も出してくれるけど、それも全部、彼らが作るのよ。たいしたもんでしょ」
 しばらく二人して表面の愛らしいイラストを眺めた後、ゆっくりとエスプレッソを飲んだ。あまりに可愛らしいので、このままにしておきたいような気もした。コーヒーの方もコクがあって良い味だ。
 飲み終わってしばらくまた美絵の例の彼氏自慢を聞いてから、席を立った。店内はさほど広くはなく、テーブル席が数個ほどあるだけだ。入り口にレジがあり、美絵が二人分を代表で支払った。
 レジのところにいたのはジュンスだった。
「君、ちょっと待っててくれないかな」
 いきなり声をかけられ、ファヨンは愕いて彼を見返す。
「何で私が―」
 あなたを待たなければならないのか? と言いかけたその時、脇から美絵が割って入った。
「じゃ、私はこれで失礼するわ。ジュンス君、この子、私の親友でファヨンっていうの。よろしくね」
 と、何故か自分で名乗るより先に美絵がファヨンの紹介をしてしまった。
「ちょっ、美絵、困るわ」
 言いかけても、美絵はウインクして〝頑張ってね〟と囁き出ていってしまった。
「あの、こういうのは困ります」
 ファヨンが言うと、ジュンスは早口で言った。
「もう今日は上がりだから、ほんの少し待ってて」


 そう言われて帰るわけにもゆかず、ファヨンは結局、彼を待つことになった。
「ごめん、待たせたね」
 五分後、彼は息を切らして店の前に現れた。五月半ばのこととて、ファヨンは半袖のアイボリーのコットンワンピースを着ていた。髪はいつものようにカチューシャだけ。彼の方はウエイターのお仕着せから、赤と蒼のチェックのシャツとジーパンに着替えている。ラフな服装でも、イケメンは決まる。ファヨンなんて、どれだけ精一杯めかしこんでも、たかが知れている。世の中、美男美女は特だ。
「そういう現代的な格好も良いね」
 と、少し意味不明なことを彼は笑顔で言い、二人は何となく並んで歩き出した。
「さっきのオリジナルカフェはどうだった?」
 いきなり話題をふられ、ファヨンは彼を見つめた。ジュンスはさっと赤面し、わざとらしく咳払いをした。
「どうも久しぶりなんで、君に見つめられるのにも照れくさくて仕方ない。あのエスプレッソは俺が作ったんだ。でも、君が俺を嫌っているのは知ってるから、仲閒に頼んで運んで貰った」
 ファヨンは言葉に窮した。
「別にあなたを嫌っているわけではないわ。でも、あなた―ジュンスさんが変なことばかり言うものだから、つい」
「君にとって、今の俺は君を苦しめるだけの存在なんだ」
 辛そうに言われると、迷惑を蒙っているはずの自分が何故か申し訳ないような気になってしまう。
「あ、でも、エスプレッソは素晴らしかったわ。表面のイラストも可愛かったし、味も美味しかった」
「そう?」
 まるで、やっと親に褒めて貰えた子どものように彼の顔がパッと輝いた。その屈託ない笑顔にまた胸が高鳴るものの、ファヨンは無理にその気持ちを抑え込んだ。
―これはきっと彼が韓流俳優ばりのイケメンだから、胸がドキドキするんだわ。
 と。
 「ところで」と、彼が切り出した。
「君はファヨンっていうの? ファヨンという名前は日本人には珍しいね」
 ファヨンは彼の方は見ないで応えた。
「私は在日なの。三世よ。祖母の代に韓国から日本に来て、私の両親は今も韓国料理店をやってるわ。だから、ファヨンというのは韓国名、日本名だって、ちゃんとあるけど、私がファヨンという名前の方が好きだから」
「そうだったんだ」
 ジュンスは愕きも露わな表情で頷いた。
「それで納得がいったよ。俺は産まれも育ちも韓国、生粋の韓国人なんだ」
 ファヨンは笑った。
「あなたのことは美絵から聞いたわ。お店の公式ホームページに乗ってる情報だって」
「そうなんだ。でも、全部本当だよ」
 これには興味があったので、訊いてみる。
「何でも朝鮮王朝時代の王室の末裔だとか」
 ジュンスは少しおどけた様子で肩を竦めた。
「まあ、それも本当だけど、一体、何代前まで遡れば良いのかは知らないくらい昔の話だよ。それをいえば、今の韓国に王はいないけど、わずかに王室の血を引く人たちはそれなりにいるからね。俺もそういうその他大勢の一人にすぎない。その程度だよ」
「そうなの、それでも凄いことよね。私は在日なのに、韓国の歴史も王室にも疎いのよ。何も知らない」
「それは仕方ないだろ。生まれも育ちも君は日本なんだから」
 何故かジュンスに言われると、本当にそれが些細なことに思えてくる。よく生粋の韓国の人からは言われるのだ。



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