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 話し合った結果、部長のファヨンが(地味なサークルなので、部員数がとにかく少なく、一年の女子ばかりがたったの五人だ。ファヨンはくじ引きで外れて部長になった)副部長の女の子と一緒に今朝、買いにいった。本当は二人で渡す予定だったのだが、その子が急用とかで、ファヨンが一人で代表として渡すのだ。
 ファヨンは今、鉢植えの桜草を後生大切に腕に抱えていた。買ったのはH大近くの私鉄のH駅地下の結構大きなフラワーショップだ。そこで二人が選んだのは桜草の鉢植えだった。素朴な素焼きの鉢に可憐な花が寄せ植え風に幾本も植わっている。それを透明なセロファンと薄紅色の和紙でラッピングして貰い、ピンクの大きなリボンをかけて貰うと、それなりに品の良い豪華なプレゼントになった。
 ファヨンは気ぜわしい気持ちで腕時計を覗く。
「いけない、もう次の講義が始まっちゃう」
 呟き、足を速める。そのときだった。向こうから走ってきたらしい人影とまともに衝突し、ファヨンは後方に飛ばされて無様に尻餅をついてしまった。
「い、痛い」
「う、痛―」
 向こうも相当痛かったのか、呻いている。先に立ち上がったのは相手の方だった。
「ごめん、大丈夫?」
 そこでファヨンも漸く我に返り、立ち上がった。
「いえ、私の方こそ、ごめんなさい」
 ファヨンはまだ痛む足腰をさすりつつ、相手に詫びた。そこで、ファヨンは小さな悲鳴を上げた。
「大変、桜草が!」
 ぶつかった衝撃で当然ながら鉢は遠方に飛んでいる。ファヨンは狼狽えて鉢に駆け寄った。動転のあまり、痛みも忘れていた。
 鉢は辛うじて無事だったが、包みが破れ数本の桜草の中、二本が折れて、おまけに花も幾つか取れていた。
「ああ―、どうしよう」
 ファヨンは泣きそうになった。これは部員皆がお金を出し合って買った大切な先生への贈り物だ、それを無駄にしてしまったからには、今度はファヨンが同じものを買って先生に贈らなければならない。
「本当に済まない。大切なものなんだろう? 俺が弁償するよ」
 その深い声にいざなわれるように、ファヨンは顔を上げた。その視線の先にいたのは何と、あの青年だった。昨日、歴史学の講義でファヨンを見つめていた男である。
 彼の黒い澄んだ瞳が真っすぐにファヨンを見つめている。


―私、この男(ひと)を知ってる?
 たった今、彼と視線を合わせた時、既視感(デ・ジヤ・ヴ)を感じた。いや、それは昨日、初めて逢ったからというわけではなく、もう随分前から自分はこの男を知っていて、そして、過去にこういう光景―彼とぶつかってしまい慌てた経験があるように思えてならなかった。
 それは確かな記憶だった。そんなはずはない、これほどあり得ないことはないのに、ファヨンの中で自分はこの男に逢ったことがあり、いつかどこかで彼とこんな風にしてぶつかったという想い出は紛れもない真実として認識されていた。
 その刹那、ファヨンの瞼にある光景が浮かんだ。

****** 
 私はあの日もこうやって庭を歩いていた。あの時、私は腕に桜草ではなく、山のような書物を抱えていた。あまりにもたくさんの書物を持っていたせいで、前方がよく見えていなかった。
 当然、息せき切って走ってくる人物と私はまともに衝突してしまった。誰かとぶつかったせいで、私は思いきり後方にはじき飛ばされた。
―い、痛。
 みっともなく尻餅をつき、腰を地面にこれでもかというほど打ちつけてしまったのも、今と同じだ。
―うっ、痛―。
 向こうでも同じようなうめき声が上がっている。先に立ち直ったのは、相手の方が早かった。
―済まぬ! 大丈夫か?
 私は首を振った。
―はあ、たいしたことはありませんが、あなたの方こそ。
 そこでハッとして、私はとても狼狽えたはず。
―大変、書物が。
 大切な書物を包んだ風呂敷が解け、本が辺りに散乱している。私は狂ったように我を忘れて本を拾い集めた。
******
 
  ここで記憶が途切れた。
 またすぐに次の情景が浮かび上がる。

******
 私は彼に抗議したのだ、大切な本なのに、こんなことになって、どうしてくれるのだと。その側で彼もまた地面に這いつくばって、何かを一生懸命に拾い集めていた。
―何をしているの?
 私が声をかけると、すぐに返事があった。―見てのとおりだ、私も拾いものをしている。
 そのひとことで、私は初めて知った。ぶつかった弾みで荷物を落としてしまったのは何も自分だけではないようだ。男が拾い集めているのは、地面いっぱいに散らばった桜草であった。傍らに忘れ去られたように、ぽつねんと籠が転がっていた。恐らくは、この籠に桜草を入れて運んでいる最中だった?


―桜草?
 問いかけても、今度は返事はなかった。男はただ黙って花を拾い集めては籠に戻す作業を繰り返していた。
 私はきつく唇を噛みしめ、うなだれた。
―ごめんなさい、私ったら、自分のことしか考えられなくて。
 私は急いで自分も桜草を拾い続けたんだわ。そんな私を彼がちらりと見て、また桜草を拾い続けた。
―そなたのお陰で元どおりになった。
 男が破顔した。その瞬間―。
******
 
 ふいにキーンと金属質な音が耳奥で鳴り響き、鈍い痛みが頭を走った。ファヨンは思わず両手で頭を抱え、その場にうずくまった。
「大丈夫か?」
 誰かの声が降ってくる。気遣わしげな声、そう、私はこの声の持ち主を知っている。けれど、どこでいつ彼に出逢ったのかまでは思い出せない。現実には彼と私は昨日出逢ったばかりで、互いにそれまでその存在すら知らなかったというのに。
 こんなことが、世の中にはあるのだろうか。
 しばらくして漸く耳鳴りと頭痛が治まり、ファヨンは恐る恐る顔を上げた。ふと心配そうな彼の黒い瞳を見つめた時、魂までも吸い込まれそうになり、ファヨンは狼狽した。
 胸の鼓動がまた速くなった。彼はずば抜けて背が高い、身長百八十㎝くらい? すんなりとした身体にはほどよく筋肉がついていて、スポーツでもしているのか、均整が取れている。
 顔はどこまでも綺麗に整っていて―。ファヨンが彼に見蕩れていると、
「どうかした?」 
 優しく問われ、ファヨンは首を振った。
「何でもないの」
 昨日が初対面の相手に〝私はあなたにずっと前、逢ったことがありますか?〟なんて訊けば、そのままどん引きされそうだ。
 と、相手は思いもかけぬことを言って、更にファヨンを驚愕させた。
「どこかで俺は君に逢ってない?」
「―」
 ファヨンは息を呑んだ。今、まさに自分が感じていたことを彼もまた、感じていた? しかし、ここで素直に〝はい〟と言えるはずもない。自分がこんなイケメンに興味を持たれるはずもないのは判っているけれど、新手のナンパという可能性も棄てきれない。或いはモテそうではない女の子をからかっているのかもしれない。
 ファヨンは意識を半ば強引に眼前の男から桜草に引き戻した。
「実は、これは篠田先生への結婚祝いだったの」
 男は眼を見開いた。少し眉を寄せて思い出すような表情をする。またファヨンの心臓が撥ねた。イケメンは、どんな表情をしても素敵なのだ。


「ああ、英語の先生だよね。俺も一般教養の方の英語で習ってる。へえ、篠田先生って、結婚するんだ」
 そこで口をつぐむ。
「でも、これじゃ、お祝いにはならないよな。俺が同じ物を弁償するよ。代わりのものを買って済むという話ではないけど、こうなっては解決方法はそれくらいしかなさそうだし」
 ファヨンは淡く微笑った。
「良いのよ、私だって前をよく見ていなかったのだから、あなただけが悪いわけじゃないでしょう。これは私が同じものを買うから」
 気にしないでねと言い、ファヨンは黙って腰をかがめた。落ちていた桜草の残骸を拾い集める。二本の桜草は根本からポキリと折れていたが、花はまだ幾つかはしっかりついている。
「これはもう使えないわよね」
 ファヨンは彼に微笑みかけた。
「まだ花のついているものは持って帰って、水に挿してみたら、どうかしら。もしかしたら、まだ何日かは頑張って咲いてくれるかもしれないし」
 男が愕いたように彼女を見る。
「持って帰って活けるのか、その花を?」
 ファヨンは当然と言わんばかりに頷いた。
「ええ、だって、まだ綺麗に咲いているものもあるのよ。このまま棄ててしまうのは可哀想だわ。茎の折れた部分はきれいに取って、水に挿してあげるの」
「なるほどなぁ」
 男はしきりに頷いた。
「でも、取れてしまった花は、どうしようもないわね」
 ファヨンは、まだ散らばっていた花だけを三つ拾おうとした。次の瞬間、男がスと手を伸ばしてファヨンの長い髪に触れた。彼女は腰まで届くロングヘアに緩くパーマをかけている。今はそのまま降ろして控えめなカチューシャを付けていた。
 男の手が髪に触れたのはあまりにも一瞬のことだったから、ファヨンは声を出す暇もなかった。
「ほら、こうすれば、花も歓ぶ」
 男の声が意外に近くに聞こえ、ファヨンは熱くなった頬を持て余すのに苦労した。そっと今し方、彼が手を伸ばした箇所に触ると、やわらかな花に触れた。彼が落ちた花を拾い、ファヨンの髪に飾ったのだ。
「君は優しい子なんだ」
 彼が呟き、満足げに頷いた。
「可愛いよ、よく似合う」
「あ―」
 花をよく知りもしない女の髪に飾るだなんて、この男はとんでもない女タラシなのかしもれない。けれど、どう見ても深い瞳を湛える黒瞳は、彼がそんな良い加減な女の子を弄ぶような人間ではないことを物語っている。
「―明姫(ミョンヒ)」
 彼がまた何か呟いたが、ファヨンには、そのか細い声で紡がれた言葉が何を意味するのか理解できなかった。女性の名前のようにも聞こえるけれど、韓国人ならともかく、日本人女性に明姫という名前はまずないだろう。


 そう思った瞬間、ツキリと胸の奥に小さな痛みが走る。
―きっと、彼にはもう素敵な彼女がいるんだわ。
 彼ほどの優しくてイケメンなら、彼女がいたとしても不思議ではない。きっと連れて歩いても恥ずかしくないような、彼にふさわしい美人に違いない。私なんて、足許にも寄れないに決まっている。
「明姫」
 すると、彼がまた呟いた。先刻も口にした言葉だ。
―明姫って、何? 誰かの名前なのかしら。
 彼は小首を傾げるファヨンを眼を細めて見返していた。
「君と俺はずっと昔からの知り合いだったんだ。まだ思い出せそうにない?」
 ファヨンは彼から後ずさった。さっきの瞼に浮かんだ光景は依然として気になるところだが、現実として彼と自分は昨日出逢ったばかりなのである。その名前も知らない相手に向かってこんなことを言うのは、頭のおかしなイカレた男か、もしくは、最初に感じたように女の子を引っかける新しい手管としか考えられない。
 男が一歩近づいてくる。ファヨンは無意識の中に後ずさった。
「明姫、何で逃げるんだ? やっと俺たちは逢えたっていうのに。君はもう俺を忘れてしまったのか?」
 やっぱり、このひとは、おかしい。
 自分の名前は崔ファヨンで、明姫なんかじゃない。仮に明姫というのが人の名前だとしても、初対面も同然のファヨンを勝手に別の名前で呼び、しかもずっと前からの知り合いだったというなんて、気が狂っている。
「私は、あなたなんか逢ったこともないし、見たこともありません! きっと勘違いしているか人違いだわ」
 ファヨンは叫ぶなり、追いつめられた兎のように彼の前から走り去った。 
 彼は逃げていくファヨンを茫然と眺めていたかと思うと、力なく視線を動かした。その先にはファヨンが残していった鉢植えの桜草が淋しげに放置されている。
「君も俺をやっぱり気違いだ、狂っているとそんな風に思うのか? 初めて俺たちが出逢った日のように、俺にあの明るく眩しい笑顔を見せてはくれないのか?」
 彼は小さく首を振り、桜草の鉢をそっと壊れ物を扱うかのように抱えた。あたかも、その鉢植えの花が彼の最愛の女性ででもあるかのように。



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