目次
火災
白木屋火災(1932年)
函館大火(1934年)
大日本セルロイド工場火災(1939年)
大手町官庁街火災(1940年)
聖母の園養老院火災(1955年)
日暮里大火(1963年)
金井ビル火災(1966年)
菊富士ホテル火災(1966年)
池之坊満月城火災(1968年)
磐光ホテル火災(1969年)
呉市山林火災(1971年)
千日デパート火災(1972年)
済生会八幡病院火災(1973年)
西武高槻ショッピングセンター火災(1973年)
大洋デパート火災(1973年)
酒田大火(1976年)・上
酒田大火(1976年)・下
白馬プリンスホテル火災(1978年)
大清水トンネル火災(1979年)
日本坂トンネル火災(1979年)
川治プリンスホテル火災(1980年)
ホテルニュージャパン火災(1982年)
蔵王温泉観光ホテル火災(1983年)
大東館「山水」火災(1986年)
長崎屋火災(1990年)
歌舞伎町・明星56ビル火災(2001年)
炭鉱事故
夕張新炭鉱ガス突出事故(1981年)
バス事故
バス事故年表(参考)
北海道様似町バス炎上・転落事故(1945年)
和歌山県・中辺路バス転落事故(1947年)
熊本県・松尾バス転落事故(1950年)
横須賀トレーラーバス火災事故(1950年)
物部川バス転落事故(1950年)
埼玉 大宮市原市町バス・列車衝突事故(1950年)
天竜川バス転落事故(1951年)
札幌バス火災事故(1951年)
栃木県佐野市 バス・列車衝突事故(1951年)
愛媛県宇和島バス火災事故(1951年)
千葉県船橋市バス・列車衝突事故(1951年)
広島県幕ノ内峠バス転落事故(1953年)
福井市バス転落事故(1954年)
佐賀県嬉野バス転落事故(1954年)
三重県二見町バス転落事故(1954年)
北上バス転落事故(1955年)
愛媛県長浜町バス転落事故(1956年)
神通川バス転落事故(1956年)
福井県武生市バス転落事故(1956年)
高知県伊豆坂峠バス転落事故(1957年)
和歌山県高野・天狗谷バス転落事故(1958年)
京都亀岡・山陰本線バス衝突事故(1958年)
神戸八幡踏切バス衝突事故(1958年)
大阪市東淀川区新庄村・バス踏切衝突事故(1959年)
岡山県福渡町バス転落事故(1959年)
長野県北安曇郡美麻村バス転落事故(1959年)
仙台市作並街道バス転落事故(1959年)
比叡山バス衝突・転落事故(1960年)
横浜市滝坂踏切バス衝突事故(1960年)
岡山県真庭バス踏切事故(1960年)
長野県松本市バス転落事故(1960年)
京都府日向町バス踏切事故(1961年)
北海道渡島バス転落事故(1962年)
岡山県久米郡中央町バス転落事故(1963年)
長崎・北松浦バス転落事故(1963年)
岡山県倉敷市バス転落事故(1964年)
奈良県大和高田市バス転落事故(1964年)
長野県佐久市バス転落事故(1964年)
和歌山県熊野川バス転落事故(1965年)
日光市湯の湖バス転落事故(1965年)
大牟田市天領町バス衝突事故(1965年)
長岡市曾地峠バス・トラック正面衝突事故(1967年)
富山県八尾町マイクロバス転落事故(1967年)
山梨県韮崎バイパスバス・トラック衝突事故(1968年)
飛騨川バス転落事故(1968年)
岡山県玉野市バス転落事故(1969年)
徳島県勝浦バス転落事故(1970年)
岐阜県高根村・マイクロバスダム転落事故(1970年)
青木湖バス転落事故(1975年)
犀川・笹平ダムバス転落事故(1985年)
豊浜トンネル崩落事故(1996年)
舞鶴市バス水没事故(2004年)
鉄道事故
本邦初の鉄道事故は?
東海道線西ノ宮列車正面衝突事故(住吉事故)(1880年)
箒川列車転落事故(1899年)
東岩瀬駅正面衝突事故(1913年)
東北本線・古間木-下田駅間正面衝突事故(1916年)
北陸線・雪崩直撃事故(1922年)
逢坂山・東山トンネル連続墜落死事故(1926年頃)
柳ケ瀬トンネル煤煙窒息事故(1928年)
久大本線ボイラー爆発事故(1930年)
瀬田川転覆事故(1934年)
安治川口ガソリンカー火災(1940年)
米坂線脱線転覆事故(1940年)
土浦事故(1943年)
沖縄県営鉄道 弾薬爆発事故(1944年)
八高線列車正面衝突事故(1945年)
八高線列車転覆事故(1947年)
近鉄奈良線暴走事故(1948年)
桜木町火災(1951年)
東田子の浦・列車衝突火災事故(1955年)
参宮線六軒事故(1956年)
三河島事故(1962年)
鶴見事故(1963年)
北陸トンネル「きたぐに」火災(1972年)・上
北陸トンネル「きたぐに」火災(1972年)・下
餘部(あまるべ)鉄橋列車転落事故(1986年)
信楽高原鐵道正面衝突事故(1991年)
三陸鉄道南リアス線脱線事故(1994年)
山岳事故
木曾駒ヶ岳大量遭難事故(1913年)
爆発事故
鳥取・玉栄丸爆発事故(1945年)
二又トンネル爆発事故(1945年)
小勝多摩火工爆発事故(1953年)
秋葉ダム爆発事故(1955年)
墨田区花火問屋爆発事故(1955年)
日本カーリット工場爆発事故その1(1955年)
上郷村花火工場爆発事故(1959年)
第二京浜トラック爆発事故(1959年)
天六ガス爆発事故(1970年)
日本カーリット工場爆発事故その2(2008年)
日本カーリット工場爆発事故その3(2010年)
水害
青森県鰺ヶ沢の鉄砲水(1945年)
その他
トライアングルウェストシャツ工場火災(1911年・アメリカ)
ココナッツ・グローブ火災(1942年・アメリカ)
シドニー空港「キース君」転落事故(1970年)
聖水大橋崩落事故(1994年・韓国)
三豊百貨店崩壊事故(1995年・韓国)
三河島紀行(フィールドワーク)
グレート・ノーザン鉄道ウェリントン雪崩事故(1910年・アメリカ)
パロマレス米軍機墜落・核爆弾紛失事故(1966年)
イノバシオン百貨店火災(1967年・ベルギー)
ルクソール熱気球墜落事故(2013年)
東日本大震災体験記
ささやかなる被災
ささやかなる被災・燃料の不足のこと
ささやかなる被災・物品の不足その他
水難事故
『真白き富士の根』七里ガ浜ボート転覆事故(1910年)
玄倉川水難事故(1999年)
群集事故
日暮里駅・跨線橋転落事故(1952年)
弥彦神社事故(1955~56年)
大阪劇場事故(1956年)
和歌山市民会館将棋倒し事故(1957年)
秋田市川尻・山王体育館転倒事故(1957年)
横浜歌謡ショー将棋倒し事故(1960年)
松尾鉱山小学校転倒事故(1961年)
大阪造幣局「桜の通り抜け」将棋倒し事故(1967年)
豊橋市立体育館将棋倒し事故(1982年)
ヘイゼルの悲劇(1985年・ベルギー)
日比谷野外音楽堂コンサート事故(1987年)
ヒルズボロの悲劇(1989年・イングランド)
大阪市「ウインズ梅田」&北海道「ウインズ札幌」将棋倒し事故(1995年)
生駒山コンサート事故(1999年)

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白木屋火災(1932年)

 記念すべき――なんて枕詞は不謹慎に違いない。だが事実として、日本で最初の高層建築物火災である。この白木屋火災について、寺田寅彦は「火事教育」という文章の中でこう記している。

 

「旧臘(きゅうろう)押し詰まっての白木屋の火事は日本の火災史にちょっと類例のない新記録を残した。犠牲は大きかったがこの災厄が東京市民に与えた教訓もまたはなはだ貴重なものである。」

 

 時は1932(昭和7)年12月16日、午前9時15分頃のこと。当時の東京市日本橋(現東京都千代田区)にあった「白木屋百貨店」で火災が発生した。

 この白木屋百貨店は、地上8階地下2階という高層ビルである。火の手が上がったのは、4階の玩具売場からだった。

 原因は電球のスパーク。男性社員がクリスマスツリーを修理していたところ、飛び散った火花が大量の玩具に燃え移ったのだ。この頃の玩具には燃えやすいセルロイドが使われていたせいもあり、火はあっという間に燃え広がった。

 時代が時代なので、防火扉やスプリンクラーなどという気の利いたものも存在しない。火炎も煙もたちまち建物を舐め、白木屋の上階は程なく猛煙と熱気に包まれた。

 この時の状況について、寺田はさらにこう書いている。

 

「実に幸いなことには事件の発生時刻が朝の開場間ぎわであったために、入場顧客が少なかったからこそ、まだあれだけの被害ですんだのであるが、あれがもしや昼食時前後の混雑の場合でもあったとしたら、おそらく死傷の数は十数倍では足りず、事によると数千の犠牲者を出したであろうと考えるだけの根拠はある。」

 

 ちなみにこの「予言」が見事に的中した事例が、白木屋火災の約40年後に発生した太洋デパート火災である。さすがに数千の犠牲者とまではいかなかったが、死傷者は確かに白木屋の数十倍に及んだ。

 さて、白木屋火災における最終的な死者数は14名に上った。この中には、火災を発生させた男性社員も含まれていた。

 さらに細かく死者の内訳を見ると、8人が女性である。彼女たちは6~7階の高層階から落下して死亡しており、その際の状況についても記録が残っている。少し詳しく見てみよう。

 まず、8名中3人は投身によって死亡した。うち2人は大の仲良しだったそうで、煙に追い詰められたところで名を呼び合って投身したという。ちょっと百合の世界めいたお話だ。

 また、どうも真偽のほどは定かでないのだが、当時の野次馬の中には「激励」して投身を促したアホがいたらしい。寺田はこれを「白昼帝都のまん中で衆人環視の中に行われた殺人事件」と憤りを込めて呼んでいるが、もしこれが本当なら、飛び降りで死亡したもう1人の女性というのはこれだったのかも知れない。

 また死亡者のうちさらに3人は、帯などを結びつけて命綱を作り、それで脱出しようとしていたという。だが煙にまかれるうちに手を離してしまい、結局転落した。

 さらに2人は、ロープを使って避難を試みた。だが1人は途中で建物のブリキにひっかかって落下。もう1人は不運にも火災の熱でロープが焼き切れたという。

 そして最後の1名は、雨樋を伝って脱出したが途中で力尽きたのだった。悲惨な話だ。

 最終的に、白木屋百貨店は4階から8階までが焼けた。大火事である。ポンプ車は29台、梯子車も3台出動したというから、改めて火災の規模の大きさが分かる。

 おそらく、当時の消防はこれほどの高層建造物での火災は想定していなかったに違いない。防災システムが時代に追いついていなかったのだ。無事に救出された人々も、多くは自力で脱出したか、あるいは消防隊員の軽業で辛うじて助け出されたという。

 

   ☆

 

 さて。

 ちょっと話は変わるが、白木屋百貨店の火災と言えばすぐに「女性の下着」を連想される方も多かろう。「近代以降の日本で、女性が下着をつけるようになったのはこの火災がきっかけだった」という都市伝説があるのだ。

 いわく、当時の女性たちは和装が主であった。よって腰巻を着用することはあっても、今のパンツにあたるような下着をつける習慣はなかった。死亡した女性従業員たちは、地上にいる野次馬から自分の陰部を見られるのを恥ずかしがったためロープから手を離し、それで転落死した……と。

 これがきっかけとなり、女性がズロースもしくはパンツを着用する習慣が始まったというのである。

 だが実際のところは先に書いた通りである。「野次馬から覗かれるのを気にして転落し死亡した」という女性は一人もいなかったのだ。

 これはどうしたことだろう。一体、この都市伝説はどこから生まれたのだろうか?

 この謎については、井上章一が『パンツが見える。羞恥心の現代史』の中で解明を試みている。井上の検証はかなり緻密で徹底したものだが、あえてかいつまんでまとめると以下のようになる。

 

① 高層階の女性たちは命からがら脱出したはずで、覗かれることを気にする余裕はなかったと思われる。だが比較的低い階の女性たちは、迅速に避難することよりも、覗かれることを気にするだけの精神的な余裕があったかもしれない。それがごっちゃになったのではないか。

 

② 当時の白木屋責任者が、事件後に「死者が出たのは下着をつけていなかったせいだ」とコメントすることで、さり気なく責任逃れを図っている。これが誇張されて後世に伝わったのではないか。

 

③ 白木屋火災に関係なく、当時は女性の服装が和服から洋服へと移行し始めた時期だった。それは単なる流行だったのだが、たまたま白木屋火災があったので話が結びつけられたのではないか。

 

④ 「ノーパンの女性が恥じらいのあまり転落死した」というエピソードは印象に残りやすい。なまじ性にまつわる事柄なだけに、尚更である。

 

 ――とまあ、こんな具合である。

 筆者も、この「白木屋ズロース伝説」の真相はこんなもんだろうと思う。女性たちが恥じらいのあまり悲劇の墜死を遂げたなどというのはあまりにドラマティックで、かえって現実味が感じられない。作り話であろう。

 

   ☆

 

 ところで白木屋だが、これはもともとは江戸時代から続く呉服屋の老舗で、大名や奥方なども利用する由緒正しい大企業だった。

 しかし昭和に入ってからはこのように火災が起きたり、一部の強欲な実業家から株を買い占められて乗っ取られそうになるなど、その後はけっこう苦労している。

 そんな経過があり、最終的には東急グループに吸収され「東急百貨店日本橋店」としてしばらく営業していたが、1999(平成11)年にはこれも閉店し、ついに創業以来350年の歴史に幕を閉じている。

 ちなみに少し補足すると、白木屋を乗っ取ろうとした強欲な実業家というのは横井秀樹のことである。後年に大火災を引き起こしたホテルニュージャパンのオーナーだった人物だ。この人も、なんだかやけに火災に縁のある人生である。

 火災、都市伝説、いわくつきの実業家との関係……。どうも白木屋というと、こういう奇妙なエピソード満載のヘンなお店、というイメージが真っ先に湧いてしまう。

 

【参考資料】

◇井上章一『パンツが見える。――羞恥心の現代史』朝日選書(2002年)

◇『寺田寅彦全集』岩波書店(1976年)

◇ウィキペディア他

 

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函館大火(1934年)

 函館大火――。この巨大火災についてお話しするにあたっては、白木屋火災と同様に、まずは寺田寅彦先生にご登場頂くことにしよう。彼が『函館の大火について』という文章を書いているのだ。

 

「昭和九年三月二十一日の夕から朝にかけて函館市に大火があって二万数千個を焼き払い二千人に近い死者を生じた。実に珍しい大火である。」

 

 ここで思わず「は?」と聞き返したくなるのは筆者だけではあるまい。なんだその「二千人」って。二十の間違いじゃないの? あるいは、多くても二百とかじゃなくて――?

 ところが間違いではないのである。正式な死者数は2,166名で、いくら大火とはいえ目を疑うなという方が無理な話だ。

 どうしてこうなった。一体この日、函館で何が起きたのだろう?

 

   ☆

 

 改めてご説明しよう。時は1934(昭和9)年3月21日のことである。場所は言うまでもなく、北海道の函館市だ。

 当時は、日本列島付近で巨大な低気圧が渦巻いていた。午前6時の時点ではまだ日本海の中央に腰を据えており、大きな動きはなかったのだが、これが午後6時頃には東北地方から北海道南部までの範囲に接近。猛烈な風を吹き募らせ始めたのだ。北海道では、最大瞬間風速39メートルを記録したという(ちなみにこの風速は、「身体を45度に傾けないと立っていられず、小石も吹き飛ぶ程」のものである)。

 函館でも、火災が起きる前からこの強風による被害が相次いでいた。家屋は倒壊するわ屋根は飛散するわ、あげく電線まで切れる始末で、すでにして街は滅茶苦茶だったのである。

 火災が発生したのは午後6時35分。函館市の南端の地区で一軒の住宅が半壊し、屋内にあった囲炉裏の火が風で散った。これが、街中に火をばらまく結果になったのだ。

 この辺りの経緯を、寺田はこう書いている。

 

「この時に当たってである、実に函館全市を焼き払うためにおよそ考え得らるべき最適当の地点と思われる最風上の谷地頭町から最初の火の手が上がったのである。」

 

 一応ひとつ書き添えておくと、筆者の手元にある資料では、最初に火の手が上がったのが「住吉町」となっている。寺田が文章を書いた時点ではまだ火災の全貌が明瞭でなかったそうなので、情報も整理されていなかったのかも知れない。

 まあでも、この直後に街全体が焦土と化した事実に比べれば、些細な記述の違いなどちっぽけなものである。函館市内で発生した炎は猛烈なつむじ風に乗って次から次へと燃え移り、街はたちまち火の海となった。

 しかしなんでまた、そんなに簡単に街が焼けてしまったのだろう?

 ここでまた寺田による説明なのだが、まず風の強さの問題があったという。火災の場合、風は強ければ強いほどいい。なぜならそれで吹き消されるからだ。だがこの時に函館で吹いていた風の勢いは、炎を消すほどでもない微妙なラインのものだったのだそうだ(筆者としてはどうも腑に落ちない説明なのだが、本当なのだろうか?)。

 それから第二の問題として、「延焼の法則」とでも呼ぶべきものがあった。

 大火の場合、発火地点からどのような形で延焼するかは、これはもうある程度は自然法則的に確定するものなのだそうだ。例えば江戸時代に発生した複数の大火の焼失地域を調べると、ほとんど決まって火元から「半開きの扇形」に延焼しているという。

 ではこれらの法則に照らし合わせてみた場合、当時の函館というのはどうだったのか。これについては寺田曰く、

 

「これはなんという不幸な運命の悪戯であろう。詳しく言えば、この日この火元から発した火によって必然焼かれうべき扇形の上にあたかも切ってはめたかのように函館全市が横たわっていたのである。……(中略)……要するに当時の気象状態と火元の位置とのコンビネーションは、考え得らるべき最悪のものであった」。

 

 とのことである。それにしても寺田先生、文章がノリノリだなあ。

 とにかくこんな理由もあって、火焔はみるみる拡大していった。先述したように烈風のため電線も切れており、街全体が停電している中での火災である。これもまた寺田の言う「最悪のコンビネーション」であろう。

 さらに、街全体に吹き付けていた風が時計回りにころころと進路を変えやがったせいで、延焼範囲はそっちこっちに及んだ。消防はこの火炎の流れに翻弄されながら、ほぞをかむ思いだったことだろう。

 函館市は、もともと風が強い港町である。よって昔から大火は頻発しており、変な言い方だがそれで「大火慣れ」していた部分もあったらしい。100や200の家が焼けた程度では大火とは呼ばない……という言い方はさすがに大げさかも知れないが、とにかくそういう感覚に加えて、消防施設や街並みが近代的になっていたがゆえの油断、というものもあったようだ。

 翌朝、ようやく鎮火した時には、街はまるで空襲の後のような有様だった。当時の写真がネット上でも結構見られるのだが、本当に爽快なくらいに何も残っていない。文字通りの焼け野原である。

 人的被害については、最初に述べた通り犠牲者が二千人にも及んだわけだが、これは火災のせいばかりでもなかった。避難した先の海岸で波浪に襲われて大勢が溺死したとか、避難先で百人近くが凍死したとか、気象による被害も大きかったのだ。

 ここまで来ると、ほとんど天変地異である。この日函館を襲ったのは大火というよりも、純然たる「自然の猛威」だったのだ。

 負傷者は9,485人、焼失家屋は11,105戸に上った。

 

   ☆

 

 これが世に言う「函館大火」である。

 先述した通り、函館で火災が発生すること自体は珍しいことではなかった。現に寺田も「この原稿を書いている時にまた函館で火災が起こった」という趣旨の文章を書いている。しかしそれら数ある火災の中でも大火中の大火、まさに「ザ・函館大火」と呼ぶにふさわしいものは、この1934(昭和9)年3月21日に発生したものなのだ。

 いくら忘れっぽい日本人でも、さすがにこの大火を忘れてしまえという方が無理な話だろう。函館では、今でも火災が発生した日には慰霊祭が執り行われているという。

 また、比較的最近のニュースでも話題にされていたことがあった。例の東日本大震災の後、函館の市民有志が被災地の子供たちへ児童書を寄付したのだ。

 実はこれは「恩返し」でもあるのだった。函館大火の直後、当時の函館図書館の館長が、被害に遭った子供の心を癒すためにということで、全国からの児童書の寄贈を募っていたのである。その結果、図書館・出版社・学校などから12万冊が寄せられたのだ。

 東日本大震災における函館市の支援は、これにとどまらない。例えば岩手の沿岸地域には舟を寄贈するなどしている。

 おそらく本州の人間にとって、函館大火は「忘れられた災害」でしかないことだろう。だが地元の人々にとってこの災害は、今でも生きた記憶として残っているのである。

 実は、筆者が本稿を最初にものしたのは、東日本大震災が発生するよりも前のことだった。その後、ニュースでこの函館市の支援活動を見た時には思わず目頭が熱くなったものだ。よってこうした記録も書き添えておく次第である。

 

【参考資料】

 ◇『寺田寅彦全集』岩波書店(1976年)

 ◇函館市消防本部ホームページ

 ◇ウィキペディア他

 

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大日本セルロイド工場火災(1939年)

 先に、白木屋火災の項目で「燃えやすいセルロイド」と書いた。

 で、セルロイドとは一体何なのかというと、これは合成樹脂の一種である。プラスチックの親戚というかご先祖様にあたる代物で、過去にはアニメーション作成でも使用されていた。「セル画」というのがそれだ。

 このセルロイドが、実はとても燃えやすいのである。現在では消防法上の危険物の一種と見なされており、その扱いには相当の注意を要するという。

 今回ご紹介する事例は、そのセルロイドのせいで発生した火災である。しかもその規模は、はっきり言って白木屋の比ではない。セルロイドの危険性ここに極まれり、開いた口も塞がらない大惨事をご覧あれ。

 

   ☆

 

 1939(昭和14)年5月9日、午前9時23分頃のことである。

 場所は東京都板橋区、志村小豆沢(しむらあずさわ)。大小様々の工場が立ち並ぶ工業地域である。

 もともと、板橋区周辺というのは火薬にまつわる施設が多かった。例えば江戸時代には和光市の花火屋があり、江戸末期には高島平の大砲試射場があり、そして明治には下板橋の火薬工場があり……といった塩梅である。これがこの地域の伝統産業だったらしい。

 そして1939年といえば、二年前に日中戦争が勃発したばかり。小豆沢には、軍需生産にひと役買っていた工場も複数存在しており、大日本セルロイド工場㈱東京工場もそのひとつだった。

 火災のきっかけになったのは、この日工場に入ってきた一台の貨物自動車だった。

「まいどーっ! セルロイドの屑を持ってきました~」

 この時持ち込まれたセルロイドの屑が何に使われる予定だったのか、それは定かでない。とにかくここで、運転手がなんの気なしに煙草をポイ捨てしたからさあ大変。気が付くと、荷台の麻袋が火を噴いていた。中にはセルロイドが詰まっている。

「わあ大変だ、消せ消せ!」

 ところがこの日の風速は9メートル。しかも工場内の防火設備はお粗末そのものだった。一応、防火水槽も設置してあったが、あっという間に構内が火に包まれたので利用する暇もない。また悪いことに、当時の工場の多くは木造建築で、ほとんど為す術もなく火焔は飛び火した。

 その飛び火した先もまずかった。お隣の日本火工㈱は火薬や照明弾を製造しており、なんとこの日は火薬の加工品を露天で乾燥させていたのだ。当時は強風とはいえ天気は快晴で、天日干しにはちょうどいい環境だったのだろう。

 ポン、ポポン。最初は小爆発で済み、工員たちが消火活動を行なう余裕もあったようだ。

 だが、この直後に大量の火薬に引火したことで、この火災は最終的に「戦前四大火災」の一つに数えられる程の大惨事となったのである。

 大爆発を繰り返すこと三回。この時の爆発音は東京市内全域に響き渡り、爆発と共に照明弾があちこちに飛散するお祭り騒ぎになったという。

 消防隊が駆けつける。しかし、水利もとんでもなく悪かった。消火栓は近くの中山道に点在していたのだが、これは火災現場からはあまりにも遠すぎた。付近には河川もなく、少し離れたところに自然水利を求めるべく、ホースを63本も延長した消防隊もあったという。

 想像するだにやるせない話だ。モタモタと63本ものホースを接続している間にも火災は拡がる。当時の消防隊員の気持ちや如何に。

 火災現場では、飛び火が留まるところを知らなかった。周囲の複数の工場からも続々と火の手が上がる。

 特にひどいのが大日本軽合金㈱への延焼で、ここには大量のマグネシウムがあった。マグネシウムは燃えやすい上に、水をかけても消えない。むしろ水によって激しく燃焼するため、火災においては化学消防の技術を要するのである。

 ようやく鎮火したのは午後五時のことだった。

 爆発の範囲は半径500メートルの範囲にまで達し、うち150メートル以内は、なんかもう、空襲が一足先にやってきたような状態だったという。死者は32名、負傷者245名、全焼88戸、半焼6戸、焼失面積は10,890平方メートルに及んだ。

 この火災への対応で出動したのは、板橋警察署と隣接警察署、警視庁特別警備隊それに「赤羽工兵大隊」「近衛一連隊」そして各憲兵隊などだった。また事後処理においても東京市の「社会局」と「市民動員部」なる組織だか部署だかが、被害者に対して弔慰金や見舞金を出したそうだ(時代が時代なので、見たことも聞いたこともない組織名ばかりである)。

 

   ☆

 

 セルロイドは当時から危険物と見なされていた。1938(昭和13)年9月には「セルロイド工場取締規則」が定められるなど、現場での厳重な管理が求められていたのである。

 だが、それでもセルロイドによる火災は頻発していた。現場ではルールが必ずしも遵守されていなかったか、あるいはルールが現実に合っていなかったのだろう。

 またこの頃は、重工業を中心とした軍需産業が大盛況を迎えていた。時代の要請に追われて急ピッチで生産作業が進められていた現場では、色々と無理もあったのではないか。

 例えば、この年の3月1日には大阪の枚方(ひらかた)陸軍倉庫でも火薬庫が大爆発し、800家屋が全焼、死者10名・行方不明者38名という事故が発生している。また翌年には西成線(今のJR桜島線)で、工業地域への出勤者を乗せた列車が脱線転覆するという惨事が起きており、これは国内の鉄道事故史上ではトップクラスの死者数である。

 事故災害のことばかり調べていて気付いたことがある。この、昭和10年代から東京オリンピックまでの数十年間というのは、驚くほど多くの日本人が人災で命を落とした時代だったのだ。

 考えてみれば、例の戦争だって敗戦した以上は国家レベルでの過失・人災、つまり事故災害だったと言えなくもないわけで、なるほど大量死の時代だったのだなと思うのである。

 

【参考資料】

 ◇ウェブサイト「消防防災博物館」

 ◇『東京の消防百年の歩み』東京消防庁(1980年)

 

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大手町官庁街火災(1940年)

 平将門の怨霊によって引き起こされた火災――だそうだ。
 官庁街と言えば今では霞ヶ関だが、戦前は大手町に存在していた。
 そして、いわゆる将門の首塚は、現在も大手町に存在する。つまり昔は官庁街と首塚が同居していたのだ。
 そんなことを踏まえつつ、1940(昭和15)年6月20日のことである。
 もともと、この日は将門の没後千年目という曰くつきの日だった。当時の東京市内はとんでもない悪天候で、人災が多発していたという。
 まずは水不足である。この1940(昭和15)年というのは水道局始まって以来の渇水を記録した年でもある。大手町のみならず、市内では初めての時間給水が行われていたという。
 そうかと思えば、この6月20日という日の天候は豪雨で、夜間はもはや視界が利かないほどの降りっぷりだったという。雨は降るのに渇水とはこれ如何に。
 あげく、落雷も多発した。豪雨と足並みを揃えて関東地域にカミナリ様が来襲。市内でもほうぼうで火災が発生し、消防も大忙し。夜になっても約80台の消防車が出動していた。
 これが将門公の怨念の力なのか…。
 さて官庁街である。怨霊の猛威が荒れ狂っていた22時1分、大手町の逓信省航空局(※1)の煙突に雷が落っこちた。避雷針は壊れており、役に立たない状態だったという。
 この雷が水道管を伝わり、建物の羽目板に火をつけた。当時、この辺りにあった庁舎はどれも関東大震災直後に急ごしらえで造られたものばかりで、防火設備も何も整備されていなかった。さらに屋内にはガソリンや石炭などの燃料も貯蔵されており、なるほどこれでは燃える。たちまち炎に包まれた建物から宿直員は命からがら逃げ出した。
 避難するのに精一杯で、火災報知器は押されなかった。そして先述の豪雨で見通しが悪かったため、望楼勤務員(※2)による火災の発見も遅れた。こうして通報は遅れに遅れた。
 もっとも、仮に通報がすばやく行われたとしても、対応は難しかっただろう。当時、消防は相次ぐ落雷被害のためてんてこまい。猫の手も借りたい状況だった。
 官庁街が炎に包まれていく――。
 よりによってこの時の風速は7.3メートル。向かい風なら、人間は歩けなくなるほどの強さである。
 これを僅か3時間で鎮火させたというから、消防も大したものだ。出火場所が皇居に隣接していたというのもあり、消火活動は本気の本気で行われたに違いない。
 鎮火したのは、日付も変わった午前1時のことである。
 焼損面積は2万422坪(6万7,558平方メートル)。およそ3時間あまりで大蔵省、企画院、中央気象台、厚生省、東京営林局、神田橋税務署などの21棟が全焼した。
 犠牲者は2名。どちらも警防団員で、殉職だった。負傷者も107人に上った。
 復旧作業は迅速に進められた。日中戦争真っ只中、資材の不足も著しい時代である。それでも焼け落ちた官庁街の建物は、それぞれ鉄筋コンクリートかもしくは木造の準防火作りに生まれ変わっていった。
 また、建物と建物との間には大きく空間を作り、防火水槽、屋内消火栓、火災報知機、避難階段も設置された。現代の視点で見れば「えっ今までなかったの?」という気もするが、どうも官庁というのは特別で、建築物に関する法律がそのままでは適用されなかったらしい(今はどうだか分からない)。官庁向けの建築基準法にあたるものが示されたのも昭和26年のことで、「官公庁施設の建築等に関する法律」(官公庁営繕法)の公布によって、これらの建物はやっと「燃えなくなった」のである。
 当時の自然の猛威は、ひょっとすると本当に将門公の怨念のなせる業だったのかも知れない。だが被害がこれほどのものになったのは、純粋に防火設備の不備のせいだった。
 次に将門公の祟りが起きるのは、没後千年と百年目にあたる2040年あたりだろうか。今度は平穏無事に済んでほしいものである。
 
(※1)逓信省(ていしんしょう)……戦前の日本で、郵便や通信を管轄していた中央官庁。大まかに言えば、今の総務省、日本郵政(JP)、日本電信電話(NTT)の前身にあたる。
(※2)消防署の監視職員。
 
【参考資料】
 ◇消防防災博物館
 ◇ウィキペディア
 ◇国書刊行会『写真図説 日本消防史』
 

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聖母の園養老院火災(1955年)

 本邦ではここ数年で特別養護老人ホームでの災害が相次いでいるが、その先駆けのような火災事故である。

 1955年2月17日の未明のことだ。通報を受けて消防が駆けつけてみると、その建物からは既に炎が噴き出していたという。そして見る間に建物は猛火に包まれていき、ものの20分で全焼に至った。

 その燃え広がるスピードも当然と言えば当然だった。この「聖母の園養老院」は老朽化した木造2階建てで、しかも防火設備や避難設備は全く整っていなかったのだ。

 もともとは海軍衛生学校の建物だったものを、カトリック系の社会福祉法人「聖母会」が譲り受けたのだという。そして敷地内に養老院、聖堂、修道院を建てたのだが、この時の火災はそれらを全て焼き尽くしたのだった。

 聖母会側も、決して建物の老朽化をよしとしていたわけではない。ただ建物を中途半端に造り変えるのではなく、取り壊して丸ごと建て直すつもりだったのだ。だから防災設備も避難設備も皆無だったのである。

 また、丸焼けになった責任の全てを養老院側に求めるのも酷であろう。火災現場はこれでもかというほど水利が悪かった。なんと、水を引いてくるのに1キロ離れた貯水池までホースを繋げる他なかったのだ。必要なホースの本数は、数にして消防車6台分だったという。

 これは確かに、ホース繋げている間に余裕で燃えるわ。

 消火活動に携わった者の人数は200人。こうして消防と警察が懸命に消し止めにかかったものの、養老院の800坪ぶん、修道院と聖堂の70坪ぶん、そして肥料小屋1棟の全てが焼け落ちた。鎮火は朝の6時過ぎだった。

 聖母の園養老院は、焼け落ちるまでの間、不気味なほどに静まり返っていたという。

 そして遺体の収容作業が始まったのだが出るわ出るわ、もともと聖母の園養老院にいたのは皆、戦災で身寄りを亡くした60歳以上のおばあちゃんたちだった。よってその中には耳の聞こえない者や足腰の立たない者もおり、焼死者が多く出るのも当然と言えば当然だった。

 その後、生存者の証言などから出火前後の状況が明らかになった。

 出火したのは17日の午前4時34分頃である。場所は1階の「ペテロの間」で、原因は不明だが、懐炉の火の不始末か漏電ではないかと言われている。この施設では寝るまでの間は火鉢を使い、就寝後は湯たんぽと懐炉で暖を取るという方法をとっていたのだ。

 この時階上には80人、階下には63人がいたという。もちろん大半は就寝中だったことだろう。最終的な死者数は99人に及び、負傷した者も8人いた。

 余談だが身元不明の遺体も2体あったらしく、これはちょっとしたミステリーである。養老院の中に誰かこっそり忍び込んでいた者がいたのだろうか。

 やり切れないエピソードもあった。比較的元気な者が動けない者を助けようとしている間に逆に逃げられなくなってしまったとか、あるいは90歳代のおばあちゃんが「自分はどうせ助からないから」と火を食い止めて仲間を逃がした、ということがあったらしい。

 それにしても、死者99人という数字はかなりヤバイ。あと1人で死者数が3桁に至るところだったのだ。戦後、死者数が100人以上を記録するのは1972年の千日デパート火災を俟たねばならないわけだが、この聖母の園養老院火災はもうちょっとでそれに先駆けるところだったのである。

 まあ、もう少し詳しく言えばこの火災は戦後の非商業施設では最大の死者数……と言えるわけだが、この「○○としては最大の死者数」という言い方は記録者としてあまり好きではないので蛇足程度に留めておこう。いちいちあんな言い方をしていたら、何でもかんでも死者数が最大ということになってキリがない。死者数の多さを誇る記録者なんて頭がどうかしている。

 火災直後に駆けつけた遺族はほんの少しであったという。犠牲者は本当に身寄りのない人々ばかりだったのだ。

 追悼ミサは湘南白百合学園で行われ、遺体は焼け跡の裏の林に葬られた。

 また、生き残ったものの施設から焼け出された形になった48人のおばあちゃんは、全員がそれぞれ別の施設に移された。

 火災の翌日には、現在の消防庁の前身にあたる国家消防本部が、「社会福祉施設も火事に強いようにしなくっちゃね~」と通達を出している。と言ってもその実現のために国が補助してくれるようになったのは更に8年後のことで、当の聖母の園養老院は火災があった年の11月には鉄筋ブロック平屋建ての形で建て直された。宗教的使命感のなせる業……と言っては的外れだろうか、悠長な行政に比べると実に迅速なものである。

 火災があったのは神奈川県横浜市戸塚区原宿町。今も同じ場所に老人ホーム・修道院・保育園・医院が存在している。

 ところでこの火災の話は、中井英夫の『虚無への供物』にも出てくるらしい。オペラ「蝶々夫人」の制作に協力した元イタリア公使夫人の奥さんがこの火災で亡くなっており、そのエピソードが用いられているのだそうな。

 虚無への供物を読んだのは中学の時なのでさすがに覚えていない。ただ洞爺丸沈没事故の話などが登場していたのは覚えているので、事故災害を調べる上では再読しておいた方がネタになるかな、とも考えている。

 

【参考資料】
 ◇ウィキペディア
 ◇ウェブサイト「誰か昭和を想わざる」
 ◇『日本消防史』国書刊行会

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