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―桜草?
 問いかけても、今度は返事はなかった。男はただ黙って花を拾い集めては籠に戻す作業を繰り返していた。
 私はきつく唇を噛みしめ、うなだれた。
―ごめんなさい、私ったら、自分のことしか考えられなくて。
 私は急いで自分も桜草を拾い続けたんだわ。そんな私を彼がちらりと見て、また桜草を拾い続けた。
―そなたのお陰で元どおりになった。
 男が破顔した。その瞬間―。
******
 
 ふいにキーンと金属質な音が耳奥で鳴り響き、鈍い痛みが頭を走った。ファヨンは思わず両手で頭を抱え、その場にうずくまった。
「大丈夫か?」
 誰かの声が降ってくる。気遣わしげな声、そう、私はこの声の持ち主を知っている。けれど、どこでいつ彼に出逢ったのかまでは思い出せない。現実には彼と私は昨日出逢ったばかりで、互いにそれまでその存在すら知らなかったというのに。
 こんなことが、世の中にはあるのだろうか。
 しばらくして漸く耳鳴りと頭痛が治まり、ファヨンは恐る恐る顔を上げた。ふと心配そうな彼の黒い瞳を見つめた時、魂までも吸い込まれそうになり、ファヨンは狼狽した。
 胸の鼓動がまた速くなった。彼はずば抜けて背が高い、身長百八十㎝くらい? すんなりとした身体にはほどよく筋肉がついていて、スポーツでもしているのか、均整が取れている。
 顔はどこまでも綺麗に整っていて―。ファヨンが彼に見蕩れていると、
「どうかした?」 
 優しく問われ、ファヨンは首を振った。
「何でもないの」
 昨日が初対面の相手に〝私はあなたにずっと前、逢ったことがありますか?〟なんて訊けば、そのままどん引きされそうだ。
 と、相手は思いもかけぬことを言って、更にファヨンを驚愕させた。
「どこかで俺は君に逢ってない?」
「―」
 ファヨンは息を呑んだ。今、まさに自分が感じていたことを彼もまた、感じていた? しかし、ここで素直に〝はい〟と言えるはずもない。自分がこんなイケメンに興味を持たれるはずもないのは判っているけれど、新手のナンパという可能性も棄てきれない。或いはモテそうではない女の子をからかっているのかもしれない。
 ファヨンは意識を半ば強引に眼前の男から桜草に引き戻した。
「実は、これは篠田先生への結婚祝いだったの」
 男は眼を見開いた。少し眉を寄せて思い出すような表情をする。またファヨンの心臓が撥ねた。イケメンは、どんな表情をしても素敵なのだ。


「ああ、英語の先生だよね。俺も一般教養の方の英語で習ってる。へえ、篠田先生って、結婚するんだ」
 そこで口をつぐむ。
「でも、これじゃ、お祝いにはならないよな。俺が同じ物を弁償するよ。代わりのものを買って済むという話ではないけど、こうなっては解決方法はそれくらいしかなさそうだし」
 ファヨンは淡く微笑った。
「良いのよ、私だって前をよく見ていなかったのだから、あなただけが悪いわけじゃないでしょう。これは私が同じものを買うから」
 気にしないでねと言い、ファヨンは黙って腰をかがめた。落ちていた桜草の残骸を拾い集める。二本の桜草は根本からポキリと折れていたが、花はまだ幾つかはしっかりついている。
「これはもう使えないわよね」
 ファヨンは彼に微笑みかけた。
「まだ花のついているものは持って帰って、水に挿してみたら、どうかしら。もしかしたら、まだ何日かは頑張って咲いてくれるかもしれないし」
 男が愕いたように彼女を見る。
「持って帰って活けるのか、その花を?」
 ファヨンは当然と言わんばかりに頷いた。
「ええ、だって、まだ綺麗に咲いているものもあるのよ。このまま棄ててしまうのは可哀想だわ。茎の折れた部分はきれいに取って、水に挿してあげるの」
「なるほどなぁ」
 男はしきりに頷いた。
「でも、取れてしまった花は、どうしようもないわね」
 ファヨンは、まだ散らばっていた花だけを三つ拾おうとした。次の瞬間、男がスと手を伸ばしてファヨンの長い髪に触れた。彼女は腰まで届くロングヘアに緩くパーマをかけている。今はそのまま降ろして控えめなカチューシャを付けていた。
 男の手が髪に触れたのはあまりにも一瞬のことだったから、ファヨンは声を出す暇もなかった。
「ほら、こうすれば、花も歓ぶ」
 男の声が意外に近くに聞こえ、ファヨンは熱くなった頬を持て余すのに苦労した。そっと今し方、彼が手を伸ばした箇所に触ると、やわらかな花に触れた。彼が落ちた花を拾い、ファヨンの髪に飾ったのだ。
「君は優しい子なんだ」
 彼が呟き、満足げに頷いた。
「可愛いよ、よく似合う」
「あ―」
 花をよく知りもしない女の髪に飾るだなんて、この男はとんでもない女タラシなのかしもれない。けれど、どう見ても深い瞳を湛える黒瞳は、彼がそんな良い加減な女の子を弄ぶような人間ではないことを物語っている。
「―明姫(ミョンヒ)」
 彼がまた何か呟いたが、ファヨンには、そのか細い声で紡がれた言葉が何を意味するのか理解できなかった。女性の名前のようにも聞こえるけれど、韓国人ならともかく、日本人女性に明姫という名前はまずないだろう。


 そう思った瞬間、ツキリと胸の奥に小さな痛みが走る。
―きっと、彼にはもう素敵な彼女がいるんだわ。
 彼ほどの優しくてイケメンなら、彼女がいたとしても不思議ではない。きっと連れて歩いても恥ずかしくないような、彼にふさわしい美人に違いない。私なんて、足許にも寄れないに決まっている。
「明姫」
 すると、彼がまた呟いた。先刻も口にした言葉だ。
―明姫って、何? 誰かの名前なのかしら。
 彼は小首を傾げるファヨンを眼を細めて見返していた。
「君と俺はずっと昔からの知り合いだったんだ。まだ思い出せそうにない?」
 ファヨンは彼から後ずさった。さっきの瞼に浮かんだ光景は依然として気になるところだが、現実として彼と自分は昨日出逢ったばかりなのである。その名前も知らない相手に向かってこんなことを言うのは、頭のおかしなイカレた男か、もしくは、最初に感じたように女の子を引っかける新しい手管としか考えられない。
 男が一歩近づいてくる。ファヨンは無意識の中に後ずさった。
「明姫、何で逃げるんだ? やっと俺たちは逢えたっていうのに。君はもう俺を忘れてしまったのか?」
 やっぱり、このひとは、おかしい。
 自分の名前は崔ファヨンで、明姫なんかじゃない。仮に明姫というのが人の名前だとしても、初対面も同然のファヨンを勝手に別の名前で呼び、しかもずっと前からの知り合いだったというなんて、気が狂っている。
「私は、あなたなんか逢ったこともないし、見たこともありません! きっと勘違いしているか人違いだわ」
 ファヨンは叫ぶなり、追いつめられた兎のように彼の前から走り去った。 
 彼は逃げていくファヨンを茫然と眺めていたかと思うと、力なく視線を動かした。その先にはファヨンが残していった鉢植えの桜草が淋しげに放置されている。
「君も俺をやっぱり気違いだ、狂っているとそんな風に思うのか? 初めて俺たちが出逢った日のように、俺にあの明るく眩しい笑顔を見せてはくれないのか?」
 彼は小さく首を振り、桜草の鉢をそっと壊れ物を扱うかのように抱えた。あたかも、その鉢植えの花が彼の最愛の女性ででもあるかのように。



******
 そう、覚悟はしていたはずだった。彼女がすべての記憶を、二人が辿った日々の記憶を失っていることも。
 こうして途方もない時を経て再びめぐり逢えただけでも、奇跡的なことなのだから。けれど、それは哀しすぎる。互いに夜通し、苦しいほどに幾度も求め合ったあの夜を、共に過ごした日々の幸せな記憶を彼女がすべて忘れ去っていることが、現実にはこんなにも辛くやるせないことだとは。
 やっと君を見つけられたのに、君は俺のことをまるで犯罪者かストーカーでも見るような怯えた眼で見るんだね。何度生まれ変わっても、君は俺を探し出して愛してくれると言った。俺も君のその言葉を信じて、ずっと待ち続けたんだ。過去の記憶をすべて持ちながら、まったく別人として新しい人生を生きるのはやり切れなかった。
 けれど、今の世に生まれ変わった意味を考えて、今後こそ君にめぐり逢えるのではないかと期待していても、いつも無駄に終わった。君は俺が何度も生まれ変わって何通りの人生を送っても、眼の前には現れなかった。
 不思議なことに、俺は何度生まれ変わっても、いちばん最初の人生しか憶えていないんだ。三百年もの間、転生を続けて何度となく様々な人生を生きたけれど、その間のことは生まれ変わる度に綺麗になくなっている。なのに、君と過ごした最初の人生の記憶だけは残っているんだ。
 教えてくれ、俺は何のために気の遠くなるようなこの時間、幾つもの時代、転生を繰り返したんだ? 俺はずっと君を待っていたのに、君は一度として姿を現さず、空しく三百年が経った。俺たちが共に生きた祖国から遠く離れたこの異国に君は現れた。
 なのに、三百年ぶりに再会した君は俺を欠片ほども憶えていない。君の最後に残した言葉はすべて偽りだったというのかい?
 俺だけが何度生まれ変わっても、君に恋をする―そういう結末だったのか? 俺たちの恋は片想いで終わると?
 最初の人生で君が居なくなった後のことを嫌が上にも思い出さずにはいられない。君がいなくなって、俺は五十年余りもの時間を無為に費やしたんだよ。
 辛くて、やり切れなくて、いっそのこと君のいる天に自分も行けたならと大の男がみっともなくも毎夜、月を見ては泣いた。けれど、自分が果たすべき役割を果たすまでは死ねないと、恐らくは君も俺が王としての務めを果たすことを望むだろうと生命が尽きるまでは生きなければならないと自分に言い聞かせた。
 それでも、俺は俺たちを引き合わせた運命に感謝こそすれ、恨めしく思ったことなどなかった。最後まで君が俺を想っていてくれたと信じられたから。
 でも、三百年の時を隔ててやっとめぐり逢えた君の瞳に、俺は映っていても、その意味はないんだ。今の君はもう俺がよく知っている君じゃない。 
 何度生まれ変わっても、俺を愛してくれるといったあの言葉はもう意味のないものになってしまったのか、明姫―。
******


過去世の記憶

 過去世の記憶

 

 それから一週間が流れた。ファヨンは親友の美絵に誘われ、S駅前通りのこじんまりとした喫茶店にいた。ここは流行りの韓流イケメンカフェだという。新大久保や鶴橋のようなコリアタウンには及ばないが、このS駅周辺もそれなりに韓流系の店が集まっている。
 というのも、この辺りは在日韓国人が数多く居住しているからだ。もちろん、ファヨンの両親が営む韓国料理店〝丹心〟もその一角にある。丹心とは韓国語の〝一片丹心(イルピョンダンシム)〟から取った。これは始終、一貫して相手を愛する真心、一途さを意味する。
 ファヨン自身は見たことはないが、美絵が繰り返し見たという韓流ドラマ〝コーヒー・プリンス一号店〟に出てくる舞台のカフェに似せて作った店だという。
 美絵はこの店の常連で、週に一度は来るらしい。つくづく美絵も好きだなと思いつつ、ファヨンはさして周囲に気を払うこともなく、メニューをひろげた。特に韓流ファンというわけでもないファヨンしてみれば、何故、美絵がこうも熱心にこの店について泡を飛ばさんばかりに語るのか理解できない。
 もちろん、幾ら長年の親友とはいえ、そんな失礼なことはしなかったが。人にはそれぞれ好き好きがある。美絵がここの店に来て愉しければ、それで良い。
 かといって、ファヨン自身は今日は初めてで美絵に熱心に口説かれてここに来たけれど、次回からは来るつもりはない。気乗りもしない中にぼんやりとメニューを眺めていると、ふいに頭上から声が降ってきた。
「いらっしゃい。当店のお薦めはオリジナル・カフェドリンクですよ」
 聞き憶えのある声に、ファヨンは弾かれたように顔を上げる。見れば、例の少しばかり頭のネジの緩んだ男が立っていた。ファヨンを明姫と呼び、知り合いだと勝手に決めつけた失礼なヤツだ。
 この一週間、この男のことを忘れようとしても、何故か忘れようとすればするほど、ますます鮮烈に面影が甦り、どっかりと心に住み着いてしまった感がある。忌々しいことだ。
 彼はにこやかに立っていて、先日の気まずい別れ方などなかったかのようだ。今日は私服姿ではなく、白いシャツに黒いズボンである。他の数人の店員も皆、同じ格好をしているから、大方は制服なのだろう。
 このウエイターぶりがまた憎らしいことに、サマになっている。それこそ、本当に韓流ドラマに出てくる俳優といっても通りそうだ。 
「―」
 ファヨンは熱くなる頬を意識しながら、彼を完全に無視した。彼はそんなファヨンに気を悪くする風もなく、水の入ったグラスを二つ、ガラステーブルに置いて離れていった。
 すかさず、美絵が勢い込んだ。
「なにー、俊秀(ジユンス)君を知ってるの!」
「ジュンス?」
 ファヨンは聞き慣れない言葉を初めて聞くように眼をまたたかせた。美絵が幾度も頷く。
「そうよ、イ・ジュンス君。この店の看板なのよ、彼」
 そこで初めて〝彼〟の名前だと気づく。ファヨンはこれは良い機会だと身を乗り出した。頭のおかしい男について詳しく知りたいと思うわけではなく、これはあくまでも自分につきまとおうとする変な男について少しは知っておいた方が良いだろうと自分に言い訳しながら。



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