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運命は巡る

 運命は巡る

 

 華英(ファヨン)は左腕の時計を覗き込み、小さな溜息を零す。更にその後で間を置かず右手で傍らの携帯電話を引き寄せ、二つ折りのガラケーを開き覗き込んだ。
 今、ケータイの待ち受け画面に表示されている時刻は三時に五分前だ。あと五分すれば、この退屈な歴史学の講義からも解放される。ファヨンは思わず洩れそうになった欠伸を辛うじて飲み込む。刹那、はるか上段で熱心に講義している教授と眼が合ったような気がして―というよりは、睨まれたような気がして、咄嗟に面を伏せる。
―ああ、これだから、退屈な午後の授業は嫌なのよね。
 改めて自分に向かない歴史の講義なんか選んだ自分の愚かさに自分で腹を立ててみる。この講義を選択したのは、そもそもは親友の美絵に唆されてのことだ。桂木美絵はファヨンの一番の親友である。女子高時代からの付き合いで、彼女は大の韓流ファンなのだ。
 何でも、美絵の母親が昔のヨンさまの〝冬のソナタ〟を夢中になっているのを見て、美絵も興味を持ったのがきっかけだという。母親がとうに興味を失った今も、美絵自身はせっせとレンタルで借りてきては韓国のドラマを見ている。その美絵が〝経済学部の一年生にイ・ジュンギに似た美男子(イケメン)がいる〟と騒ぎ、彼が一般教養で歴史学を専攻するという噂を聞きつけたのが運の尽きだった。
 美絵から歴史学を一緒に受講しようと誘われ、さして考えもせずに付き合いのつもりで受講したのだが、やはり、つくづく自分には向かないジャンルだと毎度ながら思う羽目になる。―それほどに退屈極まりない。
 ところが、である。その肝心の美絵といえうば、入学早々に入った他校との合同テニスサークルで早々と彼氏を見つけて、出席も取らないこの講義に参加したのはほんの数度だけ。真面目だけが取り柄のファヨンは結局、毎回出席して、自分のためだけでなく美絵に見せるためにもノートを取ることになった。
 歴史学といっても、この講義は中世ヨーロッパと時代を限定しての講義であり、更にファヨンには馴染みも薄い。これがせめて祖国の韓国辺りの歴史だったらば、もう少しは真面目に耳を傾けようという気にもなったのに。
 あと五分、あと五分。と呪文のように心で呟いているファヨンはふと誰かの視線を感じた。誰かが自分を見ている? 思わず横を振り向くと、やはり若い男が自分を見つめていた。漆黒の闇を集めたような瞳は切れ長で、どこまでも深い。この講義に出席しているということは、彼も一年か二年なのだろうか。


 彼と視線がぶつかり、ファヨンは慌てて視線を元に戻した。何なのだろう、この気持ちは。急に心臓が騒がしくなり、頬が熱くなったのは、彼がかなりのイケメンだからだろう。ファヨンは勝手に結論づけて、努めて何でもないといった様子で前に向いていた。こういうときは講義中なのが逆に幸いする。さも講義に集中しているふりを装えば良い。
 ファヨンが前を向いても、彼はまだ熱心に彼女を見つめているようだった。心臓はますますヒートアップし、頬は恐らく紅くなっているだろう。何とも居心地が悪く、ファヨンは一刻も早く彼の視線から逃れたかった。
 ほどなく、終業を知らせる音楽が広い講義室に鳴り響いた。ファヨンは心から助かったと思い、即座に立ち上がり、足早に講義室を出た。
 それにしても、と改めて思う。先刻、自分を一心に見つめていたあの男。こんな地方の田舎町ではついぞ見かけないほどの美男だった。彼の前では、美絵いわく〝H大のイ・ジュンギ〟も色褪せるのは間違いない。
―イ・ジュンギというよりはイ・スンギに似てるわ。
 と、在日三世の癖に韓流ドラマは殆ど見ないファヨンは考えた。よくよく考えてみれば、あんなイケメンが自分みたいな冴えない女の子に興味を持つはずがない。こちらを見ていたと思ったのは錯覚だろうし、仮に見ていたのだとしても、その向こうの誰か別の美人を見ていたのに違いない。 
 親友の美絵と違い、自分はどこまでも地味だ。これまでだって、美絵と並んで歩けば、ファヨンはいつも引き立て役だった。美絵はモデル並みのプロポーションだし、顔もAKBにでもいそうなほど可愛い。高校時代だって、いつだって彼氏がいた。それに引き替え、自分は生まれてからいまだかつて、男の子に声をかけられたこともないのだから。
 チビで平凡な顔立ちで、性格も暗めのファヨンは女子大生になった今も目立たない存在であることに変わりはない。周囲の同級生たちに次々に彼氏ができているのをいつも眺めているだけなのだ。別に、そのことを悔しいと思ったことも不幸だと思ったこともない。
 自分にはいつか自分にふさわしい、ファヨンの良さを理解してくれる男性が現れるはずだ。
―人間には身の丈に合った暮らしを望むことが大切だよ。
 ずっと昔に韓国から夫婦二人だけで日本に渡り、この国に帰化した祖母(ハルモニ)がいつも幼いファヨンに言い聞かせていた。ちなみに祖父はもうかなり前に亡くなり、祖母は今も健在である。日本にやって来た祖父母は北のこの地方都市に根を下ろし、ファヨンの家は二代に渡って小さな韓国料理店を営んでいる。店は常連客も多く、何度か韓流ブーム華やかなりし頃にグルメ雑誌にも取り上げられたこともあり、若い客も多い。


 ファヨンの母郁子は日本人と結婚した。一人息子だった父を手放すことに、父の両親は猛反対したらしいけれど、入籍するより前に母が妊娠してしまったため、やむなく父が崔家に婿入りすることを許したそうだ。ファヨンはずっと〝崔田(さいだ)彩菜〟と名乗っているが、それは日本名で、韓国名は〝崔(チェ)ファヨン〟だ。自分では韓国名の方が気に入っているので、両親も祖母も親友の美絵もファヨンと呼ぶ。
 ファヨンは高校卒業と同時に自宅を出て、大学にも近いワンルームマンションで一人暮らしを始めた。自宅を出たといっても、私鉄の駅で三駅乗り継いだ先がそうなのだから、帰ろうと思えば、いつでも帰れる。今年の春にキリスト教系のH大学文学部英米学科に入学したばかりの十八歳である。
 若い夫婦だけで祖国を離れ遠い日本にやってきた祖母は根っからの苦労人だ。三世で韓国に行ったこともなく、生まれも育ちも日本のファヨンは外見も中身も日本人そのものなのに対し、祖母は考え方はいまだに韓国人であると感じることが多い。
 ファヨンは今、日本と韓国と両方の国籍を持っているが、二年後の成人のときには、どちらかを祖国として選ばなければならない。ずっと昔から、ファヨンは日本を選ぶつもりでいた。韓国に行ったこともなく、韓国語さえ喋れない自分が韓国籍を取得しても意味はないように思えたからだ。
 もちろん、韓国を祖国として尊ぶ気持ちは一生忘れないつもりだけれど、自分が生きていく場所はここ(日本)しかない。
 今日は夕方から美絵と待ち合わせて夕食を一緒に取る予定だ。また例の彼氏の惚気話を聞かされるのかと思うと、正直うんざりしてしまう。女同士の友情はどちらか片方に彼氏ができると、なかなかうまくいかなくなると聞いたことがあるが、あれはやはり本当なのかとも思う。
 美絵は同じH大学でも経済学部で、普段は共に行動することも少ない。たまに逢えば、本当はもっと別の話がしたのに、美絵は最近は彼氏の話ばかりだ。その惚気を根気よく聞くのが苦痛だと感じる自分はやはり、心が狭いのだろうか。親友が幸せそうなのを見て、素直に歓べない自分はやはり嫌な女?
 またしても自己嫌悪に陥りそうになり、ファヨンは大きな溜息をついた。

 翌日の昼休み。ファヨンはまたしても沈んだ気持ちで大学のキャンパスを歩いていた。昨夜はさんざんだった。久しぶりに親友とゆっくりと語り合えると愉しみにしていたのに、何と現れたのは美絵だけでなく、美絵の彼氏と更にその男友達も一緒だったのだ!


 どうやら美絵が余計な気を回してくれたらしく、彼氏の親友をファヨンに紹介してくれるつもりだったらしい。もちろん、その場で断れば美絵や彼氏、その友達だという男性を傷つけることになる。だから、それなりに愉しく過ごして別れる段になり、ファヨンはそっと美絵に耳打ちした。
―もう二度とこんなことはしないでね? 私は今のところ、誰とも付き合うつもりはないんだから。
 それでも、その男友達はファヨンをマンションの前まで送ってきてくれた。良かったら付き合って欲しいと言う彼に対して、やんわりとでも断るのはなかなか勇気の要ることだった。
 まさか彼が自分を気に入るとは思っていなかっただけに、愕きで言葉もつっかえてしまって、さぞみっともかったはずだ。相手の男性は美絵の彼氏には及ばないけれど、そこそこのイケメンだし、何より誠実そうだった。
 ファヨンはこんな時、誰もが使う言葉を使った。
―ごめんなさい。折角ですけど、私にはもう好きな男(ひと)がいるんです。
 相手の男性もそれですんなりと納得してくれたようだし、付き合う気もないのに、相手に気を持たせるようなことはするべきではない。なので、これで良かったのだ。
 が、自分でも不可解に思えたことは、好きな男がいると口にした瞬間、あの歴史学の講義で自分を不躾に見つめていた男の貌を思い出してしまったことだった。
 馬鹿みたい。ファヨンは自分を嗤った。あのイケメンはたいした意味もなく自分の方を見ていただけなのに、そこに何か深い意味を見出そうとするなんて。
 自分では自覚がないけれど、やはり自分は美絵や他の女の子たちのように恋人と愉しく時間を過ごしたいという願望があるのかもしれない。だから、好きな男という言葉だけで、連鎖的によく知らないゆきずりの男のことなんか思い出してしまうのだ。
 ますます自己嫌悪に陥りそうな気がして、ファヨンは勢いよく首を振った。
―いけない、いけない。
 今日はこれから英文購読Ⅰの担当准教授のところにお祝いを持参することになっている。篠田准教授は三十歳、ファヨンが所属する英語劇サークルの顧問でもある。そのせいで、あまり接触がないのが当然の学生と教授でありながらも、親しく話をすることが多い。
 篠田先生は今風のイケメンとはお世辞にもいえない。しかし、優しくて、講義もわかりやすいと学生には人気がある。その篠田先生が翌六月に結婚するというので、英語劇サークル一同でお祝いを贈ることになった。


 話し合った結果、部長のファヨンが(地味なサークルなので、部員数がとにかく少なく、一年の女子ばかりがたったの五人だ。ファヨンはくじ引きで外れて部長になった)副部長の女の子と一緒に今朝、買いにいった。本当は二人で渡す予定だったのだが、その子が急用とかで、ファヨンが一人で代表として渡すのだ。
 ファヨンは今、鉢植えの桜草を後生大切に腕に抱えていた。買ったのはH大近くの私鉄のH駅地下の結構大きなフラワーショップだ。そこで二人が選んだのは桜草の鉢植えだった。素朴な素焼きの鉢に可憐な花が寄せ植え風に幾本も植わっている。それを透明なセロファンと薄紅色の和紙でラッピングして貰い、ピンクの大きなリボンをかけて貰うと、それなりに品の良い豪華なプレゼントになった。
 ファヨンは気ぜわしい気持ちで腕時計を覗く。
「いけない、もう次の講義が始まっちゃう」
 呟き、足を速める。そのときだった。向こうから走ってきたらしい人影とまともに衝突し、ファヨンは後方に飛ばされて無様に尻餅をついてしまった。
「い、痛い」
「う、痛―」
 向こうも相当痛かったのか、呻いている。先に立ち上がったのは相手の方だった。
「ごめん、大丈夫?」
 そこでファヨンも漸く我に返り、立ち上がった。
「いえ、私の方こそ、ごめんなさい」
 ファヨンはまだ痛む足腰をさすりつつ、相手に詫びた。そこで、ファヨンは小さな悲鳴を上げた。
「大変、桜草が!」
 ぶつかった衝撃で当然ながら鉢は遠方に飛んでいる。ファヨンは狼狽えて鉢に駆け寄った。動転のあまり、痛みも忘れていた。
 鉢は辛うじて無事だったが、包みが破れ数本の桜草の中、二本が折れて、おまけに花も幾つか取れていた。
「ああ―、どうしよう」
 ファヨンは泣きそうになった。これは部員皆がお金を出し合って買った大切な先生への贈り物だ、それを無駄にしてしまったからには、今度はファヨンが同じものを買って先生に贈らなければならない。
「本当に済まない。大切なものなんだろう? 俺が弁償するよ」
 その深い声にいざなわれるように、ファヨンは顔を上げた。その視線の先にいたのは何と、あの青年だった。昨日、歴史学の講義でファヨンを見つめていた男である。
 彼の黒い澄んだ瞳が真っすぐにファヨンを見つめている。



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